平家物語 巻第七
篠原合戦の事
義仲は勝利を謝して諸社に神領を寄進した。かつて石橋山で頼朝を射た斎藤別当実盛ら東国の武士たちは平家方にあり、実盛が木曾殿へ降ろうと持ちかけると、股野景久はそれを恥として討死を誓い、実盛も本心は同じだと明かして、皆が北国での討死を約した。五月二十一日、加賀の篠原で両軍が激突し、平家方の高橋長綱は、助けた若武者入善行重に油断して討たれ、武蔵三郎左衛門有国も立ったまま討死した。
- 1木木き曾曾そ殿殿どのやがてやがてやがてそこそこそこにてにてにて、、、諸諸しょ社社しゃへへへ神神じん領領りょうををを寄寄よせせせらるらるらる。。。多多た田田だののの八八や幡幡はたへへへははは蝶蝶ちょう屋屋やののの莊莊しょう、、、菅菅すが生生ふののの社社やしろへへへははは能能の美美みののの莊莊しょう、、、氣氣け比比ひののの社社やしろへへへははは飯飯はん原原はらののの莊莊しょう、、、白白しら山山やまののの社社やしろへへへははは横横よこ江江え、、、宮宮みや丸丸まる二二に箇箇か所所しょののの莊莊しょうををを寄寄き進進しんすすす。。。平平へい泉泉せん寺寺じへへへははは藤藤ふじ島島しま七七しち鄕鄕ごうをををぞぞぞ寄寄よせせせられられられけるけるける。。。
- 2去去いんんんぬるぬるぬる治治じ承承しょう四四し年年ねん八八はち月月がつ石石いし橋橋ばし山山やまののの合合かっ戰戰せんののの時時とき、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの射射い奉奉たてまつりりりししし武武ぶ士士しどもどもども、、、みなみなみな逃逃にげげげ上上のぼつつっててて、、、平平へい家家けののの御御み方方かたにににぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。宗宗むね徒徒とののの人人ひと々々びとにににははは長長なが井井いののの齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう實實さね盛盛もり、、、浮浮うき巢巢すののの三三さぶ郎郎ろう重重しげ親親ちか、、、股股また野野のののの五五ご郎郎ろう景景かげ久久ひさ、、、伊伊い藤藤とうののの九九く郎郎ろう祐祐すけ氏氏うじ、、、眞眞ま下下しもののの四四し郎郎ろう重重しげ直直なおなりなりなり。。。これらこれらこれらはははみなみなみな軍軍いくさのののあらあらあらんんん程程ほど暫暫しばらくくく休休やすまままんんんとてとてとて、、、日日ひ毎毎ごとににに寄寄よりりりあひ〳〵あひ〳〵あいよりあい、、、巡巡じゅん酒酒しゅをををしてしてしてぞぞぞ慰慰なぐさみみみけるけるける。。。まづまづまず長長なが井井いののの齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうがががもともともとににに寄寄よりりり合合あひひいたりたりたりけるけるける日日ひ、、、實實さね盛盛もり申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「つら〳〵つら〳〵つらつら當當とう世世せいののの體體ていををを見見み候候そうろうににに、、、源源げん氏氏じののの方方かたはははいよ〳〵いよ〳〵いよいよ強強つよくくく、、、平平へい家家けののの御御み方方かたははは負負まけ色色いろににに見見みえええさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうろう。。。いざいざいざ各各おのおの木木き曾曾そ殿殿どのへへへ參參まいらららううう。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、みなみなみな、、、「「「さんなうさんなうさんのう。。。」」」とととぞぞぞ同同どうじじじけるけるける。。。
- 3次次つぎののの日日ひ、、、またまたまた浮浮うき巢巢すののの三三さぶ郎郎ろうがががもともともとににに寄寄よりりりあひあひあいたりたりたりけるけるける時時とき、、、齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう、、、「「「さてさてさてももも昨日昨日きのう實實さね盛盛もり申申もうししししししことことことはははいかにいかにいかに、、、各各おのおの。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、そのそのその中中なかににに股股また野野のののの五五ご郎郎ろう景景かげ久久ひさ、、、進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「さすがさすがさすがわれらわれらわれらははは東東とう國國ごくでででははは人人ひとににに知知しららられれれててて名名なあるあるある者者ものでででこそこそこそあれあれあれ。。。吉吉きつににについついついてててあなたあなたあなたへへへ參參まいりりり、、、こなたこなたこなたへへへ參參まいらららんんんことことことははは見見み苦苦ぐるしかるしかるしかるべしべしべし。。。人人ひと々々びとののの御御おん心心こころどもどもどもをををばばば知知しりりり參參まいらせらせらせずずず候候そうろう。。。景景かげ久久ひさにににおいおいおいてててははは、、、今今こん度度ど平平へい家家けののの御御み方方かたででで討討うち死死じにせせせんんんととと、、、思思おもひひい切切きつつっててて候候そうろうぞぞぞ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうあざあざあざ笑笑わらつつっててて、、、「「「まことまことまことにににははは各各おのおのののの御御おん心心こころどもどもどもをををがながながな引引ひかかかんんんとてとてとてこそこそこそ申申もうしししたれたれたれ。。。實實さね盛盛もりももも今今こん度度ど北北ほっ國國こくにてにてにて討討うち死死じにせせせんんんととと思思おもひひい切切きつつっててて候候そうらへへえばばば、、、二二ふた度度たび命命いのち生生いきききててて、、、都都みやこへへへははは歸歸かえるるるまじきまじきまじき由由よし、、、大臣殿大臣殿おおいどのへへへももも申申もうししし上上あげげげ、、、人人ひと人人びとにににもももそのそのそのやうやうようををを申申もうししし置置おききき候候そうろう。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、皆皆みなまたまたまたこのこのこの議議ぎにににぞぞぞ同同どうじじじけるけるける。。。そのそのその約約やく束束そくををを違違たがへへえじじじとととややや、、、當當とう座座ざにににありありありけるけるける二二に十十じゅう餘餘よ人人にんののの侍侍さぶらいどもどもどもももも、、、今今こん度度ど北北ほっ國國こくにてにてにて一一いっ所所しょににに死死しににににににけるけるけるこそこそこそ無無む慙慙ざんなれなれなれ。。。
- 4平平へい家家けははは加加か賀賀がののの國國くに篠篠しの原原はらににに引引ひき退退しりぞいいいててて、、、人人じん馬馬ばののの息息いきをををぞぞぞ休休やすめめめけるけるける。。。同同おなじきじきじき五五ご月月がつ二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、木木き曾曾そ殿殿どの五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、篠篠しの原原はらへへへぞぞぞ向向むかははわれれれけるけるける。。。木木き曾曾そ殿殿どのののの方方かたよりよりより今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひら、、、まづまづまず五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きにてにてにて馳馳はせせせ向向むかふふう。。。平平へい家家けののの方方かたにににははは畠畠はたけ山山やまののの庄庄しょう司司じ重重しげ能能よし、、、小小お山山やま田田だののの別別べつ當當とう有有あり重重しげ、、、宇宇う都都つの宮宮みやののの左左さ衞衞え門門もん朝朝とも綱綱つな、、、これらこれらこれらははは大大おお番番ばん役役やくにてにてにて、、、折折おりふしふしふし在在ざい京京きょうしししたりたりたりけるけるけるををを、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「汝汝なんじ等等らははは古古ふるいいい者者ものなりなりなり、、、軍軍いくさのののやうやうようをををももも掟掟おきてててよよよ。。。」」」とてとてとて今今こん度度ど北北ほっ國國こくへへへ向向むけけけられられられたりたりたり。。。かれらかれらかれら兄兄きょう弟弟だい、、、三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎きでででうちうちうち向向むかふふう。。。畠畠はたけ山山やま、、、今今いま井井い、、、始始はじめめめははは五五ご騎騎き、、、十十じっ騎騎きづゝづゝずつ出出いだししし合合あははわせせせててて勝勝しょう負負ぶをををせせせさせさせさせけるけるけるががが、、、後後のちにににははは兩兩りょう方方ほう亂亂みだれれれ合合おうううてててぞぞぞ戰戰たたかひひいけるけるける。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう一一いち日日にちののの午午うまののの刻刻こく、、、草草くさもももゆるがゆるがゆるがずずず照照てらすらすらす日日ひににに、、、源源げん平平ぺいののの兵兵つわもの共共ども、、、われわれわれ劣劣おとらららじじじととと戰戰たたかへへえばばば、、、遍遍へん身身しんよりよりより汗汗あせ出出いでででててて、、、水水みずををを流流ながすすすににに異異ことならならならずずず。。。今今いま井井いががが方方かたにににももも兵兵つわもの多多おおくくく亡亡ほろびびびにににけりけりけり。。。畠畠はたけ山山やま、、、家家いえののの子子こ、、、郎郎ろう等等どう多多おおくくく討討うたたたせせせ、、、力力ちから及及およばばばででで引引ひき退退しりぞくくく。。。次次つぎににに平平へい家家けののの方方かたよりよりより高高たか橋橋はしののの判判ほう官官がん長長なが綱綱つな、、、五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きででで馳馳はせせせ向向むかふふう。。。木木き曾曾そ殿殿どのののの方方かたよりよりより樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう兼兼かね光光みつ、、、落落おち合合あいののの五五ご郎郎ろう兼兼かね行行ゆき、、、三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎きでででうちうちうち向向むかふふう。。。源源げん平平ぺいののの兵兵つわものどもどもども暫暫しばししし支支ささへへえててて防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふう。。。されどもされどもされども高高たか橋橋はしががが方方かたののの勢勢せいははは、、、國國くに々々ぐにのののかりかりかり武武む者者しゃなりなりなりけれけれければばば、、、一一いっ騎騎きももも落落おちちち合合あははわずずず、、、われわれわれ先先さきにににとととぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。高高たか橋橋はし心心こころははは猛猛たきょううう思思おもへへえどもどもども、、、後後うしろあばらあばらあばらににになりなりなりけれけれければばば、、、力力ちから及及およばばばずずずたゞたゞただ一一いっ騎騎き、、、南南みなみををを指指さしししてててぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。
- 5こゝこゝここににに越越えっ中中ちゅうののの國國くにののの住住じゅう人人にん入入にゅう善善ぜんののの小小こ太太た郎郎ろう重重しげ行行ゆき、、、よいよいよい敵敵かたきととと目目めをををかけかけかけ、、、鞭鞭むち鐙鐙あぶみをををあはせあはせあわせててて馳馳はせせせ來來きたりりり、、、おしおしおし竝竝ならべべべてててむずむずむずととと組組くむむむ。。。高高たか橋橋はし、、、入入にゅう善善ぜんをををつかんつかんつかんででで鞍鞍くらののの前前まえ輪輪わにににおしおしおしつけつけつけ、、、ちつちつちっとととももも働働はたらかかかさささずずず、、、「「「さてさてさてわわわ君君ぎみははは何何なに者者ものぞぞぞ、、、名名なのれのれのれ、、、聞聞きかかかううう。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、「「「越越えっ中中ちゅうののの國國くにののの住住じゅう人人にん入入にゅう善善ぜんののの小小こ太太た郎郎ろう行行ゆき重重しげ、、、生生しょう年年ねん十十じゅう八八はっ歳歳さい。。。」」」とととぞぞぞ名名な乘乘のつつったるたるたる。。。高高たか橋橋はし涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「あなあなあな無無む慙慙ざん、、、去去こ年年ぞ後後おくれれれたるたるたる長長なが綱綱つなががが子子こもももあらあらあらばばば、、、今今こ年年としははは十十じゅう八八はっ歳歳さいぞぞぞかしかしかし。。。わわわ君君ぎみねぢねぢねじ切切きつつっててて捨捨すつつつべけれべけれべけれどもどもども、、、さらばさらばさらば助助たすけけけんんん。。。」」」とてとてとて赦赦ゆるしししけりけりけり。。。高高たか橋橋はしののの判判ほう官官がんははは御御み方方かたののの勢勢せい待待またたたんんんとてとてとて、、、馬馬うまよりよりより下下おりりりててて息息いきつぎつぎつぎゐゐいたりたりたり。。。入入にゅう善善ぜんももも休休やすみみみゐゐいたりたりたりけるけるけるががが、、、あつぱれあつぱれあっぱれよいよいよい敵敵かたき、、、われわれわれをををばばば助助たすけけけたれたれたれどもどもども、、、いかにいかにいかにもももしてしてして討討うたたたばやばやばやととと思思おもひひいゐゐいたるたるたる所所ところににに、、、高高たか橋橋はしこれこれこれをををばばば夢夢ゆめにににももも知知しらららずずず、、、うちうちうちとけとけとけててて物物もの語語がたりをををぞぞぞしししゐゐいたるたるたる。。。入入にゅう善善ぜんははは聞聞きこゆるゆるゆる早早はや業業わざののの男男おとこにてにてにてありありありけれけれければばば、、、高高たか橋橋はしががが見見みぬぬぬひまひまひまににに刀刀かたなををを拔拔ぬききき、、、立立たちちち上上あがりりり、、、高高たか橋橋はしののの判判ほう官官がんががが内内うち兜兜かぶとをををしたゝかしたゝかしたたかににに刺刺さすすす。。。刺刺さささされれれてててひるむひるむひるむ所所ところににに、、、入入にゅう善善ぜんががが郎郎ろう等等どう後後おくれれれ馳馳ばせせせににに三三さん騎騎き馳馳はせせせ來來きたつつっててて落落おちちち合合おうううたりたりたり。。。高高たか橋橋はし心心こころははは猛猛たきょううう思思おもへへえどもどもども、、、敵敵かたきはははあまたあまたあまたなりなりなり、、、手手てははは負負おひひいつつつ、、、運運うんややや盡盡つきききにににけんけんけん、、、そこそこそこにてにてにて遂遂ついににに討討うたたたれれれぬぬぬ。。。
- 6次次つぎににに平平へい家家けののの方方かたよりよりより武武む藏藏さしののの三三さぶ郎郎ろう右右う衞衞え門門もん有有あり國國くに、、、三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎きでででをめいをめいおめいててて驅驅かくくく。。。木木き曾曾そ殿殿どのののの方方かたよりよりより仁仁に科科しな、、、高高たか梨梨なし、、、山山やま田田だののの次次じ郎郎ろう、、、五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きでででうちうちうち向向むかふふう。。。これこれこれもももしばししばししばし支支ささへへえててて防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふう。。。されどもされどもされども有有あり國國くにはははあまりあまりあまりににに深深ふか入入いりりりしてしてして戰戰たたかひひいけるけるけるががが、、、馬馬うまをををももも射射いさせさせさせ、、、歩歩かち立立だちににになりなりなり、、、兜兜かぶとをををももも打打うちちち落落おとささされれれ、、、大大おお童童わらわににになつなつなっててて、、、矢矢や種種だねみなみなみな盡盡つきききけれけれければばば、、、打打うち物物もの拔拔ぬいいいててて戰戰たたかひひいけるけるけるががが、、、矢矢や七七ななつつつ八八やつつつ射射い立立たてててられられられ、、、敵敵かたきののの方方かた睨睨にらまへまへまえ、、、立立たち死死じににににこそこそこそ死死しににににににけれけれけれ。。。大大たい將將しょうかやうかやうかようににになるなるなる上上うえははは、、、そのそのその勢勢せいみなみなみな落落おちちちぞぞぞゆくゆくゆく。。。
現代語訳
木曾殿はすぐにそこで、諸社へ神領を寄進された。多田の八幡へは蝶屋の荘、菅生の社へは能美の荘、気比の社へは飯原の荘、白山の社へは横江・宮丸の二か所の荘を寄進した。平泉寺へは藤島七郷を寄せられた。
去る治承四年八月の石橋山の合戦のとき、兵衛佐殿(頼朝)を射た武士たちは、みな逃げ上って平家の味方になっていた。その主な人々は、長井の斎藤別当実盛、浮巣三郎重親、股野五郎景久、伊藤九郎祐氏、真下四郎重直である。この人々は、戦が始まるまでしばらく休もうといって、毎日寄り集まっては酒を酌み交わして慰めあっていた。まず長井の斎藤別当のもとに集まった日、実盛が言うには、「つくづく当世のありさまを見ますと、源氏の方はいよいよ強く、平家の方は負け色に見えます。さあ皆で木曾殿へ参ろう」と言ったので、皆「それがよい」と同意した。
次の日、また浮巣三郎のもとに集まったとき、斎藤別当が「さて昨日実盛が申したことはどうですか、皆さん」と言うと、その中の股野五郎景久が進み出て言うには、「なんといってもわれらは東国では人に知られた名のある者である。形勢のよい方についてあちらへ参り、こちらへ参りするのは見苦しいことだ。皆さんのお心は存じませんが、景久は今度平家の味方として討死しようと覚悟しております」と言ったので、斎藤別当はあざ笑って、「本当は皆さんのお心を試そうとして申したのです。実盛も今度北国で討死しようと覚悟しておりますので、二度と生きて都へは帰るまいと、大臣殿にも申し上げ、人々にもそのように申しおいてあります」と言ったので、皆またこの考えに同意した。その約束を違えまいとしたのか、その座にいた二十余人の侍たちも、今度北国で一か所で死んでしまったのは痛ましいことである。
平家は加賀国篠原に退いて、人馬の息を休めていた。同じ五月二十日、木曾殿の五万余騎が篠原へ向かわれた。木曾殿の方から今井四郎兼平がまず五百余騎で駆けつけた。平家の方には畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱がいた。この人々は大番役でちょうど在京していたのを、大臣殿が「おまえたちは古参の者だ。戦の指図もせよ」といって、今度北国へ向けられたのである。彼ら兄弟が三百余騎で立ち向かった。畠山と今井は、はじめは五騎、十騎ずつ出し合って勝負をさせていたが、後には両軍入り乱れて戦った。同じ二十一日の午の刻(正午ごろ)、草も揺れない炎天の下で、源平の武士たちが負けまいと戦うと、全身から汗が出て、水を流すようであった。今井の方にも兵が多く討たれた。畠山は家の子・郎等を多く討たせ、力及ばず退いた。次に平家の方から高橋判官長綱が五百余騎で駆けつけた。木曾殿の方からは樋口次郎兼光と落合五郎兼行が三百余騎で立ち向かった。源平の武士たちはしばらく持ちこたえて防ぎ戦った。しかし高橋の手勢は諸国から駆り集めた武者であったので、一騎も踏みとどまらず、我先にと逃げて行った。高橋は心では勇ましく思ったが、背後ががら空きになったので、どうしようもなく、ただ一騎で南をさして落ちて行った。
そこへ越中国の住人入善小太郎重行が、よい敵だと目をつけて、鞭と鐙を合わせて駆けて来て、馬を並べてむずと組みついた。高橋は入善をつかんで鞍の前輪に押しつけ、少しも身動きさせず、「さてそなたは何者だ。名のれ、聞こう」と言ったので、「越中国の住人入善小太郎行重、十八歳」と名のった。高橋ははらはらと涙を流して、「ああかわいそうに。去年死に別れた長綱の子が生きていれば、今年は十八歳だ。そなたの首をねじ切って捨てるべきところだが、それなら助けよう」といって許した。高橋判官は味方の軍勢を待とうとして、馬から下りて息をついていた。入善も休んでいたが、あっぱれよい敵だ、自分を助けてはくれたが、なんとかして討ちたいものだと思っていたところに、高橋はそれを夢にも知らず、うちとけて話をしていた。入善は名高い早業の男であったので、高橋が見ていないすきに刀を抜いて立ち上がり、高橋判官の内兜をしたたかに刺した。刺されてひるんだところへ、入善の郎等が遅れて三騎駆けつけて来て加勢した。高橋は心では勇ましく思ったが、敵は大勢であり、傷は負っている。運が尽きたのであろうか、そこでついに討たれた。
次に平家の方から武蔵三郎右衛門有国が三百余騎でわめいて駆けた。木曾殿の方から仁科・高梨・山田次郎が五百余騎で立ち向かった。これもしばらく持ちこたえて防ぎ戦った。しかし有国はあまりに深入りして戦ったので、馬も射られて徒歩となり、兜も打ち落とされてざんばら髪になり、矢もすべて尽きたので、刀を抜いて戦ったが、矢を七つ八つ射立てられ、敵の方をにらみつけたまま、立ったまま死んでしまった。大将がこのようになったので、その手勢はみな逃げて行った。
意訳
篠原の戦いと、次の章段「実盛最後の事」の前置きとを描く章段である。かつて頼朝を射た東国武士たちは、勝ち目のない平家方にとどまって討死する道を選ぶ。形勢を見て主を替えることを恥とする武士の意地が、実盛と景久のやりとりに表れている。
高橋長綱が、亡き子と同い年の若武者を助けて、かえって討たれる話は、戦場の非情さと人情とを対比させている。炎天の下で汗を流して戦う描写も印象深い。
語釈・文法注
文法
- 「さんなう」
- それがよい。「さるなう」の音便で、同意を表す。
- 「吉について」
- 形勢のよい方について。
- 「がな引かん」
- なんとか引き出そう。試してみよう。
- 「入善の小太郎重行」
- 同じ章段の名のりでは「行重」とあり、底本のまま。
- 「大童」
- 兜が脱げて髪が乱れ、ざんばら髪になったさま。
解説
篠原の戦いは寿永二年(1183)六月一日(物語では五月二十一日)の戦いで、倶利伽羅峠に続いて平家は大敗した。この戦いで斎藤別当実盛が討死する(次の「実盛最後の事」)。義仲が寄進した神領のうち、白山や平泉寺への寄進は、北陸の宗教勢力を味方につける意味もあった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、562–565頁(コマ310–311)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日