平家物語 巻第七
木曾の願書の事
義仲は白旗三十流を黒坂の上に立てて大軍と見せかけ、平家を礪波山の猿の馬場に足止めさせた。埴生に陣を取った義仲は、近くに八幡の社があると知って喜び、右筆の大夫坊覚明に戦勝祈願の願書を書かせた。覚明はかつて南都の返牒に清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いて追われた者である。願書を奉納すると、雲の中から山鳩が三羽飛んで来て源氏の白旗の上をひるがえり、義仲は馬を下りてこの霊鳩を拝んだ。
- 1木木き曾曾そ殿殿どののたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「平平へい家家けははは大大おお勢勢ぜいででであんあんあんなれなれなればばば、、、軍軍いくさははは定定さだめめめててて掛掛かけ合合あいののの軍軍いくさにてにてにてぞぞぞあらあらあらんずんずんずらんらんらん。。。掛掛かけ合合あいののの軍軍いくさととといふいふいうははは勢勢せいののの多多た少少しょうににに依依よるるる事事ことなれなれなればばば、、、大大おお勢勢ぜいかさかさかさにににかけかけかけててて取取とりりり籠籠こめめめられられられてててはははかなふかなふかなうべからべからべからずずず。。。まづまづまず謀謀はかりごとににに白白しら旗旗はた三三さん十十じゅう旒旒りゅう先先さき立立だてててててて、、、黑黑くろ坂坂さかののの上上うえにににうちうちうち立立たてててたらたらたらばばば、、、平平へい家家けこれこれこれををを見見みててて、、、あはやあはやあわや源源げん氏氏じののの先先せん陣陣じんののの向向むこうううたるたるたるははは。。。何何なん十十じゅう萬萬まん騎騎ぎかかかあるあるあるらんらんらん、、、取取とり籠籠こめめめられられられてててはははかなふかなふかなうまじまじまじ。。。このこのこの山山やまははは四四し方方ほう巖巖がん石石じゃくなれなれなればばば、、、搦搦からめ手手てよもよもよも廻廻まわらららじじじ、、、暫暫しばらくくく下下おりりりゐゐいててて馬馬うまやすめやすめやすめんんんとてとてとて、、、礪礪と竝竝なみ山山やままでまでまで下下おりりりゐゐいんずんずんずらんらんらん。。。そのそのその時時とき義義よし仲仲なか、、、暫暫しばらくくくあひしらふあひしらふあいしらう體體ていにににもてなしもてなしもてなしててて、、、日日ひををを待待まちちち暮暮くらししし、、、夜夜よににに入入いつつっててて平平へい家家けののの大大おお勢勢ぜい、、、後後うしろののの倶倶く利利り迦迦か羅羅らががが谷谷たにへへへ追追おひひい落落おとさささんんん。。。」」」とてとてとて、、、まづまづまず白白しら旗旗はた三三さん十十じゅう旒旒りゅう、、、黑黑くろ坂坂さかののの上上うえにににうちうちうち立立たてててたれたれたればばば、、、案案あんののの如如ごとくくく平平へい家家けこれこれこれををを見見みててて、、、「「「あはやあはやあわや源源げん氏氏じののの大大おお勢勢ぜい向向むこうううたるたるたるははは。。。取取とり籠籠こめめめられられられてててはははかなふかなふかなうまじまじまじ。。。こゝこゝここははは馬馬うまののの草草くさ飼飼かい、、、水水すい便便びん共共ともににによげよげよげなりなりなり。。。暫暫しばらくくく下下おりりりててて馬馬うまやすめやすめやすめんんん。。。」」」とてとてとて、、、礪礪と竝竝なみ山山やまののの山山さん中中ちゅう、、、猿猿さるののの馬馬ば場場ばととといふいふいう所所ところにににぞぞぞ下下おりりりゐゐいたるたるたる。。。
- 2木木き曾曾そははは埴埴はに生生ふににに陣陣じん取取どつつっててて、、、四四し方方ほうをををきつきつきっととと見見み廻廻まわせせせばばば、、、夏夏なつ山山やまののの峯峯みねののの綠綠みどりののの木木こののの閒閒まよりよりより、、、朱朱あけののの玉玉たま垣垣がきほのほのほの見見みえええててて、、、片片かたそぎそぎそぎづくりづくりづくりののの社社やしろありありあり。。。前前まえにににははは鳥鳥と居居いぞぞぞ立立たつつったりたりたりけるけるける。。。木木き曾曾そ殿殿どの、、、國國くにののの案案あん内内ない者者じゃををを召召めしししててて、、、「「「あれあれあれをををばばばいづくいづくいずくととと申申もうすすすぞぞぞ。。。いかなるいかなるいかなる神神かみををを崇崇あがめめめ奉奉たてまつつつったるたるたるぞぞぞ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「あれあれあれこそこそこそ八八や幡幡はたにてにてにてわたらわたらわたらせせせ給給たまひひい候候そうらへへえ。。。所所ところもももやがてやがてやがて八八や幡幡はたののの御御ご領領りょうででで候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。木木き曾曾そ殿殿どのなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび、、、手手て書書がきににに具具ぐせせせられられられたりたりたりけるけるける大大だい夫夫ぶ坊坊ぼう覺覺かく明明めいををを召召めしししててて、、、「「「義義よし仲仲なかこそこそこそ何何なにとととなうなうのう寄寄よするするするととと思思おもひひいたれたれたればばば、、、幸幸さいわひひいににに新新いま八八や幡幡はたののの御御ご寶寶ほう前前ぜんににに近近ちかづきづきずき奉奉たてまつつつっててて、、、合合かっ戰戰せんををを既既すでににに遂遂とげげげんんんとととすれすれすれ。。。さらんさらんさらんににに取取とつつってててははは、、、且且かつははは後後こう代代だいののの爲爲ため、、、且且かつははは當當とう時時じののの祈祈き禱禱とうののの爲爲ためににに、、、願願がん書書じょををを一一ひと筆筆ふでかいかいかいててて參參まいらせらせらせうううととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、覺覺かく明明めい、、、「「「このこのこの儀儀ぎ最最もっとももも然然しかるるるべうべうびょう候候そうろう。。。」」」とてとてとて、、、馬馬うまよりよりより下下おりりりててて書書かかかかんんんとととすすす。。。
- 3覺覺かく明明めいがががそのそのその日日ひのののていたらくていたらくていたらく、、、褐褐かちののの直直ひた垂垂たれににに黑黑くろ絲絲いと縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、黑黑こく漆漆しつののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる黑黑くろ母母ほ呂呂ろののの矢矢や負負おひひい、、、塗塗ぬり籠籠ごめ籐籐どうののの弓弓ゆみ脇脇わきににに挾挾はさみみみ、、、兜兜かぶとをををばばばぬいぬいぬいででで高高たか紐紐ひもにににかけかけかけ、、、箙箙えびらののの方方ほう立立だてよりよりより小小こ硯硯すずり、、、疊疊たとう紙紙がみ取取とり出出いだししし、、、木木き曾曾そ殿殿どのののの御御ご前前ぜんににに畏畏かしこまつまつまっててて願願がん書書じょををを書書かくくく。。。天天あっ晴晴ぱれれれ文文ぶん武武ぶ二二じ道道どうののの達達たっ者者しゃかなかなかなとととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。此此こののの覺覺かく明明めいととと申申もうすすすははは、、、本本もとははは儒儒じゅ家家けののの者者ものなりなりなり。。。藏藏くら人人うど通通みち廣廣ひろとてとてとて勸勸かん學學がく院院いんにににぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。出出しゅっ家家けののの後後のちははは最最さい乘乘じょう坊坊ぼう信信しん救救きゅうとととぞぞぞ名名なのりのりのりけるけるける。。。常常つねははは南南なん都都とへへへももも通通かよひひいけりけりけり。。。一一ひと年年とせ高高たか倉倉くらののの宮宮みや、、、園園おん城城じょう寺寺じへへへ入入にゅう御御ぎょののの時時とき、、、山山やま、、、奈奈な良良らへへへ牒牒ちょう狀狀じょうををを遣遣つかははわささされれれけるけるけるににに、、、南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅいかゞいかゞいかが思思おもひひいけんけんけん、、、そのそのその返返へん牒牒ちょうをををばばば此此こののの信信しん救救きゅうにににぞぞぞ書書かかかかせせせけるけるける。。。「「「抑抑そもそも清清きよ盛盛もり入入にゅう道道どうははは平平へい氏氏じののの糟糟そう糠糠こう、、、武武ぶ家家けののの塵塵じん芥芥かい。。。」」」とととぞぞぞ書書かいいいたりたりたりけるけるける。。。入入にゅう道道どう大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「なんでふなんでふなんじょうそのそのその信信しん救救きゅうめがめがめが、、、淨淨じょう海海かい程程ほどののの者者ものををを平平へい氏氏じののの糟糟ぬか糠糠かす、、、武武ぶ家家けののの塵塵ちり芥芥あくたととと書書かくくくべきべきべきやうやうようこそこそこそ奇奇き怪怪かいなれなれなれ。。。急急いそぎぎぎそのそのその法法ほう師師し搦搦からめめめ取取とつつっててて死死し罪罪ざいににに行行おこなへへえ。。。」」」とととのたまふのたまふのたまう閒閒あいだ、、、これこれこれににに依依よつつっててて南南なん都都とにににはははこらへこらへこらえずずずしてしてして、、、北北ほっ國國こくへへへ落落おちちち下下くだりりり、、、木木き曾曾そ殿殿どのののの手手て書書がきしてしてして、、、大大だい夫夫ぶ坊坊ぼう覺覺かく明明めいととと名名なのるのるのる。。。
- 4そのそのその願願がん書書じょにににいはくいはくいわく、、、「「「歸歸き命命みょう頂頂ちょう禮禮らい八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつ、、、日日じつ域域いき朝朝ちょう廷廷ていののの本本ほん主主しゅ、、、累累るい世世せ明明めい君君くんののの曩曩のう祖祖そたりたりたり。。。寶寶ほう祚祚そををを守守まもらららんんんがががためためため、、、蒼蒼そう生生せいををを利利りせせせんんんががが爲爲ためににに、、、三三さん身身じんののの金金こん容容ようをををあらはしあらはしあらわし、、、三三さん所所じよののの權權けん扉扉ぴをををおしおしおし開開ひらききき給給たまへへえりりり。。。こゝこゝここににに頃頃しきり年年のとしよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、平平へい相相そう國國こくととといふいふいう者者ものあつあつあっててて、、、四四し海海かいををを管管かん領領りょうししし、、、萬萬ばん民民みんををを惱惱のう亂亂らんせせせしむしむしむ。。。これこれこれ既既すでににに佛佛ぶつ法法ぽうののの怨怨あた、、、王王おう法法ぼうののの敵敵かたきなりなりなり。。。義義よし仲仲なか苟苟いやしくくくももも弓弓きゅう馬馬ばののの家家いえににに生生うまれれれててて、、、僅僅わずかににに箕箕き裘裘きゅうののの塵塵ちりををを繼繼つぐぐぐ。。。かのかのかの暴暴ぼう惡惡あくををを案案あんずるずるずるににに、、、思思し慮慮りょををを顧顧かえりみるみるみるににに能能あたははわずずず。。。運運うんををを天天てん道道どうににに任任まかせせせててて身身みををを國國こく家家かににに投投なぐぐぐ。。。試試こころみみみににに義義ぎ兵兵へいををを起起おこしししててて兇兇きょう器器きををを退退しりぞけけけんんんととと欲欲ほっすすす。。。然然しかるるるににに鬪鬪とう戰戰せん兩兩りょう家家け陣陣じんをををあはすあはすあわすととといへいへいえどもどもども、、、士士し卒卒そつ未未いまだだだ一一いっ致致ちののの勇勇いさみををを得得えざるざるざる閒閒あいだ、、、區區まち々々まちののの心心こころををを恐恐おそれれれたるたるたる所所ところににに、、、今今いま一一いち陣陣ぢん旗旗はたをををあぐあぐあぐ、、、戰戰せん場場じょうにににしてしてして忽忽たちまちちちににに三三さん所所じよ和和わ光光こうののの社社しゃ壇壇だんををを拜拜はいすすす。。。機機き感感かんののの純純じゅん熟熟じゅく明明あきらかかかなりなりなり。。。兇兇きょう徒徒と誅誅ちゅう戮戮りく疑疑うたがひひいなしなしなし。。。歡歡かん喜喜き涙涙なみだこぼれこぼれこぼれててて、、、渇渇かっ仰仰ごう肝肝きもにににそむそむそむ。。。就就なか中中んずく曾曾そう祖祖そ父父ふ前前さきののの陸陸みちの奧奧くののの守守かみ義義よし家家いえののの朝朝あ臣臣そん、、、身身みををを宗宗そう廟廟びょうののの氏氏し族族ぞくににに寄寄き附附ふしてしてして、、、名名なををを八八はち幡幡まん太太た郎郎ろう義義よし家家いえととと號號こうせせせしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、そのそのその門門もん葉葉ようたるたるたる者者もの、、、歸歸き敬敬きょうせせせずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。義義よし仲仲なかそのそのその後後こう胤胤いんとととしてしてして、、、首首こうべををを傾傾かたぶけけけててて年年とし久久ひさししし。。。今今いまこのこのこの大大たい功功こうををを起起おこすすす事事こと、、、たとへばたとへばたとえば嬰嬰えい兒兒じののの蠡蠡れいををを以以もっててて巨巨きょ海海かいををを量量はかりりり、、、蟷蟷とう螂螂ろうががが斧斧をのををを怒怒いかつつっててて隆隆りゅう車車しゃににに向向むかふふうががが如如ごとししし。。。然然しかりりりととといへいへいえどもどもども國國くにののの爲爲ため、、、君君きみののの爲爲ためにににこれこれこれををを起起おこすすす。。。全全まったくくく身身みののの爲爲ため、、、家家いえののの爲爲ためにににしてしてしてこれこれこれををを起起おこさささずずず。。。志志こころざしのののいたりいたりいたり、、、神神しん感感かんそらそらそらにににありありあり。。。たのもしきたのもしきたのもしきかなかなかな、、、悅悅よろこばしきばしきばしきかなかなかな。。。伏伏ふしししててて願願ねがわくくくははは冥冥みょう顯顯けん威威いををを加加くわへへえ、、、靈靈れい神神しん力力ちからをををあはせあはせあわせててて、、、勝勝かつつつ事事ことををを一一いち時時じににに決決けつししし、、、怨怨あたををを四四し方方ほうへへへ退退しりぞけけけ給給たまへへえ。。。しかれしかれしかればばば則則すなわちちち丹丹たん祈祈き冥冥みょう慮慮りょににに叶叶かなひひい、、、玄玄げん鑑鑑かん加加か護護ごをををなすなすなすべくべくべくばばば、、、まづまづまず一一いちののの瑞瑞ずい相相そうををを見見みせせせしめしめしめ給給たまへへえ。。。壽壽じゅ永永えい二二に年年ねん五五ご月月がつ十十じゅう一一いち日日にち、、、源源みなもとののの義義よし仲仲なか敬敬つつしんんんででで白白まおすすす。。。」」」ととと書書かいいいててて、、、わがわがわが身身みををを始始はじめめめててて、、、十十じゅう三三さん騎騎きががが上上うわ矢矢やののの鏑鏑かぶらををを拔拔ぬききき、、、願願がん書書じょににに取取とり添添そへへえててて、、、大大だい菩菩ぼ薩薩さつののの御御ご寶寶ほう殿殿でんにににぞぞぞ納納おさめめめけるけるける。。。
- 5たのもしきたのもしきたのもしきかなかなかな八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつ、、、眞眞しん實實じつののの志志こころざし二二ふたつつつなきなきなきをををややや、、、遙遙はるかかかににに照照しょう覽覽らんししし給給たまひひいけんけんけん、、、雲雲くもののの中中なかよりよりより山山やま鳩鳩ばと三三みつつつ飛飛とびびび來來きたつつっててて、、、源源げん氏氏じののの白白しら旗旗はたののの上上うえににに翩翩へん飜飜ぽんすすす。。。昔昔むかし神神じん功功ぐう皇皇こう后后ごう新新しん羅羅らををを攻攻せめめめさせさせさせ給給たまひひいししし時時とき、、、味味み方方かたののの戰戰たたかい弱弱よわくくく、、、異異い國國こくののの軍軍いくさ強強つよしくしくしくててて、、、既既すでにににかうかうこうととと見見みえええししし時時とき、、、皇皇こう后后ごう天天てんににに御御ご祈祈き誓誓せいありありありしかしかしかばばば、、、雲雲くもののの中中なかよりよりより靈靈れい鳩鳩きゅう三三みつつつ飛飛とびびび來來きたつつっててて、、、味味み方方かたののの楯楯たてののの面面おもてにににあらはれあらはれあらわれててて、、、異異い國國こくののの軍軍いくさ敗敗やぶれれれにににけりけりけり。。。またまたまたこのこのこの人人ひと々々びとののの先先せん祖祖ぞ賴賴らい義義ぎののの朝朝あ臣臣そん、、、奧奧おう州州しゅうののの夷夷えびす貞貞さだ任任とう、、、宗宗むね任任とうををを攻攻せめめめ給給たまひひいししし時時とき、、、御御み方方かたののの戰戰たたかひひい弱弱よわくくく、、、兇兇きょう賊賊ぞくののの軍軍いくさ強強つよくくくしてしてして、、、既既すでにににかうかうこうととと見見みえええしかしかしかばばば、、、賴賴らい義義ぎののの朝朝あ臣臣そん敵敵てきののの陣陣じんににに向向むかつつっててて、、、これこれこれははは全全まったくくく私私わたくしののの火火ひにににあらあらあらずずず、、、神神しん火火かなりなりなりとてとてとて火火ひををを放放はなつつつ。。。風風かぜ忽忽たちまちちちににに夷夷い賊賊ぞくののの方方かたへへへ吹吹ふききき掩掩おおひひい、、、廚廚くり川川やがわののの城城じょう燒燒やけけけ落落おちちちぬぬぬ。。。そのそのその時時とき軍軍いくさ敗敗やぶれれれててて貞貞さだ任任とう、、、宗宗むね任任とう亡亡ほろびびびにににけりけりけり。。。木木き曾曾そ殿殿どのかやうかやうかようののの先先せん蹤蹤じょうををを思思おもひひい出出いでででててて急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより下下おりりり、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、手手ちょう水水ずうがひうがひうがいをををしてしてして、、、今今いまこのこのこの靈靈れい鳩鳩きゅうををを拜拜はいししし給給たまひひいけるけるける、、、心心こころののの中中うちこそこそこそたのもしけれたのもしけれたのもしけれ。。。
現代語訳
木曾殿がおっしゃるには、「平家は大軍だそうだから、戦はきっと正面からぶつかり合う戦になるだろう。ぶつかり合いの戦というのは軍勢の多少によるものだから、大軍が勢いに乗って取り囲んできてはかなうまい。まず計略として白旗三十流を先に立てて黒坂の上に立てておけば、平家はこれを見て、「すわ、源氏の先陣が向かって来たぞ。何十万騎いるかわからない。取り囲まれてはかなうまい。この山は四方が岩山だから、背後には回ってこないだろう。しばらく下りて馬を休めよう」といって、礪波山まで下りて来るだろう。そのとき義仲はしばらく相手をするふりをして日を暮らし、夜になってから平家の大軍を背後の倶利伽羅が谷へ追い落とそう」といって、まず白旗三十流を黒坂の上に立てたところ、案の定、平家はこれを見て、「すわ、源氏の大軍が向かって来た。取り囲まれてはかなうまい。ここは馬の草も水の便もよさそうだ。しばらく下りて馬を休めよう」といって、礪波山の山中の猿の馬場という所に下りていた。
木曾は埴生に陣を取って、四方をきっと見回すと、夏山の峰の緑の木の間から朱の玉垣がほのかに見えて、片削ぎ造りの社がある。その前には鳥居が立っていた。木曾殿は国の案内者を呼んで、「あれは何という所か。どんな神をお祀りしているのか」とおっしゃると、「あれこそ八幡でいらっしゃいます。この所もそのまま八幡の御領でございます」と申す。木曾殿はひととおりでなく喜んで、右筆として連れていた大夫坊覚明を呼んで、「義仲は何気なく攻め寄せて来たと思ったら、幸いにも新八幡の御宝前に近づいて、合戦をまさに遂げようとしている。それならば、一つには後代のため、一つには今の祈祷のために、願書を一筆書いて奉納しようと思うがどうか」とおっしゃると、覚明は「まことにもっともでございます」といって、馬から下りて書こうとした。
覚明のその日のいでたちは、褐色の直垂に黒糸縅の鎧を着て、黒漆の太刀を佩き、二十四本差した黒母衣の矢を背負い、塗籠籐の弓を脇にはさみ、兜を脱いで高紐にかけ、箙の方立から小硯と畳紙を取り出し、木曾殿の御前にかしこまって願書を書く。あっぱれ文武二道の達人だと見えた。この覚明というのは、もとは儒者の家の者である。蔵人通広といって勧学院に仕えていた。出家してからは最乗坊信救と名のった。いつも南都へも通っていた。先年、高倉宮(以仁王)が園城寺へお入りになったとき、比叡山と奈良へ牒状を遣わされたところ、南都の大衆はどう思ったのか、その返牒をこの信救に書かせた。「そもそも清盛入道は平氏のぬかかす、武家のちりあくたである」と書いた。入道はたいそう怒って、「なんということだ、あの信救めが、浄海ほどの者を平氏のぬかかす、武家のちりあくたと書くとはけしからん。急いでその法師を捕らえて死罪にせよ」とおっしゃったので、そのため南都にはいられず、北国へ落ちて行き、木曾殿の右筆となって大夫坊覚明と名のったのである。
その願書には次のようにある。「八幡大菩薩に帰命し頂礼したてまつる。大菩薩はわが国の朝廷の本主であり、代々の明君の祖先である。皇位を守り民を利するために、三身の尊いお姿を現し、三所の社の扉を押し開かれた。ところが近年来、平相国という者がいて、天下を支配し、万民を悩ませ乱している。これはすでに仏法の仇であり、王法の敵である。義仲はかりそめにも弓馬の家に生まれて、わずかに父祖の業を継いでいる。あの暴悪を思うと、わが身の思慮を顧みることはできない。運を天に任せて身を国家に投げ出す。試みに義兵を起こして凶悪な者どもを退けようとする。ところが戦う両家が陣を合わせても、兵士たちはまだ心を一つにする勇気を得ていないので、ばらばらの心を案じていたところに、今一陣が旗を揚げ、戦場でたちまち三所和光の社壇を拝むことができた。神仏の感応が熟していることは明らかである。凶徒を誅戮することは疑いない。喜びの涙がこぼれて、仰ぎ慕う心が肝にしみる。とりわけ曾祖父の前陸奥守義家朝臣が、身を宗廟(八幡)の氏族に寄せて八幡太郎義家と名のってから、その一門の者で八幡を敬わない者はない。義仲はその子孫として、頭を傾けて敬うこと久しい。今この大きな功を起こすことは、たとえば幼子が貝殻で大海を量り、蟷螂が斧を振り上げて大きな車に向かうようなものである。しかしながら国のため、君のためにこれを起こすのである。まったく身のため家のために起こすのではない。志の至りは神感が空にあるのを感じる。頼もしいことよ、喜ばしいことよ。伏して願うのは、神仏が威力を加え、霊神が力を合わせて、勝負を一時に決し、仇を四方へ退けてくださることである。それゆえ真心の祈りが神慮にかない、神の明らかな鏡が加護をくださるならば、まず一つの瑞相を見せてください。寿永二年五月十一日、源義仲謹んで申す」と書いて、自分をはじめとして十三騎が上差しの鏑矢を抜き、願書に添えて大菩薩の御宝殿に納めた。
頼もしいことに、八幡大菩薩は、二心のない真実の志をはるかにご覧になったのであろうか、雲の中から山鳩が三羽飛んで来て、源氏の白旗の上にひるがえった。昔、神功皇后が新羅を攻められたとき、味方の戦いが弱く、異国の軍が強くて、もはやこれまでと見えたとき、皇后が天に祈誓されると、雲の中から霊鳩が三羽飛んで来て、味方の楯の面に現れて、異国の軍は敗れた。またこの人々の先祖である頼義朝臣が、奥州の夷の貞任・宗任を攻められたとき、味方の戦いが弱く、凶賊の軍が強くて、もはやこれまでと見えたので、頼義朝臣は敵の陣に向かって、「これはまったく私の火ではない。神火である」といって火を放った。風はたちまち夷賊の方へ吹き覆って、厨川の城は焼け落ちた。そのとき敵の軍は敗れて、貞任・宗任は滅んだ。木曾殿はこのような先例を思い出して、急いで馬から下り、兜を脱ぎ、手を洗い口をすすいで、この霊鳩を拝まれた。その心の中こそ頼もしいことである。
意訳
倶利伽羅峠の決戦を前に、義仲が八幡宮に戦勝を祈願する章段である。白旗を立てて大軍に見せかけ、平家を山中に足止めさせる義仲の計略が、まず示される。
願書を書いた覚明は、かつて清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵った人物で、物語は願書の全文を載せている。願書に応えて三羽の山鳩が飛来する場面は、神功皇后や源頼義の先例と重ねられ、源氏の勝利が神意にかなうものであることを示している。
語釈・文法注
文法
- 「掛合の軍」
- 両軍が正面からぶつかり合う戦い。
- 「手書」
- 右筆。文書を書く役の者。
- 「平氏の糟糠、武家の塵芥」
- 平家のぬかかす、武家のちりあくた。巻第四「南都返牒の事」の句。
- 「嬰兒の蠡を以て巨海を量り」
- 幼子が貝殻で大海の水を量る。とうていできないことのたとえ。
- 「蟷螂が斧を怒つて隆車に向ふ」
- かまきりが前足を振り上げて大きな車に立ち向かう。身のほどを知らないたとえ。
解説
義仲が戦勝を祈願した埴生護国八幡宮(富山県小矢部市)には、義仲の願書と伝えるものが残る。覚明は信救得業の名で知られ、義仲の滅亡後は親鸞の弟子西仏となったという伝承もある。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、556–559頁(コマ307–308)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日