平家物語 巻第六
飛脚到来の事
木曾義仲の挙兵に平家はおびえ、越後の城助長を越後守に任じて義仲を討たせようとした。河内では石川義基が背いて討たれる。さらに九州からは緒方惟義らの離反、四国からは河野通信が平家方の額入道西寂を討ったという飛脚が次々に届き、熊野別当湛増までが源氏に寝返った。東国・北国に続いて南海・西海までが背き、人々は世の終わりを嘆いた。
- 1木木き曾曾そととといふいふいう所所ところははは、、、信信しな濃濃のににに取取とつつってててももも南南みなみののの端端はし、、、美美み濃濃の境境ざかいなれなれなればばば、、、都都みやこももも無無む下下げにににほどほどほど近近ちかししし。。。平平へい家家けののの人人ひと々々びと、、、「「「東東とう國國ごくののの叛叛そむくくくだにだにだにあるあるあるににに、、、北北ほっ國國こくさへさへさへこここはははいかにいかにいかに。。。」」」とてとてとて、、、大大おおきききににに恐恐おそれれれ騒騒さわがががれれれけりけりけり。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「たとひたとひたとい信信しな濃濃の一一いっ國國こくののの者者もの共共どもこそこそこそ、、、木木き曾曾そににに從從したがひひいつくつくつくととといふいふいうともともとも、、、越越えち後後ごののの國國くににににははは餘餘よ五五ご將將しょう軍軍ぐんののの末末ばっ葉葉よう、、、城城じょうののの太太た郎郎ろう助助すけ長長なが、、、同同おなじきじきじき四四し郎郎ろう助助すけ茂茂もち、、、これこれこれららら兄兄きょう弟弟だい、、、共共ともににに多多た勢勢ぜいののの者者ものなりなりなり。。。仰仰おおせせせ下下くだしししたらたらたらんんんににに、、、易易やすううう討討うつつっててて參參まいらせらせらせてててんずんずんず。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「げにげにげにももも。。。」」」ととと申申もうすすす人人ひともももありありあり、、、「「「いや〳〵いや〳〵いやいやたゞたゞただ今今いま御御おん大大だい事事じににに及及およびびびなななんずんずんず。。。」」」ととと、、、さゝやくさゝやくささやく人人ひと々々びともももありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 2二二に月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、越越えち後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん城城じょうののの太太た郎郎ろう助助すけ長長なが、、、越越えち後後ごの守守かみににに任任にんずずず。。。これこれこれははは木木き曾曾そ追追つい討討とうせせせらるらるらるべきべきべき謀謀はかりごととととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。同同おなじきじきじき七七なぬ日日かののの日日ひ、、、大大だい臣臣じん公公く卿卿ぎょう、、、家家いえ々々いえにににしてしてして尊尊そん勝勝しょう陀陀だ羅羅ら尼尼に、、、竝竝ならびににに不不ふ動動どう明明みょう王王おう書書かき供供く養養ようせせせらるらるらる。。。これこれこれははは兵兵ひょう亂亂らんつゝしみつゝしみつつしみののの爲爲ためとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。同同おなじきじきじき九九ここの日日かののの日日ひ、、、河河こう内内ちののの國國くにののの石石いし川川かわののの郡郡こおりににに居居きょ住住じゅうしししけるけるける武武む藏藏さしののの權權ごんののの守守かみ入入にゅう道道どう義義よし基基もと、、、子子し息息そく石石いし川川かわののの判判ほう官官がん代代だい義義よし兼兼かね、、、これこれこれももも平平へい家家けににに背背そむいいいててて、、、賴賴より朝朝ともににに心心こころををを通通かよははわしししててて、、、東東とう國國ごくへへへ落落おちちち下下くだるるるべしべしべしなどなどなど聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、平平へい家家けやがてやがてやがて討討うつ手手てををを遣遣つかははわすすす。。。大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは源源げん大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん季季すえ貞貞さだ、、、攝攝つ津津のののの判判ほう官官がん盛盛もり澄澄ずみ、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎き、、、河河こう内内ちののの國國くにへへへ發發はっ向向こうすすす。。。城城じょうののの内内うちにににははは義義ぎ基基き法法ほう師師しををを始始はじめめめとととしてしてして、、、わづかわづかわずか百百ひゃく騎騎き許許ばかりりりにににははは過過すぎぎぎざりざりざりけりけりけり。。。卯卯うののの刻刻こくよりよりより矢矢や合合あわせしてしてして、、、一一いち日日にち戰戰たたかひひい暮暮くらししし、、、夜夜よににに入入いりりりけれけれければばば、、、義義ぎ基基き法法ほう師師し討討うち死死じにすすす。。。子子し息息そく石石いし川川かわののの判判ほう官官がん代代だい義義よし兼兼かねははは痛痛いた手手で負負おうううててて、、、生生いけ捕捕どりりりにににこそこそこそせせせられられられけれけれけれ。。。同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち日日にち、、、義義ぎ基基き法法ほう師師しががが首首くび都都みやこへへへ入入いつつっててて大大おお路路じををを渡渡わたさささるるる。。。諒諒りょう闇闇あんににに賊賊ぞく首首しゅををを渡渡わたさささるゝるゝるることことこと、、、堀堀ほり河河かわののの院院いん崩崩ほう御御ぎょののの時時とき、、、前前さきののの對對つ馬馬しまののの守守かみ源源みなもとののの義義よし親親ちかががが首首くびををを渡渡わたささされれれししし、、、そのそのその例例れいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 3あくるあくるあくる十十じゅう二二に日日にち、、、鎭鎭ちん西西ぜいよりよりより飛飛ひ腳腳きやく到到とう來來らい、、、宇宇う佐佐さののの大大だい宮宮ぐう司司じ公公きん通通みちががが申申もうしししけるけるけるははは、、、鎭鎭ちん西西ぜいののの者者もの共共ども、、、緒緒お方方がたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしををを始始はじめめめとととしてしてして、、、臼臼うす杵杵き、、、部部へ槻槻つき、、、松松まつ浦浦ら黨黨とうににに至至いたるるるまでまでまで、、、ひたすらひたすらひたすら平平へい家家けををを背背そむいいいててて、、、源源げん氏氏じににに同同どう心心しんののの由由よし申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びと、、、「「「東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの叛叛そむくくくだにだにだにあるあるあるににに、、、西西さい國國こくさへさへさへこここはははいかにいかにいかに。。。」」」とてとてとて、、、手手てををを打打うつつってててあざみあざみあざみ合合あははわれれれけりけりけり。。。同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にち、、、伊伊い豫豫よののの國國くによりよりより飛飛ひ腳腳きやく到到とう來來らい、、、去去こ年年ぞののの冬冬ふゆののの頃頃ころよりよりより伊伊い豫豫よののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち清清きよ、、、ひたすらひたすらひたすら平平へい家家けををを背背そむいいいててて源源げん氏氏じににに同同どう心心しんののの間間あいだ、、、備備びん後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん額額ぬかののの入入にゅう道道どう西西さい寂寂じゃくははは平平へい家家けににに志志こころざし深深ふかかりかりかりけれけれければばば、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで伊伊い豫豫よののの國國くにへへへおしおしおし渡渡わたりりり、、、道道どう前前ぜん道道どう後後ごののの境境さかいなるなるなる高高たか直直なおののの城城じょうにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに攻攻せめめめけれけれければばば、、、河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち清清きよ討討うち死死じにすすす。。。子子し息息そく河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち信信のぶははは、、、安安あ藝藝きののの國國くにののの住住じゅう人人にん奴奴ぬ田田だののの次次じ郎郎ろうははは母母はは方方かたののの伯伯お父父じなりなりなりけれけれければばば、、、それそれそれへへへ越越こえええてててありありありあはあはあわずずず、、、父父ちちををを討討うたたたせせせててて安安やすからからからずずず思思おもひひいけるけるけるががが、、、いかにいかにいかにもももしてしてして西西さい寂寂じゃくををを討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ窺窺うかがひひいけるけるける。。。
- 4額額ぬかののの入入にゅう道道どう西西さい寂寂じゃくははは四四し國國こくののの狼狼ろう藉藉ぜきををを鎭鎭しずめめめててて、、、今今こ年年とし正正しょう月月がつ十十じゅう五五ご日日にち、、、備備びん後後ごののの鞆鞆ともへへへ押押おし渡渡わたりりり、、、遊遊ゆう君君くん、、、遊遊ゆう女女じょどもどもどもををを召召めししし集集あつめめめててて、、、遊遊あそびびび戲戲たわぶれれれ、、、酒酒さか盛盛もりしししけるけるける所所ところへへへ、、、河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち信信のぶ、、、思思おもひひい切切きつつったるたるたる者者もの共共ども百百ひゃく餘餘よ人人にん相相あい語語かたらつらつらっててて、、、ばつばつばっととと押押おし寄寄よすすす。。。西西さい寂寂じゃくががが方方かたにににももも三三さん百百びゃく餘餘よ人人にんありありありけれけれけれどもどもども、、、俄俄にわか事事ごとにてにてにてありありありけれけれければばば思思おもひひい設設もうけけけずずず、、、あわてあわてあわてふためきふためきふためきけるけるけるががが、、、立立たち合合あふふう者者ものをををばばば射射い伏伏ふせせせ、、、斬斬きりりり伏伏ふせせせ、、、まづまづまず西西さい寂寂じゃくををを生生いけ捕捕どつつっててて、、、伊伊い豫豫よののの國國くにへへへ押押おし渡渡わたりりり、、、父父ちちががが討討うたたたれれれたるたるたる高高たか直直なおののの城城じょうまでまでまで提提さげげげ持持もちちち行行ゆききき、、、鋸鋸のこぎりにてにてにて首首くびををを切切きつつったりたりたりともともとも聞聞きこゆゆゆ。。。またまたまた磔磔はりつけにににしししたりたりたりともともとも聞聞きこえええけりけりけり。。。そのそのその後後のちははは四四し國國こくののの者者ものどもどもども、、、河河こう野野のののの四四し郎郎ろうににに從從したがひひいつくつくつく。。。またまたまた紀紀き伊伊いののの國國くにののの住住じゅう人人にん熊熊くま野野のののの別別べつ當當とう湛湛たん增增ぞうははは、、、平平へい家家け重重じゅう恩恩おんののの身身みなりなりなりしししががが、、、忽忽たちまちちち心心こころがはりがはりがわりしてしてして、、、源源げん氏氏じににに同同どう心心しんののの由由よし聞聞きこえええけりけりけり。。。およそおよそおよそ東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの叛叛そむくくくだにだにだにあるあるあるににに、、、南南なん海海かい、、、西西さい海海かいかくかくかくののの如如ごとししし。。。逆逆げき亂亂らんののの先先せん表表ぴょう頻頻しきりりりににに奏奏そうすすす。。。夷夷い狄狄てきののの蜂蜂ほう起起き、、、耳耳みみををを驚驚おどろかしかしかし、、、四四し夷夷い忽忽たちまちちちににに起起おこれれれりりり。。。世世よははは唯唯ただ今今いま失失うせせせなななんずんずんずとてとてとて、、、必必かならずずず平平へい家家けののの一一いち門門もんにににあらあらあらねねねどもどもども、、、心心こころあるあるある人人ひと々々びとののの歎歎なげききき悲悲かなしましましまぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。
現代語訳
木曾という所は、信濃の中でも南の端で美濃との境なので、都にもひどく近い。平家の人々は、「東国が背いただけでも大変なのに、北国までこれはどうしたことか」といって、たいそう恐れ騒がれた。入道相国がおっしゃるには、「たとえ信濃一国の者どもが木曾に従ったとしても、越後国には余五将軍の子孫、城太郎助長と同じく四郎助茂の兄弟がいる。ともに大勢の手勢を持つ者だ。命じて下せば、たやすく討って差し出すだろう」とおっしゃると、「もっともです」と申す人もあり、「いやいや、今にも大事になるだろう」とささやく人々もいたということである。
二月一日に除目が行われて、越後国の住人城太郎助長が越後守に任じられた。これは木曾を追討させるための謀であると聞こえた。同じ七日、大臣・公卿たちは、それぞれの家で尊勝陀羅尼と不動明王の書写供養をされた。これは兵乱を慎むためであると聞こえた。同じ九日、河内国石川郡に住んでいた武蔵権守入道義基と、その子石川判官代義兼が、これも平家に背いて頼朝に心を通わせ、東国へ落ちて行こうとしていると聞こえたので、平家はすぐに討手を遣わした。大将軍には源大夫判官季貞と摂津判官盛澄、総勢三千余騎が河内国へ向かった。城の中には義基法師をはじめとして、わずか百騎ほどしかいなかった。卯の刻から矢合わせをして一日中戦い、夜になったので、義基法師は討ち死にした。子の石川判官代義兼は深手を負って生け捕りにされた。同じ十一日、義基法師の首が都へ入って大路を引き回された。諒闇(天皇の喪中)に賊の首を引き回したのは、堀河院が崩御されたとき、前対馬守源義親の首を引き回した、その例によるものと聞こえた。
翌十二日、九州から飛脚が到着した。宇佐の大宮司公通が申すには、九州の者どもが、緒方三郎惟義をはじめとして、臼杵・部槻・松浦党に至るまで、ひたすら平家に背いて源氏に味方するということであったので、平家の人々は、「東国・北国が背いただけでも大変なのに、西国までこれはどうしたことか」といって、手を打ってあきれあった。同じ十六日、伊予国から飛脚が到着した。去年の冬ごろから、伊予国の住人河野四郎通清がひたすら平家に背いて源氏に味方していたので、備後国の住人額入道西寂は平家への忠誠心が深かったから、手勢三千余騎で伊予国へ押し渡り、道前・道後の境にある高直の城に押し寄せて、さんざんに攻めたところ、河野四郎通清は討ち死にした。子の河野四郎通信は、安芸国の住人奴田次郎が母方の伯父であったので、そちらへ行っていて居合わせず、父を討たせて心穏やかでなく思っていたが、なんとかして西寂を討ち取ろうと機会をうかがっていた。
額入道西寂は四国の乱暴を鎮めて、今年正月十五日、備後の鞆へ押し渡り、遊女たちを召し集めて遊び戯れ、酒盛りをしていたところへ、河野四郎通信が、覚悟を決めた者ども百余人と語らって、ばっと押し寄せた。西寂の方にも三百余人がいたが、突然のことだったので思いもよらず、あわてふためいていたが、立ち向かう者を射伏せ斬り伏せして、まず西寂を生け捕りにし、伊予国へ押し渡って、父が討たれた高直の城まで引っさげて行き、鋸で首を切ったとも聞こえる。また磔にしたとも聞こえた。その後は四国の者どもは河野四郎に従った。また紀伊国の住人、熊野の別当湛増は、平家から重い恩を受けた身であったが、たちまち心変わりして源氏に味方したと聞こえた。およそ東国・北国が背いただけでも大変なのに、南海・西海もこのありさまである。逆乱の前兆がしきりに奏上される。夷狄の蜂起が耳を驚かし、四方の夷がたちまち起こった。世は今にも滅びるだろうと、必ずしも平家の一門ではないが、心ある人々で嘆き悲しまない者はなかった。
意訳
木曾義仲の挙兵に続いて、各地から平家への反乱の知らせが届くさまを描く章段である。九州の緒方惟義、四国の河野通信、熊野の湛増と、平家の勢力圏であった西国までが次々に背いた。
章段名の「飛脚到来」は、こうした知らせが早馬で次々に都へもたらされたことによる。物語は、東西南北から反乱が起こった世を、四夷が起こったと嘆いて結んでいる。
語釈・文法注
文法
- 「易う討つて參らせてんず」
- たやすく討って差し出すだろう。「てんず」は「てむとす」の約。
- 「あざみ合はれけり」
- あきれあった。「あざむ」は驚きあきれる意。
- 「ありあはず」
- その場に居合わせなかった。
解説
治承五年(1181)の初めには、源氏の挙兵が東国だけでなく、北陸・九州・四国にまで広がった。河野通信は伊予の豪族で、のちに源氏方として壇の浦の合戦にも加わる。熊野別当湛増も、のちに源氏方につき、壇の浦で活躍する(巻第十一「鶏合壇の浦合戦の事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、526–528頁(コマ292–293)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日