平家物語 巻第七
実盛最後の事
篠原の戦いで、斎藤別当実盛は錦の直垂に萌黄縅の鎧を着て、ただ一騎で引き返して戦った。手塚光盛に名を問われても名のらず、組み合って討たれた。首を見た義仲は、幼いころに見た実盛ならもう白髪のはずだと怪しみ、樋口兼光に見せると、兼光は涙を流して、実盛が老武者と侮られまいと髪を黒く染めていたことを語った。洗わせるとたちまち白髪となった。実盛は故郷へは錦を着て帰るという言葉どおり、宗盛から錦の直垂を許されて出陣していたのであった。
- 1落落おちちちゆくゆくゆく勢勢せいののの中中なかににに、、、武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん長長なが井井いののの齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう實實さね盛盛もりははは、、、存存ぞんずるずるずる旨旨むねありありありけれけれければばば、、、赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに萌萌もえ黄黄ぎ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、鍬鍬くわ形形がた打打うつつったるたるたる兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、金金こがねづくりづくりずくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ持持もつつっててて、、、連連れん錢錢ぜん葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬うまににに金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらをををおいおいおいててて乘乘のつつったりたりたりけるけるけるががが、、、御御み方方かたののの勢勢せいははは落落おちちち行行ゆけけけどもどもども、、、たゞたゞただ一一いっ騎騎き返返かえししし合合あははわせ〳〵せ〳〵せかえしあわせ防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふう。。。木木き曾曾そ殿殿どのののの方方かたよりよりより手手て塚塚ずかののの太太た郎郎ろう進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「あなあなあなやさしやさしやさし、、、いかなるいかなるいかなる人人ひとにてにてにてわたらわたらわたらせせせ給給たまへへえばばば、、、御御み方方かたののの御御おん勢勢せいはははみなみなみな落落おちちちゆきゆきゆき候候そうろうににに、、、たゞたゞただ一一いっ騎騎き殘殘のこらららせせせたまひたまひたまいたるたるたるこそこそこそ、、、優優ゆうににに覺覺おぼえええ候候そうらへへえ。。。名名な乘乘のらららせせせたまへたまへたまえ。。。」」」とととことばことばことばををを懸懸かけけけけれけれければばば、、、「「「まづまづまずかうかうこういふいふいうわわわ殿殿どのははは誰誰たそそそ。。。」」」「「「信信しな濃濃のののの國國くにののの住住じゅう人人にん手手て塚塚ずかののの太太た郎郎ろう金金かな刺刺さしののの光光みつ盛盛もり。。。」」」とととこそこそこそ名名な乘乘のつつったれたれたれ。。。齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう、、、「「「さてさてさてははは互互たがいににによきよきよき敵敵かたき、、、但但ただしししわわわ殿殿どのををを下下さぐるぐるぐるにににはははあらあらあらずずず、、、存存ぞんずるずるずる旨旨むねがががあれあれあればばば、、、名名な乘乘のるるる事事ことはははあるあるあるまじいまじいまじいぞぞぞ。。。寄寄よれれれ、、、組組くまままううう手手て塚塚ずか。。。」」」とてとてとて、、、馳馳はせせせ竝竝ならぶるぶるぶるところところところににに、、、手手て塚塚ずかががが郎郎ろう等等どう、、、主主しゅうををを討討うたたたせせせじじじととと中中なかににに隔隔へだたりたりたり、、、齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうにににおしおしおし竝竝ならべべべててて、、、むずむずむずととと組組くむむむ。。。齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれおのれおのれおのれははは、、、日日にっ本本ぽん一一いちののの剛剛こうののの者者ものととと組組くんんんでででうずうずうずよよよ、、、なうれなうれのうれ。。。」」」とてとてとて、、、わがわがわが乘乘のつつったりたりたりけるけるける鞍鞍くらののの前前まえ輪輪わにににおしおしおしつけつけつけててて、、、ちつちつちっとととももも働働はたらかかかさささずずず、、、首首くびかきかきかき切切きつつっててて捨捨すててててててけるけるける。。。手手て塚塚ずかののの太太た郎郎ろう、、、郎郎ろう等等どうががが討討うたたたるゝるゝるるををを見見みててて、、、弓弓ゆん手手でににに廻廻まわりりりあひあひあい、、、鎧鎧よろいののの草草くさ摺摺ずり引引ひき上上あげげげててて二二ふた刀刀かたな刺刺さししし、、、弱弱よわるるる所所ところををを組組くんんんででで伏伏ふすすす。。。齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう心心こころははは猛猛たきょううう思思おもへへえどもどもども、、、軍軍いくさにににはははしつかれしつかれしつかれぬぬぬ、、、手手てははは負負おうううつつつ、、、そのそのその上上うえ老老おい武武む者者しゃででではははありありあり、、、手手て塚塚ずかががが下下したにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。
- 2手手て塚塚ずかののの太太た郎郎ろう、、、馳馳はせせせ來來くるるる郎郎ろう等等どうににに首首くび取取とらららせせせ、、、木木き曾曾そ殿殿どのののの御御ご前前ぜんにににまゐりまゐりまいり畏畏かしこまつまつまっててて、、、「「「光光みつ盛盛もりこそこそこそ奇奇き異異いののの癖癖くせ者者ものととと組組くんんんででで、、、討討うつつっててて參參まいつつっててて候候そうらへへえ。。。侍侍さぶらいかかかととと見見み候候そうらへへえばばば、、、錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれををを著著きててて候候そうろう。。。またまたまた大大たい將將しょう軍軍ぐんかかかととと見見み候候そうらへへえばばば、、、つゞくつゞくつづく勢勢せいももも候候そうらははわずずず、、、名名な乘乘のれ〳〵れ〳〵れなのれととと責責せめめめ候候そうらひひいつれつれつれどもどもども、、、遂遂ついににに名名な乘乘のりりり候候そうらははわずずず。。。聲聲こえははは坂坂ばん東東どう聲聲ごえにてにてにて候候そうらひひいつるつるつる。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれ、、、これこれこれははは齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうにてにてにてありありあり、、、ござんなれござんなれござんなれ、、、それそれそれならならならんんんにににははは義義よし仲仲なかががが上上こう野野ずけへへへ越越こえええたりたりたりししし時時とき、、、をさなをさなおさな眼眼まなこににに見見みしししかかかばばば、、、白白しら髪髪がののの糟糟かす尾尾おなつなつなっしししぞぞぞかしかしかし。。。今今いまははははやはやはや七七しち十十じゅうにににもももあまりあまりあまり、、、白白はく髪髪はつにににこそこそこそなりなりなりぬらんぬらんぬらんににに、、、鬢鬢びん鬚鬚ひげののの黑黑くろいいいこそこそこそあやしけれあやしけれあやしけれ。。。樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう兼兼かね光光みつははは年年とし頃頃ごろ馴馴なれれれ遊遊あそんんんででで、、、見見み知知しりりりたるたるたるらんらんらん、、、樋樋ひ口口ぐち召召めせせせ。。。」」」とてとてとて、、、召召めささされれれけりけりけり。。。
- 3樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろうたゞたゞただ一一ひと目目め見見みててて、、、「「「あなあなあな無無む慙慙ざん、、、齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうにてにてにて候候そうらひひいけりけりけり。。。」」」とてとてとて涙涙なみだををを流流ながすすす。。。木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「それそれそれならならならんんんにににははは、、、はやはやはや七七しち十十じゅうにににももも餘餘あまりりり、、、白白はく髪髪はつにににこそこそこそなりなりなりぬらんぬらんぬらんににに、、、鬢鬢びん鬚鬚ひげののの黑黑くろきききはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、やゝやゝややあつあつあっててて樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「さささ候候そうらへへえばばば、、、そのそのそのやうやうようををを申申もうししし上上あげげげんんんととと仕仕つかまつりりり候候そうろうががが、、、あまりあまりあまりにににあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええ候候そうらうううててて、、、まづまづまず不不ふ覺覺かくののの涙涙なみだのののこぼれこぼれこぼれ候候そうらひひいけるけるけるぞぞぞややや。。。さればさればされば弓弓ゆみ矢矢や取取とりりりははは、、、聊聊いささかかかののの所所ところにてにてにてももも思思おもい出出でのののことばことばことばをををばばば、、、かねかねかねてててつかひつかひつかい置置おくくくべきべきべきことことことにてにてにて候候そうらひひいけるけるけるぞぞぞややや。。。齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう、、、常常つねははは兼兼かね光光みつににに逢逢おうううててて物物もの語語がたりししし候候そうらひひいしししははは、、、『『『六六ろく十十じゅうにににあまりあまりあまりててて軍軍いくさののの陣陣じんへへへ向向むかははわんんん時時ときははは、、、鬢鬢びん鬚鬚ひげををを黑黑くろううう染染そめめめててて、、、若若わかやがやがやがうううととと思思おもふふうなりなりなり。。。そのそのその故故ゆえははは若若わか殿殿とのばらばらばらににに爭爭あらそうううててて、、、先先さきををを驅驅かけけけんんんもももおとなげおとなげおとなげなしなしなし、、、またまたまた老老おい武武む者者しゃとてとてとて、、、人人ひとののの侮侮あなどららられれれんんんももも口口くち惜惜おしかるしかるしかるべしべしべし。。。』』』ととと申申もうししし候候そうらひひいしししががが、、、まことまことまことににに染染そめめめててて候候そうらひひいけるけるけるぞぞぞややや。。。洗洗あらははわせせせててて御御ご覽覽らん候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、木木き曾曾そ殿殿どのさもさもさもあるあるあるらんらんらんとてとてとて、、、洗洗あらははわせせせててて御御ご覽覽らんずれずれずればばば、、、白白はく髪髪はつにににこそこそこそなりなりなりにににけれけれけれ。。。
- 4またまたまた齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれををを著著きけるけるける事事ことももも、、、最最さい後後ごののの暇暇いとま申申もうしししににに大臣殿大臣殿おおいどのへへへ參參まいつつっててて、、、「「「かうかうこう申申もうせせせばばば、、、實實さね盛盛もりががが身身み一一ひとつつつにてにてにてははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、先先せん年年ねん坂坂ばん東東どうへへへまかりまかりまかり下下くだりりり候候そうらひひいししし時時とき、、、水水みず鳥鳥とりののの羽羽は音音おとににに驚驚おどろききき、、、矢矢や一一ひとつつつをををだにだにだに射射いずずずしてしてして、、、駿駿する河河がののの蒲蒲かん原原ばらよりよりより逃逃にげげげ上上のぼつつっててて候候そうらひひいしししことことこと、、、老老おいののの後後のちののの恥恥ち辱辱じょく、、、たゞたゞただこのこのこの事事ことににに候候そうろう。。。今今こん度度ど北北ほっ國國こくへへへまかりまかりまかり下下くだりりり候候そうらははわばばば、、、定定さだめめめててて討討うち死死じに仕仕つかまつりりり候候そうろうべしべしべし。。。實實さね盛盛もりもともともとははは越越えち前前ぜんののの國國くにののの者者ものにてにてにて候候そうらひひいしししががが、、、近近きん年年ねん御御ご領領りょうにににつけつけつけられられられててて、、、武武む藏藏さしののの國國くに長長なが井井いににに居居きょ住住じゅう仕仕つかまつりりり候候そうらひひいききき。。。事事ことののの譬譬たとえののの候候そうろうぞぞぞかしかしかし。。。故故こ郷郷きょうへへへははは錦錦にしきををを著著きててて歸歸かえるるるととと申申もうすすす事事ことののの候候そうらへへえばばば、、、何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき、、、錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれををを御御ご免免めん候候そうらへへえかしかしかし。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「やさしうやさしうやさしゅうももも申申もうしししたりたりたりけるけるけるものものものかなかなかな。。。」」」とてとてとて、、、錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれををを御御ご免免めんありありありけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。昔昔むかしののの朱朱しゅ買買ばい臣臣しんははは錦錦にしきののの袂袂たもとををを會會かい稽稽けい山山ざんににに飜飜ひるがえししし、、、今今いまののの齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう實實さね盛盛もりははは、、、そのそのその名名なををを北北ほっ國國こくののの巷巷ちまたににに揚揚あぐぐぐとととかやかやかや。。。朽朽くちちちもももせせせぬぬぬ空空むなしきしきしき名名なのみのみのみ止止とどめめめ置置おいいいててて、、、屍屍かばねははは越越こし路路じののの末末すえののの塵塵ちりとととなるなるなるこそこそこそあはれあはれあわれなれなれなれ。。。
- 5去去いんんんぬるぬるぬる四四し月月がつ十十じゅう七七しち日日にち、、、平平へい家家け十十じゅう萬萬まん餘餘よ騎騎きにてにてにて都都みやこををを出出いでででしししことことことがらがらがらははは、、、何何なにおもておもておもてををを向向むかふふうべしべしべしとととももも見見みえええざりざりざりしししににに、、、今今いま五五ご月月がつ下下げ旬旬じゅんににに都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼるるるにににははは、、、そのそのその勢勢せい僅僅わずかににに二二に萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、流流ながれれれををを盡盡つくしししてててすなどるすなどるすなどる時時ときははは、、、多多おおくくくののの魚魚うおををを得得うるるるととといへいへいえどもどもども、、、明明みょう年年ねんににに魚魚うおなしなしなし。。。林林はやしををを燒燒やいいいててて狩狩かるるるときときときははは、、、多多おおくくくののの獸獸けだものををを得得うるるるととといへいへいえどもどもども、、、明明みょう年年ねんににに獸獸けだものなしなしなし。。。後後のちををを存存ぞんじじじててて少少しょう々々しょうははは殘殘のこさささるるるべかりべかりべかりけるけるけるものものものをををととと、、、申申もうすすす人人ひともももありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 6上總上總かずさののの守守かみ忠忠ただ清清きよ、、、飛飛ひ驒驒だののの守守かみ景景かげ家家いえははは、、、一一を昨昨と年年とし、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく薨薨こう去去きょせせせられられられししし時時とき、、、二二ふた人人りともともともににに出出しゅっ家家けしてしてしてありありありけるけるけるががが、、、今今こん度度ど北北ほっ國國こくにてにてにて、、、子子こどもどもどももももみなみなみな打打うたたたれれれぬぬぬととと聞聞きいいいててて、、、そのそのその思思おもひひいのののつもりつもりつもりにににややや、、、遂遂ついににに歎歎なげききき死死じににににぞぞぞ死死しににににににけるけるける。。。これこれこれををを始始はじめめめててて、、、親親おやははは子子こににに後後おくれれれ、、、妻妻めははは夫夫おつとににに別別わかれれれててて、、、歎歎なげききき悲悲かなしむしむしむ事事ことかぎりかぎりかぎりなしなしなし。。。およそおよそおよそ京京きょう中中じゅうにににははは家家いえ々々いえににに門門かどををを閉閉とぢぢじててて、、、朝朝あさ夕夕ゆう鐘鐘かねうちうちうち鳴鳴ならしらしらし、、、聲聲こえ々々ごえににに念念ねん佛佛ぶつ申申もうししし、、、をめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ事事ことおびたゞしおびたゞしおびただし。。。またまたまた遠遠おん國國ごく、、、近近きん國國ごくもももかくかくかくののの如如ごとししし。。。
現代語訳
逃げて行く軍勢の中に、武蔵国の住人長井の斎藤別当実盛は、思うところがあったので、赤地の錦の直垂に萌黄縅の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒をしめ、黄金づくりの太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持って、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていたが、味方の軍勢は逃げて行くのに、ただ一騎で引き返し引き返しして防ぎ戦った。木曾殿の方から手塚太郎が進み出て、「ああ立派なことだ。どのようなお方でいらっしゃるのか、味方の軍勢はみな逃げて行くのに、ただ一騎残っておられるのは、まことに心にくく思われます。お名のりください」と言葉をかけると、「まずそう言うおまえは誰だ」。「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」と名のった。斎藤別当は「さては互いによい敵だ。ただしおまえを見下すのではない。思うところがあるので名のることはするまいぞ。寄れ、組もう、手塚」といって馬を並べたところへ、手塚の郎等が主人を討たせまいと間に割って入り、斎藤別当に馬を押し並べてむずと組みついた。斎藤別当は「あっぱれ、おまえは日本一の剛の者と組もうというのだな。おのれ」といって、自分の乗っている鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きさせず、首をかき切って捨ててしまった。手塚太郎は郎等が討たれるのを見て、左手に回りこみ、鎧の草摺を引き上げて二刀刺し、弱ったところを組み伏せた。斎藤別当は心では勇ましく思ったが、戦い疲れており、傷を負っており、そのうえ老武者でもあったので、手塚の下に組み敷かれてしまった。
手塚太郎は、駆けつけて来た郎等に首を取らせ、木曾殿の御前に参ってかしこまり、「光盛は不思議な曲者と組んで、討って参りました。侍かと思えば錦の直垂を着ております。また大将軍かと思えば、続く軍勢もおりません。名のれ名のれと責めましたが、ついに名のりませんでした。声は坂東なまりでございました」と申したので、木曾殿は「あっぱれ、これは斎藤別当であるな。そうであろう。それならば、義仲が上野へ越えたとき、幼い目に見たときには、白髪まじりのごま塩頭であった。今はもう七十を越えて、真っ白になっているはずなのに、鬢や鬚が黒いのは不思議だ。樋口次郎兼光は長年親しくしていたから、見知っているだろう。樋口を呼べ」といってお呼びになった。
樋口次郎はひと目見るなり、「ああ痛ましい。斎藤別当でございました」といって涙を流した。木曾殿が「それならば、もう七十を越えて真っ白になっているはずなのに、鬢や鬚が黒いのはどうしたことか」とおっしゃると、しばらくして樋口次郎が涙を抑えて申すには、「そうでございます。そのわけを申し上げようといたしましたが、あまりに哀れに思われて、まず思わず涙がこぼれてしまいました。それにつけても、弓矢を取る者は、ちょっとした場面でも心に残る言葉を、かねて言いおいておくべきものでございますね。斎藤別当がいつも兼光に会って話しておりましたのは、『六十を過ぎて戦の陣へ向かうときは、鬢や鬚を黒く染めて若く見せようと思う。そのわけは、若殿ばらと争って先駆けをするのもおとなげないし、また老武者だといって人に侮られるのも残念だからだ』と申しておりましたが、本当に染めていたのですね。洗わせてご覧ください」と申したので、木曾殿は「そうでもあろう」といって洗わせてご覧になると、真っ白な白髪になった。
また斎藤別当が錦の直垂を着ていたのも、最後の暇乞いに大臣殿(宗盛)のもとへ参って、「こう申しますのは、実盛一人のことではございませんが、先年坂東へ下りましたとき、水鳥の羽音に驚いて、矢一本も射ずに駿河の蒲原から逃げ上ってまいりましたこと、老いの身の恥辱は、ただこのことでございます。今度北国へ下りましたら、きっと討死いたしましょう。実盛はもとは越前国の者でございましたが、近年ご領地につけられて、武蔵国長井に住んでおりました。ことわざにもございますように、故郷へは錦を着て帰ると申しますので、どうかお許しください。錦の直垂の着用をお許しくださいませ」と申したので、大臣殿は「殊勝なことを申すものだ」といって、錦の直垂の着用を許されたと聞こえた。昔の朱買臣は錦の袂を会稽山にひるがえし、今の斎藤別当実盛は、その名を北国の巷にあげたということである。朽ちることのないむなしい名だけを残して、屍は越路の果ての塵となったのは哀れなことである。
去る四月十七日、平家が十万余騎で都を出たときのありさまは、立ち向かう者などないかと見えたが、今五月下旬に都へ帰り上るときには、その軍勢はわずか二万余騎であった。川の流れを涸らして魚をとるときは、多くの魚をとることができても、翌年には魚がいない。林を焼いて狩りをするときは、多くの獣をとることができても、翌年には獣がいない。後のことを考えて、少しは残しておくべきであったのにと言う人もいたということである。
上総守忠清と飛驒守景家は、一昨年入道相国が亡くなられたとき、二人とも出家していたが、今度北国で子どもたちがみな討たれたと聞いて、その思いが積もったのであろうか、ついに嘆き死にしてしまった。これをはじめとして、親は子に先立たれ、妻は夫に別れて、嘆き悲しむことはかぎりがない。およそ京中では家々で門を閉じて、朝夕に鐘を打ち鳴らし、声々に念仏を唱え、わめき叫ぶことおびただしい。また遠国・近国も同じありさまであった。
意訳
『平家物語』の中でも特に名高い章段である。七十を越えた老武者実盛は、若い者と争うのもおとなげなく、老いを侮られるのも口惜しいと、髪を黒く染めて出陣した。名のらずに戦い、討たれた首を洗うと白髪が現れる場面は、武士の誇りと老いの哀れとを鮮やかに描いている。
実盛は富士川で戦わずに逃げた恥をすすぐため、討死を覚悟して、故郷へは錦を着て帰るという言葉どおり錦の直垂を着て北国へ下った。物語は実盛の死に続けて、平家の大軍がわずか二万騎になって帰京したこと、多くの家で嘆きの声があがったことを記して、北陸での敗戦の大きさを伝えている。
語釈・文法注
文法
- 「ござんなれ」
- そうであろう。思ったとおりだ。「ごさんなれ」とも。
- 「糟尾なつし」
- 白髪まじりのごま塩頭であった。
- 「組んでうずよ」
- 組もうというのだな。「うず」は「うとす」の約。
- 「なうれ」
- おのれ。相手を呼びつける言葉。
- 「故郷へは錦を著て歸る」
- 出世して故郷へ帰ることのたとえ。朱買臣が会稽の太守となって錦を着て故郷に帰った故事による。
解説
斎藤別当実盛(?〜1183)は越前の出身で、武蔵国長井荘を本拠とした。かつて源義朝に仕え、幼い義仲の命を救って木曾へ送り届けたとも伝えられる。実盛の最期は謡曲「実盛」の題材となり、松尾芭蕉も加賀の多太神社で実盛の兜を見て「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んだ。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、565–569頁(コマ311–313)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日