平家物語 巻第六
横田河原合戦の事
平家は源氏調伏の祈祷を重ねたが、勅使や阿闍梨が次々に死に、ある阿闍梨はかえって平家を調伏していた。中宮は建礼門院の院号を受ける。法皇の日吉参詣をめぐって、山門と平家が互いに攻められるといううわさが立ち、都は大騒ぎになった。寿永元年九月、城長茂の四万余騎は信濃の横田河原で木曾義仲の三千余騎と戦ったが、赤旗を掲げて味方と見せかけた義仲の計略にかかって大敗した。宗盛は内大臣となって華やかに喜び申しをしたが、諸国はみな平家に背いていった。
- 1八八はち月月がつ七七なぬ日日かののの日日ひ、、、官官かんののの廳廳ちょうにににしてしてして大大だい仁仁にん王王おう會會え行行おこなははわるるる。。。これこれこれははは將將まさ門門かど追追つい討討とうののの例例れいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。九九く月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、純純すみ友友とも追追つい討討とうののの例例れいとてとてとて、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうへへへ鐵鐵くろがねののの鎧鎧よろい兜兜かぶとををを參參まいらせらせらせらるらるらる。。。敕敕ちょく使使しははは祭祭さい主主しゅ神神じん祇祇ぎののの權權ごん大大たい副副ふ大大おお中中なか臣臣とみののの定定さだ高高たか、、、都都みやこををを立立たつつっててて、、、近近おう江江みののの國國くに甲甲こう賀賀がののの驛驛うまやよりよりより病病やみみみついついついててて、、、同同おなじきじきじき三三みつ日日かののの日日ひ、、、伊伊い勢勢せののの離離り宮宮きゅうにににしてしてして遂遂ついににに死死しにににぬぬぬ。。。またまたまた調調ちょう伏伏ぶくののの爲爲ためににに、、、五五ご壇壇だんののの法法ほう承承うけたまわつつっててて行行おこなひひいけるけるける降降ごう三三ざん世世ぜののの大大だい阿阿あ闍闍じゃ梨梨り、、、大大だい行行ぎょう事事じののの彼彼ひ岸岸がん所所じょにににしてしてして寢寢ね死死じにににに死死しにににぬぬぬ。。。神神しん明明めいももも三三さん寶寶ぼうももも御御ご納納のう受受じゅなしなしなしととといふいふいう事事こといちじるしいちじるしいちじるし。。。またまたまた大大だい元元げんののの法法ほう承承うけたまわつつっててて行行おこなひひいけるけるける、、、安安あん祥祥じょう寺寺じののの實實じつ玄玄げん阿阿あ闍闍じゃ梨梨りががが、、、御御ご巻巻かん數數じゅををを參參まいらせらせらせたるたるたるををを、、、披披ひ見見けんせせせられられられけれけれければばば、、、平平へい氏氏じ調調ちょう伏伏ぶくののの由由よしををを注注ちゅう進進しんしししけるけるけるこそこそこそ恐恐おそろしけれろしけれろしけれ。。。「「「こここはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、「「「朝朝ちょう敵敵てき調調ちょう伏伏ぶくせせせよよよととと仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。つら〳〵つら〳〵つらつら當當とう世世せいののの體體ていををを見見み候候そうろうににに、、、平平へい家家け專專もっぱららら朝朝ちょう敵敵てきととと見見みえええたりたりたり。。。依依よつつってててかれかれかれををを調調ちょう伏伏ぶくすすす。。。何何なにののの咎咎とがややや候候そうろうべきべきべき。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。このこのこの法法ほう師師し奇奇き怪怪かいなりなりなり、、、死死し罪罪ざいかかか流流る罪罪ざいかかかととと沙沙さ汰汰たありありありしかしかしかどもどもども、、、大大だい小小しょう事事じののの怱怱そう劇劇げきにににうちうちうち紛紛まぎれれれててて、、、何何なにののの沙沙さ汰汰たにににももも及及およばばばずずず。。。平平へい家家け亡亡ほろびびび源源げん氏氏じののの代代よににになつなつなっててて鎌鎌かま倉倉くらへへへ下下くだりりり、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししけれけれければばば、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの感感かんじじじ給給たまひひいててて、、、そのそのその勸勸けん賞賞じょうににに僧僧そう正正じょうににになさなさなされれれけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 2同同おなじきじきじき十十じゅう二二に月月がつ二二に十十じゅう四四し日日にち、、、中中ちゅう宮宮ぐう院院いん號號ごう蒙蒙こうぶらららせせせ給給たまひひいててて建建けん禮禮れい門門もん院院いんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。主主しゅ上上しょう未未いまだだだ幼幼よう主主しゅののの御御おん時時とき、、、母母ぼ后后こうののの院院いん號號ごう、、、これこれこれ始始はじめめめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。さるさるさる程程ほどににに今今こ年年としももも暮暮くれれれててて養養よう和和わももも二二に年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。節節せち會會え以以い下下げ常常つねののの如如ごとししし。。。二二に月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、太太たい白白はく昴昴ぼう星星せいををを侵侵おかすすす。。。天天てん文文もん要要よう錄錄ろくににに曰曰いわくくく、、、「「「太太たい白白はく昴昴ぼう星星せいををを侵侵おかせせせばばば四四し夷夷い起起おこるるる。。。」」」ととといへいへいえりりり。。。又又また、、、「「「將將しょう軍軍ぐん敕敕ちょく命命めいををを承承うけたまわつつっててて國國くにののの境境さかいををを出出いづづず。。。」」」とととももも見見みえええたりたりたり。。。三三さん月月がつ十十とお日日かののの日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びと大大たい畧畧りやく官官かん加加か階階かいししし給給たまふふう。。。四四し月月がつ十十じゅう五五ご日日にち前前さきののの權權ごん少少しょう僧僧そう都都ず源源げん親親しん日日ひ吉吉よしののの社社やしろにににしてしてして、、、如如にょ法法ほうににに法法ほ華華け經經きょう一一いち萬萬まん部部ぶ轉轉てん讀讀どく致致いたさささるゝるゝるる事事ことありありありけりけりけり。。。御御ご結結けち緣緣えんののの爲爲ためにににとてとてとて法法ほう皇皇おうももも御御ご幸幸こうなるなるなる。。。
- 3何何なに者者ものののの申申もうししし出出いだしししたりたりたりけるけるけるやらんやらんやらん、、、一一いち院院いん山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅににに仰仰おおせせせててて、、、平平へい家家け追追つい討討とうせせせらるらるらるべしべしべしととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、軍軍ぐん兵兵びょう内内だい裏裏りへへへ參參さんじじじててて、、、四四よ方方もののの陣陣ちん頭頭とうををを警警けい固固ごすすす。。。平平へい氏氏じ一一いち類類るいみなみなみな六六ろく波波は羅羅らへへへ馳馳はせせせ集集あつまるまるまる。。。本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで日日ひ吉吉よしののの社社やしろへへへ參參さん向向こうすすす。。。山山さん門門もんにににまたまたまた聞聞きこえええけるけるけるははは、、、平平へい家家け山山やま攻攻せめめめんんんとてとてとて、、、登登とう山山ざんすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、大大だい衆衆しゅ東東ひがし坂坂さか本本もとにににおりおりおり下下くだつつっててて、、、こここはははいかにいかにいかにととと僉僉せん議議ぎすすす。。。法法ほう皇皇おうももも叡叡えい慮慮りょををを驚驚おどろかさかさかさせせせおはしますおはしますおわします。。。公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとももも色色いろををを失失うしなひひい、、、北北ほく面面めんののの輩輩ともがら共共どもののの中中なかにににははは、、、あまりあまりあまりにににあわてあわてあわて騒騒さわいいいででで、、、黄黄おう水水ずい吐吐はくくくものものもの多多おおかりかりかりけるけるける。。。山山さん上上じょう、、、洛洛らく中中ちゅうののの騒騒そう動動どうなのめなのめなのめならならならずずず。。。
- 4さるさるさる程程ほどににに重重しげ衡衡ひら卿卿きょう、、、穴穴あな生生ふののの邊邊へんにてにてにて法法ほう皇皇おう迎迎むかへへえ取取とりりり參參まいらせらせらせててて、、、都都みやこへへへ還還かん御御ぎょなしなしなし奉奉たてまつるるる。。。一一いち院院いん山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅににに仰仰おおせせせててて、、、平平へい家家け追追つい討討とうせせせらるらるらるべしべしべしととといふいふいう事事ことももも、、、平平へい家家けまたまたまた山山やま攻攻せめめめんんんととといふいふいうことことことももも、、、跡跡あとかたかたかたなきなきなきそらそらそらごとごとごとなりなりなり。。。たゞたゞただ天天てん魔魔まのののよくよくよく荒荒あれれれたるたるたるにににこそこそこそとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。法法ほう皇皇おう仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「かくかくかくのみのみのみあらあらあらんんんにににははは、、、このこのこの後後のちははは御御おんものものものまうでまうでもうでなどなどなど申申もうすすす事事ことももも、、、御御み心心こころにににはははまかすまかすまかすまじきまじきまじき事事ことやらんやらんやらん。。。」」」とととぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。同同おなじきじきじき二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、二二に十十じゅう二二に社社しゃへへへ官官かん幣幣ぺい使使しををを立立たてててらるらるらる。。。これこれこれははは饑饑き饉饉きん疾疾しっ疫疫えきににに依依よつつってててなりなりなり。。。同同おなじきじきじき五五ご月月がつ二二に十十じゅう四四し日日にちににに改改かい元元げんあつあつあっててて壽壽じゅ永永えいととと號號こうすすす。。。そのそのその日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、越越えち後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん城城じょうののの四四し郎郎ろう資資すけ茂茂もち、、、越越えち後後ごののの守守かみににに任任にんずずず。。。兄兄あに資資すけ長長なが逝逝せい去去きょののの閒閒あいだ、、、不不ふ吉吉きつなりなりなりとてとてとて、、、頻頻しきりりりににに辭辭じししし申申もうしししけれけれけれどもどもども、、、敕敕ちょく命命めいなれなれなればばば力力ちから及及およばばばずずず。。。これこれこれににに依依よつつっててて資資すけ茂茂もちををを長長なが茂茂もちととと改改かい名名みょうすすす。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに九九く月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、越越えち後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん城城じょうののの四四し郎郎ろう長長なが茂茂もち、、、木木き曾曾そ追追つい討討とうののの爲爲ためにににとてとてとて、、、越越えち後後ご、、、出出で羽羽は、、、會會あい津津ず四四し郡郡ぐんののの兵兵つわもの共共どもををを引引いん率率そつしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい四四し萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、美美み濃濃のののの國國くにへへへ發發はっ向向こうすすす。。。同同おなじきじきじき九九ここの日日かののの日日ひ、、、當當とう國國ごく横横よこ田田た河河かわ原原らににに陣陣じんををを取取とるるる。。。木木き曾曾そははは依依よ田田だののの城城じょうにににありありありけるけるけるががが、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで城城じょうををを出出いででで馳馳はせせせ向向むかふふう。。。こゝこゝここににに信信しな濃濃のののの源源げん氏氏じ井井い上上のうえののの九九く郎郎ろう光光みつ盛盛もりががが謀謀はかりごとににに、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きををを七七なな手手てににに分分わかちちち、、、俄俄にはかににに赤赤あか旗旗はた七七なな旒旒ながれ作作つくつつっててて、、、手手てんんん手手でにににさしさしさしあげあげあげ、、、あそこあそこあそこののの岸岸きし、、、こゝこゝここののの洞洞ほらよりよりより寄寄よせせせけれけれければばば、、、越越えち後後ごののの勢勢せいどもどもども之之これををを見見みててて、、、「「「あはやあはやあわやこのこのこの國國くににににももも御御み方方かたのののありありありけるけるけるははは。。。力力ちから附附つきききぬぬぬ。。。」」」とてとてとて勇勇いさみみみ喜喜よろこぶぶぶ所所ところににに、、、次次し第第だいににに近近ちこうううなりなりなりけれけれければばば、、、合合あい圖圖ずををを定定さだめめめててて、、、七七なな手手てががが一一ひとつつつににになりなりなり、、、赤赤あか旗旗はたどもどもども切切きりりり棄棄すてててさせさせさせ、、、かねかねかねててて用用よう意意いしししたりたりたりけるけるける白白しら旗旗はたををを、、、さつさつさっとととさしさしさしあげあげあげててて、、、鬨鬨ときをををどつどつどっととと作作つくりりりけれけれければばば、、、越越えち後後ごののの勢勢せいどもどもどもこれこれこれををを見見みててて、、、「「「こここはははたばからたばからたばかられれれにににけりけりけり。。。敵敵かたき何何なん十十じゅう萬萬まん騎騎ぎかかかあらあらあらんんん、、、取取とりりりこめこめこめられられられてててははは叶叶かなふふうまじまじまじ。。。」」」とてとてとて、、、あわてあわてあわてふためきふためきふためきけるけるけるががが、、、或或あるいははは河河かはへへへおつぱめおつぱめおっぱめられられられ、、、或或あるいははは惡惡あく所所しょへへへ追追おひひい落落おとささされれれててて、、、助助たすかるかるかる者者ものははは少少すくなうなうのう、、、討討うたたたるゝるゝるる者者ものぞぞぞ多多おおかりかりかりけるけるける。。。城城じょうののの四四し郎郎ろうがががむねむねむねととと賴賴たのみみみきつきつきったるたるたる越越えち後後ごののの山山やまののの太太た郎郎ろう、、、會會あい津津ずののの乘乘じょう丹丹たん坊坊ぼうなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものどもどもどもももも、、、そこそこそこにてにてにてみなみなみな討討うちちち取取とららられれれぬぬぬ。。。城城じょうののの四四し郎郎ろう、、、わがわがわが身身み手手て負負おひひい、、、からきからきからき命命いのち生生いきききつゝつゝつつ、、、河河かはににについついついててて越越えち後後ごののの國國くにへへへ引引ひき退退しりぞくくく。。。飛飛ひ腳腳きやくををを以以もっててて、、、都都みやこへへへこのこのこの由由よしををを申申もうしししたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びとこれこれこれををを事事ことととともももししし給給たまははわずずず。。。
- 6同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にち、、、前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう、、、大大だい納納な言言ごんににに還還かん著著ちゃくしてしてして、、、十十じゅう月月がつ三三みつ日日かののの日日ひ、、、内内ない大大だい臣臣じんににになりなりなり給給たまふふう。。。同同おなじきじきじき七七なぬ日日か、、、喜喜よろこび申申もうしのののありありありしししににに、、、公公く卿卿ぎょうにににははは花花か山山さんののの院院いんののの中中ちゅう納納な言言ごんををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、十十じゅう二二に人人にん扈扈こ從從しょうしてしてしてやりやりやりつゞけつゞけつづけらるらるらる。。。藏藏くら人人うどののの頭頭とう親親ちか宗宗むね以以い下下げ、、、殿殿てん上上じょう人人びと十十じゅう六六ろく人人にん前前ぜん驅驅くすすす。。。中中ちゅう納納な言言ごん四四よ人人にん、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうももも三三さん人人にんまでまでまでおはしおはしおわしききき。。。東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの源源げん氏氏じ等等ら蜂蜂はちののの如如ごとくくくににに起起おこりりりあひあひあい、、、たゞたゞただ今今いま都都みやこへへへ亂亂みだれれれ入入いるるる由由よし聞聞きこえええしかしかしかどもどもども、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びとははは風風かぜののの吹吹ふくくくやらんやらんやらん、、、波波なみののの立立たつつつやらんやらんやらんをををももも知知しりりり給給たまははわずずず。。。かやうかやうかようにににはははなやかなやかなやかなりなりなりししし事事ことどもどもども、、、なか〳〵なか〳〵なかなかいふいふいうかひかひかいなうなうのうぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 7さるさるさる程程ほどににに今今こ年年としももも暮暮くれれれててて、、、壽壽じゅ永永えいももも二二に年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。節節せち會會え以以い下下げ常常つねののの如如ごとししし。。。正正しょう月月がつ五五いつ日日かののの日日ひ朝朝ちょう覲覲きんののの行行ぎょう幸幸こうありありありけりけりけり。。。これこれこれははは鳥鳥と羽羽ばののの院院いん六六ろく歳歳さいにてにてにて朝朝ちょう覲覲きんののの行行ぎょう幸幸こうありありありししし、、、そのそのその例例れいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。二二に月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、宗宗むね盛盛もり公公こう從從じゅ一一いち位位いししし給給たまふふう。。。やがてやがてやがてそのそのその日日ひ内内ない大大だい臣臣じんをををばばば上上じょう表表ひょうせせせらるらるらる。。。これこれこれははは兵兵ひょう亂亂らんつゝしみつゝしみつつしみののの爲爲ためとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。南南なん都都と、、、北北ほく嶺嶺れいののの大大だい衆衆しゅ、、、熊熊くま野野の、、、金金きん峯峯ぷ山山せんののの僧僧そう徒徒と、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうののの祭祭さい主主しゅ、、、神神じん官官かんににに至至いたるるるまでまでまで、、、一一いっ向向こう平平へい家家けををを背背そむいいいててて、、、源源げん氏氏じににに心心こころをををかよはしかよはしかよわしけりけりけり。。。四四し海海かいににに宣宣せん旨旨じをををなしなしなし下下くだししし、、、諸諸しょ國國こくへへへ院院いん宣宣ぜんをををつかはせつかはせつかわせどもどもども、、、院院いん宣宣ぜん、、、宣宣せん旨旨じをををももも、、、みなみなみな平平へい家家けののの下下げ知知じとととのみのみのみ心心こころ得得えててて、、、從從したがひひいつくつくつく者者ものもももなかりなかりなかりけりけりけり。。。
現代語訳
八月七日、太政官の庁で大仁王会が行われた。これは将門追討の例によるものと聞こえた。九月一日、純友追討の例として、伊勢大神宮へ鉄の鎧兜を奉納された。勅使は祭主で神祇権大副の大中臣定高であったが、都を出発して近江国甲賀の駅から病みつき、同じ三日、伊勢の離宮でついに死んでしまった。また調伏のために五壇の法を承って行っていた降三世の大阿闍梨は、大行事の彼岸所で寝たまま死んでしまった。神仏も三宝もお受けにならないことは明らかである。また大元帥法を承って行っていた安祥寺の実玄阿闍梨が、御巻数(祈祷の報告書)を差し上げたのをご覧になると、平氏を調伏したと記してあったのは恐ろしいことである。「これはどういうことか」とおっしゃると、「朝敵を調伏せよと仰せ下されました。つくづく当世のありさまを見ますと、平家こそまったく朝敵と見えます。それで平家を調伏したのです。何の咎がございましょう」と申した。この法師はけしからぬ、死罪か流罪かと議論があったが、大小の事件の忙しさに紛れて何の処分もなかった。平家が滅びて源氏の世になってから、この法師は鎌倉へ下ってこのことを申したところ、鎌倉殿(頼朝)は感心されて、その褒美に僧正に任じられたと聞こえた。
同じ十二月二十四日、中宮は院号をお受けになって建礼門院と申し上げた。天皇がまだ幼いうちに母后が院号を受けたのは、これが初めてとうかがっている。そうこうするうちに今年も暮れて、養和も二年になった。節会以下は例年どおりである。二月二十一日、太白星(金星)が昴星を犯した。天文要録に「太白が昴星を犯せば四方の夷が起こる」とある。また「将軍が勅命を受けて国境を出る」とも見えている。三月十日に除目が行われて、平家の人々はほとんどが官位を上げられた。四月十五日、前権少僧都源親が日吉の社で、法華経一万部を如法に転読されることがあった。法皇も結縁のためにお出ましになった。
何者が言い出したのであろうか、一院(後白河法皇)が山門の大衆に命じて平家を追討させるといううわさが聞こえたので、軍兵が内裏へ参って四方の陣頭を警固した。平氏の一族はみな六波羅へ駆け集まった。本三位中将重衡卿は手勢三千余騎で日吉の社へ向かった。山門ではまた、平家が比叡山を攻めようとして登山するといううわさが聞こえたので、大衆は東坂本に下りて、これはどうしたことかと評議した。法皇もお驚きになった。公卿・殿上人も顔色を失い、北面の武士の中には、あまりにあわて騒いで黄水を吐く者も多かった。比叡山の上も洛中も、騒ぎはひととおりではない。
そのうちに重衡卿は穴生のあたりで法皇をお迎えして、都へお帰し申し上げた。一院が山門の大衆に命じて平家を追討させるということも、平家が比叡山を攻めるということも、跡形もないうそであった。ただ天魔がよく荒れたのであろうと人々は言った。法皇がおっしゃるには、「こんなことばかりでは、これからは参詣なども思うにまかせないのであろうか」とおっしゃった。同じ二十日、二十二社へ官幣使を遣わされた。これは飢饉と疫病のためである。同じ五月二十四日に改元があって寿永と号した。その日除目が行われて、越後国の住人城四郎資茂が越後守に任じられた。兄の資長が死んだので不吉だといって、しきりに辞退したが、勅命なのでどうしようもない。そこで資茂を長茂と改名した。
そうこうするうちに九月二日、越後国の住人城四郎長茂は、木曾追討のためといって、越後・出羽・会津四郡の武士たちを率いて、総勢四万余騎で美濃国(信濃国の誤りか)へ向かった。同じ九日、その国の横田河原に陣を取った。木曾は依田の城にいたが、三千余騎で城を出て駆けつけた。そこで信濃の源氏井上九郎光盛の計略で、三千余騎を七手に分け、急いで赤旗を七流れ作って手に手に掲げ、あちらの岸、こちらの洞から寄せて行ったので、越後の軍勢はこれを見て、「おお、この国にも味方がいたのだ。心強いことだ」と勇み喜んでいたところに、だんだん近づいて来たので、合図を決めて七手が一つになり、赤旗を切り捨てさせて、かねて用意していた白旗をさっと掲げ、鬨の声をどっとあげたので、越後の軍勢はこれを見て、「これはだまされた。敵は何十万騎いるかわからない。取り囲まれてはかなうまい」といって、あわてふためいたが、あるいは川へ追いこまれ、あるいは悪路へ追い落とされて、助かる者は少なく、討たれる者が多かった。城四郎が頼みにしていた越後の山太郎や会津の乗丹坊などという一騎当千の武士たちも、そこでみな討ち取られた。城四郎は自身も傷を負い、からくも命をつないで、川に沿って越後国へ退いた。飛脚でこのことを都へ申したが、平家の人々はこれを問題にもされなかった。
同じ十六日、前右大将宗盛卿が大納言に復帰して、十月三日に内大臣になられた。同じ七日、そのお礼の参内である喜び申しがあったとき、公卿は花山院中納言をはじめとして十二人が付き従い、車を連ねて行った。蔵人頭親宗以下、殿上人十六人が先払いをした。中納言が四人、三位中将も三人までおられた。東国・北国の源氏たちが蜂のように起こり、今にも都へ乱入するといううわさが聞こえていたが、平家の人々は、風が吹いているのか波が立っているのかも知らないありさまである。このように華やかであったのも、かえってむなしいことに見えた。
そうこうするうちに今年も暮れて、寿永も二年になった。節会以下は例年どおりである。正月五日、朝覲の行幸があった。これは鳥羽院が六歳で朝覲の行幸をなさった、その例によるものと聞こえた。二月二十一日、宗盛公が従一位になられた。すぐにその日、内大臣を辞する上表をされた。これは兵乱を慎むためと聞こえた。南都・北嶺の大衆、熊野・金峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主・神官に至るまで、ひたすら平家に背いて源氏に心を通わせた。四方の海に宣旨を下し、諸国へ院宣を遣わしても、院宣も宣旨もみな平家の命令だとばかり思って、従う者もいなかった。
意訳
巻第六を結ぶ章段である。平家のための祈祷はかえって災いを招き、ある阿闍梨は平家こそ朝敵と見て調伏していた。山門と平家とが互いに攻められるといううわさに都が大騒ぎになるさまも、人心の離れた平家の不安を映している。
横田河原の合戦では、義仲方が赤旗(平家の旗)を掲げて味方と見せかけ、近づいてから白旗(源氏の旗)に替えて攻めかかった。大敗した城長茂の知らせにも平家は動じず、宗盛の内大臣就任を華やかに祝うが、物語はその華やかさをむなしいものとして描き、諸国がみな平家に背いたと語って巻を閉じる。
語釈・文法注
文法
- 「御巻數」
- 祈祷を行った僧が、読んだ経や陀羅尼の数を記して奉る文書。
- 「怱劇」
- あわただしいこと。
- 「美濃の國へ發向す」
- 底本のまま。横田河原は信濃国にあり、通行本文は「信濃国へ」とする。
- 「おつぱめられ」
- 追いこまれ。「おひはめる」の促音便。
- 「喜申」
- 任官のお礼に参内すること。
解説
横田河原の戦いは寿永元年(1182)ではなく、史実では養和元年(1181)六月の出来事とされる。城長茂(助職)の大軍を破った義仲は北陸道に勢力を広げ、のちの倶利伽羅峠の戦いへとつながっていく(巻第七)。建礼門院の院号宣下は養和元年十一月のことである。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、545–549頁(コマ301–303)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日