平家物語 巻第七
燧合戦の事
木曾義仲は越前に燧が城を築き、川をせき止めて湖のようにして守らせた。攻めあぐねる平家のもとへ、城に籠もっていた平泉寺の長吏斎明が内通の矢文を射こみ、柵を切り落とせば水は引くと知らせたので、平家は城を攻め落とした。勢いに乗った平家は、維盛・通盛の七万余騎を礪波山へ、忠度らの三万余騎を志保の山へ向かわせる。義仲も五万余騎を七手に分けて、礪波山の北の埴生に陣を取った。
- 1さるさるさる程程ほどににに木木き曾曾そ義義よし仲仲なかはははみづからみづからみずからははは信信しな濃濃のにににありありありながらながらながら、、、越越えち前前ぜんののの國國くに燧燧ひゅうちががが城城じょうをををぞぞぞ構構かまへへえけるけるける。。。かのかのかの城城じょう郭郭かくににに籠籠こもるるる勢勢せい、、、平平へい泉泉せん寺寺じののの長長ちょう吏吏り齋齋さい明明めい威威い儀儀ぎ師師し、、、富富と樫樫がしののの入入にゅう道道どう佛佛ぶつ誓誓せい、、、稻稻いな津津づののの新新しん介介すけ、、、齋齋さい藤藤とう太太だ、、、林林はやしののの六六ろく郎郎ろう光光みつ明明あきら、、、石石いし黑黑ぐろ、、、宮宮みや崎崎ざき、、、土土つち田田だ、、、建建たけ部部べ、、、入入にゅう善善ぜん、、、佐佐さ美美みををを始始はじめめめとととしてしてして、、、六六ろく千千せん餘餘よ騎騎きこそこそこそ籠籠こもりりりけれけれけれ。。。所所ところもともともとよりよりより屈屈くつ竟竟きょうののの城城じょう郭郭かく、、、磐磐ばん石石じゃく峙峙そばだちちち廻廻めぐつつっててて、、、四四し方方ほうににに峯峯みねををを連連つらねねねたりたりたり。。。山山やまををを後後うしろにににししし、、、山山やまををを前前まえににに當當あつつつ。。。城城じょう郭郭かくののの前前まえにににははは能能のう見見み川川がわ、、、新新しん道道どう川川がわとてとてとて流流ながれれれたりたりたり。。。かのかのかの二二ふたつつつののの河河かはののの落落おち合合あいににに大大おお石石いしををを重重かさねねね上上あげげげ、、、大大たい木木ぼくををを伐伐きつつっててて逆逆さか木木もぎににに引引ひききき、、、柵柵しがらみををを夥夥おびただしうしうおびただしゅうかきかきかき上上あげげげたれたれたればばば、、、東東とう西西ざいののの山山やまののの根根ねににに水水みずせきせきせき込込こうううででで、、、湖湖みずうみににに向向むかへへえるるるががが如如ごとししし。。。影影かげ南南なん山山ざんををを浸浸ひたししし、、、青青あおくくくしてしてして滉滉こう瀁瀁ようたりたりたり。。。波波なみ西西せい日日じつををを沉沉しずめめめててて、、、紅紅くれないにににしてしてして隱隱いん淪淪りんたりたりたり。。。かのかのかの無無む熱熱ねつ池池ちののの底底そこにににははは金金こん銀銀ごんののの砂砂いさごををを敷敷しききき、、、昆昆こん明明めい池池ちののの渚渚なぎさにににははは德德とく政政せいののの船船ふねををを泛泛うかべべべたりたりたり。。。わがわがわが朝朝ちょうののの燧燧ひゅうちががが城城じょうののの築築つき池池いけははは、、、堤堤つつみををを築築つききき水水みずををを濁濁にごしししててて、、、人人ひとののの心心こころをををたぶらかすたぶらかすたぶらかす。。。船船ふねなくなくなくしてしてしてははは、、、たやすうたやすうたやすう渡渡わたすすすべきべきべきやうやうようなかりなかりなかりけれけれければばば、、、平平へい家家けののの大大おお勢勢ぜい、、、向向むかひひいののの山山やまににに宿宿しゅくしししててて、、、徒徒いたずらににに日日ひ數數かずをををぞぞぞ送送おくりりりけるけるける。。。
- 2かのかのかの城城じょう郭郭かくににに籠籠こもつつったるたるたる平平へい泉泉せん寺寺じののの長長ちょう吏吏り齋齋さい明明めい威威い儀儀ぎ師師し、、、平平へい家家けににに志志こころざし深深ふかかりかりかりけれけれければばば、、、山山やまののの根根ねををを廻廻まわりりりててて消消しょう息息そくををを書書かききき、、、蟇蟇ひき目目めににに入入いれれれ、、、平平へい氏氏じののの陣陣じんへへへぞぞぞ射射い入入いれれれたるたるたる。。。兵兵つわものどもどもどもこれこれこれををを取取とつつっててて大大たい將將しょう軍軍ぐんののの御御おん前前まえににに參參まいりりり、、、披披ひらいいいててて見見みるるるににに、、、「「「このこのこの川川かはととと申申もうすすすははは往往おう古古こののの淵淵ふちにににあらあらあらずずず。。。一一いっ旦旦たん山山やま川川がわををを堰堰せききき止止とめめめ、、、水水みずををを濁濁にごしししててて人人ひとののの心心こころをををたぶらかすたぶらかすたぶらかす。。。夜夜よににに入入いつつっててて足足あし輕輕がるどもどもどもををを遣遣つかははわしししててて、、、柵柵しがらみををを伐伐きりりり落落おとさささせせせられられられなななばばば、、、水水みずははは程程ほどなくなくなく落落おつつつべしべしべし。。。急急いそぎぎぎ渡渡わたらららせせせたまへたまへたまえ。。。こゝこゝここははは馬馬うまののの足足あしだちだちだちよきよきよき所所ところにてにてにて候候そうろう。。。後後うしろ矢矢やをををばばば仕仕つかまつらららんんん。。。かくかくかく申申もうすすす者者ものははは平平へい泉泉せん寺寺じののの長長ちょう吏吏り齋齋さい明明めい威威い儀儀ぎ師師しががが申申もうし狀狀じょう。。。」」」とととぞぞぞ書書かいいいたりたりたりけるけるける。。。
- 3平平へい家家けなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび、、、夜夜よににに入入いりりり、、、足足あし輕輕がるどもどもどもををを遣遣つかははわしししててて、、、柵柵しがらみををを切切きりりり落落おとさささせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、まことまことまことののの山山やま川川がわででではははありありあり、、、水水みずははは程程ほどなくなくなく落落おちちちにににけりけりけり。。。平平へい家家け暫暫しばしししののの遲遲ち々々ちにににももも及及およばばばずずず、、、さつさつさっととと渡渡わたすすす。。。城城じょうののの中中うちにににももも六六ろく千千せん餘餘よ騎騎き防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふうととといへいへいえどもどもども、、、多多た勢勢ぜいににに無無ぶ勢勢ぜい、、、叶叶かなふふうべしべしべしとととももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。平平へい泉泉せん寺寺じののの長長ちょう吏吏り齋齋さい明明めい威威い儀儀ぎ師師しははは平平へい家家けににについついついててて忠忠ちゅうをををいたすいたすいたす。。。富富と樫樫がしののの入入にゅう道道どう佛佛ぶつ誓誓せい、、、稻稻いな津津づののの新新しん介介すけ、、、齋齋さい藤藤とう太太だ、、、林林はやしののの六六ろく郎郎ろう光光みつ明明あきら、、、かなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、加加か賀賀がののの國國くにへへへ引引ひき退退しりぞききき、、、白白しら山山やま、、、河河かわ内内ちににに陣陣じんををを取取とるるる。。。平平へい家家けやがてやがてやがて加加か賀賀がののの國國くにへへへうちうちうち越越こえええ、、、富富と樫樫がし、、、林林はやしががが城城じょう郭郭かく二二に箇箇か所所しょ燒燒やききき拂拂はらふふう。。。何何なにおもておもておもてををを向向むかふふうべしべしべしとととももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。國國くに々々ぐに宿宿しゅく々々じゅくよりよりより飛飛ひ腳腳きやくををを以以もっててて、、、このこのこの由由よし都都みやこへへへ申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、一一いち門門もんののの人人ひと々々びと喜喜よろこびびびあはあはあわれれれけりけりけり。。。
- 4同同おなじきじきじき五五ご月月がつ八八よう日日かののの日日ひ、、、平平へい家家けははは加加か賀賀がののの國國くに篠篠しの原原はらににに著著ついいいててて、、、大大おお手手て、、、搦搦からめ手手て二二ふた手手てににに分分わかつつつ。。。大大おお手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは、、、小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もり、、、越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もり、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり嗣嗣つぎををを始始はじめめめとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい七七しち萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、加加か賀賀が、、、越越えっ中中ちゅうののの境境さかいなるなるなる礪礪と竝竝なみ山山やまへへへぞぞぞ向向むかははわれれれけるけるける。。。搦搦からめ手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のり、、、皇皇こう后后ごう宮宮ぐうののの亮亮すけ經經つね正正まさ、、、淡淡あわ路路じののの守守かみ清清きよ房房ふさ、、、三三み河河かわののの守守かみ知知とも度度のり、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは武武む藏藏さしののの三三さぶ郎郎ろう左左ざ衞衞え門門もん有有あり國國くにををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、能能の登登と、、、越越えっ中中ちゅうののの境境さかいなるなるなる志志し保保ほののの山山やまへへへぞぞぞ向向むかははわれれれけるけるける。。。
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現代語訳
そのころ、木曾義仲は自分は信濃にいながら、越前国に燧が城を構えた。その城郭に籠もった軍勢は、平泉寺の長吏斎明威儀師、富樫入道仏誓、稲津新介、斎藤太、林六郎光明、石黒、宮崎、土田、建部、入善、佐美をはじめとして、六千余騎が籠もった。場所はもとより絶好の城郭で、大岩がそびえ立ってめぐり、四方に峰を連ねている。山を背にし、山を前にしている。城郭の前には能見川・新道川という川が流れている。その二つの川の合流点に大石を積み上げ、大木を切って逆茂木にし、柵をおびただしく築いたので、東西の山のふもとに水がせきこまれて、湖に向かっているようである。その影は南の山を浸して青々と深く広がり、波は西日を沈めて紅に沈み隠れる。あの無熱池の底には金銀の砂を敷き、昆明池の渚には徳政の船を浮かべたという。わが国の燧が城の池は、堤を築いて水を濁らせ、人の心をまどわせる。船がなくてはたやすく渡れそうもなかったので、平家の大軍は向かいの山に宿営して、むなしく日数を送った。
その城郭に籠もっていた平泉寺の長吏斎明威儀師は、平家に心を寄せていたので、山のふもとを回って手紙を書き、蟇目の矢に入れて平氏の陣へ射こんだ。兵たちがこれを拾って大将軍の御前に参り、開いて見ると、「この川というのは昔からの淵ではありません。一時的に山川をせき止めて水を濁らせ、人の心をまどわせているのです。夜になったら足軽たちを遣わして柵を切り落とさせれば、水はまもなく引くでしょう。急いでお渡りください。ここは馬の足場のよい所です。後ろから矢を射て援護いたしましょう。こう申す者は平泉寺の長吏斎明威儀師の申し状である」と書いてあった。
平家はひととおりでなく喜び、夜になって足軽たちを遣わして柵を切り落とさせたところ、もともとの山川であったから、水はまもなく引いた。平家はしばらくもためらわず、さっと渡った。城の中でも六千余騎が防ぎ戦ったが、多勢に無勢で、かないそうにも見えなかった。平泉寺の長吏斎明威儀師は平家について忠義を尽くした。富樫入道仏誓、稲津新介、斎藤太、林六郎光明は、かなうまいと思ったのか、加賀国へ退いて白山・河内に陣を取った。平家はすぐに加賀国へ越えて、富樫と林の城郭二か所を焼き払った。向かってくる者は誰もいないように見えた。国々宿々から飛脚でこのことを都へ申したので、大臣殿(宗盛)をはじめとして、一門の人々は喜びあわれた。
同じ五月八日、平家は加賀国篠原に着いて、大手・搦手の二手に分かれた。大手の大将軍には小松三位中将維盛と越前三位通盛、侍大将には越中次郎兵衛盛嗣をはじめとして、総勢七万余騎が、加賀と越中の境にある礪波山へ向かわれた。搦手の大将軍には薩摩守忠度、皇后宮亮経正、淡路守清房、三河守知度、侍大将には武蔵三郎左衛門有国をはじめとして、総勢三万余騎が、能登と越中の境にある志保の山へ向かわれた。
木曾はそのころ越後の国府にいたが、これを聞いて五万余騎で国府を出発し、礪波山へ駆けつけた。義仲の戦の吉例であるといって、五万余騎を七手に分けた。まず叔父の十郎蔵人行家が一万余騎で志保の山へ向かった。樋口次郎兼光と落合五郎兼行を七千余騎で北黒坂へ差し向けた。仁科・高梨・山田次郎の七千余騎を南黒坂へ遣わした。一万余騎は礪波山のふもと、松長の柳原やぐみの木林に隠した。今井四郎兼平は六千余騎で鷲の瀬を渡り、日の宮林に陣を取った。木曾自身は一万余騎で小矢部川を渡り、礪波山の北のはずれ、埴生に陣を取った。
意訳
倶利伽羅峠の戦いの前哨戦である燧が城の攻防を描く章段である。川をせき止めて湖のように見せた義仲方の守りは、内通した斎明の矢文によって破られた。
燧が城の勝利に勢いづいた平家は、大軍を礪波山と志保の山の二方面へ向ける。対する義仲は五万余騎を七手に分けて要所に配置し、決戦の準備を整える。次章段以降の倶利伽羅峠の戦いへと物語が進んでいく。
語釈・文法注
文法
- 「滉瀁たり」
- 水が深く広々としているさま。
- 「隱淪たり」
- 沈み隠れるさま。
- 「蟇目」
- 鏑矢の一種で、中が空洞の木製の鏑をつけたもの。ここではその中に手紙を入れた。
- 「後矢をば仕らん」
- 背後から矢を射かけて援護しましょう。
解説
燧が城は越前国今庄(現在の福井県南越前町)にあった山城である。平家は寿永二年(1183)四月末にこれを落とし、加賀へ進んだ。斎明は平泉寺(白山平泉寺)の僧で、のちに篠原の戦いで捕らえられて斬られる(巻第七「篠原合戦の事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、554–556頁(コマ306–307)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日