平家物語 巻第七
主上の都落ちの事
寿永二年七月、義仲の大軍が比叡山に上り、都へ乱入するとの知らせに、平家は諸方に討手を出したが、ついに一所で運命をともにしようと都へ呼び戻した。宗盛は法皇と天皇を連れて西国へ落ちようとしたが、法皇はその夜ひそかに御所を抜け出してしまう。平家はやむなく六歳の安徳天皇と建礼門院、三種の神器を奉じて都を出た。供をしていた摂政基通は、春日大明神の加護を思わせる童子の歌に心を決め、途中で車を引き返して北山へ逃れた。
- 1同同おなじきじきじき七七しち月月がつ十十じゅう四四よつ日日か、、、肥肥ひ後後ごののの守守かみ貞貞さだ能能よし、、、鎭鎭ちん西西ぜいののの謀謀む叛叛ほん平平たいらげらげらげててて、、、菊菊きく池池ち、、、原原はら田田だ、、、松松まつ浦浦ら黨黨とう三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きををを召召めししし具具ぐしししててて上上しょう洛洛らくすすす。。。鎭鎭ちん西西ぜいののの謀謀む叛叛ほんをををばばば僅僅わずかににに平平たいらげらげらげたれたれたれどもどもども、、、東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの軍軍いくさはははいかにいかにいかにももも鎭鎭しずまらまらまらずずず。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう二二に日日にちののの夜夜や半半はん許許ばかりりり、、、六六ろく波波は羅羅らのののあたりあたりあたりおびたゞしうおびたゞしうおびただしゅう騷騷そう動動どうすすす。。。馬馬うまににに鞍鞍くら置置おききき、、、腹腹はる帶帶びしめしめしめ、、、物物ものどもどもども東東とう西西ざい南南なん北北ぼくへへへ運運はこびびび隱隱かくすすす。。。只只ただ今今いま敵敵かたきのののうちうちうち入入いりりりたるたるたる樣樣ようなりなりなりけりけりけり。。。明明あけけけててて後後のち聞聞きこえええしししははは、、、美美み濃濃の源源げん氏氏じににに佐佐さ渡渡どののの衞衞え門門もんののの尉尉じょう重重しげ定定さだととといふいふいう者者ものありありあり。。。去去いんんんぬるぬるぬる保保ほう元元げんののの合合かっ戰戰せんののの時時とき、、、鎭鎭ちん西西ぜい八八はち郎郎ろう爲爲ため朝朝ともががが院院いん方方がたののの軍軍いくさににに負負まけけけててて、、、落落おち人人うどとととなりなりなりたりたりたりしししををを搦搦からめめめててて出出いだしししたりたりたりししし勸勸けん賞賞じょうににに、、、もともともとははは兵兵ひょう衞衞えののの尉尉じょうたりたりたりしししががが、、、そのそのその時時とき右右う衞衞え門門もんののの尉尉じょうににになりなりなりぬぬぬ。。。これこれこれににに依依よつつっててて一一いち門門もんにににははは怨怨うらまままれれれててて、、、このこのこの頃頃ごろ平平へい家家けををを諂諂へつらひひいけるけるけるががが、、、そのそのその夜夜よ六六ろく波波は羅羅らににに馳馳はせせせ參參まいりりり、、、木木き曾曾そ既既すでににに北北ほっ國國こくよりよりより五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きででで攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、天天てん台台だい山山さん、、、東東ひがし坂坂さか本本もとににに充充みちちち滿滿みちちちててて候候そうろう。。。郎郎ろう等等どうににに楯楯たてののの六六ろく郎郎ろう親親ちか忠忠ただ、、、手手て書書がきににに大大だい夫夫ぶ房房ぼう覺覺かく明明めい、、、六六ろく千千せん餘餘よ騎騎き天天てん台台だい山山さんににに競競きおひひい上上のぼりりり、、、三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒とととと同同どう心心しんしてしてして、、、只只ただ今今いま都都みやこへへへ亂亂みだれれれ入入いるるる由由よし申申もうしししけれけれければばば、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びと大大おおきききににに騷騷さわいいいででで、、、方方ほう々々ぼうへへへ討討うつ手手てをををさしさしさし向向むけけけらるらるらる。。。
- 2大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょう、、、本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きでででまづまづまず山山やま科科しなににに宿宿しゅくせせせらるらるらる。。。越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もり、、、能能の登登とののの守守かみ教教のり經經つね、、、二二に千千せん餘餘よ騎騎きででで宇宇う治治じ橋橋ばしををを固固かためめめらるらるらる。。。左左さ馬馬まののの頭頭かみ行行ゆき盛盛もり、、、薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のり、、、一一いっ千千せん餘餘よ騎騎きででで淀淀よど路路じををを守守しゅ護護ごせせせられられられけりけりけり。。。源源げん氏氏じののの方方かたにににははは十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人うど行行ゆき家家いえ、、、數數す千千せん騎騎ぎででで宇宇う治治じ橋橋ばしををを渡渡わたつつっててて都都みやこへへへ入入いるるる。。。陸陸みちの奧奧くののの新新しん判判ほう官官がん義義よし康康やすががが子子こ矢矢や田田だののの判判ほう官官がん代代だい義義よし清清きよ、、、大大おお江江え山山やまををを經經へててて上上しょう洛洛らくすすすとととももも申申もうしししあへあへあえりりり。。。又又また攝攝つ津津のののの國國くに、、、河河こう内内ちののの國國くにののの源源げん氏氏じ等等ら同同どう心心しんしてしてして、、、同同おなじうじうじゅう都都みやこへへへ亂亂みだれれれ入入いるるる由由よし申申もうしししけれけれければばば、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びと、、、このこのこの上上うえははは力力ちから及及およばばばずずず、、、たゞたゞただ一一ひと所所ところでででいかにいかにいかにもももなりなりなり給給たまへへえとてとてとて、、、方方ほう々々ぼうへへへ向向むけけけられられられたりたりたりけるけるける討討うつ手手てどもどもども、、、みなみなみな都都みやこへへへ呼呼よびびび返返かえささされれれけりけりけり。。。
- 3帝帝てい都都と名名めい利利りののの地地ち、、、鷄鷄にわとり鳴鳴ないいいてててやすきやすきやすき事事ことなしなしなし。。。治治おさまれまれまれるるる世世よだにだにだにもももかくかくかくののの如如ごとししし。。。況況いわんんんややや亂亂みだれれれたるたるたる世世よにににおいおいおいてててをををややや。。。吉吉よし野野の山山やまののの奧奧おくののの奧奧おくへへへももも入入いりりりなななばやばやばやとととははは、、、思思おぼし召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、諸諸しょ國國こく七七しち道道どう悉悉ことごとくくく背背そむきききぬぬぬ。。。いづくいづくいずくののの浦浦うらかかかおだしかるおだしかるおだしかるべきべきべき。。。三三さん界界がい無無む安安あん、、、猶猶ゆう如如にょ火火か宅宅たくとてとてとて、、、如如にょ來來らいののの金金きん言言げん、、、一一いち乘乘じょうののの妙妙みょう文文もんなれなれなればばば、、、なじかはなじかはなじかわ少少すこしししももも違違たがふふうべきべきべき。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう四四よつ日日かのののさささ夜夜よふけふけふけがたがたがたににに、、、前前さきののの内内ない大大だい臣臣じん宗宗むね盛盛もり公公こう、、、建建けん禮禮れい門門もん院院いんののの渡渡わたらららせせせ給給たまふふう六六ろく波波は羅羅ら池池いけ殿殿どのににに參參まいつつっててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「木木き曾曾そ既既すでににに北北ほっ國國こくよりよりより五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きででで攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、比比ひ叡叡えい山山さん、、、東東ひがし坂坂さか本本もとににに充充みちちち滿滿みちちちててて候候そうろう、、、郎郎ろう等等どうににに楯楯たてののの六六ろく郎郎ろう親親ちか忠忠ただ、、、手手て書書がきににに大大だい夫夫ぶ房房ぼう覺覺かく明明めい六六ろく千千せん餘餘よ騎騎き天天てん台台だい山山さんへへへ競競きおひひい上上のぼりりり、、、三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒と引引ひき具具ぐしししててて、、、たゞたゞただ今今いま都都みやこへへへ亂亂みだれれれ入入いるるるよしよしよし聞聞きこえええ候候そうろう。。。人人ひと々々びとはははたゞたゞただ都都みやこののの内内うちにてにてにて、、、いかにいかにいかにもももならならならんんんととと申申もうししし合合あははわささされれれけれけれけれどもどもども、、、まのあたりまのあたりまのあたり女女にょう院院いん、、、二二に位位い殿殿どのににに憂憂うききき目目めををを見見みせせせ參參まいらせらせらせんんん事事ことののの口口くち惜惜おしうしうしゅう候候そうらへへえばばば、、、院院いんをををももも内内うちをををももも取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、西西さい國國こくののの方方かたへへへ御御ご幸幸こう、、、行行ぎょう幸幸こうをををもももなしなしなし參參まいらせらせらせばやばやばやととと思思おもひひいなつなつなってててこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、女女にょう院院いん、、、「「「今今いまはははたゞたゞただととともももかうかうこうももも、、、そこそこそこののの計計はからひらひらいでででこそこそこそあらあらあらんずんずんずらめらめらめ。。。」」」とてとてとて、、、御御ぎょ衣衣いののの御御おん袂袂たもとにににあまるあまるあまる御御おん涙涙なみだ、、、せきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわねねねばばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのももも直直なお衣衣しののの袖袖そで、、、しぼるしぼるしぼるばかりばかりばかりにににぞぞぞ見見みえええられられられけるけるける。。。
- 4さるさるさる程程ほどににに法法ほう皇皇おうをををばばば平平へい家家け取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、西西さい國國こくののの方方かたへへへ行行ゆくくくべしべしべしなどなどなど申申もうすすすことことことををを、、、内内ない々々ない聞聞きこし召召めすすす旨旨むねもももやややありありありけんけんけん、、、そのそのその夜夜よののの夜夜や半半はんばかりばかりばかりににに、、、按按あ察察ぜ使使ちののの大大だい納納な言言ごん資資すけ賢賢かた卿卿きょうののの子子し息息そく、、、左左さ馬馬まののの頭頭かみ資資すけ時時ときばかりばかりばかりををを御御おん供供ともにてにてにて、、、ひそかひそかひそかににに御御ご所所しょををを出出いでででさせさせさせ給給たまひひいててて、、、御御おんゆくゆくゆくへへへももも知知しらららずずずぞぞぞ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。人人ひとこれこれこれををを知知しらららざりざりざりけりけりけり。。。平平へい家家けののの侍侍さぶらいににに橘橘きっ内内ない左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう季季する康康やすととといふいふいう者者ものありありあり。。。さか〳〵しきさか〳〵しきさかさかしき男男おとこにてにてにて、、、院院いんにににももも召召めし使使つかははわれれれけるけるけるががが、、、そのそのその夜夜よしもしもしも御御おん宿宿との直直いににに參參まいつつっててて、、、遙遙はるかかかににに遠遠とおううう候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、常常つねののの御御ご所所しょののの御御おん方方かたざまざまざま、、、世世よにににものものものさわがしうさわがしうさわがしゅう、、、女女にょう房房ぼうたちたちたち忍忍しのびびび音音ねににに泣泣なきききなどなどなどししし給給たまへへえりりり。。。何何なに事事ごとなるなるなるらんらんらんととと聞聞ききききけれけれければばば、、、俄俄にはかににに法法ほう皇皇おうののの見見みえええさせさせさせましまさましまさましまさぬぬぬははは、、、いづいづいずかたかたかたへへへののの御御ご幸幸こうやらんやらんやらんととと申申もうすすす聲聲こえににに聞聞きくくく程程ほどににに、、、あなあなあなあさましあさましあさましとてとてとて急急いそぎぎぎ六六ろく波波は羅羅らへへへ馳馳はせせせ參參まいりりり、、、このこのこの由由よし申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「定定さだめめめてててひがひがひが事事ことでででぞぞぞあらあらあらんんん。。。」」」とととははは宣宣のたまひひいながらながらながら、、、急急いそぎぎぎ參參まいつつっててて見見み參參まいらせらせらせさせさせさせ給給たまふふうににに、、、げにげにげにももも法法ほう皇皇おう渡渡わたらららせせせましまさましまさましまさずずず。。。御御ご前前ぜんににに候候さぶらははわせせせ給給たまふふう女女にょう房房ぼうたちたちたち、、、二二に位位い殿殿どの、、、丹丹たん後後ご殿殿どの以以い下下げ、、、一一いち人人にんももも働働はたらききき給給たまははわずずず。。。「「「いかにいかにいかにややや。。。」」」ととと問問とひひい參參まいらせらせらせ給給たまへへえどもどもども、、、われわれわれこそこそこそ法法ほう皇皇おうののの御御おんゆくゆくゆくへへへ知知しりりり參參まいらせらせらせたりたりたりととと申申もうさささるゝるゝるる女女にょう房房ぼうたちたちたち、、、一一いち人人にんもももおはせおはせおわせざりざりざりけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのももも力力ちから及及およばばばせせせ給給たまははわずずず、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく六六ろく波波は羅羅らへへへぞぞぞ歸歸かえららられれれけるけるける。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに法法ほう皇皇おう、、、都都みやこののの中中うちににに渡渡わたらららせせせ給給たまははわずずずととと申申もうすすすほどほどほどこそこそこそありありありけれけれけれ、、、京京きょう中中じゅうののの騷騷そう動動どうなのめなのめなのめならならならずずず。。。況況いわんんんややや平平へい家家けののの人人ひと々々びとのののあわてあわてあわて騷騷さわがががれれれけるけるけるありさまありさまありさまははは、、、家家いえ々々いえににに敵敵かたきののの打打うち入入いつつったりたりたりともともとも限限かぎりりりあれあれあればばば、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。平平へい家家け日日ひ頃頃ごろははは院院いんをををももも内内うちをををももも取取とりりり奉奉たてまつつつっててて西西さい國國こくののの方方かたへへへ御御ご幸幸こう、、、行行ぎょう幸幸こうをををもももなしなしなし參參まいらせらせらせんんんととと支支し度度たくせせせられられられたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、かくかくかく打打うち棄棄すてててさせさせさせ給給たまひひいぬれぬれぬればばば、、、賴賴たのむむむ木木こののの下下もとににに、、、雨雨あめのののたまらたまらたまらぬぬぬ心心ここちちちぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。せめてせめてせめてははは行行ぎょう幸幸こうばかりばかりばかりをををもももなしなしなし參參まいらせらせらせよよよやややとてとてとて、、、あくるあくるあくる卯卯うののの刻刻こくににに行行ぎょう幸幸こうののの御御み輿輿こしををを寄寄よせせせたりたりたりけれけれければばば、、、主主しゅ上上しょうははは今今こん年年ねん六六ろく歳歳さい、、、未未いまだだだ幼幼いとけのうううましましましましましましけれけれければばば、、、何何なに心心ごころなくなくなくぞぞぞ召召めささされれれけるけるける。。。御御ご同同どう輿輿よにににははは御御おん母母ぼ儀儀ぎ建建けん禮禮れい門門もん院院いん參參まいらせらせらせ給給たまふふう。。。神神しん璽璽じ、、、寶寶ほう劍劍けん、、、内内ない侍侍し所所どころ、、、印印いん鑰鑰やく、、、時時ときののの簡簡ふだ、、、玄玄げん上上じょう、、、鈴鈴すず鹿鹿かなどなどなどをををももも取取とりりり具具ぐせせせよよよととと、、、平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう下下げ知知じせせせられられられたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、あまりあまりあまりにににあわてあわてあわて騷騷さわいいいででで、、、取取とりりり落落おとすすす物物ものぞぞぞ多多おおかりかりかりけるけるける。。。晝晝ひののの御御ご座座ざののの御御ぎょ劍劍けんなどなどなどをををももも、、、取取とりりり忘忘わすれれれさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。やがてやがてやがてこのこのこの時時とき忠忠ただののの卿卿きょう、、、内藏内藏くらののの頭頭かみ信信のぶ基基もと、、、讚讚さぬ岐岐きののの中中ちゅう將將じょう時時とき實實ざね、、、父父ふ子子し三三さん人人にん衣衣い冠冠かんにてにてにて供供ぐ奉奉ぶせせせらるらるらる。。。近近この衞衞え司司ずかさ、、、御御み綱綱つなののの佐佐すけ、、、甲甲かっ冑冑ちゅう、、、弓弓きゅう箭箭せんををを帶帶たいしししててて、、、行行ぎょう幸幸こうののの御御おん供供とも仕仕つかまつるるる。。。七七しち條條じょうををを西西にしへへへ、、、朱朱しゅ雀雀しやかををを南南みなみへへへ行行ぎょう幸幸こうなるなるなる。。。
- 6あくれあくれあくればばば七七しち月月がつ二二に十十じゅう五五ご日日にちなりなりなり。。。漢漢かん天天てん既既すでにににひらけひらけひらけててて、、、雲雲くも東東とう嶺嶺れいにににたなびきたなびきたなびき、、、あけあけあけがたがたがたののの月月つき白白しろくくくさえさえさえててて、、、鷄鷄けい鳴鳴めいまたまたまたいそがはしいそがはしいそがわし。。。夢夢ゆめにににだにだにだに斯斯かかるかるかる事事ことははは見見みずずず。。。一一ひと年年とせ都都みやこうつりうつりうつりとてとてとて、、、俄俄にはかにににあわただしかりあわただしかりあわただしかりしししははは、、、斯斯かかるかるかるべかりべかりべかりけるけるける先先ぜん表表ぴょうともともとも、、、今今いまこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれけれけれけれ。。。攝攝せつ政政しょう殿殿どのももも行行ぎょう幸幸こうににに供供ぐ奉奉ぶしてしてして御御ぎょ出出しゅつありありありけるけるけるががが、、、七七しち條條じょう大大おお宮宮みやににに鬢鬢びんずらゆうゆうゆうたるたるたる童童どう子子じののの、、、御御み車車くるまののの前前まえをををつとつとつと走走はしりりり通通とおるるるををを御御ご覽覽らんずれずれずればばば、、、かのかのかの童童どう子子じののの左左ひだりののの袂袂たもとににに、、、春春はるののの日日ひととといふいふいう文文も字字じぞぞぞあらはれあらはれあらわれたるたるたる。。。春春はるののの日日ひととと書書かきききてててははは春春かす日日がとととよめよめよめばばば、、、法法ほっ相相そう擁擁おう護護ごののの春春かす日日が大大だい明明みょう神神じん、、、大大たい織織しょく冠冠かんののの御御おん末末すえををを守守まもりりり給給たまふふうにににこそこそこそととと、、、たのもしうたのもしうたのもしゅう思思おぼし召召めすすす所所ところににに、、、件件くだんののの童童どう子子じののの聲聲こえとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、
- 7いかにいかにいかにせせせむむん藤藤ふじのののうらうらうら葉葉ばののの枯枯かれれれゆくゆくゆくをををたゞたゞただ春春はるののの日日ひにににまかせまかせまかせたらたらたらなむなむなん
- 8供供ともににに候候さぶらう進進しん藤藤どう左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう高高たか直直なおををを召召めしししててて、、、「「「このこのこの世世よののの中中なかのののありさまありさまありさまををを御御ご覽覽らんずるずるずるににに、、、行行ぎょう幸幸こうははは成成なれれれどもどもども御御ご幸幸こうははは成成ならららずずず。。。行行ゆく末末すえたのもしからたのもしからたのもしからずずず思思おぼし召召めすすすはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、御御おん牛牛うし飼飼かいににに目目めをををきつきつきっととと見見みあはせあはせあわせたりたりたり。。。やがてやがてやがて心心こころ得得えててて、、、御御み車車くるまをををやりやりやりかへしかへしかえし、、、大大おお宮宮みやををを上上のぼりりりににに、、、飛飛とぶぶぶががが如如ごとくくくににに仕仕つかまつりりり、、、北北きた山山やまののの邊邊へん、、、知知ち足足そく院院いんへへへぞぞぞ入入いらららせせせ給給たまひひいけるけるける。。。
現代語訳
同じ七月十四日、肥後守貞能が九州の謀叛を平らげて、菊池・原田・松浦党三千余騎を連れて上洛した。九州の謀叛はわずかに平らげたものの、東国・北国の戦はいっこうに鎮まらない。同じ二十二日の夜半ごろ、六波羅のあたりがおびただしく騒いだ。馬に鞍を置き、腹帯をしめ、家財を東西南北へ運び隠す。今にも敵が攻め入ったかのようであった。夜が明けてから聞こえたのは、美濃源氏に佐渡衛門尉重定という者がいた。去る保元の合戦のとき、鎮西八郎為朝が院方の軍に負けて落人になったのを捕らえて差し出した恩賞に、もとは兵衛尉であったのが、そのとき右衛門尉になった。このため一門からは恨まれて、このごろは平家にへつらっていたが、その夜六波羅に駆けつけて、「木曾はすでに北国から五万余騎で攻め上り、天台山・東坂本に満ちております。郎等の楯六郎親忠、右筆の大夫房覚明が六千余騎で比叡山に競って上り、三千の衆徒と同心して、今にも都へ乱入するとのことです」と申したので、平家の人々はたいそう騒いで、諸方へ討手を差し向けられた。
大将軍には新中納言知盛卿と本三位中将重衡卿が三千余騎で、まず山科に宿営された。越前三位通盛と能登守教経が二千余騎で宇治橋を固められた。左馬頭行盛と薩摩守忠度が一千余騎で淀路を守られた。源氏の方では、十郎蔵人行家が数千騎で宇治橋を渡って都へ入るという。陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清が大江山を通って上洛するとも言いあった。また摂津国・河内国の源氏たちが同心して、同じく都へ乱入すると申したので、平家の人々は、「このうえはどうしようもない。ただ一か所でどうともなろう」といって、諸方へ向けていた討手を、みな都へ呼び戻された。
帝都は名利を争う地で、鶏が鳴いても安らかなことがない。治まっている世でさえこのようである。まして乱れた世ではなおさらである。吉野山の奥の奥へでも入ってしまいたいと思われたが、諸国七道はことごとく背いてしまった。どこの浦が穏やかであろうか。「三界は安きことなし、なお火宅のごとし」とは如来の金言であり、法華経の妙文であるから、どうして少しでも違うことがあろうか。同じ二十四日の夜更けに、前内大臣宗盛公は、建礼門院のおられる六波羅の池殿に参って申されるには、「木曾はすでに北国から五万余騎で攻め上り、比叡山・東坂本に満ちております。郎等の楯六郎親忠、右筆の大夫房覚明が六千余騎で比叡山に競って上り、三千の衆徒を引き連れて、今にも都へ乱入すると聞こえます。人々はただ都の中でどうともなろうと申し合わせておりましたが、目の前で女院や二位殿につらい目をお見せするのが残念でございますので、院も天皇もお連れして、西国の方へお移し申し上げようと思い立ったのです」と申されたので、女院は「今はただ、どうなりとも、そなたの計らいのままに」といって、御衣の袂にあまる涙をこらえきれずにおられたので、大臣殿も直衣の袖をしぼるばかりにお見えになった。
ところで法皇は、平家が自分を連れて西国へ行こうなどと言っていることを、内々にお聞きになっていたのであろうか、その夜の夜半ごろ、按察大納言資賢卿の子息、左馬頭資時だけをお供にして、ひそかに御所をお出になり、行き先も知れずお出かけになった。人はこれを知らなかった。平家の侍に橘内左衛門尉季康という者がいた。気のきく男で、院にも召し使われていたが、ちょうどその夜宿直に参って遠くに控えていたところ、常の御所のあたりがひどく騒がしく、女房たちが忍び泣きなどしておられる。何事だろうと聞いていると、「急に法皇がお見えにならないのは、どちらへのお出かけなのでしょう」と言う声が聞こえたので、ああ大変だと急いで六波羅へ駆けつけてこのことを申したところ、大臣殿は「きっと何かのまちがいであろう」とおっしゃりながら、急いで参ってご覧になると、本当に法皇はおられない。御前に控えておられた女房たち、二位殿・丹後殿以下、一人も身動きなさらない。「どうしたのか」とお尋ねになったが、法皇の行き先を存じているという女房は一人もいなかったので、大臣殿もどうしようもなく、泣く泣く六波羅へ帰られた。
そうこうするうちに、法皇が都の中におられないと言うやいなや、京中の騒ぎはひととおりではない。まして平家の人々のあわて騒がれるありさまは、家々に敵が攻め入ったとしても、これ以上ではあるまいと見えた。平家はふだん、院も天皇もお連れして西国へお移し申し上げようと準備しておられたが、このように院に見捨てられてしまったので、頼りにする木の下に雨がたまらないような心地がされた。せめて天皇だけでもお連れせよといって、翌朝卯の刻に行幸の御輿を寄せたところ、天皇は今年六歳で、まだ幼くておられたので、何の気なしにお乗りになった。同じ輿には御母の建礼門院がお乗りになる。神璽・宝剣・内侍所(神鏡)、印鑰、時の簡、玄上、鈴鹿などもお持ちせよと、平大納言時忠卿が指図されたが、あまりにあわて騒いだので、取り落とす物が多かった。昼の御座の御剣なども、取り忘れなさった。そのままこの時忠卿と、内蔵頭信基、讃岐中将時実の父子三人が衣冠姿でお供をされた。近衛の官人や御綱の佐は甲冑を着て弓矢を帯びて行幸のお供をした。七条を西へ、朱雀を南へと行幸された。
明ければ七月二十五日である。天の川はすでに薄れて、雲が東の峰にたなびき、明け方の月は白く冴えて、鶏の声もまた慌ただしい。夢にさえこのようなことは見たことがない。先年の遷都で急に慌ただしかったのは、このようになる前兆であったと、今こそ思い知られた。摂政殿(基通)も行幸のお供をしてお出ましになったが、七条大宮で、みずらを結った童子が御車の前をさっと走り通るのをご覧になると、その童子の左の袂に「春の日」という文字が現れている。「春の日」と書いて「かすが」と読むので、法相宗を守る春日大明神が大織冠(鎌足)の子孫をお守りくださるのだと頼もしく思われたところに、その童子の声と思われて、
どうしよう、藤の末葉が枯れていくのを。ただ春の日(春日の神)におまかせしなさい。
お供の進藤左衛門尉高直を呼んで、「この世の中のありさまを見ると、行幸はあっても法皇の御幸はない。行く末が頼もしく思われないがどうか」とおっしゃると、高直は御牛飼にきっと目くばせした。牛飼はすぐに心得て、御車を引き返し、大宮大路を北へ飛ぶように走らせて、北山のあたりの知足院へお入りになった。
意訳
平家が都を捨てて西国へ落ちる「都落ち」の始まりを描く章段である。義仲の大軍が比叡山に上ったとの知らせに、平家は都の防衛をあきらめる。法皇を連れて行こうとした平家の計画は、法皇が夜中にひそかに御所を抜け出したことで崩れた。
平家はやむなく幼い安徳天皇と建礼門院、三種の神器を奉じて都を出る。慌ただしさのあまり取り落とした物も多かった。藤原氏の摂政基通は、春日大明神の使いと思われる童子の歌に心を決めて、途中で引き返す。こうして平家は、法皇にも摂関家にも見捨てられて都を後にした。
語釈・文法注
文法
- 「三界無安、猶如火宅」
- 法華経譬喩品の句。この世は安らぐことがなく、燃えさかる家のようである。
- 「賴む木の下に雨のたまらぬ心ち」
- 頼みとする木の下で雨宿りしようとしても、雨がもれてしまうような心細さ。
- 「時の簡」
- 殿上の間に置かれた、宿直の時刻を記す札。
- 「玄上、鈴鹿」
- 宮中に伝わる名器。玄上は琵琶、鈴鹿は和琴。
- 「藤のうら葉」
- 藤原氏の末流。摂関家をいう。
和歌
いかにせむ藤のうら葉の枯れゆくをたゞ春の日にまかせたらなむ
- 詠者
- (童子の声)
- 状況
- 平家とともに都を出た摂政基通が、春日大明神の使いと思われる童子の声で聞いた歌。この歌に従い、基通は北山へ引き返した。
修辞
- 掛詞
- 「藤のうら葉」に藤原氏の子孫を、「春の日」に春日大明神をかける。
解説
平家の都落ちは寿永二年(1183)七月二十五日のことである。後白河法皇はその前夜に比叡山へ逃れ、平家は安徳天皇と三種の神器だけを奉じて西国へ向かった。摂政近衛基通も途中で離脱した。三日後の七月二十八日、法皇は義仲・行家を従えて都へ戻る。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、577–582頁(コマ317–320)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日