平家物語 巻第六
廻文の事
清盛は法皇をなだめるため、厳島の内侍の生んだ娘を法皇に差し上げたが、高倉上皇の死から二週間もたたないうちのことで、人々は眉をひそめた。そのころ信濃の木曾には、源義賢の次男義仲がいた。二歳で父を討たれた義仲は、乳母子の兼遠に育てられ、力も武芸も人にすぐれた若者となった。頼朝の挙兵を聞いた義仲は、兼遠とはかって廻文をまわし、信濃・上野の武士を味方につけて兵を挙げた。
- 1入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、かやうかやうかようにににいたくいたくいたく情情なさけなうなうのう當當あたりりり奉奉たてまつららられれれたりたりたりけるけるけることことことををを、、、さすがさすがさすがそらそらそら恐恐おそろしうろしうおそろしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、法法ほう皇皇おう慰慰なぐさめめめ參參まいらせらせらせんんんとてとてとて、、、安安あ藝藝きののの嚴嚴いつく島島しまののの内内ない侍侍じががが腹腹はらににに、、、姫姫ひめ君君ぎみののの生生しょう年年ねん十十じゅう八八はちににになりなりなりたまふたまふたまうをををぞぞぞ、、、法法ほう皇皇おうへへへははは參參まいらせらせらせらるらるらる。。。當當とう家家け、、、他他た家家けののの公公く卿卿ぎょう多多おおくくく供供ぐ奉奉ぶしてしてして、、、ひとへひとへひとえににに女女にょう御御ご參參まいりりりののの如如ごとくくくにてにてにてぞぞぞありありありけるけるける。。。上上しょう皇皇こうかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、わづかわづかわずか二二ふた七七なぬ日日かだにだにだに過過すぎぎぎざるざるざるににに、、、然然しかるるるべからべからべからずずずとととぞぞぞ、、、人人ひと々々びとさゝやきさゝやきささやき合合あははわれれれけるけるける。。。
- 2さるさるさる程程ほどにににそのそのその頃頃ころ信信しな濃濃のののの國國くにににに、、、木木き曾曾そののの次次じ郎郎ろう義義よし仲仲なかととといふいふいう源源げん氏氏じありありありととと聞聞きこえええけりけりけり。。。かれかれかれははは故故こ帶帶たて刀刀はき先先せん生生じょう義義よし賢賢かたががが次次じ男男なんなりなりなり。。。然然しかるるるををを父父ちち義義よし賢賢かたははは去去いんんんぬるぬるぬる久久きゅう壽壽じゅ二二に年年ねん八八はち月月がつ十十じゅう二二に日日にち、、、鎌鎌かま倉倉くらののの惡惡あく源源げん太太た義義よし平平ひらががが爲爲ためににに誅誅ちゅうせせせられられられぬぬぬ。。。そのそのその時時ときははは未未いまだだだ二二に歳歳さいなりなりなりしししををを、、、母母ははかゝへかゝへかかえててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく信信しな濃濃のへへへ下下くだりりり、、、木木き曾曾そののの仲仲ちゅう三三ぞう兼兼かね遠遠とおがががもともともとににに行行ゆきききててて、、、「「「これこれこれいかにいかにいかにもももしてしてして育育そだてててててて、、、人人ひとににに成成なしししてててわれわれわれににに見見みせせせよよよ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、兼兼かね遠遠とおかひ〴〵しうかひ〴〵しうかいがいしゅう請請うけ取取とつつっててて養養よう育育いくすすす。。。やう〳〵やう〳〵ようよう長長ちょう大大だいするするする儘儘ままににに、、、容容よう儀儀ぎ帶帶たい佩佩はい人人ひとにににすぐれすぐれすぐれ、、、心心こころももも雙雙ならびびびなくなくなく剛剛ごうなりなりなりけりけりけり。。。力力ちからののの強強つよさささ、、、弓弓ゆみ矢矢や、、、打打うち物物もの取取とつつってててははは、、、すべてすべてすべて上上じょう古古こののの田田た村村むら、、、利利とし仁仁ひと、、、餘餘よ五五ご將將しょう軍軍ぐん、、、致致ち賴賴らい、、、保保ほう昌昌しょう、、、先先せん祖祖ぞ賴賴らい光光こう、、、義義よし家家いえののの朝朝あ臣臣そんととといふいふいうともともとも、、、これこれこれにににはははいかでいかでいかでかかかまさるまさるまさるべきべきべきとととぞぞぞ人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 3十十じゅう三三さんででで元元げん服服ぷくしししたりたりたりしししにににももも、、、まづまづまず八八や幡幡はたへへへ參參まいりりり、、、通通つ夜夜やしてしてして、、、わがわがわが四四し代代だいののの祖祖そ父父ふ義義よし家家いえののの朝朝あ臣臣そんははは、、、このこのこの御御おん神神かみののの御御み子子ことととなしなしなしててて、、、名名なをををばばば八八はち幡幡まん太太た郎郎ろう義義よし家家いえととと號號こうしししききき。。。かつかつかつはははそのそのその跡跡あとををを追追おふふうべしべしべしとてとてとて、、、御御ご寶寶ほう前前ぜんにてにてにて髻髻もとどり取取とりりりあげあげあげ、、、木木き曾曾そののの次次じ郎郎ろう義義よし仲仲なかとととこそこそこそつけつけつけたりたりたりけれけれけれ。。。常常つねははは傅傅めのと仲仲ちゅう三三ぞうににに具具ぐせせせられられられててて都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、平平へい家家けのののふるまひふるまひふるまい、、、ありさまありさまありさまなどなどなどをををももも、、、よく〳〵よく〳〵よくよく見見み窺窺うかがひひいけりけりけり。。。
- 4木木き曾曾そ、、、あるあるある時時とき傅傅めのと兼兼かね遠遠とおををを呼呼ようううででで、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそも兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝ともははは東東とう八八はっ箇箇か國國こくををを打打うち從從したがへへえててて、、、東東とう海海かい道道どうよりよりより攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、平平へい家家けををを追追おひひい落落おとさささんんんとととすすすなりなりなり。。。義義よし仲仲なかももも東東とう山山せん、、、北北ほく陸陸ろく兩兩りょう道道どうををを從從したがへへえててて、、、今今いま一一いち日日にちももも先先さきににに平平へい家家けををを亡亡ほろぼしぼしぼしててて、、、たとへばたとへばたとえば日日にっ本本ぽん國國ごくににに二二ふた人人りののの將將しょう軍軍ぐんととと仰仰あうがががれれれんんんととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、兼兼かね遠遠とお大大おおきききににに畏畏かしこまりまりまり喜喜よろこんんんででで、、、「「「そのそのその料料りょうにににこそこそこそ、、、君君きみをををばばばこのこのこの二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんまでまでまで養養よう育育いくししし奉奉たてまつつつっててて候候そうらへへえ。。。かやうかやうかようににに仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるこそこそこそ、、、八八はち幡幡まん殿殿どのののの御御おん末末すえとととももも覺覺おぼえええさせさせさせましませましませましませ。。。」」」とてとてとて、、、やがてやがてやがて謀謀む叛叛ほんををを企企くわだつつつ。。。まづまづまず廻廻めぐらし候候そうろうべしべしべしとてとてとて、、、信信しな濃濃のののの國國くににににははは根根ね井井のいののの小小こ彌彌や太太た、、、滋滋しげ野野のののの行行ゆき親親ちかををを語語かたらふらふらうににに、、、背背そむくくく事事ことなしなしなし。。。これこれこれををを始始はじめめめててて信信しな濃濃の一一いっ國國こくののの兵兵つわものどもどもども、、、皆皆みな隨隨したがひひいつきつきつきにににけりけりけり。。。上上こう野野ずけののの國國くににににははは田田た子子ごののの郡郡こおりののの兵兵つわものどもどもども、、、父父ちち義義よし賢賢かたがががよしみよしみよしみににに依依よつつっててて、、、これこれこれももも從從したがひひいつきつきつきにににけりけりけり。。。平平へい家家けののの末末すえににになりなりなりぬるぬるぬる折折おりををを得得えててて、、、源源げん氏氏じ年年ねん來來らいののの素素そ懷懷かいををを遂遂とげげげんんんとととすすす。。。
現代語訳
入道相国は、このようにひどく情けなく法皇に当たってこられたことを、さすがに空恐ろしく思われたのであろうか、法皇をお慰めしようとして、安芸の厳島の内侍の生んだ姫君で、十八歳になられるのを、法皇へ差し上げられた。平家一門も他家の公卿も多くお供をして、まるで女御の入内のようであった。上皇がお隠れになって、わずか二七日(十四日)も過ぎないのに、よろしくないことだと人々はささやきあった。
そのころ信濃国に、木曾次郎義仲という源氏がいると聞こえた。彼は故帯刀先生義賢の次男である。ところが父の義賢は、去る久寿二年(1155)八月十二日、鎌倉の悪源太義平に討たれてしまった。そのとき義仲はまだ二歳であったのを、母が抱いて泣く泣く信濃へ下り、木曾の中三兼遠のもとに行って、「これをなんとしても育てて、一人前にしてわたしに見せておくれ」と言ったので、兼遠はかいがいしく引き受けて育てた。しだいに成長するにつれて、容姿も立派で人にすぐれ、心も並ぶ者なく剛勇であった。力の強さ、弓矢や打物をとっては、およそ昔の田村麻呂・利仁・余五将軍(維茂)・致頼・保昌、先祖の頼光や義家朝臣といっても、どうしてこれにまさろうかと人々は言った。
十三歳で元服したときにも、まず石清水八幡宮へ参って夜通し祈り、「わが四代の祖父義家朝臣は、この御神の御子となって、名を八幡太郎義家と名のった。一つにはその跡を追おう」といって、御宝前で髻を結い上げ、木曾次郎義仲と名のった。いつも乳母子の中三に連れられて都へ上り、平家のふるまいやありさまなどを、よくよくうかがい見ていた。
木曾はあるとき乳母子の兼遠を呼んで、「そもそも兵衛佐頼朝は東国八か国を従えて、東海道から攻め上り、平家を追い落とそうとしているという。義仲も東山・北陸の両道を従えて、一日でも先に平家を滅ぼして、いわば日本国に二人の将軍と仰がれようと思うがどうか」とおっしゃると、兼遠はたいそうかしこまって喜び、「そのためにこそ、君をこの二十余年まで養育申し上げてきたのです。このようにおっしゃるのこそ、八幡殿の御末と思われます」といって、すぐに謀叛を企てた。まず廻文を出そうといって、信濃国では根井小弥太と滋野行親を誘うと、背く者はいない。これをはじめとして信濃一国の武士たちは、みな従いついた。上野国では田子の郡の武士たちが、父義賢のよしみによって、これも従いついた。平家の世が末になった機会をとらえて、源氏は年来の本望を遂げようとした。
意訳
後半から、木曾義仲が物語に登場する。父を討たれて木曾に逃れ、乳母子の兼遠に育てられた義仲は、武勇にすぐれた若者に成長した。頼朝の挙兵に呼応して、義仲は廻文によって信濃・上野の武士を集め、平家打倒の兵を挙げる。
語釈・文法注
- 廻文
- 何人もに順に回して読ませる文書。ここでは挙兵への参加を呼びかける回状。
文法
- 「二七日」
- 十四日。人の死後、二度目の七日。
- 「呼うで」
- 呼んで。「呼びて」の音便。
- 「その料」
- そのため。
解説
木曾義仲(1154〜1184)は源義賢の子で、頼朝・義経のいとこにあたる。父義賢は久寿二年(1155)、甥の義平に武蔵国大蔵館で討たれた。義仲は治承四年(1180)九月に信濃で挙兵し、のちに倶利伽羅峠の戦いで平家を破って入京する(巻第七)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、524–526頁(コマ291–292)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日