古典ライブラリー

平家物語 巻第六

横田河原合戦の事

平家は源氏調伏の祈祷を重ねたが、勅使や阿闍梨が次々に死に、ある阿闍梨はかえって平家を調伏していた。中宮は建礼門院の院号を受ける。法皇の日吉参詣をめぐって、山門と平家が互いに攻められるといううわさが立ち、都は大騒ぎになった。寿永元年九月、城長茂の四万余騎は信濃の横田河原で木曾義仲の三千余騎と戦ったが、赤旗を掲げて味方と見せかけた義仲の計略にかかって大敗した。宗盛は内大臣となって華やかに喜び申しをしたが、諸国はみな平家に背いていった。

  1. 1八はち八はちはち月ぐわつ月ぐわつがつ七なぬ七なぬなぬ日か日かかののの日ひ日ひひ、、、官くわん官くわんかんののの廳ちやう廳ちやうちょうにににしてしてして大だい大だいだい仁にん仁にんにん王わう王わうおう會ゑ會ゑえ行おこな行おこなおこなははわるるる。。。これこれこれははは將まさ將まさまさ門かど門かどかど追つい追ついつい討たう討たうとうののの例れい例れいれいとととぞぞぞ聞きこ聞きこきこえええししし。。。九く九くく月ぐわつ月ぐわつがつ一ひと一ひとひと日ひ日ひひののの日ひ日ひひ、、、純すみ純すみすみ友とも友ともとも追つい追ついつい討たう討たうとうののの例れい例れいれいとてとてとて、、、伊い伊いい勢せ勢せせ大だい大だいだい神じん神じんじん宮ぐう宮ぐうぐうへへへ鐵くろがね鐵くろがねくろがねののの鎧よろひ鎧よろひよろい兜かぶと兜かぶとかぶとををを參まゐ參まゐまいらせらせらせらるらるらる。。。敕ちよく敕ちよくちょく使し使ししははは祭さい祭さいさい主しゆ主しゆしゅ神じん神じんじん祇ぎ祇ぎぎののの權ごん權ごんごん大たい大たいたい副ふ副ふふ大おほ大おほおお中なか中なかなか臣とみ臣とみとみののの定さだ定さださだ高たか高たかたか、、、都みやこ都みやこみやこををを立た立たたつつっててて、、、近あふ近あふおう江み江みみののの國くに國くにくに甲かふ甲かふこう賀が賀ががののの驛うまや驛うまやうまやよりよりより病や病ややみみみついついついててて、、、同おな同おなおなじきじきじき三みつ三みつみつ日か日かかののの日ひ日ひひ、、、伊い伊いい勢せ勢せせののの離り離りり宮きう宮きうきゅうにににしてしてして遂つひ遂つひついににに死し死ししにににぬぬぬ。。。またまたまた調てう調てうちょう伏ぶく伏ぶくぶくののの爲ため爲ためためににに、、、五ご五ごご壇だん壇だんだんののの法ほふ法ほふほう承うけたまは承うけたまはうけたまわつつっててて行おこな行おこなおこなひひいけるけるける降がう降がうごう三ざん三ざんざん世ぜ世ぜぜののの大だい大だいだい阿あ阿ああ闍じや闍じやじゃ梨り梨りり、、、大だい大だいだい行ぎやう行ぎやうぎょう事じ事じじののの彼ひ彼ひひ岸がん岸がんがん所じよ所じよじょにににしてしてして寢ね寢ねね死じに死じにじにににに死し死ししにににぬぬぬ。。。神しん神しんしん明めい明めいめいももも三さん三さんさん寶ぼう寶ぼうぼうももも御ご御ごご納なふ納なふのう受じゆ受じゆじゅなしなしなしととといふいふいう事こと事ことこといちじるしいちじるしいちじるし。。。またまたまた大だい大だいだい元げん元げんげんののの法ほふ法ほふほう承うけたまは承うけたまはうけたまわつつっててて行おこな行おこなおこなひひいけるけるける、、、安あん安あんあん祥じやう祥じやうじょう寺じ寺じじののの實じつ實じつじつ玄げん玄げんげん阿あ阿ああ闍じや闍じやじゃ梨り梨りりががが、、、御ご御ごご巻くわん巻くわんかん數じゆ數じゆじゅををを參まゐ參まゐまいらせらせらせたるたるたるををを、、、披ひ披ひひ見けん見けんけんせせせられられられけれけれければばば、、、平へい平へいへい氏じ氏じじ調てう調てうちょう伏ぶく伏ぶくぶくののの由よし由よしよしををを注ちゆう注ちゆうちゅう進しん進しんしんしししけるけるけるこそこそこそ恐おそ恐おそおそろしけれろしけれろしけれ。。。「「「こここはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰おほ仰おほおおせせせけれけれければばば、、、「「「朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてき調てう調てうちょう伏ぶく伏ぶくぶくせせせよよよととと仰おほ仰おほおおせせせ下くだ下くだくださささるるる。。。つら〳〵つら〳〵つらつら當たう當たうとう世せい世せいせいののの體てい體ていていををを見み見みみ候さふらふ候さふらふそうろうににに、、、平へい平へいへい家け家けけ專もつぱ專もつぱもっぱららら朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてきととと見み見みみえええたりたりたり。。。依よ依よよつつってててかれかれかれををを調てう調てうちょう伏ぶく伏ぶくぶくすすす。。。何なに何なになにののの咎とが咎とがとがややや候さふらふ候さふらふそうろうべきべきべき。。。」」」とととぞぞぞ申まう申まうもうしししけるけるける。。。このこのこの法ほふ法ほふほう師し師しし奇き奇きき怪くわい怪くわいかいなりなりなり、、、死し死しし罪ざい罪ざいざいかかか流る流るる罪ざい罪ざいざいかかかととと沙さ沙ささ汰た汰たたありありありしかしかしかどもどもども、、、大だい大だいだい小せう小せうしょう事じ事じじののの怱さう怱さうそう劇げき劇げきげきにににうちうちうち紛まぎ紛まぎまぎれれれててて、、、何なに何なになにののの沙さ沙ささ汰た汰たたにににももも及およ及およおよばばばずずず。。。平へい平へいへい家け家けけ亡ほろ亡ほろほろびびび源げん源げんげん氏じ氏じじののの代よ代よよににになつなつなっててて鎌かま鎌かまかま倉くら倉くらくらへへへ下くだ下くだくだりりり、、、このこのこの由よし由よしよしかくかくかくととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、鎌かま鎌かまかま倉くら倉くらくら殿どの殿どのどの感かん感かんかんじじじ給たま給たまたまひひいててて、、、そのそのその勸けん勸けんけん賞じやう賞じやうじょうににに僧そう僧そうそう正じやう正じやうじょうににになさなさなされれれけるけるけるとととぞぞぞ聞きこ聞きこきこえええししし。。。
  2. 2同おな同おなおなじきじきじき十じふ十じふじゅう二に二にに月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう四し四しし日にち日にちにち、、、中ちゆう中ちゆうちゅう宮ぐう宮ぐうぐう院ゐん院ゐんいん號がう號がうごう蒙かうぶ蒙かうぶこうぶらららせせせ給たま給たまたまひひいててて建けん建けんけん禮れい禮れいれい門もん門もんもん院ゐん院ゐんいんとととぞぞぞ申まう申まうもうしししけるけるける。。。主しゆ主しゆしゅ上しやう上しやうしょう未いま未いまいまだだだ幼えう幼えうよう主しゆ主しゆしゅののの御おん御おんおん時とき時ときとき、、、母ぼ母ぼぼ后こう后こうこうののの院ゐん院ゐんいん號がう號がうごう、、、これこれこれ始はじ始はじはじめめめとととぞぞぞ承うけたまは承うけたまはうけたまわるるる。。。さるさるさる程ほど程ほどほどににに今こ今ここ年とし年としとしももも暮く暮くくれれれててて養やう養やうよう和わ和わわももも二に二にに年ねん年ねんねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。節せち節せちせち會ゑ會ゑえ以い以いい下げ下げげ常つね常つねつねののの如ごと如ごとごとししし。。。二に二にに月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう一いち一いちいち日にち日にちにち、、、太たい太たいたい白はく白はくはく昴ばう昴ばうぼう星せい星せいせいををを侵をか侵をかおかすすす。。。天てん天てんてん文もん文もんもん要えう要えうよう錄ろく錄ろくろくににに曰いは曰いはいわくくく、、、「「「太たい太たいたい白はく白はくはく昴ばう昴ばうぼう星せい星せいせいををを侵をか侵をかおかせせせばばば四し四しし夷い夷いい起おこ起おこおこるるる。。。」」」ととといへいへいえりりり。。。又また又またまた、、、「「「將しやう將しやうしょう軍ぐん軍ぐんぐん敕ちよく敕ちよくちょく命めい命めいめいををを承うけたまは承うけたまはうけたまわつつっててて國くに國くにくにののの境さかひ境さかひさかいををを出い出いいづづず。。。」」」とととももも見み見みみえええたりたりたり。。。三さん三さんさん月ぐわつ月ぐわつがつ十とを十とをとお日か日かかののの日ひ日ひひ除ぢ除ぢじ目もく目もくもく行おこな行おこなおこなははわれれれててて、、、平へい平へいへい家け家けけののの人ひと人ひとひと々びと々びとびと大たい大たいたい畧りやく畧りやくりやく官くわん官くわんかん加か加かか階かい階かいかいししし給たま給たまたまふふう。。。四し四しし月ぐわつ月ぐわつがつ十じふ十じふじゅう五ご五ごご日にち日にちにち前さき前さきさきののの權ごん權ごんごん少せう少せうしょう僧そう僧そうそう都づ都づず源げん源げんげん親しん親しんしん日ひ日ひひ吉よし吉よしよしののの社やしろ社やしろやしろにににしてしてして、、、如によ如によにょ法ほふ法ほふほうににに法ほ法ほほ華け華けけ經きやう經きやうきょう一いち一いちいち萬まん萬まんまん部ぶ部ぶぶ轉てん轉てんてん讀どく讀どくどく致いた致いたいたさささるゝるゝるる事こと事ことことありありありけりけりけり。。。御ご御ごご結けち結けちけち緣えん緣えんえんののの爲ため爲ためためにににとてとてとて法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおうももも御ご御ごご幸かう幸かうこうなるなるなる。。。
  3. 3何なに何なになに者もの者ものものののの申まう申まうもうししし出いだ出いだいだしししたりたりたりけるけるけるやらんやらんやらん、、、一いち一いちいち院ゐん院ゐんいん山さん山さんさん門もん門もんもんののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅににに仰おほ仰おほおおせせせててて、、、平へい平へいへい家け家けけ追つい追ついつい討たう討たうとうせせせらるらるらるべしべしべしととと聞きこ聞きこきこえええしかしかしかばばば、、、軍ぐん軍ぐんぐん兵びやう兵びやうびょう内だい内だいだい裏り裏りりへへへ參さん參さんさんじじじててて、、、四よ四よよ方も方ももののの陣ちん陣ちんちん頭とう頭とうとうををを警けい警けいけい固ご固ごごすすす。。。平へい平へいへい氏じ氏じじ一いち一いちいち類るい類るいるいみなみなみな六ろく六ろくろく波は波はは羅ら羅ららへへへ馳は馳ははせせせ集あつ集あつあつまるまるまる。。。本ほん本ほんほん三さん三さんさん位み位みみののの中ちゆう中ちゆうちゅう將じやう將じやうじょう重しげ重しげしげ衡ひら衡ひらひらののの卿きやう卿きやうきょう、、、そのそのその勢せい勢せいせい三さん三さんさん千ぜん千ぜんぜん餘よ餘よよ騎き騎ききででで日ひ日ひひ吉よし吉よしよしののの社やしろ社やしろやしろへへへ參さん參さんさん向かう向かうこうすすす。。。山さん山さんさん門もん門もんもんにににまたまたまた聞きこ聞きこきこえええけるけるけるははは、、、平へい平へいへい家け家けけ山やま山やまやま攻せ攻せせめめめんんんとてとてとて、、、登とう登とうとう山ざん山ざんざんすすすととと聞きこ聞きこきこえええしかしかしかばばば、、、大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅ東ひがし東ひがしひがし坂さか坂さかさか本もと本もともとにににおりおりおり下くだ下くだくだつつっててて、、、こここはははいかにいかにいかにととと僉せん僉せんせん議ぎ議ぎぎすすす。。。法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおうももも叡えい叡えいえい慮りよ慮りよりょををを驚おどろ驚おどろおどろかさかさかさせせせおはしますおはしますおわします。。。公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう、、、殿てん殿てんてん上じやう上じやうじょう人びと人びとびとももも色いろ色いろいろををを失うしな失うしなうしなひひい、、、北ほく北ほくほく面めん面めんめんののの輩ともがら輩ともがらともがら共ども共どもどもののの中なか中なかなかにににははは、、、あまりあまりあまりにににあわてあわてあわて騒さわ騒さわさわいいいででで、、、黄わう黄わうおう水ずゐ水ずゐずい吐は吐ははくくくものものもの多おほ多おほおおかりかりかりけるけるける。。。山さん山さんさん上じやう上じやうじょう、、、洛らく洛らくらく中ちゆう中ちゆうちゅうののの騒さう騒さうそう動どう動どうどうなのめなのめなのめならならならずずず。。。
  4. 4さるさるさる程ほど程ほどほどににに重しげ重しげしげ衡ひら衡ひらひら卿きやう卿きやうきょう、、、穴あな穴あなあな生ふ生ふふののの邊へん邊へんへんにてにてにて法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおう迎むか迎むかむかへへえ取と取ととりりり參まゐ參まゐまいらせらせらせててて、、、都みやこ都みやこみやこへへへ還くわん還くわんかん御ぎよ御ぎよぎょなしなしなし奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる。。。一いち一いちいち院ゐん院ゐんいん山さん山さんさん門もん門もんもんののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅににに仰おほ仰おほおおせせせててて、、、平へい平へいへい家け家けけ追つい追ついつい討たう討たうとうせせせらるらるらるべしべしべしととといふいふいう事こと事ことことももも、、、平へい平へいへい家け家けけまたまたまた山やま山やまやま攻せ攻せせめめめんんんととといふいふいうことことことももも、、、跡あと跡あとあとかたかたかたなきなきなきそらそらそらごとごとごとなりなりなり。。。たゞたゞただ天てん天てんてん魔ま魔ままのののよくよくよく荒あ荒ああれれれたるたるたるにににこそこそこそとととぞぞぞ、、、人ひと人ひとひと申まう申まうもうしししけるけるける。。。法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおう仰おほ仰おほおおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「かくかくかくのみのみのみあらあらあらんんんにににははは、、、このこのこの後のち後のちのちははは御おん御おんおんものものものまうでまうでもうでなどなどなど申まう申まうもうすすす事こと事ことことももも、、、御み御みみ心こゝろ心こゝろこころにににはははまかすまかすまかすまじきまじきまじき事こと事ことことやらんやらんやらん。。。」」」とととぞぞぞ仰おほ仰おほおおせせせけるけるける。。。同おな同おなおなじきじきじき二は二はは十つ十つつ日か日かかののの日ひ日ひひ、、、二に二にに十じふ十じふじゅう二に二にに社しや社しやしゃへへへ官くわん官くわんかん幣ぺい幣ぺいぺい使し使ししををを立た立たたてててらるらるらる。。。これこれこれははは饑き饑きき饉きん饉きんきん疾しつ疾しつしっ疫えき疫えきえきににに依よ依よよつつってててなりなりなり。。。同おな同おなおなじきじきじき五ご五ごご月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう四し四しし日にち日にちにちににに改かい改かいかい元げん元げんげんあつあつあっててて壽じゆ壽じゆじゅ永えい永えいえいととと號かう號かうこうすすす。。。そのそのその日ひ日ひひ除ぢ除ぢじ目もく目もくもく行おこな行おこなおこなははわれれれててて、、、越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの國くに國くにくにののの住ぢゆう住ぢゆうじゅう人にん人にんにん城じやう城じやうじょうののの四し四しし郎らう郎らうろう資すけ資すけすけ茂もち茂もちもち、、、越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの守かみ守かみかみににに任にん任にんにんずずず。。。兄あに兄あにあに資すけ資すけすけ長なが長ながなが逝せい逝せいせい去きよ去きよきょののの閒あひだ閒あひだあいだ、、、不ふ不ふふ吉きつ吉きつきつなりなりなりとてとてとて、、、頻しき頻しきしきりりりににに辭じ辭じじししし申まう申まうもうしししけれけれけれどもどもども、、、敕ちよく敕ちよくちょく命めい命めいめいなれなれなればばば力ちから力ちからちから及およ及およおよばばばずずず。。。これこれこれににに依よ依よよつつっててて資すけ資すけすけ茂もち茂もちもちををを長なが長ながなが茂もち茂もちもちととと改かい改かいかい名みやう名みやうみょうすすす。。。
  5. 5さるさるさる程ほど程ほどほどににに九く九くく月ぐわつ月ぐわつがつ二ふつ二ふつふつ日か日かかののの日ひ日ひひ、、、越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの國くに國くにくにののの住ぢゆう住ぢゆうじゅう人にん人にんにん城じやう城じやうじょうののの四し四しし郎らう郎らうろう長なが長ながなが茂もち茂もちもち、、、木き木きき曾そ曾そそ追つい追ついつい討たう討たうとうののの爲ため爲ためためにににとてとてとて、、、越ゑち越ゑちえち後ご後ごご、、、出で出でで羽は羽はは、、、會あひ會あひあい津づ津づず四し四しし郡ぐん郡ぐんぐんののの兵つはもの兵つはものつわもの共ども共どもどもををを引いん引いんいん率そつ率そつそつしてしてして、、、都つ都つつ合がふ合がふごうそのそのその勢せい勢せいせい四し四しし萬まん萬まんまん餘よ餘よよ騎き騎きき、、、美み美みみ濃の濃ののののの國くに國くにくにへへへ發はつ發はつはっ向かう向かうこうすすす。。。同おな同おなおなじきじきじき九ここの九ここのここの日か日かかののの日ひ日ひひ、、、當たう當たうとう國ごく國ごくごく横よこ横よこよこ田た田たた河かは河かはかわ原ら原ららににに陣ぢん陣ぢんじんををを取と取ととるるる。。。木き木きき曾そ曾そそははは依よ依よよ田だ田だだののの城じやう城じやうじょうにににありありありけるけるけるががが、、、三さん三さんさん千ぜん千ぜんぜん餘よ餘よよ騎き騎ききででで城じやう城じやうじょうををを出い出いいででで馳は馳ははせせせ向むか向むかむかふふう。。。こゝこゝここににに信しな信しなしな濃の濃ののののの源げん源げんげん氏じ氏じじ井ゐ井ゐい上のうへ上のうへのうえののの九く九くく郎らう郎らうろう光みつ光みつみつ盛もり盛もりもりががが謀はかりごと謀はかりごとはかりごとににに、、、三さん三さんさん千ぜん千ぜんぜん餘よ餘よよ騎き騎ききををを七なゝ七なゝなな手て手ててににに分わか分わかわかちちち、、、俄にはか俄にはかにはかににに赤あか赤あかあか旗はた旗はたはた七なゝ七なゝなな旒ながれ旒ながれながれ作つく作つくつくつつっててて、、、手て手ててんんん手で手ででにににさしさしさしあげあげあげ、、、あそこあそこあそこののの岸きし岸きしきし、、、こゝこゝここののの洞ほら洞ほらほらよりよりより寄よ寄よよせせせけれけれければばば、、、越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの勢せい勢せいせいどもどもども之これ之これこれををを見み見みみててて、、、「「「あはやあはやあわやこのこのこの國くに國くにくににににももも御み御みみ方かた方かたかたのののありありありけるけるけるははは。。。力ちから力ちからちから附つ附つつきききぬぬぬ。。。」」」とてとてとて勇いさ勇いさいさみみみ喜よろこ喜よろこよろこぶぶぶ所ところ所ところところににに、、、次し次しし第だい第だいだいににに近ちか近ちかちこうううなりなりなりけれけれければばば、、、合あひ合あひあい圖づ圖づずををを定さだ定さださだめめめててて、、、七なゝ七なゝなな手て手ててががが一ひと一ひとひとつつつににになりなりなり、、、赤あか赤あかあか旗はた旗はたはたどもどもども切き切ききりりり棄す棄すすてててさせさせさせ、、、かねかねかねててて用よう用ようよう意い意いいしししたりたりたりけるけるける白しら白しらしら旗はた旗はたはたををを、、、さつさつさっとととさしさしさしあげあげあげててて、、、鬨とき鬨ときときをををどつどつどっととと作つく作つくつくりりりけれけれければばば、、、越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの勢せい勢せいせいどもどもどもこれこれこれををを見み見みみててて、、、「「「こここはははたばからたばからたばかられれれにににけりけりけり。。。敵かたき敵かたきかたき何なん何なんなん十じふ十じふじゅう萬まん萬まんまん騎ぎ騎ぎぎかかかあらあらあらんんん、、、取と取ととりりりこめこめこめられられられてててははは叶かな叶かなかなふふうまじまじまじ。。。」」」とてとてとて、、、あわてあわてあわてふためきふためきふためきけるけるけるががが、、、或あるい或あるいあるいははは河かは河かはかはへへへおつぱめおつぱめおっぱめられられられ、、、或あるい或あるいあるいははは惡あく惡あくあく所しよ所しよしょへへへ追お追おおひひい落おと落おとおとささされれれててて、、、助たす助たすたすかるかるかる者もの者ものものははは少すく少すくすくなうなうのう、、、討う討ううたたたるゝるゝるる者もの者ものものぞぞぞ多おほ多おほおおかりかりかりけるけるける。。。城じやう城じやうじょうののの四し四しし郎らう郎らうろうがががむねむねむねととと賴たの賴たのたのみみみきつきつきったるたるたる越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの山やま山やまやまののの太た太たた郎らう郎らうろう、、、會あひ會あひあい津づ津づずののの乘じよう乘じようじょう丹たん丹たんたん坊ばう坊ばうぼうなどなどなどいふいふいう一いち一いちいち人にん人にんにん當たう當たうとう千ぜん千ぜんぜんののの兵つはもの兵つはものつわものどもどもどもももも、、、そこそこそこにてにてにてみなみなみな討う討ううちちち取と取ととららられれれぬぬぬ。。。城じやう城じやうじょうののの四し四しし郎らう郎らうろう、、、わがわがわが身み身みみ手て手てて負お負おおひひい、、、からきからきからき命いのち命いのちいのち生い生いいきききつゝつゝつつ、、、河かは河かはかはににについついついててて越ゑち越ゑちえち後ご後ごごののの國くに國くにくにへへへ引ひき引ひきひき退しりぞ退しりぞしりぞくくく。。。飛ひ飛ひひ腳きやく腳きやくきやくををを以もつ以もつもっててて、、、都みやこ都みやこみやこへへへこのこのこの由よし由よしよしををを申まう申まうもうしししたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、平へい平へいへい家け家けけののの人ひと人ひとひと々びと々びとびとこれこれこれををを事こと事ことことととともももししし給たま給たまたまははわずずず。。。
  6. 6同おな同おなおなじきじきじき十じふ十じふじゅう六ろく六ろくろく日にち日にちにち、、、前さき前さきさきののの右う右うう大だい大だいだい將しやう將しやうしょう宗むね宗むねむね盛もり盛もりもりののの卿きやう卿きやうきょう、、、大だい大だいだい納な納なな言ごん言ごんごんににに還くわん還くわんかん著ちやく著ちやくちゃくしてしてして、、、十じふ十じふじゅう月ぐわつ月ぐわつがつ三みつ三みつみつ日か日かかののの日ひ日ひひ、、、内ない内ないない大だい大だいだい臣じん臣じんじんににになりなりなり給たま給たまたまふふう。。。同おな同おなおなじきじきじき七なぬ七なぬなぬ日か日かか、、、喜よろこび喜よろこびよろこび申まうし申まうしもうしのののありありありしししににに、、、公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょうにににははは花くわ花くわか山さん山さんさんののの院ゐん院ゐんいんののの中ちゆう中ちゆうちゅう納な納なな言ごん言ごんごんををを始はじ始はじはじめめめ奉たてまつ奉たてまつたてまつつつっててて、、、十じふ十じふじゅう二に二にに人にん人にんにん扈こ扈ここ從しよう從しようしょうしてしてしてやりやりやりつゞけつゞけつづけらるらるらる。。。藏くら藏くらくら人うど人うどうどののの頭とう頭とうとう親ちか親ちかちか宗むね宗むねむね以い以いい下げ下げげ、、、殿てん殿てんてん上じやう上じやうじょう人びと人びとびと十じふ十じふじゅう六ろく六ろくろく人にん人にんにん前ぜん前ぜんぜん驅く驅くくすすす。。。中ちゆう中ちゆうちゅう納な納なな言ごん言ごんごん四よ四よよ人にん人にんにん、、、三さん三さんさん位み位みみののの中ちゆう中ちゆうちゅう將じやう將じやうじょうももも三さん三さんさん人にん人にんにんまでまでまでおはしおはしおわしききき。。。東とう東とうとう國ごく國ごくごく、、、北ほつ北ほつほっ國こく國こくこくののの源げん源げんげん氏じ氏じじ等ら等らら蜂はち蜂はちはちののの如ごと如ごとごとくくくににに起おこ起おこおこりりりあひあひあい、、、たゞたゞただ今いま今いまいま都みやこ都みやこみやこへへへ亂みだ亂みだみだれれれ入い入いいるるる由よし由よしよし聞きこ聞きこきこえええしかしかしかどもどもども、、、平へい平へいへい家け家けけののの人ひと人ひとひと々びと々びとびとははは風かぜ風かぜかぜののの吹ふ吹ふふくくくやらんやらんやらん、、、波なみ波なみなみののの立た立たたつつつやらんやらんやらんをををももも知し知ししりりり給たま給たまたまははわずずず。。。かやうかやうかようにににはははなやかなやかなやかなりなりなりししし事こと事ことことどもどもども、、、なか〳〵なか〳〵なかなかいふいふいうかひかひかいなうなうのうぞぞぞ見み見みみえええししし。。。
  7. 7さるさるさる程ほど程ほどほどににに今こ今ここ年とし年としとしももも暮く暮くくれれれててて、、、壽じゆ壽じゆじゅ永えい永えいえいももも二に二にに年ねん年ねんねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。節せち節せちせち會ゑ會ゑえ以い以いい下げ下げげ常つね常つねつねののの如ごと如ごとごとししし。。。正しやう正しやうしょう月ぐわつ月ぐわつがつ五いつ五いついつ日か日かかののの日ひ日ひひ朝てう朝てうちょう覲きん覲きんきんののの行ぎやう行ぎやうぎょう幸かう幸かうこうありありありけりけりけり。。。これこれこれははは鳥と鳥とと羽ば羽ばばののの院ゐん院ゐんいん六ろく六ろくろく歳さい歳さいさいにてにてにて朝てう朝てうちょう覲きん覲きんきんののの行ぎやう行ぎやうぎょう幸かう幸かうこうありありありししし、、、そのそのその例れい例れいれいとととぞぞぞ聞きこ聞きこきこえええししし。。。二に二にに月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう一いち一いちいち日にち日にちにち、、、宗むね宗むねむね盛もり盛もりもり公こう公こうこう從じゆ從じゆじゅ一いち一いちいち位ゐ位ゐいししし給たま給たまたまふふう。。。やがてやがてやがてそのそのその日ひ日ひひ内ない内ないない大だい大だいだい臣じん臣じんじんをををばばば上じやう上じやうじょう表へう表へうひょうせせせらるらるらる。。。これこれこれははは兵ひやう兵ひやうひょう亂らん亂らんらんつゝしみつゝしみつつしみののの爲ため爲ためためとととぞぞぞ聞きこ聞きこきこえええししし。。。南なん南なんなん都と都とと、、、北ほく北ほくほく嶺れい嶺れいれいののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅ、、、熊くま熊くまくま野の野のの、、、金きん金きんきん峯ぷ峯ぷぷ山せん山せんせんののの僧そう僧そうそう徒と徒とと、、、伊い伊いい勢せ勢せせ大だい大だいだい神じん神じんじん宮ぐう宮ぐうぐうののの祭さい祭さいさい主しゆ主しゆしゅ、、、神じん神じんじん官くわん官くわんかんににに至いた至いたいたるるるまでまでまで、、、一いつ一いついっ向かう向かうこう平へい平へいへい家け家けけををを背そむ背そむそむいいいててて、、、源げん源げんげん氏じ氏じじににに心こゝろ心こゝろこころをををかよはしかよはしかよわしけりけりけり。。。四し四しし海かい海かいかいににに宣せん宣せんせん旨じ旨じじをををなしなしなし下くだ下くだくだししし、、、諸しよ諸しよしょ國こく國こくこくへへへ院ゐん院ゐんいん宣ぜん宣ぜんぜんをををつかはせつかはせつかわせどもどもども、、、院ゐん院ゐんいん宣ぜん宣ぜんぜん、、、宣せん宣せんせん旨じ旨じじをををももも、、、みなみなみな平へい平へいへい家け家けけののの下げ下げげ知ぢ知ぢじとととのみのみのみ心こゝろ心こゝろこころ得え得ええててて、、、從したが從したがしたがひひいつくつくつく者もの者ものものもももなかりなかりなかりけりけりけり。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

八月七日、太政官の庁で大仁王会が行われた。これは将門追討の例によるものと聞こえた。九月一日、純友追討の例として、伊勢大神宮へ鉄の鎧兜を奉納された。勅使は祭主で神祇権大副の大中臣定高であったが、都を出発して近江国甲賀の駅から病みつき、同じ三日、伊勢の離宮でついに死んでしまった。また調伏のために五壇の法を承って行っていた降三世の大阿闍梨は、大行事の彼岸所で寝たまま死んでしまった。神仏も三宝もお受けにならないことは明らかである。また大元帥法を承って行っていた安祥寺の実玄阿闍梨が、御巻数(祈祷の報告書)を差し上げたのをご覧になると、平氏を調伏したと記してあったのは恐ろしいことである。「これはどういうことか」とおっしゃると、「朝敵を調伏せよと仰せ下されました。つくづく当世のありさまを見ますと、平家こそまったく朝敵と見えます。それで平家を調伏したのです。何の咎がございましょう」と申した。この法師はけしからぬ、死罪か流罪かと議論があったが、大小の事件の忙しさに紛れて何の処分もなかった。平家が滅びて源氏の世になってから、この法師は鎌倉へ下ってこのことを申したところ、鎌倉殿(頼朝)は感心されて、その褒美に僧正に任じられたと聞こえた。

同じ十二月二十四日、中宮は院号をお受けになって建礼門院と申し上げた。天皇がまだ幼いうちに母后が院号を受けたのは、これが初めてとうかがっている。そうこうするうちに今年も暮れて、養和も二年になった。節会以下は例年どおりである。二月二十一日、太白星(金星)が昴星を犯した。天文要録に「太白が昴星を犯せば四方の夷が起こる」とある。また「将軍が勅命を受けて国境を出る」とも見えている。三月十日に除目が行われて、平家の人々はほとんどが官位を上げられた。四月十五日、前権少僧都源親が日吉の社で、法華経一万部を如法に転読されることがあった。法皇も結縁のためにお出ましになった。

何者が言い出したのであろうか、一院(後白河法皇)が山門の大衆に命じて平家を追討させるといううわさが聞こえたので、軍兵が内裏へ参って四方の陣頭を警固した。平氏の一族はみな六波羅へ駆け集まった。本三位中将重衡卿は手勢三千余騎で日吉の社へ向かった。山門ではまた、平家が比叡山を攻めようとして登山するといううわさが聞こえたので、大衆は東坂本に下りて、これはどうしたことかと評議した。法皇もお驚きになった。公卿・殿上人も顔色を失い、北面の武士の中には、あまりにあわて騒いで黄水を吐く者も多かった。比叡山の上も洛中も、騒ぎはひととおりではない。

そのうちに重衡卿は穴生のあたりで法皇をお迎えして、都へお帰し申し上げた。一院が山門の大衆に命じて平家を追討させるということも、平家が比叡山を攻めるということも、跡形もないうそであった。ただ天魔がよく荒れたのであろうと人々は言った。法皇がおっしゃるには、「こんなことばかりでは、これからは参詣なども思うにまかせないのであろうか」とおっしゃった。同じ二十日、二十二社へ官幣使を遣わされた。これは飢饉と疫病のためである。同じ五月二十四日に改元があって寿永と号した。その日除目が行われて、越後国の住人城四郎資茂が越後守に任じられた。兄の資長が死んだので不吉だといって、しきりに辞退したが、勅命なのでどうしようもない。そこで資茂を長茂と改名した。

そうこうするうちに九月二日、越後国の住人城四郎長茂は、木曾追討のためといって、越後・出羽・会津四郡の武士たちを率いて、総勢四万余騎で美濃国(信濃国の誤りか)へ向かった。同じ九日、その国の横田河原に陣を取った。木曾は依田の城にいたが、三千余騎で城を出て駆けつけた。そこで信濃の源氏井上九郎光盛の計略で、三千余騎を七手に分け、急いで赤旗を七流れ作って手に手に掲げ、あちらの岸、こちらの洞から寄せて行ったので、越後の軍勢はこれを見て、「おお、この国にも味方がいたのだ。心強いことだ」と勇み喜んでいたところに、だんだん近づいて来たので、合図を決めて七手が一つになり、赤旗を切り捨てさせて、かねて用意していた白旗をさっと掲げ、鬨の声をどっとあげたので、越後の軍勢はこれを見て、「これはだまされた。敵は何十万騎いるかわからない。取り囲まれてはかなうまい」といって、あわてふためいたが、あるいは川へ追いこまれ、あるいは悪路へ追い落とされて、助かる者は少なく、討たれる者が多かった。城四郎が頼みにしていた越後の山太郎や会津の乗丹坊などという一騎当千の武士たちも、そこでみな討ち取られた。城四郎は自身も傷を負い、からくも命をつないで、川に沿って越後国へ退いた。飛脚でこのことを都へ申したが、平家の人々はこれを問題にもされなかった。

同じ十六日、前右大将宗盛卿が大納言に復帰して、十月三日に内大臣になられた。同じ七日、そのお礼の参内である喜び申しがあったとき、公卿は花山院中納言をはじめとして十二人が付き従い、車を連ねて行った。蔵人頭親宗以下、殿上人十六人が先払いをした。中納言が四人、三位中将も三人までおられた。東国・北国の源氏たちが蜂のように起こり、今にも都へ乱入するといううわさが聞こえていたが、平家の人々は、風が吹いているのか波が立っているのかも知らないありさまである。このように華やかであったのも、かえってむなしいことに見えた。

そうこうするうちに今年も暮れて、寿永も二年になった。節会以下は例年どおりである。正月五日、朝覲の行幸があった。これは鳥羽院が六歳で朝覲の行幸をなさった、その例によるものと聞こえた。二月二十一日、宗盛公が従一位になられた。すぐにその日、内大臣を辞する上表をされた。これは兵乱を慎むためと聞こえた。南都・北嶺の大衆、熊野・金峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主・神官に至るまで、ひたすら平家に背いて源氏に心を通わせた。四方の海に宣旨を下し、諸国へ院宣を遣わしても、院宣も宣旨もみな平家の命令だとばかり思って、従う者もいなかった。

意訳

巻第六を結ぶ章段である。平家のための祈祷はかえって災いを招き、ある阿闍梨は平家こそ朝敵と見て調伏していた。山門と平家とが互いに攻められるといううわさに都が大騒ぎになるさまも、人心の離れた平家の不安を映している。

横田河原の合戦では、義仲方が赤旗(平家の旗)を掲げて味方と見せかけ、近づいてから白旗(源氏の旗)に替えて攻めかかった。大敗した城長茂の知らせにも平家は動じず、宗盛の内大臣就任を華やかに祝うが、物語はその華やかさをむなしいものとして描き、諸国がみな平家に背いたと語って巻を閉じる。

語釈・文法注

文法

「御巻數」
祈祷を行った僧が、読んだ経や陀羅尼の数を記して奉る文書。
「怱劇」
あわただしいこと。
「美濃の國へ發向す」
底本のまま。横田河原は信濃国にあり、通行本文は「信濃国へ」とする。
「おつぱめられ」
追いこまれ。「おひはめる」の促音便。
「喜申」
任官のお礼に参内すること。

解説

横田河原の戦いは寿永元年(1182)ではなく、史実では養和元年(1181)六月の出来事とされる。城長茂(助職)の大軍を破った義仲は北陸道に勢力を広げ、のちの倶利伽羅峠の戦いへとつながっていく(巻第七)。建礼門院の院号宣下は養和元年十一月のことである。

関連

出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、545–549頁(コマ301–303)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日