平家物語 巻第六
しはがれ声の事
越後守に任じられた城助長は、木曾義仲追討のため三万余騎で信濃へ向かおうとした。出陣の夜、雷雨の後の空から、大仏を焼いた平家の味方がここにいると、しわがれ声が三度叫んで通った。それでも出陣した助長は、黒雲に覆われて落馬し、そのまま死んだ。七月には養和と改元され、流されていた人々が都に召し返された。妙音院師長や資賢も帰京し、資賢は今様を当意即妙に歌い替えて評判になった。
- 1さるさるさる程程ほどににに越越えち後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん城城じょうののの太太た郎郎ろう助助すけ長長なが、、、越越えち後後ごののの守守かみににに任任にんぜぜぜらるらるらる。。。朝朝ちょう恩恩おんのののかたじけなさかたじけなさかたじけなさににに、、、木木き曾曾そ追追つい討討とうののの爲爲ためにににとてとてとて、、、そのそのその勢勢せい三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎きででで信信しな濃濃のののの國國くにへへへ發發はっ向向こうすすす。。。六六ろく月月がつ十十じゅう五五ご日日にちににに門門かど出出でしてしてして、、、既既すでにににうちうちうち立立たたたたんんんとととしししけるけるける夜夜や半半はんばかりばかりばかり、、、俄俄にはかににに空空そらかきかきかき曇曇くもりりり、、、雷雷いかずちのののおびたゞしうおびたゞしうおびただしゅう鳴鳴なつつっててて大大おお雨雨あめ下下くだりりり、、、天天てん晴晴はれれれててて後後のち、、、虛虛こ空空くうにににしはがれしはがれしわがれたるたるたる聲聲こえををを以以もっててて、、、「「「南南なん閻閻えん浮浮ぶ提提だい金金こん銅銅どう十十じゅう六六ろく丈丈じょうののの盧盧る遮遮しゃ那那な佛佛ぶつ燒燒やききき亡亡ほろぼしぼしぼし奉奉たてまつつつったるたるたる、、、平平へい家家けののの方方かた人人うどするするする者者ものこゝこゝここにににありありあり。。。寄寄よつつっててて召召めし捕捕とれれれややや。。。」」」ととと、、、三三み聲聲こえ叫叫さけんんんでででぞぞぞ通通とおりりりけるけるける。。。城城じょうののの太太た郎郎ろうををを始始はじめめめとととしてしてして、、、これこれこれををを聞聞きくくく兵兵つわもの共共ども、、、みなみなみな身身みののの毛毛けよだちよだちよだちけりけりけり。。。郎郎ろう等等どうどもどもども、、、「「「これこれこれほどほどほど恐恐おそろしきろしきろしき天天てんののの御御おん告告つげげげののの候候そうろうににに、、、たゞたゞただ理理りをををまげまげまげててて止止とどまらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれけれどもどもども、、、弓弓ゆみ矢矢や取取とるるる身身みのののそれそれそれににに依依よるるるべからべからべからずずずとてとてとて、、、城城じょうををを出出いでででててて、、、わづかわづかわずか二二に十十じゅう餘餘よ町町ちょうぞぞぞ行行ゆきききたりたりたりけるけるける。。。またまたまた黑黑こく雲雲うん一一ひとむらむらむら立立たちちち來來きたつつっててて、、、助助すけ長長ながががが上上うえににに覆覆おおふふうととと見見みえええしししががが、、、忽忽たちまちちちににに身身みすくみすくみすくみ、、、心心こころほれほれほれててて、、、落落らく馬馬ばしてしてしてけりけりけり。。。輿輿こしにににかかかかかかれれれててて館館たちへへへ返返かえりりり、、、うちうちうち臥臥ふすすすことことこと三三み時時ときばかりばかりばかりあつあつあっててて、、、遂遂ついににに死死しににににににけりけりけり。。。飛飛ひ腳腳きやくををを以以もっててて都都みやこへへへこのこのこの由由よしををを申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びと大大おおきききににに恐恐おそれれれ騒騒さわがががれれれけりけりけり。。。
- 2同同おなじきじきじき七七しち月月がつ十十じゅう四四し日日にち改改かい元元げんあつあつあっててて養養よう和和わととと號號こうすすす。。。そのそのその日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、筑筑ちく後後ごの守守かみ貞貞さだ能能よし肥肥ひ後後ごののの守守かみににになつなつなっててて、、、筑筑ちく前前ぜん、、、肥肥ひ後後ご兩兩りょう國國ごくををを賜賜たまはつはつわっててて、、、鎭鎭ちん西西ぜいののの謀謀む叛叛ほん平平たいらげらげらげににに、、、其其そののの勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで鎭鎭ちん西西ぜいへへへ發發はっ向向こうすすす。。。またまたまたそのそのその日日ひ非非ひ常常じょうののの赦赦しゃ行行おこなははわれれれててて、、、去去いんんんぬるぬるぬる治治じ承承しょう三三さん年年ねんににに流流ながささされれれたまひたまひたまいししし人人ひと々々びと、、、みなみなみな都都みやこへへへ召召めししし歸歸かえさささるるる。。。入入にゅう道道どう松松まつ殿殿どの殿殿てん下下が、、、備備び前前ぜんののの國國くによりよりより上上のぼらららせせせ給給たまふふう。。。妙妙みょう音音おん院院いんののの太太だい政政じょう大大だい臣臣じん殿殿どの、、、尾尾お張張はりののの國國くによりよりより御御ご上上しょう洛洛らく、、、按按あ察察ぜちののの大大だい納納な言言ごん資資すけ賢賢かた卿卿きょうははは信信しな濃濃のよりよりより歸歸き洛洛らくとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 3同同おなじきじきじき二二に十十じゅう八八はち日日にち、、、妙妙みょう音音おん院院いん殿殿どの御御ご院院いん參參さん、、、去去いんんんぬるぬるぬる長長ちょう寬寬かんののの歸歸き洛洛らくにににははは、、、御御ご前前ぜんののの簀簀すの子子こにににしてしてして、、、賀賀が王王おう恩恩おん、、、還還げん城城じょう樂樂らくををを彈彈ひきききたまひたまひたまいしししががが、、、養養よう和和わののの今今いまののの歸歸き京京きょうにににははは、、、仙仙せん洞洞とうにににしてしてして秋秋しゅう風風ふう樂樂らくをををぞぞぞあそばさあそばさあそばされれれけるけるける。。。何何なにも〳〵も〳〵もなにも風風ふ情情ぜい、、、折折おりをををおぼしめしおぼしめしおぼしめし寄寄よらららせせせ給給たまひひいけるけるける、、、御御おん心心こころばせばせばせこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。按按あ察察ぜちののの大大だい納納な言言ごん資資すけ賢賢かたののの卿卿きょうもももそのそのその日日ひ同同おなじうじうじゅう院院いん參參さんせせせらるらるらる。。。法法ほう皇皇おう叡叡えい覽覽らんつつつあてあてあて、、、「「「いかにいかにいかにやややいかにいかにいかに、、、このこのこの頃頃ごろははは習習ならははわぬぬぬひなひなひなののの住住すま居居ひしてしてして、、、郢郢えい曲曲きょくなどなどなどももも、、、今今いまははは定定さだめめめててて跡跡あとかたかたかたあらあらあらじじじとととこそこそこそ思思おぼし召召めせせせどもどもども、、、まづまづまず今今いま樣樣よう一一ひとつつつあれあれあれかしかしかし。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごん拍拍ひょう子子し取取とつつっててて、、、「「「信信しな濃濃のにににあんあんあんなるなるなる木木き曾曾そ路路じ川川がわ。。。」」」ととといふいふいう今今いま樣樣ようををを、、、これこれこれはははまさしうまさしうまさしゅう見見み聞聞きかかかれれれたりたりたりしかしかしかばばば、、、「「「信信しな濃濃のにににありありありししし木木き曾曾そ路路じ川川がわ。。。」」」ととと歌歌うたははわれれれけるけるけるこそこそこそ、、、時時ときににに取取とつつってててののの高高こう名名みょうなれなれなれ。。。
現代語訳
そのころ、越後国の住人城太郎助長が越後守に任じられた。朝廷の恩のありがたさに、木曾追討のためといって、手勢三万余騎で信濃国へ向かった。六月十五日に門出して、いよいよ出発しようとした夜半ごろ、急に空がかき曇り、雷がおびただしく鳴って大雨が降り、空が晴れた後、虚空にしわがれた声で、「南閻浮提の金銅十六丈の盧遮那仏を焼き滅ぼした平家の味方をする者がここにいる。寄って召し捕れ」と、三度叫んで通り過ぎた。城太郎をはじめとして、これを聞いた武士たちはみな身の毛がよだった。郎等たちは「これほど恐ろしい天のお告げがあったのですから、どうか無理にでもお止まりください」と言ったが、弓矢を取る身がそのようなことに従うべきではないといって、城を出て、わずか二十余町ほど行った。また黒雲が一むら立ちのぼって来て、助長の上に覆いかぶさると見えたが、たちまち体がすくみ、心がぼうっとなって落馬してしまった。輿に乗せられて館へ帰り、三時(六時間)ほど寝ていて、ついに死んでしまった。飛脚でこのことを都へ申したので、平家の人々はたいそう恐れ騒がれた。
同じ七月十四日に改元があって養和と号した。その日除目が行われて、筑後守貞能が肥後守になり、筑前・肥後の両国を賜って、九州の謀叛を平らげるため、手勢三千余騎で九州へ向かった。またその日、非常の大赦が行われて、去る治承三年に流された人々がみな都へ召し返された。入道松殿殿下(基房)は備前国から上られた。妙音院の太政大臣殿(師長)は尾張国からご上洛、按察大納言資賢卿は信濃から帰京したと聞こえた。
同じ二十八日、妙音院殿が院の御所に参られた。去る長寛の帰京のときには御前の簀子で賀王恩・還城楽を弾かれたが、養和の今の帰京には、仙洞(院の御所)で秋風楽を弾かれた。どれもこれも、その時にふさわしい曲を思いつかれたお心ばえはすばらしい。按察大納言資賢卿もその日同じく院の御所に参られた。法皇がご覧になって、「どうだどうだ。このごろは慣れない田舎住まいをして、歌謡なども、今はきっと跡かたもあるまいと思うが、まず今様を一つ歌ってみよ」とおっしゃったので、大納言は拍子を取って、「信濃にあるという木曾路川」という今様を、これは実際に見聞きされたので、「信濃にあった木曾路川」と歌われたのは、時にかなった手柄であった。
意訳
城助長の死と、流人たちの帰京とを描く章段である。大仏を焼いた平家に味方する者を責める天の声と、黒雲に覆われて死ぬ助長の姿は、南都炎上の仏罰がなお続いていることを示している。
後半は一転して、帰京した師長と資賢の風雅な逸話を語る。今様の「あんなる(あるという)」を、実際に信濃に流されていた身として「ありし(あった)」と歌い替えた資賢の機転が、当時の人々に称賛された。
語釈・文法注
文法
- 「方人」
- 味方。ひいきをする人。
- 「理をまげて」
- 道理を曲げてでも。無理にでも。
- 「心ほれて」
- 心がぼうっとして。
- 「叡覽つあて」
- 底本のまま。「叡覧あつて」の誤植と見られる。
- 「信濃にあんなる木曾路川」
- 今様の一節。「あんなる」は伝聞の「あるという」の意で、資賢は実際に信濃にいたので「ありし」と歌い替えた。
解説
城助長(資永)は越後の豪族で、養和元年(1181)に急死した。弟の助茂(長茂)が跡を継いで義仲と戦うことになる(次の「横田河原合戦の事」)。藤原師長は琵琶の名手で、治承三年の政変で尾張に流されていた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、543–545頁(コマ300–301)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
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