平家物語 巻第七
玄肪の事
朝廷は兵乱が鎮まったら伊勢大神宮へ行幸すると約し、さまざまな祈祷を行わせた。物語はその先例として、聖武天皇が藤原広嗣の乱のときに初めて伊勢へ行幸したことを語る。広嗣を調伏した玄昉(底本は「玄肪」)僧正は、のちに太宰府の観世音寺供養の導師を務めたとき、雷に首を取られ、その髑髏が興福寺の庭に落とされたという。広嗣の亡霊は松浦の鏡の宮に祀られた。
- 1六六ろく月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、祭祭さい主主しゅ神神じん祇祇ぎののの權權ごんののの大大たい副副ふ大大おお中中なか臣臣とみののの親親ちか俊俊としををを殿殿てん上上じょうののの下下しも口口ぐちへへへ召召めささされれれててて、、、今今こん度度ど兵兵ひょう革革かくしづまらしづまらしずまらばばば、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうへへへ行行ぎょう幸幸こうあるあるあるべきべきべき由由よし仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。大大だい神神じん宮宮ぐうははは昔昔むかし高高たか天天まののの原原はらよりよりより天天あま降降くだらららせせせ給給たまひひいててて、、、垂垂すい仁仁にん天天てん皇皇おうののの御御ぎょ宇宇う二二に十十じゅう五五ご年年ねん三三さん月月がつににに、、、大大やま和和とののの國國くに笠笠かさ縫縫ぬいののの里里さとよりよりより、、、伊伊い勢勢せののの國國くに渡渡わた會會らいののの郡郡こおり五十鈴五十鈴いすずののの川川かわ上上かみ、、、下下したつつつ磐磐いわ根根ねににに、、、大大おお宮宮みや柱柱ばしらをををふとしきふとしきふとしき立立たてててててて、、、崇崇あがめめめそめそめそめ奉奉たてまつつつっしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、日日にっ本本ぽん六六ろく十十じゅう餘餘よ州州しゅう、、、三三さん千千ぜん七七しち百百ひゃく五五ご十十じゅう餘餘よ社社しゃののの、、、大大だい小小しょうののの神神じん祇祇ぎ、、、冥冥みょう道道どうののの中中なかにににははは無無ぶ雙雙そうなりなりなり。。。されどもされどもされども代代よ々々よののの帝帝みかど遂遂ついににに臨臨りん幸幸こうはははなかりなかりなかりしししににに、、、奈奈な良良らののの帝帝みかどののの御御おん時時とき、、、左左さ大大だい臣臣じん不不ふ比比ひ等等とののの孫孫まご、、、參參さん議議ぎ式式しき部部ぶ卿卿きょう宇宇うま合合かいののの子子こ、、、右右う近近こん衞衞えののの少少しょう將將しょう兼兼けん太太だ宰宰ざいののの少少しょう貳貳に藤藤ふじ原原はらののの廣廣ひろ嗣嗣つぐととといふいふいう人人ひとありありありけりけりけり。。。天天てん平平びょう十十じゅう五五ご年年ねん十十じゅう月月がつににに肥肥ひ前前ぜんののの國國くに松松まつ浦浦らののの郡郡こおりにににしてしてして、、、數數す萬萬まんののの軍軍ぐん兵兵びょうををを率率そつしししててて、、、國國こく家家かををを既既すでににに危危あやぶめめめんんんとととすすす。。。そのそのその時時とき大大おお野野のののの東東あずま人人うどををを大大たい將將しょう軍軍ぐんとととしてしてして、、、廣廣ひろ嗣嗣つぐ追追つい討討とうせせせられられられししし時時とき、、、帝帝みかど御御おん祈祈いのりりりのののためためためににに、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうへへへ始始はじめめめててて行行ぎょう幸幸こうありありありししし、、、そのそのその例例れいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。かのかのかの廣廣ひろ嗣嗣つぐははは肥肥ひ前前ぜんののの松松まつ浦浦らよりよりより、、、都都みやこへへへ一一いち日日にちににに下下おりりり上上のぼるるる馬馬うまをををぞぞぞ持持もつつったりたりたりけるけるける。。。さればさればされば追追つい討討とうせせせられられられししし時時とき、、、御御み方方かたののの兵兵つわものどもどもども落落おちちちうせうせうせ、、、討討うたたたれれれしかしかしかばばば、、、件件くだんののの馬馬うまにににうちうちうち乘乘のりりり、、、たゞたゞただ一一いっ騎騎き海海かい中中ちゅうへへへ馳馳はせせせ入入いりりりけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。そのそのその亡亡ぼう靈靈れいあれあれあれててて、、、常常つねははは恐恐おそろしきろしきろしき事事ことどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。
- 2天天てん平平びょう十十じゅう八八はち年年ねん六六ろく月月がつ十十じゅう八八はち日日にち、、、筑筑ちく前前ぜんののの國國くに御御み笠笠かさののの郡郡こおり、、、太太だ宰宰ざい府府ふののの觀觀かん世世ぜ音音おん寺寺じ供供く養養ようせせせられられられししし導導どう師師しにににははは、、、玄玄げん肪肪ぼう僧僧そう正正じょうとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。高高こう座座ざににに上上のぼりりり鐘鐘かねうちうちうち鳴鳴ならすらすらす時時とき、、、俄俄にはかににに空空そらかきかきかき曇曇くもりりり、、、雷雷いかずちおびたゞしうおびたゞしうおびただしゅう鳴鳴なつつっててて、、、かのかのかの僧僧そう正正じょうののの上上うえににに落落おちちちかゝりかゝりかかり、、、そのそのその首首こうべををを取取とつつっててて、、、雲雲くもののの中中なかへへへぞぞぞ入入いりりりにににけるけるける。。。これこれこれははは廣廣ひろ嗣嗣つぐ調調ちょう伏伏ぶくせせせられられられししし、、、そのそのその故故ゆえとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。このこのこの僧僧そう正正じょう、、、吉吉き備備びののの大大だい臣臣じん入入にっ唐唐とうののの時時とき、、、相相あい伴伴ともなつつっててて渡渡わたりりり、、、法法ほっ相相そう宗宗しゅう渡渡わたささされれれたりたりたりししし人人ひとなりなりなり。。。唐唐とう人人じんががが玄玄げん肪肪ぼうととといふいふいう名名なををを笑笑わらつつっててて、、、「「「玄玄げん肪肪ぼうとととははは、、、還還かえつつっててて亡亡ほろぶぶぶととといふいふいう聲聲こえありありあり。。。いかさまいかさまいかさまにににもももこのこのこの人人ひと歸歸き朝朝ちょうののの後後のち、、、難難なんににに逢逢あふふうべきべきべき人人ひとなりなりなり。。。」」」ととと相相そうしししたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 3同同おなじきじきじき十十じゅう九九く年年ねん六六ろく月月がつ十十じゅう八八はち日日にち、、、髑髏髑髏しゃれこうべににに玄玄げん肪肪ぼうととといふいふいう銘銘めいををを書書かいいいててて、、、興興こう福福ぶく寺寺じののの庭庭にはににに落落おとししし、、、人人ひとならならならばばば二二に三三さん百百びゃく人人にんばかりばかりばかりががが聲聲こえしてしてして、、、虛虛こ空空くうにににどつどつどっととと笑笑わらふふう音音おとしししけりけりけり。。。興興こう福福ぶく寺寺じははは法法ほっ相相そう宗宗しゅうののの寺寺てらたるたるたるににに依依よつつってててなりなりなり。。。そのそのその弟弟で子子し共共どもこれこれこれををを取取とつつっててて塚塚つかににに築築つききき、、、そのそのその内内うちににに納納おさめめめててて、、、頭頭ず墓墓はかととと名名なづけづけづけててて今今いまにににありありあり。。。これこれこれににに依依よつつっててて廣廣ひろ嗣嗣つぐががが亡亡ぼう靈靈れいををを崇崇あがめめめられられられててて、、、肥肥ひ前前ぜんののの國國くに松松まつ浦浦らののの今今いまののの鏡鏡かがみののの宮宮みやととと號號こうすすす。。。嵯嵯さ峨峨がののの皇皇こう帝帝ていののの御御おん時時とき、、、平平へい城城ぜいののの先先せん帝帝てい、、、尙尙ない侍侍しのかみのののすゝめすゝめすすめににによつよつよっててて、、、既既すでににに世世よををを亂亂みだらららんんんとととせせせさせさせさせ給給たまひひいししし時時とき、、、帝帝みかど御御おん祈祈いのりりりののの爲爲ためににに、、、第第だい三三さんののの皇皇こう女女じょ祐祐ゆう智智ち内内ない親親しん王王のうををを賀賀か茂茂もののの齋齋さい院院いんににに立立たててて參參まいらさらさらさせせせ給給たまふふう、、、これこれこれぞぞぞ齋齋さい院院いんののの始始はじめめめなるなるなる。。。朱朱しゅ雀雀じゃく院院いんののの御御おん時時ときももも純純すみ友友とも追追つい討討とうののの例例れいとてとてとて、、、八八や幡幡はたにてにてにて臨臨りん時時じののの御御み神神か樂樂ぐらありありあり。。。今今こん度度どもももそのそのその例例れいたるたるたるべしべしべしとてとてとて、、、さま〴〵さま〴〵さまざまののの御御おん祈祈いのりりりどもどもどもありありありけりけりけり。。。
現代語訳
六月一日、祭主で神祇権大副の大中臣親俊を殿上の下口へ召されて、今度の兵乱が鎮まったら伊勢大神宮へ行幸するとお命じになった。大神宮は、昔高天原から天降られて、垂仁天皇の御代二十五年三月に、大和国笠縫の里から伊勢国渡会郡の五十鈴川の川上、下つ磐根に大宮柱を太く立ててお祀り申し上げてから、日本六十余州、三千七百五十余社の大小の神々・冥道の中で並ぶもののない御神である。しかし代々の帝は一度も行幸されたことがなかったが、奈良の帝(聖武天皇)の御代に、左大臣不比等の孫で参議式部卿宇合の子、右近衛少将兼太宰少弐の藤原広嗣という人がいた。天平十五年(実は天平十二年)十月に、肥前国松浦郡で数万の軍兵を率いて、国家を危うくしようとした。そのとき大野東人を大将軍として広嗣を追討されたとき、帝がお祈りのために初めて伊勢大神宮へ行幸された、その例によるものと聞こえた。この広嗣は、肥前の松浦から都まで一日で上り下りする馬を持っていた。そのため追討されたときには、味方の兵たちが逃げ散り、討たれたので、その馬に乗ってただ一騎で海中へ駆けこんだと聞こえた。その亡霊が荒れて、いつも恐ろしいことが多かった。
天平十八年六月十八日、筑前国御笠郡の太宰府の観世音寺の供養が行われたときの導師は、玄昉僧正と聞こえた。高座に上って鐘を打ち鳴らしたとき、急に空がかき曇り、雷がおびただしく鳴って、その僧正の上に落ちかかり、その首を取って雲の中へ入ってしまった。これは広嗣を調伏されたためであると聞こえた。この僧正は、吉備大臣(真備)が入唐したときに同行して渡り、法相宗を伝えた人である。唐の人が玄昉という名を笑って、「玄昉とは、還って亡ぶという音がある。きっとこの人は帰国の後に災難にあうであろう」と占ったということである。
同じ十九年六月十八日、髑髏に玄昉という銘を書いて興福寺の庭に落とし、人ならば二、三百人ほどの声で、虚空でどっと笑う音がした。興福寺が法相宗の寺であるからである。その弟子たちがこれを拾って塚を築き、その中に納めて頭墓と名づけ、今もある。これによって広嗣の亡霊をお祀りになって、肥前国松浦の今の鏡の宮と号する。嵯峨天皇の御代に、平城の先帝が尚侍(藤原薬子)の勧めによって世を乱そうとなさったとき、帝がお祈りのために、第三皇女の有智内親王を賀茂の斎院に立てられた。これが斎院の始まりである。朱雀院の御代にも、純友追討の例として、石清水八幡で臨時の御神楽があった。今度もその例にならうべきだといって、さまざまなお祈りが行われた。
意訳
北国での大敗を受けて、朝廷が神仏に祈りを捧げるくだりである。物語は伊勢行幸の先例として藤原広嗣の乱を取り上げ、広嗣を調伏した玄昉が雷に首を取られたという怨霊の話を語る。
藤原広嗣の乱、平城上皇の変(薬子の変)、藤原純友の乱と、過去の大乱のたびに行われた祈祷の例を挙げ、今度もそれにならったと結ぶ。平家の時代も、これらの乱と同じく国家の危機と見なされていたことがわかる。
語釈・文法注
文法
- 「玄肪」
- 底本のまま。正しくは「玄昉」。章段名も底本は「玄肪の事」と刷る。
- 「天平十五年十月」
- 底本のまま。広嗣の乱は天平十二年(740)のことである。
- 「還つて亡ぶといふ聲あり」
- 「玄昉」の音が「還亡(かえってほろぶ)」に通じるという。
- 「祐智内親王」
- 底本のまま。正しくは「有智子内親王」。
解説
玄昉(?〜746)は奈良時代の法相宗の僧で、吉備真備とともに唐から帰国し、聖武天皇の信任を得た。藤原広嗣は玄昉と真備の排除を求めて天平十二年(740)に九州で挙兵したが、敗れて斬られた。玄昉はのちに筑紫の観世音寺に左遷されて没し、広嗣の怨霊のしわざと噂された。佐賀県唐津市の鏡神社には広嗣の霊が祀られている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、569–571頁(コマ313–314)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日