平家物語 巻第六
経の島の事
清盛の葬送の夜、西八条殿が焼け、六波羅の南では大勢が「うれしや水」と歌い踊って笑う声がした。天狗のしわざかと調べると、法住寺殿で酒盛りをしていた者たちであった。清盛の死後、平家では仏事も行われず、ただ戦の準備ばかりであった。物語は、清盛が人柱の代わりに石に一切経を書いて築いた福原の経の島が、今も船の往来を助けていると、その功績をたたえる。
- 1葬葬そう送送そうののの夜夜よ、、、不不ふ思思し議議ぎののの事事ことありありありけりけりけり。。。玉玉たまををを延延のべべべ、、、金金きん銀銀ぎんををを鏤鏤ちりばめめめててて造造つくららられれれたりたりたりけるけるける西西にし八八はち條條じょう殿殿どの、、、そのそのその夜夜よ俄俄にはかににに燒燒やけけけにににけりけりけり。。。人人ひとののの家家いえののの燒燒やくるくるくる事事ことははは常常つねのののならひならひならいなれなれなれどもどもども、、、何何なに者者もののののしわざしわざしわざにににやややありありありけんけんけん、、、放放ほう火火かとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。又又また六六ろく波波は羅羅らののの南南みなみににに當當あたつつっててて、、、人人ひとならならならばばば二二に三三さん十十じゅう人人にんばかりばかりばかりががが聲聲こえしてしてして、、、「「「うれしうれしうれしややや水水みず、、、鳴鳴なるるるははは瀧瀧たきののの水水みず。。。」」」ととといふいふいう拍拍ひょう子子しををを出出いだいいいててて、、、舞舞まひひい躍躍おどりりり、、、どつどつどっととと笑笑わらふふう聲聲こえしししけりけりけり。。。去去いんんんぬるぬるぬる正正しょう月月がつにににははは上上しょう皇皇こうかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、天天てん下下か諒諒りょう闇闇あんににになりなりなりぬぬぬ。。。わづかわづかわずか一一いち兩兩りょう月月げつををを隔隔へだてててててて入入にゅう道道どう相相しょう國國こく薨薨こうぜぜぜられられられぬぬぬ。。。心心こころなきなきなきあやしあやしあやしののの者者ものももも、、、いかゞいかゞいかが憂憂うれへへえざるざるざるべきべきべき。。。いかさまいかさまいかさまこれこれこれははは天天てん狗狗ぐののの所所しょ爲爲いととといふいふいう沙沙さ汰汰たにてにてにて、、、平平へい家家けのののはやりはやりはやりををおののの兵兵つわものどもどもども百百ひゃく餘餘よ人人にん、、、笑笑わらふふう聲聲こえににについついついてててこれこれこれををを尋尋たずぬるぬるぬるににに、、、院院いんののの御御ご所所しょ法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのにににははは、、、このこのこの三三さん箇箇か年年ねんははは院院いんもももわたらわたらわたらせせせ給給たまははわずずず、、、御御ご所所しょ預預あずかり備備び前前ぜんののの前前ぜん司司じ基基もと宗宗むねととといふいふいう者者ものありありあり。。。かのかのかの基基もと宗宗むねががが相相あい知知しつつったるたるたる者者ものどもどもども、、、酒酒さけををを持持もつつっててて來來きたりりり集集あつまりまりまり、、、飮飮のみみみけるけるけるががが、、、斯斯かかるかるかる折折おりふしふしふしににに音音おとなななせせせそそそとてとてとて飮飮のみみみけるけるけるががが、、、次次し第第だいににに飮飮のみみみ醉醉えひひいててて、、、かやうかやうかようににに舞舞まひひい躍躍おどりりりけるけるけるなりなりなり。。。
- 2六六ろく波波は羅羅らののの兵兵つわものどもどもどもこれこれこれををを聞聞ききききつけつけつけ、、、ばつばつばっとととおしおしおし寄寄よせせせ、、、酒酒さけににに醉醉えひひいたるたるたる者者ものどもどもども二二に三三さん十十じゅう人人にん搦搦からめめめ取取とつつっててて、、、六六ろく波波は羅羅らへへへゐゐいててて參參まいりりり、、、坪坪つぼののの内内うちににに引引ひき据据すゑゑえさせさせさせ、、、前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もり卿卿きょう、、、大大おお床床ゆかににに立立たつつっててて、、、事事ことののの仔仔し細細さいををを尋尋たずねねね聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「げにげにげにもももさやうさやうさようににに飮飮のみみみ醉醉えひひいたらたらたらんずるんずるんずる者者ものををを、、、さうなうさうなうそうのう斬斬きるるるべきべきべきやうやうようなしなしなし。。。」」」とてとてとて、、、みなみなみな返返かえささされれれけりけりけり。。。上上じょう下下げ人人ひとのののうせうせうせぬるぬるぬる跡跡あとにににははは、、、朝朝あさ夕夕ゆうににに鐘鐘かねうちうちうち鳴鳴ならしらしらし、、、例例れい時時じ懺懺せん法法ぼうするするする事事ことははは、、、常常つねのののならひならひならいなれなれなれどもどもども、、、このこのこの禪禪ぜん門門もん薨薨こうぜぜぜられられられててて後後のちははは、、、聊聊いささかかか供供く佛佛ぶつ施施せ僧僧そうののの營營いとなみみみととといふいふいう事事こともももなしなしなし。。。朝朝あさ夕夕ゆうたゞたゞただ軍軍いくさ合合かっ戰戰せんののの營營いとなみみみののの外外ほかははは、、、またまたまた他他た事事じなしなしなしとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 3およそおよそおよそははは最最さい後後ごののの所所しょ勞勞ろうののの有有あり樣樣さまどもどもどもこそこそこそうたてうたてうたてけれけれけれどもどもども、、、まことまことまことにににははは、、、たゞたゞただ人人びととととももも覺覺おぼえええぬぬぬ事事ことどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。日日ひ吉吉よしののの社社やしろへへへ參參まいりりり給給たまひひいしししにににももも、、、當當とう家家け、、、他他た家家けののの公公く卿卿ぎょう多多おおくくく供供ぐ奉奉ぶしてしてして、、、攝攝しょう錄錄ろくののの臣臣しんののの春春かす日日がののの御御ご參參さん詣詣けい、、、氏氏うじ入入いりなどなどなど申申もうすすすともともとも、、、これこれこれにににはははいかでいかでいかでかかかまさるまさるまさるべきべきべきとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 4何何なによりよりよりもももまたまたまた、、、福福ふく原原はらののの經經きょうののの島島しま築築ついいいててて、、、上上じょう下下げ往往おう來來らいののの船船ふねののの、、、今今いまののの世世よににに至至いたるるるまでまでまでわづらひわづらひわずらいなきなきなきこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。かのかのかの島島しまははは去去いんんんぬるぬるぬる應應おう保保ほう元元がん年年ねん二二に月月がつ上上じょう旬旬じゅんににに築築つききき始始はじめめめられられられたりたりたりけるけるけるががが、、、同同おなじきじきじき八八はち月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、俄俄にはかににに大大おお風風かぜ吹吹ふききき大大おお波波なみ立立たつつっててて、、、皆皆みな搖搖ゆりりり失失うしなひひいてててききき。。。同同おなじきじきじき三三さん年年ねん三三さん月月がつ下下げ旬旬じゅんににに、、、阿阿あ波波はののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よしををを奉奉ぶ行行ぎょうにてにてにて築築つかかかれれれけるけるけるににに、、、人人ひと柱柱ばしら立立たてててらるらるらるべきべきべきなんどなんどなんど、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかどもどもども、、、それそれそれはははなか〳〵なか〳〵なかなか罪罪ざい業業ごうなるなるなるべしべしべしとてとてとて、、、石石いしののの面面おもてににに一一いっ切切さい經經きょうををを書書かいいいててて築築つかかかれれれけるけるける故故ゆえにににこそこそこそ、、、經經きょうののの島島しまとととははは名名なづけづけづけけれけれけれ。。。
現代語訳
葬送の夜、不思議なことがあった。玉を敷きつめ、金銀をちりばめて造られた西八条殿が、その夜急に焼けてしまった。人の家が焼けるのは世の常であるが、何者のしわざであったのか、放火と聞こえた。また六波羅の南の方で、人ならば二、三十人ほどの声がして、「うれしや水、鳴るは滝の水」という拍子をとって舞い踊り、どっと笑う声がした。去る正月には上皇がお隠れになって、天下は諒闇(喪中)となった。わずか一、二か月をへだてて入道相国が亡くなられた。心ない身分の低い者でも、どうして嘆かずにいられようか。きっとこれは天狗のしわざだろうということで、平家の血気盛んな武士たち百余人が、笑う声をたよりに探して行くと、院の御所である法住寺殿には、この三年間は院もおいでにならず、御所の留守番として備前前司基宗という者がいた。その基宗の知り合いの者たちが酒を持って集まって飲んでいたが、このような時だから騒ぐなといって飲んでいたものの、しだいに酔って、このように舞い踊ったのであった。
六波羅の武士たちはこれを聞きつけて、ばっと押し寄せ、酒に酔った者ども二、三十人を捕らえて六波羅へ連れて参り、中庭に引き据えさせた。前右大将宗盛卿は大床に立って、事情をお尋ねになり、「なるほど、そのように酔っていた者を、むやみに斬ることはできない」といって、みな帰された。身分の上下を問わず、人が亡くなった後には、朝夕に鐘を鳴らし、例時作法や懺法を行うのが常であるが、この禅門(清盛)が亡くなってからは、少しも仏を供養し僧に施す営みということもない。朝夕ただ戦の準備のほかは、何もないように見えた。
およそ最期の病のありさまはひどいものであったが、まことに、ただ人とは思われないことも多かった。日吉の社へ参詣されたときも、平家一門も他家の公卿も多くお供をして、摂関家の春日社への参詣や氏入などといっても、これにはまさるまいと人々は言った。
何よりもまた、福原の経の島を築いて、上り下りの船が今の世に至るまで難儀することがないのは、すばらしいことである。この島は去る応保元年(1161)二月上旬に築きはじめられたが、同じ年の八月二日、急に大風が吹き大波が立って、すっかり揺り崩されてしまった。同じく三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行として築かれたとき、人柱を立てるべきだなどと公卿の評議があったが、それはかえって罪業になるだろうといって、石の面に一切経を書いて築かれたので、経の島と名づけたのである。
意訳
清盛の死後の出来事と、清盛の功績とを語る章段である。葬送の夜の不思議な笑い声は天狗のしわざかと恐れられたが、実は酒盛りの騒ぎであった。清盛亡き後の平家は、仏事も行わず、戦の準備に追われるばかりであった。
後半では一転して、清盛の偉業として福原の経の島の築造を挙げる。人柱の代わりに一切経を書いた石を沈めたという話は、清盛を単なる悪人として描かない物語の姿勢を示している。
語釈・文法注
文法
- 「うれしや水、鳴るは瀧の水」
- 当時はやった今様の一節。
- 「はやりをの兵」
- 血気にはやる武士。
- 「音なせそ」
- 音を立てるな。「な…そ」は禁止。
- 「さうなう」
- たやすく、むやみに。「さうなし」の連用形のウ音便。
- 「搖り失ひてき」
- 揺り崩してしまった。「き」は過去の助動詞。
解説
経の島(経が島)は、清盛が大輪田泊(今の神戸港)を整備するために築いた人工の島である。人柱の代わりに一切経を書いた石を沈めたという伝説が残り、のちに松王丸という少年が人柱になったという伝説も生まれた。大輪田泊の整備は、日宋貿易を進めた清盛の重要な事業であった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、532–534頁(コマ295–296)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日