平家物語 巻第七
北国下向の事
寿永二年三月、頼朝と義仲の間に不和が起こり、頼朝は十万余騎で信濃へ向かった。義仲は今井兼平を使者に立てて弁明し、異心のない証として嫡子清水冠者義重を頼朝のもとへ送ったので、頼朝は兵を引いた。一方、平家は義仲を討つため、維盛・通盛を大将軍とする十万余騎を北国へ向かわせた。軍勢は兵糧を現地で取り立てることを許され、道中の荘園の年貢まで奪い取ったので、人々は山野に逃げ散った。
- 1壽壽じゅ永永えい二二に年年ねん三三さん月月がつ上上じょう旬旬じゅんににに木木き曾曾そののの冠冠かん者者じゃ義義よし仲仲なか、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、不不ふ快快かいののの事事ことありありありととと聞聞きこえええけりけりけり。。。さるさるさる程程ほどににに鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、木木き曾曾そ追追つい討討とうののの爲爲ためにににとてとてとて、、、そのそのその勢勢せい十十じゅう萬萬まん餘餘よ騎騎きででで信信しな濃濃のののの國國くにへへへ發發はっ向向こうすすす。。。木木き曾曾そはははそのそのその頃頃ころ依依よ田田だののの城城じょうにににありありありけるけるけるががが、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで城城じょうををを出出いでででててて、、、信信しな濃濃のととと越越えち後後ごののの境境さかいなるなるなる熊熊くま坂坂さか山山やまににに陣陣じんををを取取とるるる。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけももも同同おなじきじきじき國國くにののの中中うち、、、善善ぜん光光こう寺寺じにににこそこそこそ著著つきききたまへたまへたまえ。。。木木き曾曾そ、、、傅傅めのと子子ごののの今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひらををを使使し者者しゃにてにてにて、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけのののもともともとへへへ遣遣つかははわすすす。。。「「「抑抑そもそも御御ご邊邊へんははは東東とう八八はっ箇箇か國國こくををを討討うちちち從從したがへへえててて東東とう海海かい道道どうよりよりより攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、平平へい家家けををを追追おひひい落落おとさささんんんとととはははししし給給たまふふうなりなりなり。。。義義よし仲仲なかももも東東とう山山せん、、、北北ほく陸陸ろく兩兩りょう道道どうををを討討うちちち從從したがへへえててて、、、北北ほく陸陸ろく道道どうよりよりより攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、今今いま一一いち日日にちももも先先さきににに平平へい家家けををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんんとととするするする事事ことでででこそこそこそあるあるあるににに、、、いかなるいかなるいかなる仔仔し細細さいあつあつあってててかかか、、、御御ご邊邊へんととと義義よし仲仲なか、、、中中なかををを違違たごうううててて、、、平平へい家家けににに笑笑わらははわれれれんんんとととははは思思おもふふうべきべきべき。。。但但ただししし叔叔お父父じののの十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人うど殿殿どのこそこそこそ御御ご邊邊へんををを恨恨うらみみみ奉奉たてまつるるる事事ことありありありとてとてとて、、、義義よし仲仲なかがががもともともとへへへおはしおはしおわしつるつるつるををを、、、義義よし仲仲なかさへさへさへすげなうすげなうすげのうあひしらひあひしらひあいしらいもてなしもてなしもてなし申申もうさささんんん事事こと、、、如如い何何かんぞぞぞややや候候そうらへへえばばば、、、これこれこれまでまでまではははうちうちうちつれつれつれ申申もうしししたりたりたり。。。義義よし仲仲なかにににおいおいおいてててははは全全まったくくく意意い趣趣しゅ思思おもひひい奉奉たてまつらららずずず。。。」」」とととのたまひのたまひのたまい遣遣つかははわささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの返返へん事事じににに、、、「「「今今いまこそこそこそさやうさやうさようにににのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、正正まさしうしうしゅう賴賴より朝朝とも打打うつつつべきべきべき由由よしののの謀謀む叛叛ほんののの企企くわだてててありありありととと、、、告告つげげげ知知しらするらするらする者者ものありありあり。。。但但ただしししそれそれそれにににははは依依よるるるべからべからべからずずず。。。」」」とてとてとて、、、土土と肥肥ひ、、、梶梶かじ原原はらををを先先さきとととしてしてして、、、數數す萬萬まん騎騎ぎののの軍軍ぐん兵兵びょうをををさしさしさし向向むけけけらるるらるるらるる由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、木木き曾曾そ、、、眞眞しん實實じつ意意い趣趣しゅなきなきなき由由よしををを表表あらははわさささんんんががが爲爲ためににに、、、嫡嫡ちゃく子子しににに清清し水水みずののの冠冠かん者者じゃ義義よし重重しげとてとてとて、、、生生しょう年年ねん十十じゅう一一いっ歳歳さいににになりなりなりけるけるける小小こ冠冠かん者者じゃににに、、、海海うみ野野の、、、望望もち月月づき、、、諏諏す訪訪わ、、、藤藤ふじ澤澤さわなどなどなどいふいふいう、、、一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものををを相相あい添添そへへえててて、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけのののもともともとへへへ遣遣つかははわすすす。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ、、、「「「このこのこの上上うえはははまことまことまことににに意意い趣趣しゅなかりなかりなかりけりけりけり。。。賴賴より朝朝とも未未いまだだだ成成せい人人じんののの子子こををを持持もたたたずずず。。。よし〳〵よし〳〵よしよしさらばさらばさらば子子こにににししし申申もうさささんんん。。。」」」とてとてとて、、、清清し水水みずののの冠冠かん者者じゃををを相相あい具具ぐしししててて、、、鎌鎌かま倉倉くらへへへこそこそこそ歸歸かえららられれれけれけれけれ。。。
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現代語訳
寿永二年(1183)三月上旬、木曾冠者義仲と兵衛佐頼朝の間に不和が起こったと聞こえた。そこで鎌倉の前兵衛佐頼朝は、木曾追討のためといって、手勢十万余騎で信濃国へ向かった。木曾はそのころ依田の城にいたが、三千余騎で城を出て、信濃と越後の境にある熊坂山に陣を取った。兵衛佐も同じ国の中の善光寺に着かれた。木曾は乳母子の今井四郎兼平を使者として、兵衛佐のもとへ遣わした。「そもそもあなたは東国八か国を従えて東海道から攻め上り、平家を追い落とそうとしておられる。義仲も東山・北陸の両道を従えて北陸道から攻め上り、一日でも早く平家を滅ぼそうとしているのに、どういうわけで、あなたと義仲が仲違いをして、平家に笑われようと思うだろうか。ただし叔父の十郎蔵人殿(行家)が、あなたを恨むことがあるといって義仲のもとへ来られたのを、義仲までもが冷たくあしらうのはいかがかと思いますので、ここまでは連れて来たのです。義仲にはまったく恨む気持ちはありません」と言い送られたので、兵衛佐の返事に、「今でこそそのようにおっしゃるが、確かに頼朝を討とうという謀叛の企てがあると告げ知らせる者がいる。ただしそれだけで決めるわけにはいかない」といって、土肥・梶原をはじめとする数万騎の軍兵を差し向けられると聞こえたので、木曾は本当に恨む気持ちのないことを示そうとして、嫡子の清水冠者義重という十一歳になる少年に、海野・望月・諏訪・藤沢などという一騎当千の武士を付き添わせて、兵衛佐のもとへ遣わした。兵衛佐は「このうえは本当に恨む気持ちはないのだな。頼朝はまだ成人した子を持っていない。よしよし、それなら子にしよう」といって、清水冠者を連れて鎌倉へ帰られた。
そうこうするうちに木曾義仲は東山・北陸の両道を従えて、今にも都へ乱入するといううわさが聞こえた。平家は去年の冬ごろから、来年は馬の草が生えるころに戦をすると触れ回っておられたので、山陰・山陽・南海・西海の武士たちが雲霞のように集まって来た。東山道は近江・美濃・飛驒の武士は参ったが、東海道は遠江より東の武士は一人も参らず、西の者はみな参った。北陸道は若狭より北の武士は一人も参らない。平家の人々は、まず木曾義仲を討ってから兵衛佐頼朝を討とうという公卿の評議があって、北国へ討手を差し向けられた。
大将軍には小松三位中将維盛と越前三位通盛、副将軍には薩摩守忠度、皇后宮亮経正、淡路守清房、三河守知度、侍大将には越中次郎兵衛盛嗣、上総大夫判官忠綱、飛驒大夫判官景高、河内判官秀国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門有国をはじめとして、以上大将軍六人、しかるべき侍三百四十余人、総勢十万余騎が、四月十七日の辰の一点(午前七時ごろ)に都を出発して北国へ向かわれた。片道の兵糧を現地で取り立てることを許されていたので、逢坂の関をはじめとして、道中で出会う権門勢家の年貢や官物も恐れず、一つ一つみな奪い取った。志賀・唐崎・三河尻・真野・高島・塩津・貝津の道筋を、次々に略奪して通ったので、人々は耐えきれずに山野へみな逃げ散った。
意訳
巻第七は、源氏どうしの不和から始まる。頼朝と義仲の対立は、義仲が嫡子義重を人質として差し出すことで一応収まった。義重はのちに頼朝の娘大姫の婿とされるが、義仲の滅亡後に殺される。
後半は、平家が北国へ大軍を向けるくだりである。片道の兵糧を現地で取り立てることを許された軍勢は、道中の荘園から年貢を奪い取り、人々は山野に逃げ散った。この北国下向が、倶利伽羅峠での平家の大敗へとつながっていく。
語釈・文法注
文法
- 「すげなうあひしらひ」
- 冷たくあしらう。
- 「馬の草飼につけて」
- 馬の飼料になる草が生えるころに。春の戦をいう。
- 「參らす」
- 底本のまま。「參らず」の誤植と見られる。
- 「片道を賜はつてけれは」
- 片道分の兵糧を現地で徴発することを許されていたので。「けれは」は底本のまま。
解説
頼朝と義仲の対立は寿永二年(1183)春のことで、義仲が嫡子義高(物語では義重)を人質として鎌倉へ送り、和睦が成立した。義高は頼朝の娘大姫の婿とされたが、翌年義仲が滅ぼされた後に殺された。平家の北陸遠征軍は維盛を総大将とする大軍で、四月十七日に都を出発した。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、550–552頁(コマ304–305)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日