平家物語 巻第七
木曾山門牒状の事
越前の国府に着いた義仲は、都へ上るには比叡山の衆徒と戦うおそれがあることを案じた。覚明の進言で、山門の真意を確かめる牒状を書かせて送る。牒状は、平家の悪逆を数え上げ、以仁王の令旨を受けて挙兵した義仲の戦いの経過を述べたうえで、天台の衆徒は平家に味方するのか源氏に味方するのかと問い、源氏に同心して凶徒を討つよう求めたものであった。
- 1さるさるさる程程ほどににに木木き曾曾そ義義よし仲仲なかははは越越えち前前ぜんののの國國こ府府ふににに著著ついいいててて、、、家家いえののの子子こ、、、郎郎ろう等等どう召召めし集集あつめめめててて評評ひょう定定じょうすすす。。。「「「抑抑そもそも義義よし仲仲なか、、、近近おう江江みののの國國くにををを經經へてててこそこそこそ、、、都都みやこへへへははは上上のぼるるるべきべきべきににに、、、例例れいののの山山さん僧僧ぞうどもどもどもののの防防ふせぐぐぐ事事こともももやややあらあらあらんずんずんずらんらんらん。。。驅驅かけけけ破破やぶつつっててて通通とおらららんんん事事ことははは安安やすけれけれけれどもどもども、、、當當とう時時じははは平平へい家家けこそこそこそ、、、佛佛ぶつ法法ぽうととともももいはいはいわずずず、、、寺寺てらををを亡亡ほろぼしぼしぼし、、、僧僧そうををを失失うしなひひい、、、惡惡あく行行ぎょうをををばばばいたすいたすいたすなれなれなれ。。。それそれそれををを守守しゅ護護ごののの爲爲ためににに上上しょう洛洛らくせせせんずるんずるんずる義義よし仲仲なかががが、、、平平へい家家けととと一一ひとつつつなれなれなればばばとてとてとて、、、山山さん門門もんののの衆衆しゅ徒徒とににに向向むかつつっててて合合かっ戰戰せんせせせんんん事事こと、、、少少すこしししももも違違たがははわぬぬぬ二二にののの舞舞まいなるなるなるべしべしべし。。。これこれこれこそこそこそさすがさすがさすが安安やす大大だい事事じよよよ。。。いかゞいかゞいかがせせせんんん。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、手手て書書がきににに具具ぐせせせられられられたりたりたりけるけるける大大だい夫夫ぶ坊坊ぼう覺覺かく明明めい、、、進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅははは三三さん千千ぜん人人にん候候そうろうなるなるなるががが、、、必必かならずずず一一いち味味み同同どう心心しんなるなるなることことことははは候候そうらははわずずず。。。或或あるいははは平平へい家家けににに同同どう心心しんせせせんんんととと申申もうすすす衆衆しゅ徒徒とももも候候そうろうらんらんらん。。。或或あるいははは源源げん氏氏じにににつかつかつかんんんととと申申もうすすす大大だい衆衆しゅももも候候そうろうらんらんらん。。。詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、牒牒ちょう狀狀じょうををを遣遣つかははわしししててて御御ご覽覽らん候候そうらへへえ。。。返返へん牒牒ちょうにににこそこそこそ、、、そのそのその樣樣ようははは見見みえええ候候そうらははわんずんずんずらめらめらめ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「このこのこの儀儀ぎ最最もっとももも然然しかるるるべしべしべし。。。さらばさらばさらば書書かけけけ。。。」」」とてとてとて、、、覺覺かく明明めいににに牒牒ちょう狀狀じょうををを書書かかかかせせせててて、、、山山さん門門もんへへへ送送おくらららるるる。。。
- 2そのそのその狀狀じょうににに曰曰いわくくく、、、「「「義義よし仲仲なかつら〳〵つら〳〵つらつら平平へい家家けののの惡惡あく逆逆ぎやくををを見見みるるるににに、、、保保ほう元元げん、、、平平へい治治じよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、長長ながくくく人人じん臣臣しんののの禮禮れいををを失失うしなふふう。。。然然しかりりりととといへいへいえどもどもども貴貴き賤賤せん手手てをををつかねつかねつかね、、、緇緇し素素そ足足あしををを戴戴いただくくく。。。恣恣ほしいままににに帝帝てい位位いををを進進しん退退たいししし、、、あくまであくまであくまで國國こく郡郡ぐんををを虜虜りょ領領りょうすすす。。。道道どう理理り非非ひ理理りををを論論ろんぜぜぜずずず、、、權權けん門門もん勢勢せい家家かををを追追つ捕捕ぶししし、、、有有う財財ざい無無む財財ざいをををいはいはいわずずず、、、卿卿けい相相しょう侍侍じ臣臣しんををを損損そん亡亡もうすすす。。。そのそのその資資し財財ざいををを奪奪うばひひい取取とつつっててて、、、悉悉ことごとくくく郎郎ろう從從じゅうににに與與あたへへえ、、、かのかのかの莊莊しょう園園えんををを沒沒もっ收收しゅうしてしてして、、、みだりがはしくみだりがはしくみだりがわしく子子し孫孫そんににに省省はぶくくく。。。なかんづくなかんづくなかんずく去去いんんんぬるぬるぬる治治じ承承しょう三三さん年年ねん十十じゅう一一いち月月がつ、、、法法ほう皇皇おうををを城城せい南南なんののの離離り宮宮きゅうににに遷遷うつししし奉奉たてまつりりり、、、博博はく陸陸りくををを海海かい西西せいののの絶絶ぜつ域域いきににに流流ながししし奉奉たてまつるるる。。。衆衆しゅ庶庶しょものものものいはいはいわずずず、、、道道どう路路ろ目目めををを以以もってててすすす。。。しかのみならずしかのみならずしかのみならず、、、同同おなじきじきじき四四し年年ねん五五ご月月がつ、、、二二にののの宮宮みやののの朱朱しゅ閣閣かくををを圍圍かこみみみ奉奉たてまつりりり、、、九九きゅう重重ちょうののの垢垢こう塵塵じんををを驚驚おどろかさかさかさしむしむしむ。。。こゝこゝここににに帝帝てい子子し非非ひ分分ぶんののの害害がいををを遁遁のがれれれんんんががが爲爲ためににに、、、ひそかひそかひそかににに園園おん城城じょう寺寺じへへへ入入にゅう御御ぎょののの時時とき、、、義義よし仲仲なか先先せん日日じつににに令令りょう旨旨じををを賜賜たまはるはるわるににに依依よつつっててて、、、鞭鞭むちををを揚揚あげげげんんんととと欲欲ほっするするする所所ところににに、、、怨怨おん敵敵てき巷巷ちまたににに滿滿みちちちててて、、、豫豫よ參參さん道道みちををを失失うしなふふう。。。近近きん境境けいののの源源げん氏氏じなほなほなお參參さん候候こうせせせずずず。。。況況いわんんんややや遠遠おん境境けいにににおいおいおいてててをををややや。。。しかるしかるしかるににに園園おん城城じょうははは分分ぶん限限げんなきなきなきににに依依よつつっててて、、、南南なん都都とへへへ赴赴おもむかかかしめしめしめ給給たまふふう閒閒あいだ、、、宇宇う治治じ橋橋ばしにににしてしてして合合かっ戰戰せんすすす。。。大大たい將將しょう三三さん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさ父父ふ子子し、、、命命いのちををを輕輕かろんんんじじじ義義ぎををを重重おもんんんじじじててて、、、一一いっ戰戰せんののの功功こうををを勵勵はげますますますととと雖雖いえどももも、、、多多た勢勢ぜいののの攻攻せめめめををを免免まぬかれれれずずず。。。形形けい骸骸がいををを古古こ岸岸がんののの苔苔こけににに暴暴さらししし、、、姓姓せい名名めいををを長長ちょう河河がののの波波なみににに流流ながすすす。。。令令りょう旨旨じののの趣趣おもむき、、、肝肝きもににに銘銘めいじじじ、、、同同どう類類るいののの悲悲かなしみしみしみ魂魂たましいををを消消けすすす。。。之之これににに依依よつつっててて東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの源源げん氏氏じ等等ら、、、各各おのおの參參さん洛洛らくををを企企くわだててて、、、平平へい家家けををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんんととと欲欲ほっすすす。。。義義よし仲仲なか去去いんんんじじじ年年としののの秋秋あき、、、宿宿しゅく意意いををを達達たつせせせんんんががが爲爲ためににに、、、旗旗はたををを揚揚あげげげ劒劒けんををを把把とつつっててて信信しん州州しゅうををを出出いでででししし日日ひ、、、越越えち後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん城城じょうののの四四し郎郎ろう長長なが茂茂もち、、、數數す萬萬まんののの軍軍ぐん兵兵びょうををを率率そつしししててて發發はっ向向こうせせせしむるしむるしむる閒閒あいだ、、、當當とう國國ごく横横よこ田田た河河かわ原原らにににしてしてして合合かっ戰戰せんすすす。。。義義よし仲仲なか僅僅わずかににに三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きををを以以もってててかのかのかの數數す萬萬まんののの兵兵つわものををを破破やぶりりり終終おわんんんぬぬぬ。。。風風ふう聞聞ぶん廣廣ひろきききににに及及およんんんででで、、、平平へい氏氏じののの大大たい將將しょう十十じゅう萬萬まんののの軍軍ぐん士士しををを率率そつしししててて、、、北北ほく陸陸ろくににに發發はっ向向こうすすす。。。越越えっ州州しゅう、、、加加か州州しゅう、、、礪礪と竝竝なみ、、、黑黑くろ坂坂さか、、、鹽鹽しお坂坂さか、、、篠篠しの原原はら以以い下下げののの城城じょう郭郭かくにににしてしてして、、、數數す箇箇か度度ど合合かっ戰戰せんすすす。。。策策はかりごとををを帷帷い幄幄あくののの中中うちににに運運めぐらしらしらしててて、、、勝勝かつつつことことことををを咫咫し尺尺せきのののもともともとににに得得えたりたりたり。。。然然しかるるるににに撃撃うてててばばば必必かならずずず伏伏ふくししし、、、攻攻せむれむれむればばば必必かならずずず降降くだるるる。。。秋秋あきののの風風かぜののの芭芭は蕉蕉せおををを破破やぶるるるににに異異ことならならならずずず。。。冬冬ふゆののの霜霜しもののの薰薰くん蕕蕕ゆうををを枯枯からすらすらすににに相相あい同同おなじじじ。。。これこれこれ偏偏ひとえににに神神しん明明めい、、、佛佛ぶつ陀陀だののの助助たすけけけなりなりなり。。。更更さらににに義義よし仲仲なかががが武武ぶ畧畧りやくにににあらあらあらずずず。。。平平へい氏氏じ敗敗はい北北ぼくののの上上うえははは、、、參參さん洛洛らくををを企企くわだつるつるつるなりなりなり。。。今今いま叡叡えい岳岳がくののの麓麓ふもとををを過過すぎぎぎててて、、、洛洛らく陽陽ようののの衢衢ちまたににに入入いるるるべしべしべし。。。このこのこの時時ときににに當當あたつつってててひそかひそかひそかににに疑疑ぎ胎胎たいありありあり。。。そも〳〵そも〳〵そもそも天天てん台台だいののの衆衆しゅ徒徒とははは平平へい家家けににに同同どう心心しんかかか、、、源源げん氏氏じににに與與よ力力りきかかか。。。もしもしもしかのかのかの惡惡あく徒徒とををを助助たすけけけらるらるらるべくべくべくばばば、、、衆衆しゅ徒徒とににに向向むかひひいててて合合かっ戰戰せんすすすべしべしべし。。。もしもしもし合合かっ戰戰せんををを致致いたさささばばば、、、叡叡えい岳岳がくののの滅滅めつ亡亡ぼう、、、踵踵くびすををを旋旋めぐらすらすらすべからべからべからずずず。。。悲悲かなしいしいしいかなかなかな平平へい家家け宸宸しん襟襟きんををを惱惱なやましましまし、、、佛佛ぶつ法法ぽうををを滅滅ほろぼすぼすぼす閒閒あいだ、、、惡惡あく逆逆ぎやくををを鎭鎭しずめめめんんんががが爲爲ためににに義義ぎ兵兵へいををを起起おこすすす所所ところににに、、、忽忽たちまちちちににに三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒とににに向向むこうううててて、、、不不ふ慮慮りょののの合合かっ戰戰せんををを致致いたさささんんんことことことををを。。。いたましきいたましきいたましきかなかなかな醫醫い王王おう山山さん王王おうににに憚憚はばかりりり奉奉たてまつつつっててて、、、行行こう程程ていににに遲遲ち留留りゅうせせせしめしめしめばばば、、、朝朝ちょう廷廷てい緩緩かん怠怠たいののの臣臣しんとととしてしてして、、、長長ながくくく武武ぶ畧畧りやく瑕瑕か瑾瑾きんののの謗謗そしりりりををを遺遺のこさささんんんことことことををを。。。進進しん退退たいににに惑惑まどつつっててて、、、かねかねかねててて案案あん内内ないををを啓啓けいするするする所所ところなりなりなり、、、冀冀こいねがははわくくくははは天天てん台台だいののの衆衆しゅ徒徒と、、、神神かみのののためためため、、、佛佛ほとけのののためためため、、、國國くにのののためためため、、、君君きみのののためためため、、、源源げん氏氏じににに同同どう心心しんしてしてして兇兇きょう徒徒とををを誅誅ちゅうししし、、、鴻鴻こう化化かににに浴浴よくせせせんんんことことこと、、、懇懇こん丹丹たんののの至至いたりりりににに堪堪たへへえずずず。。。義義よし仲仲なか恐恐きょう惶惶こう謹謹きん言言げん。。。壽壽じゅ永永えい二二に年年ねん六六ろく月月がつ十十とお日日かののの日日ひ、、、源源みなもとののの義義よし仲仲なか進進しん上上じょう。。。慧慧え光光こう坊坊ぼうののの律律りつ師師しののの御御ご坊坊ぼうへへへ。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。
現代語訳
そうこうするうちに木曾義仲は越前の国府に着いて、家の子・郎等を召し集めて評議した。「そもそも義仲は近江国を通って都へ上るべきだが、例の比叡山の僧たちが防ぐこともあろう。駆け破って通ることはたやすいが、今は平家こそ仏法も顧みず、寺を滅ぼし、僧を殺し、悪行をしているのだ。それから仏法を守るために上洛しようとする義仲が、平家と同じだからといって山門の衆徒と戦うことになれば、まったく同じ二の舞になるだろう。これこそ、たやすいようで大事なことだ。どうしよう」とおっしゃると、右筆として連れていた大夫坊覚明が進み出て申すには、「山門の大衆は三千人おりますが、必ずしも心を一つにしているわけではありません。平家に味方しようという衆徒もおりましょう。源氏につこうという大衆もおりましょう。結局のところ、牒状を遣わしてご覧なさいませ。返牒にこそ、その様子は表れましょう」と申したので、木曾殿は「もっともだ。それでは書け」といって、覚明に牒状を書かせて山門へ送られた。
その状には次のようにある。「義仲がつくづく平家の悪逆を見るに、保元・平治以来、長く臣下としての礼を失っている。それなのに貴賤は手をこまねき、僧俗はその足を押しいただいている。ほしいままに帝位を左右し、あくまで国郡を奪い取っている。道理も非理も論ぜず権門勢家を捕らえ、財の有無を問わず公卿侍臣を滅ぼしている。その財産を奪い取ってことごとく郎従に与え、その荘園を没収してみだりに子孫に分け与えている。とりわけ去る治承三年十一月、法皇を城南の離宮(鳥羽殿)にお移しし、関白(基房)を西海の遠い地に流し申した。民衆はものも言えず、道で会っても目で語り合うばかりである。そればかりか、同じ四年五月、二の宮(以仁王)の御所を囲んで、宮中を騒がせた。そこで皇子は不当な害を逃れるために、ひそかに園城寺へお入りになったとき、義仲は先日令旨を賜っていたので、駆けつけようとしたところ、怨敵が巷に満ちて、参上する道を失った。近くの源氏さえ参らなかった。まして遠国の源氏はなおさらである。ところが園城寺は守りが十分でなかったので、宮は南都へお向かいになり、その途中、宇治橋で合戦となった。大将の三位入道頼政父子は、命を軽んじ義を重んじて一戦の功を励んだが、多勢の攻めを免れなかった。屍を古い岸の苔にさらし、名を長い川の波に流した。令旨の趣旨は肝に銘じ、同類の悲しみに魂も消える思いである。これによって東国・北国の源氏たちは、それぞれ上洛を企て、平家を滅ぼそうとしている。義仲は去年の秋、かねての思いを遂げるために、旗を揚げ剣を取って信濃を出た日に、越後国の住人城四郎長茂が数万の軍兵を率いて向かって来たので、その国の横田河原で合戦した。義仲はわずか三千余騎でその数万の兵を破った。うわさが広まって、平氏の大将が十万の軍士を率いて北陸に向かって来た。越前・加賀、礪波・黒坂・塩坂・篠原などの城郭で数度合戦した。陣中で策をめぐらして、たやすく勝利を得た。そのうえ、撃てば必ず伏し、攻めれば必ず降った。秋風が芭蕉を破るのと異ならず、冬の霜が香草も臭草も枯らすのと同じである。これはひとえに神仏の助けであって、決して義仲の武略によるものではない。平氏が敗北したうえは、上洛を企てるのである。今、比叡山の麓を過ぎて、都の巷に入ろうとしている。この時にあたって、ひそかに疑いがある。そもそも天台の衆徒は平家に味方するのか、源氏に力を貸すのか。もしあの悪徒を助けられるならば、衆徒に向かって合戦しなければならない。もし合戦をすれば、比叡山の滅亡はたちまちであろう。悲しいことに、平家が天子のお心を悩ませ、仏法を滅ぼすので、その悪逆を鎮めるために義兵を起こしたところで、たちまち三千の衆徒に向かって思いがけない合戦をすることになるとは。痛ましいことに、医王・山王をはばかって行軍を遅らせれば、朝廷に対して怠慢な臣として、長く武略の傷という非難を残すことになるとは。進退に迷って、あらかじめ事情を申し述べるのである。願わくは天台の衆徒は、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心して凶徒を誅し、天子の恩沢に浴されんことを、心からお願いする。義仲恐惶謹言。寿永二年六月十日、源義仲進上。慧光坊律師御坊へ」と書かれていた。
意訳
上洛を前にした義仲が、比叡山の衆徒の向背を確かめるために牒状を送る章段である。仏法を守るために平家を討つと言いながら、比叡山と戦うことになれば平家の二の舞になるという義仲の懸念が、覚明の進言を生んだ。
覚明の書いた牒状は、平家の悪逆と義仲の戦いの経過を、漢文調の美文で述べている。秋風が芭蕉を破り、冬の霜が草を枯らすような勝利は神仏の助けによるものだとし、源氏への同心を強く求めている。
語釈・文法注
文法
- 「安大事」
- たやすいようで実は大事なこと。
- 「道路目を以てす」
- 道で会っても、ものを言えず目くばせするだけである。暴政をはばかるさま。
- 「薰蕕」
- 香りのよい草と悪臭のある草。善人と悪人のたとえ。
- 「疑胎」
- 底本のまま。疑いの意で、通行本文は「疑殆」。
- 「醫王山王」
- 比叡山の本尊である薬師如来(医王)と、日吉の山王権現。
解説
義仲の牒状は寿永二年(1183)六月のことである。比叡山は平家と源氏の間で揺れていたが、この牒状を受けて源氏に味方することを決める(次の「山門返牒の事」)。覚明の文は、巻第四の「南都返牒の事」とともに、平家物語の中の漢文調の名文として知られる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、571–573頁(コマ314–315)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日