平家物語 巻第六
新院崩御の事
治承五年の正月は、東国の兵乱と南都の炎上のため、宮中の行事もさびしく行われた。南都の僧綱は官を解かれ、焼け残った僧たちも山林に散った。興福寺の別当永円は経巻の焼けるのを見て病みついて亡くなる。父法皇の幽閉、以仁王の死、遷都、南都炎上と心労の続いた高倉上皇も、正月十四日、二十一歳で崩御した。
- 1治治じ承承しょう五五ご年年ねん正正しょう月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、内内だい裏裏りにににははは東東とう國國ごくののの兵兵へい革革かく、、、南南なん都都とののの火火か災災さいににに依依よつつっててて、、、朝朝ちょう拜拜はい停停とどめめめられられられててて、、、主主しゅ上上しょう出出しゅつ御御ぎょもももなしなしなし。。。ものものものののの音音ねももも吹吹ふききき鳴鳴ならさらさらさずずず、、、舞舞ぶ樂樂がくももも奏奏そうせせせずずず、、、吉吉よし野野のののの國國く栖栖ずももも參參まいらららずずず、、、藤藤とう氏氏しののの公公く卿卿ぎょう一一いち人人にんももも參參さんぜぜぜられられられずずず。。。是是これははは氏氏うじ寺寺でら燒燒しょう失失しつににに依依よつつってててなりなりなり。。。二二ふつ日日かののの日日ひ殿殿てん上上じょうののの宴宴えん醉醉すいもももなくなくなく、、、男男なん女女にょうちうちうちひそめひそめひそめててて、、、禁禁きん中中ちゅういま〳〵しういま〳〵しういまいましゅうぞぞぞ見見みえええししし。。。竝竝ならびににに佛佛ぶつ法法ぽう、、、王王おう法法ぼう共共ともににに盡盡つきききぬるぬるぬることことことぞぞぞ淺淺あさましきましきましき。。。法法ほう皇皇おう仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「四四し代代だいののの帝帝てい王王おう、、、思思おもへへえばばば子子こなりなりなり、、、孫孫まごなりなりなり。。。いかなれいかなれいかなればばば萬萬ばん機機きののの政政せい務務むををを停停とどめめめられられられててて、、、空空むなしうしうしゅう年年とし月月つきををを送送おくるるるらんらんらん。。。」」」とととぞぞぞ御御おん歎歎なげきききありありありけるけるける。。。同同おなじきじきじき五五いつ日日かののの日日ひ、、、南南なん都都とののの僧僧そう綱綱ごう等等ら闕闕けっ官官かんせせせられられられててて、、、公公く請請じょうををを停停ちょう止止じししし、、、所所しょ職職しょくををを沒沒もっ收收しゅうせせせらるらるらる。。。さればさればさればかたかたかたのののやうやうようにににてててももも御御ご齋齋さい會會えはははあるあるあるべきべきべきものものものをををととと、、、僧僧そう名名めいののの沙沙さ汰汰たありありありしししににに、、、南南なん都都とののの僧僧そう綱綱ごう等等らはははみなみなみな闕闕けっ官官かんせせせられられられぬぬぬ。。。北北ほく京京きょうののの僧僧そう綱綱ごうををを以以もっててて行行おこなははわるるるべきべきべきかかかととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかどもどもども、、、さればさればさればとてとてとて今今いま更更さら南南なん都都とをををももも捨捨すてててさせさせさせ給給たまふふうべきべきべきにににあらあらあらねねねばばば、、、三三さん論論ろん宗宗しゅうののの學學がく匠匠しょう、、、成成じょう法法ほう已已い講講こうががが忍忍しのびびびつゝつゝつつ、、、勸勸かん修修じゅ寺寺じににに隱隱かくれれれゐゐいたりたりたりけるけるけるををを召召めししし出出いでででててて、、、御御ご齋齋さい會會えかたかたかたののの如如ごとくくく遂遂とげげげ行行おこなははわるるる。。。
- 2衆衆しゅ徒徒とはははみなみなみな老老おいいいたるたるたるももも、、、若若わかきききももも、、、或或あるいははは射射い殺殺ころささされれれ、、、或或あるいははは切切きりりり殺殺ころささされれれててて、、、煙煙けぶりののの中中なかををを出出いでででずずず、、、焰焰ほのおににに咽咽むせんんんででで亡亡ほろびびびにににしかしかしかばばば、、、僅僅わずかににに殘殘のこるるる輩輩ともがらははは山山さん林林りんににに交交まじはつはつわっててて、、、跡跡あとををを止止とどむるむるむる者者もの一一いち人人にんもももなしなしなし。。。中中なかにににももも興興こう福福ぶく寺寺じののの別別べつ當當とう花花け林林りん院院いんののの僧僧そう正正じょう永永よう圓圓えんははは、、、佛佛ぶつ像像ぞう、、、經經きょう巻巻かんののの煙煙けぶりととと立立たち昇昇のぼらららせせせ給給たまふふうををを見見み參參まいらせらせらせててて、、、あなあなあなあさましあさましあさましとてとてとて、、、胸胸むねうちうちうち騒騒さわがががれれれけるけるけるよりよりより病病やまいつきつきつきててて、、、遂遂ついにににうせうせうせ給給たまひひいぬぬぬ。。。このこのこの永永よう圓圓えんははは優優ゆうにににやさしきやさしきやさしき人人ひとにてにてにておはしおはしおわしけりけりけり。。。あるあるある時時とき、、、ほとゝぎすほとゝぎすほととぎすののの鳴鳴なくくくををを聞聞きいいいててて、、、
- 3聞聞きくくくたびたびたびににに珍珍めずらしけれらしけれらしければばばほとゝぎすほとゝぎすほととぎすいついついつももも初初はつ音音ねのののこゝちこゝちここちこそこそこそすれすれすれ
- 4ととといふいふいう歌歌うたををを詠詠よみみみてててこそこそこそ、、、初初はつ音音ねののの僧僧そう正正じょうとととはははいはいはいわれれれ給給たまひひいけれけれけれ。。。
- 5上上しょう皇皇こうははは一一を昨昨と年年とし、、、法法ほう皇皇おうののの鳥鳥と羽羽ば殿殿どのにににおしおしおしこめこめこめられられられてててわたらわたらわたらせせせ給給たまひひいししし御御おん事事こと、、、去去こ年年ぞ高高たか倉倉くらののの宮宮みやののの討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひいししし御御おんありさまありさまありさま、、、さしもさしもさしもたやすからたやすからたやすからぬぬぬ天天てん下下かののの大大だい事事じ、、、都都みやこうつりうつりうつりなどなどなど申申もうすすすことことことににに、、、御御ご惱惱のうつかつかつかせせせ給給たまひひいててて、、、御御おん煩煩わずらわしうしうしゅう聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいしししががが、、、今今いままたまたまた東東とう大大だい寺寺じ、、、興興こう福福ぶく寺寺じののの亡亡ほろびびびぬるぬるぬる由由よし聞聞きこし召召めしししててて、、、御御ご惱惱のういとゞいとゞいとど重重おもらららせせせおはしますおはしますおわします。。。法法ほう皇皇おうなのめなのめなのめならならならずずず御御おんなげきなげきなげきありありありしししほどほどほどににに、、、同同おなじきじきじき十十じゅう四四よつ日日か六六ろく波波は羅羅ら池池いけ殿殿どのにてにてにて、、、新新しん院院いん遂遂ついににに崩崩ほう御御ぎょなりなりなりぬぬぬ。。。御御ぎょ宇宇う十十じゅう二二に年年ねん、、、德德とく政政せい千千せん萬萬ばん端端たん、、、詩詩し書書しょ、、、仁仁じん義義ぎののの廢廢すたれれれぬるぬるぬる道道みちををを起起おこししし、、、理理り世世せい安安あん樂樂らくののの絶絶たえええたるたるたる跡跡あとをををつぎつぎつぎ給給たまふふう。。。三三さん明明みょう六六ろく通通つうののの羅羅ら漢漢かんももも免免まぬかれれれ給給たまははわずずず、、、幻幻げん術術じゅつ變變へん化化げののの權權ごん者者じゃももも遁遁のがれれれぬぬぬ道道みちなれなれなればばば、、、有有う爲爲い無無む常常じょうのののならひならひならいとととはははいひいひいいながらながらながら、、、ことわりことわりことわり過過すぎぎぎてててぞぞぞ覺覺おぼえええけるけるける。。。やがてやがてやがてそのそのその夜夜よ、、、東東ひがし山山やまののの麓麓ふもと、、、清清せい閑閑かん寺寺じへへへ移移うつししし奉奉たてまつりりり、、、夕夕ゆうべののの煙煙けぶりにににたぐへたぐへたぐえつゝつゝつつ、、、春春はるののの霞霞かすみととと昇昇のぼらららせせせ給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 6澄澄ちょう憲憲けん法法ほう印印いん、、、葬葬そう送送そうににに參參まいりりり逢逢あははわんんんとてとてとて、、、急急いそぎぎぎ山山やまよりよりより下下くだららられれれけるけるけるががが、、、はやはやはや道道みちにてにてにて、、、煙煙けぶりととと立立たち上上のぼらららせせせ給給たまふふうををを見見み參參まいらせらせらせててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなくかくかくかくぞぞぞ詠詠えいじじじ給給たまひひいけるけるける。。。
- 7常常つねににに見見みししし君君きみがががみゆきみゆきみゆきををを今日今日きょうとへとへとへばばばかへらかへらかえらぬぬぬ旅旅たびととと聞聞きくくくぞぞぞ悲悲かなしきしきしき
- 8またまたまたあるあるある女女にょう房房ぼうののの、、、帝帝みかどかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬととと承承うけたまわつつっててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく思思おもひひいつゞけつゞけつづけけりけりけり。。。
- 9雲雲くもののの上上うえゆくゆくゆくすゑすゑすえ遠遠とおくくく見見みししし月月つきののの光光ひかり消消きえええぬぬぬととと聞聞きくくくぞぞぞわびしきわびしきわびしき
- 10御御おん年年とし二二に十十じゅう一一いち、、、内内うちにににははは十十じっ戒戒かいををを保保たもちちちててて慈慈じ悲悲ひををを先先さきとととししし、、、外外ほかにににははは五五ご常常じょうををを亂亂みだらららせせせ給給たまははわずずず、、、禮禮れい儀儀ぎををを正正ただしうしうしゅうせせせさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。末末まっ代代だいののの賢賢けん王王おうにてにてにておはしおはしおわしけれけれければばば、、、世世よののの惜惜おしみしみしみ奉奉たてまつるるる事事こと、、、月月つき日日ひののの光光ひかりををを失失うしなへへえるるるががが如如ごとししし。。。斯斯か樣樣ようににに人人ひとののの願願ねがひひいももも叶叶かなははわずずず、、、民民たみののの果果か報報ほうももも拙拙つたなききき、、、たゞたゞただ人人にん間間げんののの境境さかいこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。
現代語訳
治承五年(1181)正月一日、内裏では東国の兵乱と南都の火災のために、朝拝が停止されて、天皇のお出ましもない。楽器の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏さず、吉野の国栖も参らず、藤原氏の公卿は一人も参上されない。これは氏寺(興福寺)が焼失したためである。二日には殿上の宴もなく、男も女も声をひそめて、宮中は不吉なさまに見えた。仏法も王法もともに尽きてしまったのはあさましいことである。法皇がおっしゃるには、「四代の帝王は、思えば子であり孫である。どうして天下の政務を止められて、むなしく年月を送るのだろうか」とお嘆きになった。同じ五日、南都の僧綱たちは官を解かれ、朝廷の法会への出仕を止められ、職を取り上げられた。それでも形ばかりでも御斎会は行うべきだと、出仕する僧の名を定める評議があったが、南都の僧綱たちはみな官を解かれていた。北京(比叡山など)の僧綱で行うべきかと公卿の評議があったが、だからといって今さら南都を見捨てられるわけにもいかないので、三論宗の学匠である成法已講が人目を忍んで勧修寺に隠れていたのを召し出して、御斎会を形どおり執り行われた。
衆徒はみな、老いた者も若い者も、あるいは射殺され、あるいは切り殺されて、煙の中から出られず、炎にむせんで死んだので、わずかに残った者は山林に身を隠して、寺にとどまる者は一人もいない。なかでも興福寺の別当、花林院の僧正永円は、仏像や経巻が煙となって立ちのぼるのを見て、ああ情けないと胸を騒がせてから病みついて、ついに亡くなられた。この永円は優雅で風流な人であった。あるとき、ほととぎすの鳴くのを聞いて、
聞くたびに珍しく思われるので、ほととぎすの声は、いつも初音を聞く心地がすることだ。
という歌を詠んだので、初音の僧正と呼ばれたのである。
上皇(高倉上皇)は、一昨年に父法皇が鳥羽殿に押しこめられておられたこと、去年高倉宮(以仁王)が討たれなさったこと、そのうえ容易でない天下の大事である遷都などということに、ご病気になられて、お苦しみと聞こえていたが、今また東大寺と興福寺が滅んだとお聞きになって、ご病気がいっそう重くなられた。法皇がひととおりでなくお嘆きになっているうちに、同じ十四日、六波羅の池殿で、新院はついに崩御された。ご在位十二年、徳政は数かぎりなく、詩書・仁義の廃れた道を起こし、世を治め民を安らかにする絶えた跡を継がれた。三明六通の悟りを得た羅漢も死を免れず、幻術や変化の力を持つ権者も逃れられない道であるから、有為無常の世のならいとはいいながら、あまりにも道理を越えた悲しみに思われた。やがてその夜、東山の麓の清閑寺へお移しして、夕べの煙とともに、春の霞となって昇って行かれた。
澄憲法印は葬送に参り会おうとして、急いで比叡山から下られたが、もう道の途中で、煙となって立ちのぼられるのを見て、泣く泣くこのように詠まれた。
いつもお見かけしていた君の行幸を、今日お尋ねすると、二度と帰らない旅だと聞くのは悲しいことだ。
またある女房が、帝がお隠れになったとうかがって、泣く泣く思い続けた歌。
雲の上(宮中)で、末長く遠くまで照らすと思って見ていた月の光が、消えてしまったと聞くのはわびしいことだ。
御年二十一、内には十戒を保って慈悲を第一とし、外には五常の道を乱されず、礼儀を正しくしておられた。末代の賢王でいらっしゃったので、世の人々が惜しみ申し上げることは、月日の光を失ったようである。このように人の願いもかなわず、民の果報もつたない、人間の世の定めこそ悲しいことである。
意訳
巻第六の冒頭、治承五年の正月から高倉上皇の崩御までを描く章段である。南都炎上の影響は宮中の正月行事にまで及び、焼け残った僧たちも散り散りになった。経巻の焼けるのを見て病死した永円の話が、その悲しみを伝えている。
高倉上皇は、父法皇の幽閉、以仁王の死、遷都、南都炎上と、心を痛めることが続く中で、二十一歳の若さで亡くなった。物語は上皇を末代の賢王としてたたえ、その早すぎる死を深く悼んでいる。
語釈・文法注
文法
- 「いま〳〵しう」
- 不吉なさまに。「いまいまし」の連用形のウ音便。
- 「かたのやうにても」
- 形式どおりにでも。形ばかりでも。
- 「御煩しう」
- お苦しそうに。「わづらはし」の連用形のウ音便。
- 「ことわり過ぎて」
- 道理を越えて。あまりにも悲しいの意。
和歌
聞くたびに珍らしければほとゝぎすいつも初音のこゝちこそすれ
- 詠者
- 永円
- 状況
- ほととぎすの鳴く声を聞いて詠んだ歌。この歌によって「初音の僧正」と呼ばれた。
修辞
- 係り結び
- 「こそ」を受けて「すれ」と已然形で結ぶ。
常に見し君がみゆきを今日とへばかへらぬ旅と聞くぞ悲しき
- 詠者
- 澄憲
- 状況
- 高倉上皇の葬送に間に合わず、途中で煙の立ちのぼるのを見て詠んだ歌。
修辞
- 対比
- いつも見ていた行幸と、二度と帰らない旅とを対比する。
雲の上ゆくすゑ遠く見し月の光消えぬと聞くぞわびしき
- 詠者
- ある女房
- 状況
- 高倉上皇の崩御を聞いて詠んだ歌。
修辞
- 比喩
- 宮中を「雲の上」、天皇を「月の光」にたとえる。
解説
高倉上皇は治承五年(1181)正月十四日に崩御した。清盛の娘徳子(建礼門院)を中宮とし、安徳天皇の父となったが、清盛と後白河法皇の対立の間で苦しんだ。巻第六の初めの数章段は、上皇の人柄をしのぶ逸話を集めている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、511–513頁(コマ284–285)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日