平家物語 巻第六
洲の股合戦の事
清盛と親しかった藤原邦綱も同じ月に亡くなった。法皇は荒れていた法住寺殿に戻り、建春門院の住んだ跡を見て涙した。南都の僧綱は赦され、行隆を奉行に大仏殿の再建が始まる。尾張では行家・義円の源氏六千余騎が知盛らの平家三万余騎と洲の股で戦ったが、夜半に川を渡って攻めかかった源氏は濡れた鎧を目印に討たれ、義円は戦死、行家も三河へ退いた。
- 1同同おなじきじきじき二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、五五ご條條じょう大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つな卿卿きょうももも失失うせせせ給給たまひひいぬぬぬ。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくとととさしもさしもさしも契契ちぎりりり深深ふこうううおはせおはせおわせしししががが、、、同同どう日日じつににに病病やみみみつきつきつきててて、、、同同おなじじじ月月つきうせうせうせ給給たまひひいけるけるけるこそこそこそ不不ふ思思し議議ぎなれなれなれ。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう二二に日日にち前前さき右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もり卿卿きょう院院いん參參さんしてしてして、、、院院いんののの御御ご所所しょををを法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなしなしなし奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし奏奏そうせせせらるらるらる。。。かのかのかの御御ご所所しょははは去去いんんんぬるぬるぬる應應おう保保ほう元元がん年年ねん四四し月月がつ十十じゅう五五ご日日にちににに造造つくりりり出出いだささされれれててて、、、新新いま日日ひ吉吉よし、、、新新いま熊熊くま野野の、、、閒閒ま近近ぢかううう勸勸かん請請じょうししし奉奉たてまつりりり、、、山山さん水水すい、、、木木こ立立だちににに至至いたるるるまでまでまで思思おぼし召召めすすすまゝまゝままなりなりなりしししががが、、、平平へい家家けののの惡惡あく行行ぎょうににに依依よつつっててて、、、このこのこの二二に三三さん箇箇か年年ねんははは院院いんももも渡渡わたらららせせせたまはたまはたまわずずず。。。御御ご所所しょののの廢廢はい壞壞えしたしたしたるるるををを修修しゅ理理りしてしてして、、、御御ご幸幸こうなしなしなしまゐらすまゐらすまいらすべきべきべき由由よし奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「何何なにのののやうやうようもももあるあるあるべがらべがらべがらずずず、、、たゞたゞただ疾疾とう〳〵う〳〵うとう。。。」」」とてとてとて御御ご幸幸こうなるなるなる。。。まづまづまず故故こ建建けん春春しゅん門門もん院院いんのののおはしおはしおわしけるけるける御御おん方方かたををを御御ご覽覽らんずれずれずればばば、、、岸岸きしののの松松まつ、、、汀汀みぎわののの柳柳やなぎ、、、年年とし經經へにににけりけりけりとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、木木こ高高だかくくくなれなれなれりりり。。。大大たい液液えきののの芙芙ふ蓉蓉よう、、、未未び央央おうののの柳柳やなぎ、、、これこれこれににに向向むかふふうににに如如い何何かんかかか涙涙なみだ進進すすまままざらざらざらんんん。。。かのかのかの南南なん園園えん西西せい宮宮ぐうののの昔昔むかしののの跡跡あと、、、今今いまこそこそこそ思思おぼし召召めししし知知しららられれれけれけれけれ。。。
- 2三三さん月月がつののの一一ひと日日ひののの日日ひ、、、南南なん都都とののの僧僧そう綱綱ごう等等らみなみなみな赦赦ゆるささされれれててて本本ほん官官かんににに復復ふくすすす。。。末末まつ寺寺じ、、、莊莊しょう園園えん、、、一一いっ所所しょももも相相そう違違いあるあるあるべからべからべからざるざるざる由由よし、、、仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。同同おなじきじきじき三三みつ日日かののの日日ひ、、、大大だい佛佛ぶつ殿殿でん事事こと始始はじめめめなりなりなり。。。事事ことはじめはじめはじめののの奉奉ぶ行行ぎょうにににははは、、、前前さきののの左左さ少少しょう辨辨べん行行ゆき隆隆たかぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。このこのこの行行ゆき隆隆たか、、、先先せん年年ねん八八や幡幡はたへへへ參參まいりりり、、、通通つ夜夜やせせせられられられたりたりたりけるけるける夢夢ゆめににに、、、御御ご寶寶ほう殿殿でんののの御御み戶戶とおしおしおし開開ひらききき、、、鬢鬢びん結結ずらうたるうたるゆうたる天天てん童童どうののの出出いでででててて、、、「「「これこれこれははは大大だい菩菩ぼ薩薩さつののの御御おん使使つかいなりなりなり。。。大大だい佛佛ぶつ殿殿でん事事ことはじめはじめはじめののの奉奉ぶ行行ぎょうののの時時ときははは、、、これこれこれををを持持もつつつべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、笏笏しゃくををを賜賜たまはるはるわるととといふいふいう夢夢ゆめををを見見みててて、、、覺覺さめめめててて後後のち見見み給給たまへへえばばば、、、うつゝうつゝうつつににに枕枕まくらがみがみがみにににぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。あなあなあな不不ふ思思し議議ぎ、、、當當とう時時じ何何なに事事ごとあつあつあってててかかか、、、大大だい佛佛ぶつ殿殿でん事事ことはじめはじめはじめののの奉奉ぶ行行ぎょうにににははは參參まいるるるべきべきべきととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、御御ご靈靈れい夢夢むなれなれなればばば懷懷かい中中ちゅうしてしてして宿宿しゅく所所しょににに歸歸かえりりり、、、深深ふこううう納納おさめめめててて置置おかかかれれれけるけるけるががが、、、平平へい家家けののの惡惡あく行行ぎょうににに依依よつつっててて南南なん都都と炎炎えん上上しょうののの閒閒あいだ、、、多多おおくくくののの辨辨べんののの中中なかにににこのこのこの行行ゆき隆隆たかををを選選えらびびび出出いだささされれれててて、、、大大だい佛佛ぶつ殿殿でん事事ことはじめはじめはじめののの奉奉ぶ行行ぎょうににに參參まいららられれれけるけるける宿宿しゅく緣緣えんののの程程ほどこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。
- 3同同おなじきじきじき十十とお日日かののの日日ひ、、、美美み濃濃のののの國國くにののの目目もく代代だい、、、早早はや馬馬うまををを以以もっててて都都みやこへへへ申申もうしししけるけるけるははは、、、源源げん氏氏じ既既すでににに尾尾お張張はりののの國國くにまでまでまで攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、道道みちををを塞塞ふさいいいででで、、、人人ひとををを一一いっ向向こう通通とおさささぬぬぬ由由よし申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、平平へい家家けやがてやがてやがて討討うつ手手てをををさしさしさし向向むけけけらるらるらる。。。大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは左左さ兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ知知とも盛盛もり、、、左左さ中中ちゅう將將じょう清清きよ經經つね、、、同同おなじきじきじき少少しょう將將しょう有有あり盛盛もり、、、丹丹たん後後ごののの侍侍じ從從じゅう忠忠ただ房房ふさ、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり繼繼つぎ、、、上總上總かずさののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ光光みつ、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え景景かげ清清きよををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎き尾尾お張張はりののの國國くにへへへ發發はっ向向こうすすす。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こく薨薨こうぜぜぜられられられてててわづかわづかわずか五五ご旬旬じゅんをををだにだにだに滿滿みたたたざるざるざるににに、、、さささこそこそこそ亂亂みだれれれたるたるたる世世よととといひいひいいながらながらながら、、、あさましかりあさましかりあさましかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 4源源げん氏氏じののの方方かたにににははは十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人うど行行ゆき家家いえ、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの弟弟おとと卿卿きょうののの公公きみ義義ぎ圓圓えん、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい六六ろく千千せん餘餘よ騎騎き、、、尾尾お張張はり川川がわををを隔隔へだてててててて、、、源源げん平平ぺい兩兩りょう方方ほうににに陣陣じんををを取取とるるる。。。同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にちののの夜夜よににに入入いつつっててて、、、源源げん氏氏じ六六ろく千千せん餘餘よ騎騎き、、、河河かはををを渡渡わたいいいててて平平へい家家け三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎きががが勢勢せいののの中中なかへへへ驅驅かけけけ入入いりりり、、、寅寅とらののの刻刻こくよりよりより矢矢や合合あわせしてしてして、、、夜夜よのののあくるあくるあくるまでまでまで戰戰たたかふふうににに、、、平平へい家家けののの方方かたにににはははちつちつちっとととももも騒騒さわがががずずず。。。「「「敵敵かたきははは河河かはををを渡渡わたいいいたれたれたればばば、、、馬馬うま、、、物物もの具具のぐもももみなみなみな濡濡ぬれれれたるたるたるぞぞぞ、、、それそれそれをををしるししるししるしににに討討うてててややや。。。」」」とてとてとて、、、源源げん氏氏じををを中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて、、、われわれわれうちうちうち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの弟弟おとと卿卿きょうののの公公きみ義義ぎ圓圓えん、、、深深ふか入入いりりりしてしてして討討うたたたれれれけりけりけり。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人うど行行ゆき家家いえさん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう多多おおくくく射射いさせさせさせ、、、力力ちから及及およばばばででで川川かはよりよりより東東ひがしへへへ引引ひき退退しりぞくくく。。。平平へい家家けやがてやがてやがて川川かはををを渡渡わたいいいててて、、、落落おちちち行行ゆくくく源源げん氏氏じををを、、、追追おふふうものものもの射射いににに射射いててて行行ゆくくくににに、、、あそこゝあそこゝあそここにてにてにて返返かえしししあはせあはせあわせててて防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふうととといへいへいえどもどもども、、、多多た勢勢ぜいににに無無ぶ勢勢ぜい、、、かなふかなふかなうべしべしべしとととももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。水水すい澤澤たくををを後後うしろにににするするすることことことなかれなかれなかれとととこそこそこそいふいふいうににに、、、今今こん度度どののの源源げん氏氏じののの謀謀はかりごとはははおろかおろかおろかなりなりなりとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人うど行行ゆき家家いえははは引引ひき退退しりぞききき、、、三三み河河かわののの國國くににににうちうちうち越越こえええててて、、、矢矢や矧矧はぎ川川がわののの橋橋はしををを引引ひききき、、、搔搔かい楯楯だてかいかいかいててて待待まちちちつけつけつけたりたりたり。。。平平へい家家けやがてやがてやがて續續つづいいいててて攻攻せめめめ給給たまへへえばばば、、、そこそこそこをををももも遂遂ついににに攻攻せめめめ落落おとささされれれぬぬぬ。。。なほなほなおももも續續つづいいいててて攻攻せめめめ給給たまははわばばば、、、三三み河河かわ、、、遠江遠江とおとうみののの勢勢せいはははたやすうたやすうたやすう附附つくくくべかりべかりべかりしししををを、、、大大たい將將しょう軍軍ぐん左左さ兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ知知とも盛盛もり、、、いたはりいたはりいたわりありありありとてとてとて、、、三三み河河かわののの國國くによりよりより都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけりけりけり。。。今今こん度度どももも、、、わづかわづかわずか一一いち陣陣ぢんをををこそこそこそ破破やぶららられれれたれたれたれどもどもども、、、殘殘ざん黨黨とうををを攻攻せめめめざれざれざればばば、、、させるさせるさせる仕仕し出出いだしししたるたるたる事事ことなきなきなきががが如如ごとししし。。。平平へい家家けははは去去きょ々々きょ年年ねん小小こ松松まつののの大大おと臣臣ど薨薨こうぜぜぜられられられぬぬぬ。。。今今こん年年ねんまたまたまた入入にゅう道道どう相相しょう國國こくうせうせうせ給給たまひひいぬぬぬ。。。運運うん命命めいののの末末すえににになるなるなる事事ことあらはあらはあらわなりなりなりしかしかしかばばば、、、年年とし頃頃ごろ恩恩おん顧顧このののともがらともがらともがらののの外外ほかははは、、、從從したがひひいつくつくつく者者ものなかりなかりなかりけりけりけり。。。東東とう國國ごくははは草草くさももも木木きもももみなみなみな源源げん氏氏じにににぞぞぞ靡靡なびきききけるけるける。。。
現代語訳
同じ二十日、五条大納言邦綱卿も亡くなられた。入道相国とあれほど親しくしておられたが、同じ日に病みついて同じ月に亡くなられたのは不思議なことである。同じ二十二日、前右大将宗盛卿が院の御所に参って、院を法住寺殿へお移し申し上げるべきだと奏上された。この御所は去る応保元年(1161)四月十五日に造られて、新日吉・新熊野を近くに勧請し、山水や木立に至るまでお心のままであったが、平家の悪行によって、この二、三年は院もお住まいにならなかった。荒れていた御所を修理して、お移し申し上げるべきだと奏上されたので、法皇は「何のさしさわりもない。ただ早く早く」といってお移りになった。まず故建春門院がお住まいであった御方をご覧になると、岸の松、汀の柳も年を経たと思われて、木高くなっていた。太液の芙蓉、未央の柳と詠まれたような景色に向かって、どうして涙が流れずにいられようか。あの南苑西宮の昔の跡を、今こそ思い知られたのである。
三月一日、南都の僧綱たちはみな赦されて本官に復した。末寺や荘園も一か所も元どおりであるべきだと命じられた。同じ三日、大仏殿再建の事始めである。事始めの奉行には前左少弁行隆が参られた。この行隆は先年、石清水八幡宮に参って夜通し祈っておられたときの夢に、御宝殿の御扉が押し開かれ、みずらを結った天童が出て来て、「これは大菩薩の御使いである。大仏殿事始めの奉行のときは、これを持て」といって笏を賜るという夢を見て、覚めてから見られると、現実に枕もとにあった。ああ不思議なことだ、今どんなことがあって大仏殿の事始めの奉行に参ることがあろうかと思われたが、御霊夢であるからと懐に入れて宿所に帰り、深くしまっておかれたところ、平家の悪行によって南都が炎上したので、多くの弁官の中からこの行隆が選び出されて、大仏殿事始めの奉行に参られた。その宿縁のほどはめでたいことである。
同じ十日、美濃国の目代が早馬で都へ申すには、源氏はすでに尾張国まで攻め上って道をふさぎ、人を一人も通さないということであったので、平家はすぐに討手を差し向けられた。大将軍には左兵衛督知盛、左中将清経、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、侍大将には越中次郎兵衛盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清をはじめとして、総勢三万余騎が尾張国へ向かった。入道相国が亡くなられてわずか五十日もたたないのに、いかに乱れた世とはいいながら、あさましいことであった。
源氏の方には十郎蔵人行家と兵衛佐の弟の卿公義円、総勢六千余騎が、尾張川をへだてて、源平両方が陣を取った。同じ十六日の夜になって、源氏六千余騎が川を渡って平家三万余騎の中へ駆け入り、寅の刻(午前四時ごろ)から矢合わせをして、夜が明けるまで戦ったが、平家の方は少しも騒がない。「敵は川を渡ったのだから、馬も鎧兜もみな濡れているぞ。それを目印に討て」といって、源氏を中に取り囲んで、我こそ討ち取ろうと進んだ。兵衛佐の弟の卿公義円は深入りして討たれた。十郎蔵人行家はさんざんに戦い、家の子・郎等の多くを射られて、力及ばず川より東へ退いた。平家はすぐに川を渡って、落ちて行く源氏を追いながら射に射て行くと、源氏はあちらこちらで引き返して防ぎ戦ったが、多勢に無勢で、かなうとも見えなかった。「水沢を背にしてはならない」というのに、今度の源氏の謀はおろかであったと人々は言った。十郎蔵人行家は退いて三河国に越え、矢作川の橋を引き落とし、楯を並べて待ち構えた。平家はすぐに続いて攻められたので、そこもついに攻め落とされた。なおも続いて攻めておられたら、三河・遠江の軍勢はたやすく味方についたであろうに、大将軍の左兵衛督知盛が病気だといって、三河国から都へ帰って来られた。今度もわずか一陣を破っただけで、残党を攻めなかったので、たいした手柄はないのと同じである。平家は一昨年、小松の大臣(重盛)が亡くなられた。今年また入道相国が亡くなられた。運命が末になったことは明らかだったので、長年恩顧を受けた者のほかは、従う者はいなかった。東国は草も木もみな源氏になびいた。
意訳
清盛の死後、法皇が法住寺殿に戻り、南都の僧が赦され、大仏殿の再建が始まるなど、政局が大きく動き出すさまを描く章段である。行隆が夢で笏を授かった話は、大仏再建が神仏の意志によるものであることを示している。
後半は、尾張の洲の股(墨俣)の合戦である。平家は濡れた鎧を目印に夜襲の源氏を破ったが、知盛の病もあって追撃せず、物語は運の尽きかけた平家から人心が離れていくさまを語って結ぶ。
語釈・文法注
文法
- 「何のやうもあるべがらず」
- 何のさしさわりもあるはずがない。「べがらず」は底本のまま。「べからず」の誤植か。
- 「大液の芙蓉、未央の柳」
- 白居易「長恨歌」の句。楊貴妃を失った玄宗が宮殿の景色を見て悲しむさまを、法皇が建春門院をしのぶ心に重ねる。
- 「水澤を後にすることなかれ」
- 兵法の教え。川や沢を背にして陣を取ってはならない。
- 「いたはりあり」
- 病気である。
解説
洲の股(墨俣)の合戦は治承五年(1181)三月十日ごろの戦いで、源行家・義円の軍が平重衡・知盛らの軍に大敗した。義円は義経の同母兄で、この戦いで戦死した。藤原邦綱は清盛と親しかった公卿で、清盛の死後まもなく閏二月二十三日に没した。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、541–543頁(コマ299–300)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日