平家物語 巻第七
平家山門への連署の事
比叡山が源氏についたことを知らない平家は、興福寺・園城寺は恨みを抱いていて頼れないので、比叡山を頼もうと、一門の公卿十人が連署した願書を送った。延暦寺を氏寺、日吉社を氏社として天台の仏法を仰ぎ、賊徒の征伐に神仏の加護を願うというものであった。貫首が三日加持して衆徒に披露すると、願書の上巻に「西へかたぶく月」と平家の運命を暗示する歌が現れた。衆徒は平家をあわれんだが、すでに源氏に返牒を送った後で、応じる者はいなかった。
- 1平平へい家家けこれこれこれをををばばば夢夢ゆめにににももも知知しりりり給給たまははわずずず、、、興興こう福福ぶく、、、園園おん城城じょう兩兩りょう寺寺じははは鬱鬱うつ憤憤ぷんををを含含ふくめめめるるる折折おりふしふしふしなれなれなればばば、、、語語かたらふらふらうともともともよもよもよも靡靡なびかかかじじじ。。。當當とう家家けははは山山さん門門もんにににおいおいおいててて、、、未未いまだだだ怨怨あたををを結結むすばばばずずず。。。山山さん門門もんまたまたまた當當とう家家けののの爲爲ためににに不不ふ忠忠ちゅうををを存存ぞんぜぜぜずずず。。。詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、山山さん王王おう大大だい師師しににに祈祈き誓誓せい申申もうしししててて、、、三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒とををを語語かたらはらはらわばやばやばやとてとてとて、、、一一いち門門もんののの公公く卿卿ぎょう十十じゅう人人にん、、、同同どう心心しん連連れん署署しょののの願願がん書書じょををを書書かいいいててて、、、山山さん門門もんへへへ送送おくらららるるる。。。
- 2そのそのその願願がん書書じょににに曰曰いわくくく、、、「「「敬敬うやまつつっててて申申まおすすす。。。延延えん曆曆りやく寺寺じををを以以もっててて氏氏うじ寺寺でらににに準準じゅんじじじ、、、日日ひ吉吉えののの社社やしろををを以以もっててて氏氏うじ社社やしろとととしてしてして、、、一一いっ向向こうににに天天てん台台だいののの佛佛ぶつ法法ぽうををを仰仰あうぐぐぐべきべきべき事事こと。。。右右みぎ當當とう家家け一一いち族族ぞくのののともがらともがらともがら、、、殊殊ことににに祈祈き誓誓せいするするすることことことありありあり。。。旨旨し趣趣しゅ如如い何何かんとととなれなれなればばば、、、叡叡えい山山ざんはははこれこれこれ桓桓かん武武む天天てん皇皇おうののの御御ぎょ宇宇う、、、傳傳でん教教ぎょう大大だい師師し入入にっ唐唐とう歸歸き朝朝ちょうののの後後のち、、、圓圓えん頓頓どんののの教教きょう法法ぼうをををこゝこゝここににに弘弘ひろめめめ、、、遮遮しゃ那那なののの大大だい戒戒かいををを、、、そのそのその内内うちににに傳傳つたへへえてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、專專もっぱららら佛佛ぶつ法法ぽう繁繁はん昌昌じょうののの靈靈れい窟窟くつとととしてしてして、、、久久ひさしくしくしく鎭鎭ちん護護ご國國こく家家かののの道道どう場場じょうににに備備そなふふう。。。まさにまさにまさに今今いま伊伊い豆豆ずののの國國くにののの流流る人人にん源源みなもとののの賴賴より朝朝とも、、、身身みののの咎咎とがををを悔悔くいいいずずず、、、卻卻かえつつっててて朝朝ちょう憲憲けんををを嘲嘲あざけるるる。。。しかのみならずしかのみならずしかのみならず奸奸かん謀謀ぼうににに與與くみしししててて、、、同同どう心心しんををを致致いたすすす源源げん氏氏じ等等ら、、、義義よし仲仲なか、、、行行ゆき家家いえ以以い下下げ、、、黨黨とうををを結結むすんんんででで數數かずありありあり、、、鄰鄰りん境境けい遠遠おん境境けい、、、數數すう國國こくををを掠掠りやく領領りょうししし、、、土土ど宜宜ぎ土土ど貢貢こう、、、萬萬ばん物物もつををを押押おう領領りょうすすす。。。これこれこれににに因因よつつっててて或或あるいははは累累るい代代だい勳勳くん功功こうののの跡跡あとををを追追おひひい、、、或或あるいははは當當とう時時じ弓弓きゅう馬馬ばののの藝藝げいににに任任まかせせせててて、、、速速すみやかかかににに賊賊ぞく徒徒とををを誅誅ちゅうししし、、、兇兇きょう黨黨とうををを降降ごう伏伏ぶくすすすべきべきべき由由よし、、、苟苟いやしくくくももも敕敕ちょく命命めいををを含含ふくんんんででで、、、頻頻しきりりりににに征征せい伐伐ばつををを企企くわだつつつ。。。爰爰ここににに魚魚ぎょ鱗鱗りん鶴鶴かく翼翼よくののの陣陣じん、、、官官かん軍軍ぐん利利りををを得得えずずず、、、星星せい旄旄ぼう電電でん戟戟げきののの威威い、、、逆逆ぎやく類類るい勝勝かつつつににに乘乘のるるるににに似似にたりたりたり。。。もしもしもし神神しん明明めい佛佛ぶつ陀陀だののの加加か被被ひにににあらあらあらずずずばばば、、、爭爭いかでででかかか叛叛ほん逆逆ぎやくののの凶凶きょう亂亂らんををを鎭鎭しずめめめんんん。。。いかにいかにいかに況況いわんんんややや臣臣しん等等らががが曩曩のう祖祖そ、、、おもへおもへおもえばばば忝忝かたじけなくくく本本ほん願願がんののの裔裔えいととといひいひいいつつつべしべしべし。。。いよ〳〵いよ〳〵いよいよ崇崇そう重重ちょうすすすべしべしべし、、、いよいよいよいよいよいよ恭恭く敬敬ぎょうすすすべしべしべし、、、自自じ今今こん以以い後後ご山山さん門門もんににに喜喜よろこびびびあらあらあらばばば、、、一一いち門門もんののの喜喜よろこびびびとととししし、、、社社しゃ家家けににに憤憤いきどおりりりあらあらあらばばば、、、一一いっ家家かののの憤憤いきどおりりりとととしてしてして、、、各各おのおの子子し孫孫そんににに傳傳つたへへえててて、、、長長ながくくく失失しっ墜墜ついせせせじじじ。。。藤藤とう氏氏しははは春春かす日日がののの社社やしろ、、、興興こう福福ぶく寺寺じををを以以もっててて氏氏うじ社社やしろ、、、氏氏うじ寺寺でらとととしてしてして、、、久久ひさしくしくしく法法ほっ相相そう大大だい乘乘じょうののの宗宗しゅうににに歸歸きすすす。。。平平へい氏氏じははは日日ひ吉吉えののの社社やしろ、、、延延えん曆曆りやく寺寺じををを以以もっててて氏氏うじ社社やしろ、、、氏氏うじ寺寺でらとととしてしてして、、、新新あらたににに圓圓えん實實じつ頓頓とん悟悟ごののの教教をしへににに値値ち遇遇ぐうせせせんんん。。。かれかれかれははは昔昔むかしののの遺遺い跡跡せきなりなりなり、、、家家いえのののためためため榮榮えい幸幸こうををを思思おもふふう。。。これこれこれははは今今いまののの誓誓せい祈祈きなりなりなり、、、君君きみのののためためため追追つい罰罰ばつををを請請こふふう。。。仰仰あうぎぎぎ願願ねがははわくくくははは山山さん王王おう七七しち社社しゃ王王おう子子じ眷眷けん屬屬ぞく、、、護護ご法法ほう聖聖しょう衆衆じゅ、、、東東とう西西ざい滿滿まん山山ざん、、、十十じゅう二二に乘乘じょう願願がん、、、醫醫い王王おう善善ぜん逝逝ぜい、、、日日にっ光光こう月月がっ光光こう、、、無無む二二にののの丹丹たん誠誠せいををを照照てらしししててて、、、唯唯ゆい一一いつののの玄玄げん應應おうををを垂垂たれれれたまへたまへたまえ。。。しかれしかれしかればばば則則すなわちちち邪邪じゃ謀謀ぼう逆逆ぎやく心心しんののの賊賊ぞく、、、各各おのおの手手てををを軍軍ぐん門門もんににに束束つかねねね、、、叛叛ほん逆逆ぎやく殘殘ざん害害がいののの輩輩ともがら、、、首首こうべををを京京けい都都とへへへ傳傳つたへへえんんん。。。依依よつつっててて一一いち門門もんののの公公く卿卿ぎょう等等ら、、、異異い口口く同同どう音音おんににに禮禮らいをををなしなしなしててて、、、祈祈き誓誓せい件件くだんののの如如ごとししし。。。從從じゅ三三さん位位み行行ぎょう兼兼けん越越えち前前ぜんののの守守かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん通通みち盛盛もり、、、從從じゅ三三さん位位み行行ぎょう右右う近近こん衞衞えののの中中ちゅう將將じょう兼兼けん伊伊い豫豫よののの守守かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん資資すけ盛盛もり、、、正正じょう三三さん位位み行行ぎょう右右う近近こん衞衞えののの中中ちゅう將將じょう平平たいらののの朝朝あ臣臣そん維維これ盛盛もり、、、正正じょう三三さん位位み行行ぎょう左左さ近近こん衞衞えののの權權ごんののの中中ちゅう將將じょう兼兼けん播播はり磨磨まののの守守かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん重重しげ衡衡ひら、、、正正じょう三三さん位位み行行ぎょう右右う衞衞え門門もんののの督督かみ兼兼けん近近おう江江み遠江遠江とおとうみののの守守かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん清清きよ宗宗むね、、、參參さん議議ぎ正正じょう三三さん位位み皇皇こう太太たい后后ごう宮宮ぐうののの權權ごんののの大大だい夫夫ぶ兼兼けん修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ加加か賀賀が越越えっ中中ちゅうののの守守かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん經經つね盛盛もり、、、從從じゅ二二に位位い行行ぎょう中中ちゅう納納な言言ごん征征せい夷夷い大大たい將將しょう軍軍ぐん兼兼けん左左さ兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん知知とも盛盛もり、、、從從じゅ二二に位位い行行ぎょう權權ごん中中ちゅう納納な言言ごん兼兼けん肥肥ひ前前ぜんののの守守かみ平平たいらののの朝朝あ臣臣そん教教のり盛盛もり、、、正正じょう二二に位位い行行ぎょう權權ごん大大だい納納な言言ごん兼兼けん陸奧陸奧むつ出出で羽羽はののの按按あ察察ぜ使使ち平平たいらののの朝朝あ臣臣そん賴賴より盛盛もり、、、從從じゅ一一いち位位い前前さきののの内内ない大大だい臣臣じん平平たいらののの朝朝あ臣臣そん宗宗むね盛盛もり。。。壽壽じゅ永永えい二二に年年ねん七七しち月月がつ五五いつ日日かののの日日ひ、、、敬敬うやまつつっててて白白まおすすす。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。
- 3貫貫かん首首じゅこれこれこれををを憐憐あわれみみみ給給たまひひいててて、、、さうなうさうなうそうのう衆衆しゅ徒徒とににに披披ひ露露ろうもももししし給給たまははわずずず、、、十十じゅう禪禪ぜん師師じ權權ごん現現げんののの社社しゃ壇壇だんににに籠籠こめめめ、、、三三み日日か加加か持持じしてしてして、、、そのそのその後後のち衆衆しゅ徒徒とににに披披ひ露露ろうせせせらるらるらる。。。始始はじめめめはははありありありとととももも見見みえええざりざりざりけるけるける願願がん書書じょののの上上うわ巻巻まきににに、、、歌歌うたこそこそこそ一一いっ首首しゅ出出いででで來來きたれたれたれ。。。
- 4たひらかたひらかたいらかににに花花はなさくさくさくやどやどやどももも年年としふれふれふればばば西西にしへへへかたぶくかたぶくかたぶく月月つきとととこそこそこそ見見みれれれ
- 5山山さん王王おう大大だい師師しこれこれこれををを憐憐あわれみみみ給給たまひひいててて、、、三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒と力力ちからををを合合あははわせせせよよよとととなりなりなり。。。されどもされどもされども年年ねん來來らい日日ひ頃頃ごろのののふるまひふるまひふるまい、、、神神しん慮慮りょにににももも違違たがひひい、、、人人じん望望ぼうにににももも背背そむきききぬれぬれぬればばば、、、祈祈いのれれれどもどもどもかなはかなはかなわずずず、、、かたらへかたらへかたらえどもどもども靡靡なびかかかざりざりざりけりけりけり。。。大大だい衆衆しゅもももまことまことまことにににさささこそこそこそはははととと、、、事事ことののの體體ていをををばばば憐憐あわれみみみけれけれけれどもどもども、、、源源げん氏氏じ合合ごう力力りよくののの返返へん牒牒ちょうををを送送おくりりりぬるぬるぬる上上うえははは、、、今今いままたまたまた輕輕かる々々がるしくしくしく、、、そのそのその議議ぎををを飜飜ひるがえすすすににに及及およばばばねねねばばば、、、これこれこれををを許許きょ容容ようするするする衆衆しゅ徒徒ともももなしなしなし。。。
現代語訳
平家はこのことを夢にもご存じなく、興福寺・園城寺の両寺は平家に恨みを抱いているときだから、頼んでもまさかなびくまい。わが家は山門に対してまだ恨みを結んでいない。山門もまたわが家に対して不忠を抱いてはいない。結局のところ、山王大師に祈誓して、三千の衆徒を味方に引き入れようといって、一門の公卿十人が同心して連署した願書を書いて、山門へ送られた。
その願書には次のようにある。「謹んで申し上げる。延暦寺をわが氏寺に準じ、日吉の社を氏社として、ひたすら天台の仏法を仰ぐこと。右、わが一族の者は、特に祈誓することがある。その趣旨はどういうことかといえば、比叡山は桓武天皇の御代、伝教大師が入唐して帰国した後、円頓の教えをここに広め、遮那の大戒をその中に伝えてから、もっぱら仏法繁昌の霊地として、長く国家鎮護の道場となってきた。ところが今、伊豆国の流人源頼朝は、自分の罪を悔いず、かえって朝廷の法をあざけっている。そればかりか、その奸謀にくみして同心する源氏たち、義仲・行家以下が徒党を結んで数多く、近国・遠国の数か国を奪い取り、その土地の産物や貢物などすべてを押領している。これによって、あるいは代々の勲功の跡を追い、あるいは今の弓馬の芸に任せて、速やかに賊徒を誅し凶党を降伏させよと、かりそめにも勅命を受けて、しきりに征伐を企てている。ところが魚鱗・鶴翼の陣を敷いても官軍は利を得ず、星旄・電戟の威をもってしても、逆賊が勝ちに乗じているようである。もし神仏のご加護がなければ、どうして叛逆の凶乱を鎮めることができようか。まして臣らの祖先は、思えばかたじけなくも本願(桓武天皇)の子孫というべきである。いよいよ崇め重んじ、いよいよ敬うべきである。今後、山門に喜びがあれば一門の喜びとし、社家に憤りがあれば一家の憤りとして、それぞれ子孫に伝えて長く失うまい。藤原氏は春日の社と興福寺を氏社・氏寺として、長く法相大乗の宗に帰依してきた。平氏は日吉の社と延暦寺を氏社・氏寺として、新たに円実頓悟の教えにあずかろう。あちらは昔からの遺跡であって、家の繁栄を願うものである。こちらは今の誓願であって、君のために朝敵追罰を請うものである。仰ぎ願わくは山王七社・王子眷属・護法の聖衆・東西満山の神々、十二の大願を立てられた医王善逝、日光・月光菩薩よ、二心のない真心を照らして、ただ一つの霊験をお示しください。そうすれば邪謀逆心の賊はそれぞれ手を軍門に束ねて降り、叛逆残害の輩はその首を京都へ伝えるであろう。よって一門の公卿らが異口同音に礼拝して、以上のとおり祈誓する。従三位行兼越前守平朝臣通盛、従三位行右近衛中将兼伊予守平朝臣資盛、正三位行右近衛中将平朝臣維盛、正三位行左近衛権中将兼播磨守平朝臣重衡、正三位行右衛門督兼近江遠江守平朝臣清宗、参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛、従二位行中納言征夷大将軍兼左兵衛督平朝臣知盛、従二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛、正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛、従一位前内大臣平朝臣宗盛。寿永二年七月五日、謹んで申し上げる」と書かれていた。
貫首(天台座主)はこれをあわれに思われて、軽々しく衆徒に披露もされず、十禅師権現の社殿に納めて三日加持してから、衆徒に披露された。初めはあるとも見えなかった願書の上巻に、歌が一首現れていた。
平らかに花の咲いている宿も、年がたてば、西へ傾く月のように衰えていくものと見える。
山王大師はこれをあわれまれて、三千の衆徒に力を合わせよということであった。しかし平家の年来日ごろのふるまいは神慮にも背き、人望にも背いていたので、祈ってもかなわず、頼んでもなびかなかった。大衆も、まことにそうであろうと平家のありさまをあわれんだが、源氏に協力するという返牒をすでに送った以上、今また軽々しくその決定を翻すわけにもいかないので、これを受け入れる衆徒もいなかった。
意訳
義仲の牒状に応えて比叡山が源氏についたことを知らずに、平家も比叡山に願書を送る章段である。一門の公卿十人が名を連ねた願書は、延暦寺を氏寺として天台の仏法を仰ぐと誓い、賊徒征伐への加護を求めた。
願書に浮かび上がった「西へかたぶく月」の歌は、平家の衰運と、まもなく西国へ落ちていく運命とを暗示している。比叡山の衆徒も平家をあわれんだが、時すでに遅く、平家は都を守る最後の頼みを失った。
語釈・文法注
文法
- 「語らふともよも靡かじ」
- 頼んでもまさかなびくまい。
- 「魚鱗鶴翼の陣」
- 魚の鱗のように中央が突き出た陣形と、鶴が翼を広げたような陣形。
- 「星旄電戟」
- 星のように連なる旗と、稲妻のように光る矛。軍勢の威容。
- 「たひらかに」
- 「平らかに」に「平」家をかける。
和歌
たひらかに花さくやども年ふれば西へかたぶく月とこそ見れ
- 詠者
- (願書に現れた歌)
- 状況
- 平家の願書を十禅師権現の社壇で三日加持した後、願書の上巻に現れていたという歌。
修辞
- 掛詞
- 「たひらか」に「平家」を、「西へかたぶく月」に平家が西国へ落ちていくことをかける。
解説
平家一門の連署願書は寿永二年(1183)七月五日付とされる。比叡山はすでに義仲に協力を約しており、平家の願いは聞き入れられなかった。この月の二十五日、平家は安徳天皇を奉じて都落ちする(次の「主上の都落ちの事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、575–577頁(コマ316–317)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日