平家物語 巻第五
奈良炎上の事
以仁王に味方した南都の大衆は、清盛の首と名づけた毬杖の玉を打ち踏むほど平家をあざけり、清盛の遣わした兼康の兵を斬って猿沢の池の端に首を懸けた。怒った清盛は重衡を大将軍として四万余騎を南都へ向かわせる。般若寺の門前で放った火は風にあおられ、東大寺の大仏殿や興福寺の伽藍を焼きつくし、逃げこんだ老僧や稚児まで三千五百余人が焼け死んだ。
- 1都都みやこにににはははまたまたまた、、、南南なん都都と、、、三三み井井い寺寺でら同同どう心心しんしてしてして、、、或或あるいははは宮宮みやうけうけうけ取取とりりり參參まいらせらせらせ、、、或或あるいははは御御おん迎迎むかへへえににに參參まいるるる條條じょう、、、是是これれれ以以もっててて朝朝ちょう敵敵てきなりなりなり。。。然然しからららばばば奈奈な良良らをををももも攻攻せめめめらるらるらるべしべしべしととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、大大だい衆衆しゅ大大おおきききににに蜂蜂ほう起起きすすす。。。關關かん白白ぱく殿殿どのよりよりより、、、「「「存存ぞん知知ちののの旨旨むねあらあらあらばばば、、、いくいくいく度度たびももも奏奏そう聞聞もんにににこそこそこそ及及およばばばめめめ。。。」」」とてとてとて、、、有有う官官かんののの別別べつ當當とう忠忠ただ成成なりををを下下くだささされれれたりたりたりけるけるけるををを、、、大大だい衆衆しゅ起起おこつつっててて、、、「「「乘乘のり物物ものよりよりより取取とつつっててて引引ひき落落おとせせせ、、、髻髻もとどり切切きれれれ。。。」」」ととと犇犇ひしめくくく間間あいだ、、、忠忠ただ成成なり色色いろををを失失うしなひひいててて逃逃にげげげ上上のぼるるる。。。次次つぎににに右右う衞衞え門門もんののの督督かみ親親ちか雅雅まさををを下下くだささされれれたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、「「「之之これをををももも髻髻もとどり切切きれれれ。。。」」」ととと犇犇ひしめきききけれけれければばば、、、取取とるるる物物ものももも取取とりりりあへあへあえずずず、、、急急いそぎぎぎ都都みやこへへへ上上のぼららられれれけりけりけり。。。そのそのその時時ときははは勸勸かん學學がく院院いんののの雜雜ぞう色色しき二二ふた人人りががが髻髻もとどり切切きららられれれてててけりけりけり。。。
- 2南南なん都都とにににはははまたまたまた大大おおきききなるなるなる毬毬ぎっののの玉玉たまををを造造つくつつっててて、、、これこれこれこそこそこそ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの首首こうべととと名名なづけづけづけててて、、、「「「うてうてうて、、、蹈蹈ふめめめ。。。」」」などなどなどぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。ことばことばことばののの洩洩もれれれやすきやすきやすきははは禍禍わざわいををを招招まねくくく媒媒なかだちなりなりなり。。。ことばことばことばののの愼愼つつしまままざるざるざるははは敗敗やぶれれれををを取取とるるる道道みちなりなりなりととといへいへいえりりり。。。かけまけかけまけかけまけももも忝忝かたじけなくくくこのこのこの入入にゅう道道どう相相しょう國國こくははは、、、當當とう今今ぎんののの外外がい祖祖そにてにてにておはしますおはしますおわします。。。それそれそれをををかやうかやうかようににに申申もうしししけるけるける南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅ、、、およそおよそおよそははは天天てん魔魔まののの所所しょ爲爲いとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 3入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、かつ〳〵かつ〳〵かつかつまづまづまず南南なん都都とののの狼狼ろう藉藉ぜきををを鎭鎭しずめめめんんんとてとてとて、、、妹妹せの尾尾おののの太太た郎郎ろう兼兼かね康康やすををを大大やま和和とののの國國くにののの檢檢けん非非び所所しょににに補補ふせせせらるらるらる。。。兼兼かね康康やす五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きででで馳馳はせせせ向向むかふふう。。。「「「相相あい構構かまへへえててて、、、衆衆しゅ徒徒とははは狼狼ろう藉藉ぜきををを致致いたすすすともともとも、、、汝汝なんじ等等らははは致致いたすすすべからべからべからずずず。。。物物もの具具のぐなななせせせそそそ、、、弓弓ゆみ矢矢やななな帶帶たいせせせそそそ。。。」」」とてとてとてつかはさつかはさつかわされれれたりたりたりけるけるけるををを、、、南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅ斯斯かかるかるかる内内ない議議ぎをををばばば知知しらららずずずしてしてして、、、兼兼かね康康やすががが餘餘よ勢勢ぜい六六ろく十十じゅう餘餘よ人人にんををを搦搦からめめめ捕捕とつつっててて、、、一一いち々々いちににに首首くびををを切切きつつっててて、、、猿猿さる澤澤さわののの池池いけののの端端はたにににぞぞぞ懸懸かけけけ竝竝ならべべべたりたりたりけるけるける。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こく大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「さらばさらばさらば南南なん都都とをををももも攻攻せめめめよよよややや。。。」」」とてとてとて、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら、、、中中ちゅう宮宮ぐうののの亮亮すけ通通みち盛盛もり、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい四四し萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、南南なん都都とへへへ發發はっ向向こうすすす。。。南南なん都都とにににももも老老ろう少少しょう嫌嫌きらははわずずず七七しち千千せん餘餘よ人人にん、、、兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、奈奈な良良ら坂坂ざか、、、般般はん若若にゃ寺寺じ、、、二二に箇箇か所所しょののの道道みちををを掘掘ほりりり切切きつつっててて、、、搔搔かい楯楯だてかきかきかき、、、逆逆さか木木もぎ引引ひいいいててて待待まちちちかけかけかけたりたりたり。。。
- 4平平へい家家け四四し萬萬まん餘餘よ騎騎きををを二二ふた手手てにににわけわけわけててて、、、奈奈な良良ら坂坂ざか、、、般般はん若若にゃ寺寺じ、、、二二に箇箇か所所しょののの城城じょう郭郭かくにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、鬨鬨ときをををどつどつどっとととぞぞぞつくりつくりつくりけるけるける。。。大大だい衆衆しゅははは歩歩かち立立だち、、、打打うち物物ものなりなりなり。。。官官かん軍軍ぐんははは馬馬うまにてにてにて驅驅かけけけまはし〳〵まはし〳〵まわしかけまわし攻攻せめめめけれけれければばば、、、大大だい衆衆しゅ數數かずをををつくしつくしつくしててて討討うたたたれれれにににけりけりけり。。。卯卯うののの刻刻こくよりよりより矢矢や合合あわせしてしてして、、、一一いち日日にち戰戰たたかひひいくらしくらしくらし、、、夜夜よににに入入いりりりけれけれければばば、、、奈奈な良良ら坂坂ざか、、、般般はん若若にゃ寺寺じ、、、二二に箇箇か所所しょののの城城じょう郭郭かく、、、共共ともににに破破やぶれれれぬぬぬ。。。落落おちちちゆくゆくゆく衆衆しゅ徒徒とののの中中なかににに坂坂さかののの四四し郎郎ろう永永よう覺覺がくととといふいふいう惡惡あく僧僧そうありありあり。。。これこれこれははは力力ちからののの強強つよさささ、、、弓弓ゆみ矢矢や、、、打打うち物物もの取取とつつってててははは七七しち大大だい寺寺じ、、、十十じゅう五五ご大大だい寺寺じにににもももすぐれすぐれすぐれたりたりたり。。。萌萌もえ黄黄ぎ縅縅おどしののの鎧鎧よろいににに黑黑くろ絲絲いと縅縅おどしののの腹腹はら巻巻まき、、、二二に領領りょう重重かさねねねてててぞぞぞ著著きたりたりたりけるけるける。。。帽帽ほう子子し兜兜かぶとににに五五ご枚枚まい兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、茅茅ちののの葉葉はののの如如ごとくくくにににそつそつそったるたるたる白白しら柄柄えののの大大おお長長なぎ刀刀なた、、、黑黑こく漆漆しつののの大大おお太太だ刀刀ち、、、左左そ右右うののの手手てににに持持もつつつ儘儘ままににに、、、同同どう宿宿じゅく十十じゅう餘餘よ人人にん前前ぜん後後ご左左そ右右うににに立立たててて、、、手手てん蓋蓋がいののの門門もんよりよりより討討うつつっててて出出いでででたりたりたり。。。これこれこれぞぞぞ暫暫しばらくくく支支ささへへえたるたるたる。。。多多おおくくくののの官官かん兵兵ぺい等等ら馬馬うまののの足足あし薙薙ながががれれれててて、、、多多おおくくく亡亡ほろびびびにににけりけりけり。。。されどもされどもされども官官かん軍軍ぐんははは大大おお勢勢ぜいにてにてにて、、、入入いれれれかへ〳〵かへ〳〵かえいれかえ攻攻せめめめけれけれければばば、、、永永よう覺覺がくががが防防ふせぐぐぐ所所ところののの同同どう宿宿じゅく、、、みなみなみな討討うたたたれれれにににけりけりけり。。。永永よう覺覺がく心心こころははは猛猛たきょううう思思おもへへえどもどもども、、、後後うしろあばらあばらあばらににになりなりなりしかしかしかばばば、、、力力ちから及及およばばばずずず、、、たゞたゞただ一一いち人人にん、、、南南みなみををを指指さしししてててぞぞぞ落落おちちちゆきゆきゆきけるけるける。。。
- 5夜夜よ軍軍いくさににになつなつなっててて大大たい將將しょう軍軍ぐん頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら、、、般般はん若若にゃ寺寺じののの門門もんののの前前まえにににうちうちうち立立たつつっててて、、、闇闇くらさささはははくらしくらしくらし、、、「「「火火ひををを出出いだせせせ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、播播はり磨磨まののの國國くにののの住住じゅう人人にん、、、福福ふく井井いののの莊莊しょうののの下下げ司司し次次じ郎郎ろう太太たい夫夫ふ友友とも方方かたととといふいふいうものものもの、、、楯楯たてをををわりわりわり松松たい明明まつにににしてしてして、、、在在ざい家家けににに火火ひをををぞぞぞかけかけかけたりたりたりけるけるける。。。頃頃ころははは十十じゅう二二に月月がつ二二に十十じゅう八八はち日日にちののの夜夜よののの戌戌いぬののの刻刻こくばかりばかりばかりののの事事ことなれなれなればばば、、、折折おりふしふしふし風風かぜははは烈烈はげしくしくしく、、、火火ひ本本もとははは一一ひとつつつなりなりなりけれけれけれどもどもども、、、吹吹ふききき迷迷まよふふう風風かぜににに、、、多多おおくくくののの伽伽が藍藍らんににに吹吹ふきききかけかけかけたりたりたり。。。凡凡およそそそ恥恥はじをををももも思思おもひひい、、、名名なをををももも惜惜おしむしむしむ程程ほどののの者者ものははは、、、奈奈な良良ら坂坂ざかにてにてにて討討うち死死じにししし、、、般般はん若若にゃ寺寺じにににしてしてして討討うたたたれれれにににけりけりけり。。。行行ぎょう歩歩ぶにににかなへかなへかなえるるる者者ものははは吉吉よし野野の、、、十十と津津つ川川がわののの方方かたへへへぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。歩歩あゆみみみももも得得えぬぬぬ老老ろう僧僧そうややや、、、尋尋じん常常じょうなるなるなる修修しゅ學學がく者者しゃ、、、兒兒ちごどもどもども、、、女女おんな童童わらんべはははもしもしもしややや助助たすかるかるかるととと、、、大大だい佛佛ぶつ殿殿でんののの二二に階階かいののの上上うえ、、、山山やま階階しな寺寺でらののの内内うち、、、われわれわれ先先さきにににとととぞぞぞ逃逃にげげげ入入いりりりけるけるける。。。大大だい佛佛ぶつ殿殿でんののの二二に階階かいののの上上うえにににははは千千せん餘餘よ人人にん昇昇のぼりりりあがりあがりあがり、、、敵敵かたきのののつゞくつゞくつづくををを上上のぼせせせじじじとてとてとて階階はしををを引引ひいいいてててけりけりけり。。。猛猛みょう火火かはははまさしうまさしうまさしゅうおしおしおしかけかけかけたりたりたり。。。喚喚おめききき叫叫さけぶぶぶ聲聲こえ、、、焦焦しょう熱熱ねつ、、、大大だい焦焦しょう熱熱ねつ、、、無無む間間けん阿阿あ鼻鼻び、、、焰焰ほのおののの底底そこののの罪罪ざい人人にんももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 6興興こう福福ぶく寺寺じははは淡淡たん海海かい公公こうののの御御ご願願がん、、、藤藤とう氏氏し累累るい代代だいののの寺寺てらなりなりなり。。。東東とう金金こん堂堂どうにににおはしますおはしますおわします佛佛ぶつ法法ぽう最最さい初初しょののの釋釋しゃ迦迦かののの像像ぞう、、、西西さい金金こん堂堂どうにににおはしますおはしますおわします自自じ然然ねん涌涌ゆ出出しゅつののの觀觀かん世世ぜ音音おん、、、瑠瑠る璃璃りををを併併ならべべべししし四四し面面めんののの廊廊ろう、、、朱朱しゅ丹丹たんををを交交まじへへえししし二二に階階かいののの樓樓ろう、、、九九く輪輪りん空空そらににに輝輝かがやきききししし二二に基基きののの塔塔とう、、、忽忽たちまちちちににに煙煙けぶりとととなるなるなるこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。
- 7東東とう大大だい寺寺じははは常常じょう在在ざい不不ふ滅滅めつ、、、實實じつ報報ぽう寂寂じゃく光光こうののの生生しょう身身じんののの御御おん佛佛ほとけとととおぼしおぼしおぼしめしめしめしなぞらへなぞらへなぞらえててて、、、聖聖しょう武武む皇皇こう帝帝てい手手てづからづからずから、、、みづからみづからみずからみがきみがきみがき立立たてててたまひたまひたまいししし金金こん銅銅どう十十じゅう六六ろく丈丈じょうののの盧盧る遮遮しゃ那那な佛佛ぶつ、、、烏烏う瑟瑟しつ高高たかくくくあらはれあらはれあらわれててて、、、半半はん天天てんののの雲雲くもにににかくれかくれかくれ、、、白白びゃく毫毫ごうあらたあらたあらたににに拜拜おがまままれれれさせさせさせ給給たまへへえるるる滿滿まん月月げつののの尊尊そん容容ようももも、、、御御み首首ぐしははは燒燒やけけけ落落おちちちててて大大だい地地じにににありありあり、、、御御おん身身みははは鎔鎔わきききあひあひあいててて山山やまののの如如ごとししし。。。八八はち萬萬まん四四し千千せんののの相相そう好好ごうははは秋秋あきののの月月つき、、、早早はやくくく五五ご重重じゅうののの雲雲くもににに隱隱かくれれれ、、、四四し十十じゅう一一いち地地ぢののの瓔瓔よう珞珞らくははは夜夜よののの星星ほし、、、空空むなしうしうしゅう十十じゅう惡惡あくののの風風かぜににに漂漂ただよひひい、、、煙煙けぶりははは中中ちゅう天天てんににに充充みちちち滿滿みちちちててて、、、焰焰ほのおははは虛虛こ空空くうにににひまひまひまもももなしなしなし。。。まのあたりまのあたりまのあたり見見みるるる者者ものははは更更さらににに眼眼まなこをををあてあてあてずずず、、、かすかかすかかすかににに傳傳つたへへえきくきくきく人人ひとははは肝肝きも魂魂たましいををを失失うしなへへえりりり。。。法法ほっ相相そう三三さん論論ろんののの法法ほう文文もん、、、聖聖しょう教教ぎょう、、、すべてすべてすべて一一いっ巻巻かんももも殘殘のこらららずずず。。。わがわがわが朝朝ちょうははは申申もうすすすににに及及およばばばずずず、、、天天てん竺竺じく、、、震震しん旦旦だんにににもももこれこれこれ程程ほどののの法法ほう滅滅めつあるあるあるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。優優う塡塡てん大大だい王王おうののの紫紫し磨磨ま金金ごんをををみがきみがきみがき、、、毘毘び須須しゅ羯羯かっ磨磨まががが赤赤しゃく栴栴せん檀檀だんををを刻刻きざみみみしししももも、、、僅僅わずかににに等等とう身身しんののの御御み佛佛ほとけなりなりなり。。。況況いわんんんややや是是これははは南南なん閻閻えん浮浮ぶ提提だいののの中中なかにににははは唯唯ゆい一一いつ無無む雙雙そうののの御御み佛佛ほとけ、、、長長ながくくく朽朽きゅう損損そんののの期期ごあるあるあるべしべしべしとととももも思思おもははわざりざりざりしししににに、、、今今いま毒毒どく煙煙えんののの塵塵ちりににに交交まじはつはつわっててて、、、久久ひさしくしくしく悲悲かなしみしみしみををを殘殘のこしししたまへたまへたまえりりり。。。梵梵ぼん釋釋じゃく四四し王王おう、、、龍龍りゅう神神じん八八はち部部ぶ、、、冥冥みょう官官かん、、、冥冥みょう衆衆しゅももも驚驚おどろききき給給たまふふうらんらんらんとととぞぞぞ見見みえええししし。。。法法ほっ相相そう擁擁おう護護ごののの春春かす日日が大大だい明明みょう神神じん、、、いかなるいかなるいかなる事事ことをををかかかおぼしおぼしおぼしけんけんけん、、、さればさればされば春春かす日日が野野のののの露露つゆももも色色いろかはりかはりかわり、、、三三み笠笠かさ山山やまののの嵐嵐あらしののの音音おとももも恨恨うらむるむるむるやうやうようにににぞぞぞ聞聞きこえええけるけるける。。。
- 8焰焰ほのおののの中中なかにてにてにて死死しぬるぬるぬる人人にん數數じゅををを數數かぞへへへたれたれたればばば、、、大大だい佛佛ぶつ殿殿でんののの二二に階階かいののの上上うえにににははは一一いっ千千せん七七しち百百ひゃく餘餘よ人人にん、、、山山やま階階しな寺寺でらにににははは八八はっ百百ぴゃく餘餘よ人人にん、、、あるあるある御御み堂堂どうにににははは五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にん、、、あるあるある御御み堂堂どうにににははは三三さん百百びゃく餘餘よ人人にん、、、つぶさつぶさつぶさににに記記しるいいいたりたりたりけれけれければばば、、、三三さん千千ぜん五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にんなりなりなり。。。戰戰せん場場じょうにににしてしてして討討うたたたるゝるゝるる大大だい衆衆しゅ千千せん餘餘よ人人にん、、、少少しょう々々しょうははは般般はん若若にゃ寺寺じののの門門もんににに切切きりりりかけかけかけさせさせさせ、、、少少しょう少少しょうははは首首くびどもどもども持持もつつっててて都都みやこへへへ上上のぼららられれれけりけりけり。。。
- 9あくるあくるあくる二二に十十じゅう九九く日日にち頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら、、、南南なん都都と亡亡ほろぼしぼしぼしててて北北ほく京京きょうへへへ歸歸かえりりり入入いらららるるる。。。およそおよそおよそははは入入にゅう道道どう相相しょう國國こく許許ばかりりりこそこそこそ憤憤いきどおりりり晴晴はれれれててて喜喜よろこばばばれれれけれけれけれ。。。中中ちゅう宮宮ぐう、、、一一いち院院いん、、、上上じょう皇皇こうははは、、、「「「たとひたとひたとい惡惡あく僧僧そうをををこそこそこそ亡亡ほろぼさぼさぼさめめめ、、、多多おおくくくののの伽伽が藍藍らんををを破破は滅滅めつすすすべきべきべきやややははは。。。」」」とととぞぞぞ御御おん歎歎なげきききありありありけるけるける。。。日日ひ頃頃ごろははは衆衆しゅ徒徒とののの首首くび、、、大大おお路路じをををわたいわたいわたいててて、、、獄獄ごく門門もんののの木木きにににかけかけかけらるらるらるべしべしべしととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかどもどもども、、、東東とう大大だい寺寺じ、、、興興こう福福ぶく寺寺じののの亡亡ほろびびびぬるぬるぬる淺淺あさましさましさましさににに、、、何何なにののの沙沙さ汰汰たにににももも及及およばばばずずず。。。こゝこゝここやややかしこかしこかしこののの溝溝みぞややや堀堀ほりにににぞぞぞ捨捨すててて置置おきききけるけるける。。。聖聖しょう武武む皇皇こう帝帝ていののの宸宸しん筆筆ぴつののの御御ご記記き文文もんにににももも、、、「「「わがわがわが寺寺てら興興こう福福ふくせせせばばば天天てん下下かももも興興こう福福ふくすすすべしべしべし。。。わがわがわが寺寺てら衰衰すい微微びせせせばばば天天てん下下かももも衰衰すい微微びすすすべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞあそばさあそばさあそばされれれたるたるたる。。。さればさればされば天天てん下下かののの衰衰すい微微びせせせんんんことことこと疑疑うたがひひいなしなしなしとととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。あさましかりあさましかりあさましかりつるつるつる年年としももも暮暮くれれれててて、、、治治じ承承しょうももも五五ご年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。
現代語訳
都ではまた、南都(奈良の興福寺)と三井寺が心を合わせて、あるいは高倉宮(以仁王)をお迎えし、あるいはお迎えに参ったことは、それだけで朝敵である。それならば奈良も攻められるだろうと聞こえたので、大衆はおおいに蜂起した。関白殿(基通)から、「考えがあるならば、何度でも奏聞するのがよい」といって、有官の別当忠成を下されたところ、大衆が立ち上がって、「乗物から引きずり落とせ、髻を切れ」と騒ぎ立てたので、忠成は顔色を失って逃げ上った。次に右衛門督親雅を下されたが、「これも髻を切れ」と騒いだので、取る物も取りあえず急いで都へ上られた。そのときは勧学院の雑色が二人、髻を切られてしまった。
南都ではまた、大きな毬杖の玉を作って、これこそ入道相国の首だと名づけて、「打て、踏め」などと言った。言葉の漏れやすいのは災いを招くなかだちである。言葉を慎まないのは敗れを取る道であるという。口にするのも畏れ多いことに、この入道相国は今上天皇の外祖父でいらっしゃる。それをこのように言った南都の大衆は、およそ天魔のしわざと見えた。
入道相国は、ひとまず南都の乱暴を鎮めようとして、妹尾太郎兼康を大和国の検非所に任じられた。兼康は五百余騎で駆けつける。「よく心して、衆徒が乱暴をしても、おまえたちはするな。鎧兜を着けるな、弓矢を帯びるな」といって遣わされたのを、南都の大衆はそのような内々の指示を知らないで、兼康の手勢六十余人を捕らえて、一人ひとり首を切り、猿沢の池のほとりに懸け並べた。入道相国はおおいに怒って、「それなら南都も攻めよ」といって、大将軍には頭中将重衡と中宮亮通盛、総勢四万余騎が南都へ向かった。南都でも老いも若きも問わず七千余人が兜の緒をしめ、奈良坂と般若寺の二か所の道を掘り切って、楯を並べ、逆茂木を引いて待ち構えた。
平家は四万余騎を二手に分けて、奈良坂と般若寺の二か所の城郭に押し寄せて、鬨の声をどっとあげた。大衆は徒歩で、刀や長刀で戦う。官軍は馬で駆けまわり駆けまわり攻めたので、大衆は数を尽くして討たれてしまった。卯の刻(午前六時ごろ)から矢合わせをして、一日中戦い、夜になったので、奈良坂と般若寺の二か所の城郭はともに破られた。落ちていく衆徒の中に、坂四郎永覚という荒法師がいた。この者は力の強さ、弓矢や打物をとっては、七大寺・十五大寺の中でも抜きんでていた。萌黄縅の鎧に黒糸縅の腹巻を二領重ねて着ていた。帽子兜に五枚兜の緒をしめ、茅の葉のように反った白柄の大長刀と、黒漆の大太刀を左右の手に持ったまま、同じ宿坊の僧十余人を前後左右に立てて、手掻の門から討って出た。これがしばらく持ちこたえた。多くの官兵が馬の足を薙ぎ払われて、多く討たれた。しかし官軍は大勢で、入れ替わり入れ替わり攻めたので、永覚が守っていた所の同宿の僧たちはみな討たれてしまった。永覚は心では勇ましく思ったが、背後ががら空きになったので、どうしようもなく、ただ一人、南をさして落ちていった。
夜戦になって、大将軍の頭中将重衡は般若寺の門の前に立って、「暗くてたまらない。火を出せ」とおっしゃったので、播磨国の住人で福井荘の下司、次郎大夫友方という者が、楯を割って松明にして、民家に火をかけた。ころは十二月二十八日の夜、戌の刻(午後八時ごろ)ごろのことなので、折から風は激しく、火元は一つであったが、吹き迷う風にあおられて、多くの伽藍に燃え移った。およそ恥を知り、名を惜しむほどの者は、奈良坂で討ち死にし、般若寺で討たれてしまった。歩ける者は吉野や十津川の方へ落ちていった。歩くこともできない老僧や、ふつうの修学僧、稚児たち、女や子どもは、もしかしたら助かるかと、大仏殿の二階の上や山階寺(興福寺)の中に、我先にと逃げこんだ。大仏殿の二階の上には千余人が昇り、敵が続いて上って来られないようにと、はしごを引き上げてしまった。猛火はまっすぐに押し寄せた。わめき叫ぶ声は、焦熱・大焦熱・無間阿鼻の地獄の炎の底の罪人も、これ以上ではあるまいと見えた。
興福寺は淡海公(藤原不比等)の御願による、藤原氏代々の寺である。東金堂におられる、仏法伝来のはじめの釈迦の像、西金堂におられる、自然に湧き出た観世音、瑠璃を並べた四面の回廊、朱色を塗りまじえた二階の楼、九輪が空に輝いていた二基の塔が、たちまち煙となってしまったのは悲しいことである。
東大寺は、常に存在して滅びることのない実報寂光土の仏の生身と見なして、聖武天皇が自らの手で磨き立てられた金銅十六丈の盧遮那仏は、頭頂の肉髻が高くそびえて半ば天の雲に隠れ、白毫が新たに拝まれた満月のようなお顔も、御首は焼け落ちて大地にあり、お体は溶け合って山のようである。八万四千の相好は秋の月が五重の雲にたちまち隠れたように、四十一地の瓔珞は夜の星がむなしく十悪の風に漂うように失われ、煙は中天に満ちあふれ、炎は虚空にすきまもない。目の当たりに見る者はまったく目を向けられず、かすかに伝え聞く人は肝をつぶした。法相宗・三論宗の経文や聖教は、すべて一巻も残らなかった。わが国は言うに及ばず、天竺や震旦(中国)にも、これほどの仏法の滅亡があったとは思われない。優塡大王が紫磨金を磨き、毘須羯磨が赤栴檀を刻んだ仏像も、わずかに等身の仏である。ましてこれは南閻浮提(人間の住む世界)の中で唯一無二の仏であって、いつまでも朽ち損なわれる時があろうとは思いもしなかったのに、今、毒煙の塵にまみれて、永く悲しみを残された。梵天・帝釈・四天王、竜神八部、冥官・冥衆もさぞ驚かれたであろうと見えた。法相宗を守護する春日大明神は、どのようにお思いになったであろうか。それゆえ春日野の露も色が変わり、三笠山の嵐の音も恨んでいるように聞こえた。
炎の中で死んだ人数を数えると、大仏殿の二階の上では一千七百余人、山階寺では八百余人、ある御堂では五百余人、ある御堂では三百余人と、くわしく記したところ、三千五百余人であった。戦場で討たれた大衆は千余人で、そのうち一部は般若寺の門に首を懸けさせ、一部は首を持って都へ上られた。
翌二十九日、頭中将重衡は南都を滅ぼして京都へ帰られた。およそ入道相国だけが怒りが晴れてお喜びになった。中宮・一院(後白河法皇)・上皇(高倉上皇)は、「たとえ悪僧を滅ぼすにしても、多くの伽藍まで破滅させてよいものか」とお嘆きになった。ふだんならば衆徒の首は大路を引き回して獄門の木に懸けるべきだと公卿の評議があったが、東大寺と興福寺が滅んでしまったあさましさに、何の処置もとられなかった。首はあちらこちらの溝や堀に捨て置かれた。聖武天皇の宸筆の御記文にも、「わが寺が栄えれば天下も栄えるであろう。わが寺が衰えれば天下も衰えるであろう」とお書きになっている。それならば天下が衰えることは疑いないと思われた。あさましいことの多かった年も暮れて、治承も五年になった。
意訳
平重衡による南都焼き討ちを描き、巻第五を結ぶ章段である。清盛の首に見立てた毬杖の玉を打ち踏み、兼康の兵の首を猿沢の池に懸けるなど、南都の大衆の挑発が、平家の大軍を招いた。
夜戦の明かりにと放った火が風にあおられ、東大寺の大仏殿や興福寺の伽藍を焼きつくす。逃げこんだ老僧や稚児まで三千五百余人が焼け死に、大仏の首も焼け落ちた。物語は仏法の滅亡を嘆く美文を重ね、聖武天皇の記文を引いて、天下の衰えは疑いないと結んでいる。仏敵となった平家の滅びを予告する章段でもある。
語釈・文法注
- 毬杖
- 木の槌で木の玉を打ち合う遊び。また、その槌や玉。
文法
- 「及ばめ」
- 及ぶのがよい。「め」は適当の助動詞「む」の已然形で、「こそ」の結び。
- 「うて、蹈め」
- 打て、踏め。
- 「かけまけも忝く」
- 口にかけて言うのも畏れ多いことに。底本は「かけまけも」と刷る。通行本文は「かけまくも」。
- 「物具なせそ」
- 鎧兜を着けるな。「な…そ」は禁止を表す。
- 「闇さはくらし」
- 暗さは暗いし。暗くてたまらないの意。
- 「少々は…少少は」
- 一部は…一部は。底本は行の頭の字を「々」にせず、「少少」と刷る。
解説
南都焼き討ちは治承四年(1180)十二月二十八日のことである。東大寺・興福寺の大部分が焼失し、大仏も損傷した。のちに重源が勧進して東大寺を再建し、文治元年(1185)に大仏の開眼供養が行われた。
焼き討ちの大将軍であった重衡は、のちに一の谷で捕らえられ、南都の大衆の求めによって木津川のほとりで斬られる(巻第十一)。この章段はその因果を予告するものでもある。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、506–510頁(コマ282–284)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
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