平家物語 巻第六
慈心坊の事
清盛は慈恵僧正(良源)の化身だという話を伝える章段である。摂津清澄寺の僧慈心坊尊恵は、承安二年の暮れ、閻魔王宮の十万僧会に招かれる夢を見て冥土へ赴いた。閻魔王は尊恵に後生の道を説き、清盛は天台の仏法を守るために日本に生まれ変わった慈恵僧正であるから、日々三度礼拝していると告げ、その偈を清盛に伝えさせた。
- 1あるあるある人人ひとののの申申もうしししけるけるけるははは、、、清清きよ盛盛もり公公こうはははたゞたゞただ人人びとにににはははあらあらあらずずず、、、慈慈じ僧僧そう正正じょうののの化化け身身しんなりなりなり。。。そのそのその故故ゆえははは攝攝つ津津のののの國國くに清清せい澄澄ちょう寺寺じののの聖聖ひじり慈慈じ心心しん坊坊ぼう尊尊そん慧慧えととと申申もうししししししははは、、、もともともとははは叡叡えい山山ざんののの學學がく侶侶りょ、、、多多た年年ねん法法ほっ華華けののの智智ち者者しゃなりなりなり。。。然然しかるるるををを道道どう心心しん起起おこししし、、、離離り山山ざんしてしてしてこのこのこの寺寺てらににに住住すみみみけるけるけるををを、、、人人ひとみなみなみな歸歸き依依えしししけりけりけり。。。去去いんんんぬるぬるぬる承承しょう安安あん二二に年年ねん十十じゅう二二に月月がつ二二に十十じゅう二二に日日にちののの夜夜よににに入入いつつっててて、、、尊尊そん慧慧え常常じょう住住じゅうののの佛佛ぶつ前前ぜんににに至至いたりりり、、、脇脇きょう息息そくににに凭凭よりりりかゝつかゝつかかっててて、、、法法ほ華華け經經きょう讀讀よみみみ奉奉たてまつりりりけるけるける所所ところににに、、、夢夢ゆめととともももなくなくなくうつゝうつゝうつつととともももなくなくなく、、、淨淨じょう衣衣えににに立立たて烏烏え帽帽ぼ子子し著著きててて、、、鞋鞋わらんず、、、行行は纏纏ばきしししたるたるたる男男おとこ二二ふた人人り、、、立立たて文文ぶみをををもてもてもて來來きたりりりたりたりたり。。。尊尊そん慧慧え夢夢ゆめののの中中うちににに、、、「「「あれあれあれはははいづくいづくいずくよりよりよりぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「閻閻えん魔魔ま王王おう宮宮ぐうよりよりより宣宣せん旨旨じののの候候そうろう。。。」」」とてとてとて尊尊そん慧慧えににに渡渡わたすすす。。。尊尊そん慧慧えこれこれこれををを披披ひらいいいててて見見みるるるににに、、、「「「南南なん閻閻えん浮浮ぶ提提だい大大だい日日にっ本本ぽん國國ごく攝攝つ津津のののの國國くに清清せい澄澄ちょう寺寺じののの聖聖ひじり慈慈じ心心しん坊坊ぼう尊尊そん慧慧え、、、來來きたるるる二二に十十じゅう六六ろく日日にち閻閻えん魔魔ま羅羅ら城城じょう大大だい極極ごく殿殿でんにににしてしてして十十じゅう萬萬まん部部ぶののの法法ほ華華け經經きょうありありあり、、、十十じゅう萬萬まん國國ごくよりよりより十十じゅう萬萬まん人人にんののの僧僧そうををを供供く養養ようししし、、、法法ほっ華華け轉轉てん讀讀どくせせせらるらるらるべきべきべきなりなりなり。。。尊尊そん慧慧えもももそのそのその人人にん數數じゅたるたるたる上上うえ、、、急急いそぎぎぎ參參さん勤勤きんせせせらるらるらるべしべしべし。。。閻閻えん王王おう宣宣せん仍仍よつつっててて屈屈くつ請請しょう件件くだんののの如如ごとししし。。。承承しょう安安あん二二に年年ねん十十じゅう二二に月月がつ二二に十十じゅう二二に日日にち閻閻えん魔魔ま廳廳ちょう。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。
- 2尊尊そん慧慧え否否いなみみみ申申もうすすすににに及及およばばばねねねばばば、、、やがてやがてやがて領領りょう承承しょうののの請請うけ文文ぶみををを奉奉たてまつるるるととと覺覺おぼえええててて、、、夢夢ゆめさめさめさめぬぬぬ。。。これこれこれををを院院いん主主じゅののの光光こう影影よう房房ぼうににに語語かたりりりたりたりたりけれけれければばば、、、聞聞きくくく人人ひと身身みののの毛毛けよだちよだちよだちけりけりけり。。。そのそのその後後のちはははひとへひとへひとえににに死死し去去きょののの思思おもひひいをををなしなしなしててて、、、口口くちにににははは佛佛ぶつ名名みょうををを唱唱となへへえ、、、心心こころににに引引いん接接じょうののの悲悲ひ願願がんををを念念ねんずずず。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう五五ご日日にちののの夜夜よににに入入いつつっててて、、、またまたまた常常じょう住住じゅうののの佛佛ぶつ前前ぜんににに參參まいりりり、、、例例れいののの如如ごとくくく念念ねん誦誦じゅ讀讀どく經經きょうすすす。。。子子ねののの刻刻こくばかりばかりばかり眠眠ねむりりりしきりしきりしきりなるなるなるががが故故ゆえににに、、、住住じゅう房房ぼうににに歸歸かえつつってててうちうちうち臥臥ふすすす。。。丑丑うしののの刻刻こくばかりばかりばかり、、、またまたまた先先さきののの如如ごとくくく男男おとこ二二ふた人人り來來きたつつっててて、、、とう〳〵とう〳〵とうとうととと勸勸すすむるむるむる間間あいだ、、、尊尊そん慧慧え參參さん詣詣けい致致いたさささんんんとととすれすれすればばば、、、衣衣え鉢鉢はつ更更さらににになしなしなし、、、閻閻えん王王おう宣宣せんををを辭辭じせせせんんんとととすれすれすればばば、、、甚甚はなはだだだそのそのその恐恐おそれれれありありあり。。。このこのこの思思おもひひいをををなすなすなす所所ところににに、、、法法ほう衣衣え自自じ然然ねんににに身身みににに纏纏まとつつっててて肩肩かたにににかゝりかゝりかかり、、、天天てんよりよりより黃黃こ金金がねののの鉢鉢はち下下くだるるる。。。二二に人人にんののの從從じゅう僧僧そう、、、二二に人人にんののの童童どう子子じ、、、十十じゅう人人にんののの下下げ僧僧そう、、、七七しっ寶寶ぽうののの大大だい車車しゃ、、、寺寺じ房房ぼうののの前前まえににに現現げんずずず。。。
- 3尊尊そん慧慧え喜喜よろこんんんででで車車くるまににに乘乘のりりり、、、西西せい北北ほくににに向向むかつつっててて空空そらををを翔翔かけるるるととと覺覺おぼえええててて、、、程程ほどなくなくなく閻閻えん魔魔ま王王おう宮宮ぐうににに至至いたりりりぬぬぬ。。。王王おう宮宮ぐうののの體體ていををを見見みるるるににに、、、外外がい郭郭かく曠曠こう々々こうとととしてしてして、、、そのそのその内内うち渺渺びょう々々びょうたりたりたり。。。そのそのその内内うちににに七七しっ寶寶ぽう所所しょ成成じょうののの大大だい極極ごく殿殿でんありありあり。。。高高こう光光こう金金こん色色じきにににしてしてして、、、更更さらににに凡凡ぼん夫夫ぶののの眼眼まなこににに及及およびびび難難がたししし。。。そのそのその日日ひののの法法ほう會會え終終おわりりりててて後後のち、、、餘餘よ僧僧そう等等らみなみなみな歸歸かえりりり去去さりりりぬぬぬ。。。尊尊そん慧慧えははは大大だい極極ごく殿殿でんののの南南なん方方ぼうののの中中ちゅう門門もんににに立立たちちちててて、、、遙遙はるかかかののの大大だい極極ごく殿殿でんををを見見み渡渡わたせせせばばば、、、冥冥みょう官官かん冥冥みょう衆衆しゅみなみなみな閻閻えん魔魔ま法法ほう王王おうののの御御ご前前ぜんににに畏畏かしこまるまるまる。。。ありがたきありがたきありがたき參參さん詣詣けいなりなりなり。。。このこのこのついでついでついでににに後後ご生生しょうののの罪罪ざい障障しょうをををももも尋尋たずねねね申申もうさささんんんととと思思おもひひいててて歩歩あゆみみみ向向むかふふう。。。そのそのその間間あいだににに二二に人人にんののの從從じゅう僧僧そう箱箱はこををを持持もちちち、、、二二に人人にんののの童童どう子子じ蓋蓋がいをををさしさしさし、、、十十じゅう人人にんののの下下げ僧僧そう列列れつをををひいひいひいててて、、、やう〳〵やう〳〵ようよう歩歩あゆみみみ近近ちかづくづくずくときときとき、、、閻閻えん魔魔ま法法ほう王王おう、、、冥冥みょう官官かん冥冥みょう衆衆しゅ、、、悉悉ことごとくくく下下おりりり迎迎むかふふう。。。藥藥やく王王おう菩菩ぼ薩薩さつ、、、勇勇ゆう施施せ菩菩ぼ薩薩さつ、、、二二ふた人人りののの從從じゅう僧僧そうににに變變へんじじじ、、、多多た聞聞もん、、、持持じ國國こく、、、二二ふた人人りののの童童どう子子じににに現現げんずずず。。。十十じゅう羅羅ら刹刹せつ女女にょ、、、十十じゅう人人にんののの下下げ僧僧そうににに變變へんじじじててて隨隨ずい逐逐ちく給給きゅう仕仕じししし給給たまへへえりりり。。。
- 4閻閻えん王王おう問問とうううてててのたまはくのたまはくのたまわく、、、「「「餘餘よ僧僧そう等等ら歸歸かえりりり去去さりりりぬぬぬ。。。御御ご坊坊ぼう一一いち人人にん來來きたるるることことこと如如い何何かん。。。」」」尊尊そん慧慧え答答こたへへえ申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「われわれわれ幼幼よう少少しょうよりよりより、、、法法ほっ華華け轉轉てん讀讀どく毎毎まい日日にち怠怠おこたらららずずずととといへいへいえどもどもども、、、後後ご生生しょうののの罪罪ざい障障しょうををを未未いまだだだ知知しらららずずず、、、尋尋たずねねね申申もうさささんんんががが爲爲ためなりなりなり。。。」」」閻閻えん王王おう仰仰おおせせせけるけるけるははは、、、「「「往往おう生生じょう不不ふ往往おう生生じょうははは人人ひとののの信信しん不不ふ信信しんにににありありありととといふいふいうももも、、、それそれそれ法法ほっ華華けははは三三さん世世ぜののの諸諸しょ佛佛ぶつののの出出しゅっ世世せののの本本ほん懷懷かい、、、衆衆しゅ生生じょう成成じょう佛佛ぶつののの直直じき道道どうなりなりなり、、、一一いち念念ねん信信しん解解げののの功功く德德どくははは五五ご波波は羅羅ら蜜蜜みつののの行行ぎょうにににももも越越こえええ、、、五五ご重重じゅう展展てん轉轉でんののの隨隨ずい喜喜きののの功功く德德どくははは、、、八八はち十十じっ箇箇か年年ねんののの布布ふ施施せにににもももすぐれすぐれすぐれたりたりたり。。。さればさればされば汝汝なんじかのかのかの功功く力力りきににに依依よつつっててて、、、都都と率率そつののの内内ない院院いんににに生生しょうずずずべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。閻閻えん王王おうまたまたまた冥冥みょう官官かんににに敕敕ちょくしししててて仰仰おおせせせけるけるけるははは、、、「「「このこのこの人人ひとののの一一いち期期ごののの行行ぎょう、、、作作さ善善ぜんののの文文ふ箱箱ばこにににありありあり。。。取取とりりり出出いだいいいててて化化け他他たののの碑碑ひ文文もん見見みせせせ奉奉たてまつれれれ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、冥冥みょう官官かん畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、南南なん方方ぼうののの寶寶ほう藏藏ぞうににに行行ゆいいいててて、、、かのかのかの一一ひとつつつののの文文ふ箱箱ばこををを取取とつつっててて參參まいりりり、、、すなはちすなはちすなわち蓋蓋ふたををを開開ひらいいいててて讀讀よみみみ聞聞きかかかすすす。。。一一いち期期ごががが間間あいだ思思おもひひいととと思思おもひひい、、、せせせしししとととせせせししし事事ことののの、、、一一いちとととしてしてしてあらはれあらはれあらわれずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。尊尊そん慧慧え悲悲ひ歎歎たん涕涕てい泣泣きゅうしてしてして、、、「「「たゞたゞただ願願ねがははわくくくははは出出しゅつ離離り生生しょう死死じののの方方ほう法法ぼうををを教教をしへへへ、、、證證しょう大大だい菩菩ぼ提提だいののの直直じき道道どうををを示示しめししし給給たまへへえ。。。」」」ととと泣泣なく〳〵く〳〵くなく申申もうささされれれけれけれければばば、、、閻閻えん王王おう哀哀あい愍愍みん教教きょう化化けしてしてして、、、種種しゅ々々じゅののの偈偈げををを誦誦じゅすすす。。。
- 5妻妻さい子子し王王おう位位い財財ざい眷眷けん屬屬ぞく死死し去去こ無無む一一いち來來らい相相そう親親しん常常じょう隨隨ずい業業ごう鬼鬼き繋繋けい縛縛ばく我我が受受じゅ苦苦く叫叫きょう喚喚かん無無む邊邊へん際際ざい
- 6このこのこの偈偈げををを誦誦じゅししし終終おわりりりててて尊尊そん慧慧えににに附附ふ囑囑ぞくすすす。。。尊尊そん慧慧えなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび、、、「「「南南なん閻閻えん浮浮ぶ提提だい大大だい日日にっ本本ぽん國國ごくににに平平へい大大だい相相しょう國國こくととと申申もうすすす人人ひとこそこそこそ、、、攝攝つ津津のののの國國くに和和わ田田だののの御御み崎崎さきををを點點てんじじじててて、、、四四し面面めん十十じゅう餘餘よ町町ちょうににに屋屋やををを建建たててて、、、今今こん日日にちののの十十じゅう萬萬まん僧僧そう會會えののの如如ごとくくく、、、多多おおくくく持持じ經經きょう者者じゃををを屈屈くつ請請しょうしてしてして、、、坊坊ぼう々々ぼうににに一一いち面面めんににに座座ざにににつけつけつけ、、、念念ねん誦誦じゅ讀讀どく經經きょう丁丁てい寧寧ねいににに勤勤ごん行行ぎょう致致いたささされれれ候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。
- 7閻閻えん王王おう隨隨ずい喜喜き感感かん嘆嘆たんししし給給たまひひいててて、、、「「「件件くだんののの入入にゅう道道どうははは只只ただ人人びとにににはははあらあらあらずずず、、、まことまことまことにににははは慈慈じ慧慧え僧僧そう正正じょうののの化化け身身しんなりなりなり。。。天天てん台台だいののの佛佛ぶつ法法ぽう護護ご持持じののの爲爲ためににに、、、かりかりかりににに日日にっ本本ぽんににに再再さい誕誕たんするするする故故ゆえににに、、、われわれわれかのかのかの人人ひとををを日日にち々々にちににに三三さん度度ど禮禮らいするするする文文もんありありあり。。。件件くだんののの入入にゅう道道どうににに得得えさすさすさすべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、
- 8敬敬きょう禮禮らい慈慈じ慧慧え大大だい僧僧そう正正じょう天天てん台台だい佛佛ぶつ法法ぽう擁擁おう護護ご者者しゃ示示じ現現げん最最さい初初しょ將將しょう軍軍ぐん身身しん惡惡あく業業ごう衆衆しゅ生生じょう同同どう利利り益益やく
- 9このこのこの文文もんををを讀讀よみみみ終終おわつつっててて、、、尊尊そん慧慧えにににまたまたまた附附ふ囑囑ぞくすすす。。。尊尊そん慧慧え喜喜よろこびびび涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、南南なん方方ぼうののの中中ちゅう門門もんををを出出いづるづるずる時時とき、、、十十じゅう餘餘よ人人にんののの從從じゅう僧僧そう等等ら、、、車車くるまののの前前ぜん後後ごををを守守しゅ護護ごししし、、、東東とう南南なんににに向向むかつつっててて空空そらををを翔翔かけりりり、、、ほどほどほどなくなくなく歸歸かえりりり來來きたるるるかかかととと覺覺おぼえええててて、、、夢夢ゆめののの心心ここちちちしてしてして生生いききき出出いでででぬぬぬ。。。
- 10そのそのその後後のち都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていににに行行ゆいいいててて、、、このこのこの由由よし申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび、、、やう〳〵やう〳〵ようようにににもてなしもてなしもてなし、、、さま〴〵さま〴〵さまざまののの引引ひき出出で物物ものたうたうとうででで、、、そのそのその時時ときののの勸勸けん賞賞じょうにににははは律律りつ師師しににになさなさなされれれけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。それそれそれよりよりよりしてしてしてこそこそこそ清清きよ盛盛もり公公こうをををばばば、、、慈慈じ慧慧え僧僧そう正正じょうののの化化け身身しんとととははは、、、人人ひとみなみなみな知知しりりりてててけりけりけり。。。持持じ經經きょう上上しょう人人にんははは弘弘こう法法ぼう大大だい師師しののの再再さい誕誕たん、、、白白しら河河かわ院院のいんはははまたまたまた持持じ經經きょう上上しょう人人にんののの化化け身身しんなりなりなり。。。このこのこの君君きみははは功功く德德どくののの林林はやしをををなしなしなし、、、善善ぜん根根ごんののの德德とくををを重重かさねねねさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。末末まっ代代だいにににももも清清きよ盛盛もり公公こう、、、慈慈じ慧慧え僧僧そう正正じょうののの化化け身身しんにてにてにて、、、惡惡あく業業ごうももも善善ぜん根根ごんももも共共ともににに功功こうををを積積つんんんででで、、、世世よのののためためため人人ひとののの爲爲ためににに、、、自自じ他他たののの利利り益益やくをををなすなすなすととと見見みえええたりたりたり。。。かのかのかの達達だっ多多たととと釋釋しゃ尊尊そんののの同同どう衆衆しゅ生生じょうののの利利り益益やくににに異異ことならならならずずず。。。
現代語訳
ある人が言うには、清盛公はただ人ではない。慈恵僧正(良源)の化身である。そのわけは、摂津国清澄寺の聖、慈心坊尊恵という者は、もとは比叡山の学僧で、長年法華経を学んだ智者であった。ところが道心を起こし、比叡山を離れてこの寺に住んでいたのを、人々はみな帰依した。去る承安二年(1172)十二月二十二日の夜、尊恵が常住の仏前で脇息にもたれて法華経を読んでいたところ、夢ともうつつともなく、浄衣に立烏帽子を着け、わらじ・はばきを履いた男が二人、立文を持って来た。尊恵が夢の中で「あれはどこからか」とお尋ねになると、「閻魔王宮から宣旨です」といって尊恵に渡す。尊恵がこれを開いて見ると、「南閻浮提大日本国摂津国清澄寺の聖慈心坊尊恵に申す。来る二十六日、閻魔羅城の大極殿で十万部の法華経の法会があり、十万国から十万人の僧を招いて供養し、法華経を転読させる。尊恵もその一人であるから、急いで参勤せよ。閻魔王の宣旨により招請すること以上の通りである。承安二年十二月二十二日、閻魔庁」と書かれていた。
尊恵は辞退することもできないので、すぐにお受けする請文を差し上げたと思ったところで、夢が覚めた。これを院主の光影房に語ったところ、聞く人は身の毛がよだった。その後はひたすら死を覚悟して、口には仏の名を唱え、心には極楽へ導いてくださる仏の悲願を念じた。同じ二十五日の夜、また常住の仏前に参って、いつものように念誦読経した。子の刻(午前零時)ごろ、眠くてたまらなくなったので、住房に帰って横になった。丑の刻(午前二時)ごろ、また先のように男が二人来て、早く早くと促すので、尊恵は参詣しようとしたが衣も鉢もなく、閻魔王の宣旨を辞退しようとすればたいそう恐れ多い。そう思っていると、法衣が自然に身にまとわりついて肩にかかり、天から黄金の鉢が下りてきた。二人の従僧、二人の童子、十人の下僧、七宝の大車が寺房の前に現れた。
尊恵は喜んで車に乗り、西北に向かって空を翔けると思ううちに、まもなく閻魔王宮に着いた。王宮のありさまを見ると、外郭は広々として、内側は果てしなく遠い。その中に七宝でできた大極殿がある。高く光り輝いて金色で、まったく凡夫の目の及ぶところではない。その日の法会が終わって後、ほかの僧たちはみな帰って行った。尊恵は大極殿の南の中門に立って、はるかに大極殿を見渡すと、冥官・冥衆がみな閻魔法王の御前にかしこまっている。ありがたい参詣である。このついでに後生の罪障についてもお尋ねしようと思って歩み寄った。そのとき二人の従僧が箱を持ち、二人の童子が天蓋をさしかけ、十人の下僧が列をなして、しずしずと歩み近づくと、閻魔法王も冥官・冥衆もみな下りて迎えた。薬王菩薩と勇施菩薩が二人の従僧に姿を変え、多聞天と持国天が二人の童子となって現れていたのである。十羅刹女も十人の下僧に姿を変えて付き従い仕えておられた。
閻魔王がお尋ねになるには、「ほかの僧たちは帰ってしまった。御坊一人が来たのはどういうわけか」。尊恵が答えて申すには、「わたしは幼いころから法華経の転読を毎日怠りませんでしたが、後生の罪障をまだ知りません。それをお尋ねしようと思ってです」。閻魔王がおっしゃるには、「往生できるかどうかは人の信心の有無によるというが、そもそも法華経は三世の諸仏がこの世に出られた本意であり、衆生が成仏するための近道である。一念信解の功徳は五波羅蜜の行にもまさり、五重展転の随喜の功徳は八十年の布施にもまさっている。それゆえそなたはその功力によって、都率天の内院に生まれるであろう」とおっしゃった。閻魔王はまた冥官に命じて、「この人の一生の行いは作善の文箱にある。取り出して、他を教化した記録をお見せせよ」とおっしゃったので、冥官はかしこまって承り、南の宝蔵に行ってその文箱を一つ取って参り、すぐに蓋を開いて読み聞かせた。一生の間に思ったこと、行ったことが、一つとして記されていないことはない。尊恵は悲しみ泣いて、「どうか生死の迷いを離れる方法を教え、大菩提を証する近道をお示しください」と泣く泣く申されたので、閻魔王はあわれんで教え導き、さまざまな偈を唱えられた。
妻子も王位も財宝も一族も、死ねば一つとしてついて来て親しむものはない。常に付き従うのは業の鬼で、我を縛り、苦しみを受けて泣き叫ぶことは果てしがない。
この偈を唱え終わって尊恵に授けられた。尊恵はひととおりでなく喜んで、「南閻浮提大日本国に平大相国と申す人が、摂津国和田の御崎を選んで、四方十余町に建物を建て、今日の十万僧会のように多くの持経者を招いて、坊ごとに座につかせ、念誦読経をていねいに勤めておられます」と申した。
閻魔王は随喜し感嘆されて、「その入道はただ人ではない。まことは慈恵僧正の化身である。天台の仏法を守るために、かりに日本に生まれ変わったのだから、わたしはその人を日々に三度礼拝する文がある。その入道に与えよ」といって、
慈恵大僧正を敬礼す。天台の仏法を擁護する者なり。最初に将軍の身を示現し、悪業の衆生を同じく利益す。
この文を読み終えて、尊恵にまた授けられた。尊恵は喜んで涙を流し、南の中門を出るとき、十余人の従僧たちが車の前後を守り、東南に向かって空を翔けて、まもなく帰り着いたと思ううちに、夢から覚めたような心地で生き返った。
その後尊恵は都へ上り、入道相国の西八条の邸に行ってこのことを申したので、入道相国はひととおりでなく喜び、いろいろともてなし、さまざまな引出物を与えて、そのときの褒美として律師に任じられたと聞こえた。それ以来、清盛公を慈恵僧正の化身と人はみな知ったのである。持経上人は弘法大師の生まれ変わりであり、白河院はまた持経上人の化身である。この君(白河院)は功徳の林をなし、善根の徳を重ねておられた。末代にも清盛公は慈恵僧正の化身として、悪業も善根もともに功を積んで、世のため人のために自他の利益をなすと見えた。かの提婆達多と釈尊とが、ともに衆生を利益したのと異ならない。
意訳
悪行の報いで熱病に死んだ清盛を、一転して慈恵僧正の化身として語る章段である。閻魔王宮の壮麗な描写と、閻魔王が清盛を日々礼拝しているという意外な話とが、清盛像に別の面を与えている。
物語は、悪業も善根も衆生を利益するという仏教の考え方を引き、釈尊に敵対した提婆達多も結局は衆生を救う働きをしたのと同じだと結ぶ。清盛を単純な悪人としない見方が示されている。
語釈・文法注
- 慈恵僧正
- 良源(912〜985)。比叡山中興の祖とされる天台座主で、元三大師とも呼ばれる。
文法
- 「とう〳〵」
- 早く早く。「疾う疾う」。
- 「なのめならずに喜び」
- ひととおりでなく。底本は二か所とも「なのめならずに」と刷る。
- 「たうで」
- お与えになって。「たびて」の音便。
- 「達多と釋尊」
- 提婆達多は釈尊のいとこで、釈尊に敵対したが、法華経では釈尊の前世の師とされ、成仏を約束される。
解説
清盛を慈恵僧正(良源)の化身とする説話は、延慶本など他の諸本にも見え、清盛の死後に広まったものと考えられる。巻第六の後半は「慈心坊の事」「祇園の女御の事」と、清盛の出自や前世を語る章段を重ねて、清盛という人物の大きさを示そうとしている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、534–538頁(コマ296–298)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日