平家物語 巻第五
五節の沙汰の事
富士川から逃げ帰った維盛に清盛は激怒したが、侍たちの評定で忠清は許され、維盛はかえって右近衛中将に昇進して人々の陰口を招いた。物語は、将門追討の勧賞をめぐる忠文の怨みの故事を引き、さらに新都福原では大嘗会を行えず、新嘗会と五節だけが行われたことを記して、五節の起こりを語る。
- 1同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち月月がつ八八よう日日かののの日日ひ、、、大大たい將將しょう軍軍ぐん權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり、、、福福ふく原原はらへへへ歸歸かえりりり上上のぼりりり給給たまふふう。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こく大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「維維これ盛盛もりをををばばば鬼鬼き界界かいががが島島しまへへへ流流ながすすすべしべしべし。。。忠忠ただ清清きよをををばばば死死し罪罪ざいににに行行おこなふふうべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。これこれこれににに依依よつつっててて同同おなじきじきじき九九ここの日日かののの日日ひ、、、平平へい家家けののの侍侍さぶらい老老ろう少少しょう數數す百百ひゃく人人にん參參さん會會かいしてしてして、、、忠忠ただ清清きよががが死死し罪罪ざいののの事事こと、、、いかゞいかゞいかがあるあるあるべからべからべからんんんととと評評ひょう定定じょうすすす。。。主主しゅ馬馬めののの判判ほう官官がん盛盛もり國國くに進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「このこのこの忠忠ただ清清きよををを日日ひ頃頃ごろ不不ふ覺覺かく人人じんとととははは存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。あれあれあれががが十十じゅう八八はっ歳歳さいととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。鳥鳥と羽羽ば殿殿どのののの寶寶ほう藏藏ぞうににに五五ご畿畿き内内ない一一いちののの惡惡あく黨黨とう二二ふた人人り逃逃にげげげ籠籠こもりりりたりたりたりしししををを、、、寄寄よつつっててて搦搦からめうめうめうととと申申もうすすす者者もの一一いち人人にんももも候候そうらははわざりざりざりしししににに、、、このこのこの忠忠ただ清清きよたゞたゞただ一一いち人人にん、、、白白はく晝晝ちゅうににに築築つい地地じををを越越こえええ、、、はねはねはね入入いつつっててて、、、一一いち人人にんをををばばば討討うちちち取取とりりり、、、一一いち人人にんをををばばば搦搦からめめめ取取とつつっててて、、、名名なををを後後こう代代だいににに揚揚あげげげたりたりたりししし者者ものぞぞぞかしかしかし。。。今今こん度度どののの不不ふ覺覺かくはははたゞたゞただごとごとごととととももも覺覺おぼえええ候候そうらははわずずず。。。これこれこれにににつけつけつけてててももも、、、よく〳〵よく〳〵よくよく兵兵ひょう亂亂らんののの御御おんつゝしみつゝしみつつしみ候候そうろうべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。同同おなじきじきじき十十とお日日かののの日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり右右う近近こん衞衞えののの中中ちゅう將將じょうにににあがりあがりあがり給給たまふふう。。。今今こん度度ど坂坂ばん東東どうへへへ討討うつ手手てににに向向むかははわれれれたりたりたりとととははは申申もうせせせどもどもども、、、させるさせるさせる仕仕し出出いだしししたるたるたる事事ことももも候候そうらははわずずず。。。こここはははさればさればされば何何なにののの勸勸けんぞぞぞやややとととぞぞぞ、、、人人ひと々々びとさゝやきさゝやきささやきあはあはあわれれれけるけるける。。。
- 2昔昔むかし平平へい將將しょう軍軍ぐん貞貞さだ盛盛もり、、、俵俵たわら藤藤とう太太だ秀秀ひで鄕鄕さと、、、將將まさ門門かどををを追追つい討討とうののの爲爲ためににに東東あずまへへへ下下げ向向こうしししたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、朝朝ちょう敵敵てき容容たや易易すううう亡亡ほろびびび難難がたかりかりかりしかしかしかばばば、、、重重かさねねねててて討討うつ手手てををを下下くださささるるるべしべしべしととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎあつあつあっててて、、、宇宇う治治じののの民民みん部部ぶ卿卿きょう忠忠ただ文文ふみ、、、清清きよ原原はらののの重重しげ藤藤ふじ、、、軍軍ぐん監監けんととといふいふいう職職つかさををを賜賜たまはつはつわっててて下下くだるるる程程ほどににに、、、駿駿する河河がののの國國くに清清きよ見見みががが關關せきににに宿宿しゅくしししたりたりたりけるけるける夜夜よ、、、かのかのかの重重しげ藤藤ふじ、、、漫漫まん々々まんたるたるたる海海かい上上しょうををを遠遠えん見見けんしてしてして、、、「「「漁漁ぎょ舟舟しゅうののの火火ひののの影影かげははは寒寒さむうううしてしてして波波なみををを燒燒やききき、、、驛驛えき路路ろののの鈴鈴すずののの聲聲こえははは夜夜よる山山やまををを過過すぐぐぐ。。。」」」ととといふいふいう唐唐から詩詩うたををを、、、高高たからからからかににに口口くちずさびずさびずさび給給たまへへえばばば、、、忠忠ただ文文ふみ優優ゆうににに覺覺おぼえええててて、、、感感かん涙涙るいをををぞぞぞ流流ながささされれれけるけるける。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに將將まさ門門かどをををばばば、、、貞貞さだ盛盛もり、、、秀秀ひで鄕鄕さとががが遂遂ついににに討討うちちち取取とつつっててて、、、そのそのその首首こうべををを持持もたたたせせせててて上上のぼるるる程程ほどににに、、、駿駿する河河がののの國國くに清清きよ見見みががが關關せきにてにてにて行行ゆききき逢逢おうううたりたりたり。。。それそれそれよりよりより前前ぜん後後ごののの大大たい將將しょう軍軍ぐんうちうちうちつれつれつれててて上上しょう洛洛らくすすす。。。貞貞さだ盛盛もり、、、秀秀ひで鄕鄕さとににに勸勸けん賞賞じょう行行おこなははわれれれけりけりけり。。。時時ときににに忠忠ただ文文ふみ、、、重重しげ藤藤ふじにににももも勸勸けん賞賞じょうあるあるあるべきべきべきかかかととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかばばば、、、九九く條條じょうののの右右う丞丞じょう相相しょう師師もろ輔輔すけ公公こう、、、「「「今今こん度度ど坂坂ばん東東どうへへへ討討うつ手手て向向むこうううたりたりたりととといへいへいえどもどもども、、、朝朝ちょう敵敵てきたやすうたやすうたやすう亡亡ほろびびび難難がたかりかりかりししし所所ところににに、、、このこのこの人人ひと敕敕ちょく諚諚じょうををを承承うけたまわつつっててて關關せきののの東東ひがしへへへ赴赴おもむきききししし時時とき、、、朝朝ちょう敵敵てき既既すでににに亡亡ほろびびびたりたりたり。。。さればさればされば忠忠ただ文文ふみ、、、重重しげ藤藤ふじにににももも、、、などなどなどかかか勸勸けん賞賞じょうなかるなかるなかるべきべきべき。。。」」」ととと申申もうさささせせせ給給たまへへえどもどもども、、、そのそのその時時ときののの執執しっ柄柄ぺい小小を野野のののの宮宮みや殿殿どの、、、「「「疑疑うたがはしきはしきわしきをををばばばなすなすなす事事ことなかれなかれなかれととと、、、禮禮らい記記きののの文文もんににに候候そうらへへえばばば。。。」」」とてとてとて、、、遂遂ついににになさなさなさせせせ給給たまははわずずず。。。忠忠ただ文文ふみこれこれこれををを口口くち惜惜おしきしきしき事事ことににに思思おもつつっててて、、、小小を野野のののの宮宮みや殿殿どのののの御御おん末末すえをををばばば奴奴やつこににに見見みなさなさなさんんん、、、九九く條條じょう殿殿どのののの御御おん末末すえははは、、、いついついつののの世世よまでまでまでももも守守しゅ護護ご神神じんとととならならならんんんととと誓誓ちかひひいつゝつゝつつ、、、遂遂ついににに干干ひ死死じににににこそこそこそ死死しににににににけれけれけれ。。。さればさればされば九九く條條じょう殿殿どのののの御御おん末末すえはははめでたうめでたうめでとう榮榮さかえええさせさせさせ給給たまへへえどもどもども、、、小小を野野のののの宮宮みや殿殿どのののの御御おん末末すえにににははは然然しかるるるべきべきべき人人ひともももましまさましまさましまさずずず、、、今今いまははは絶絶たえええはてはてはて給給たまひひいけるけるけるにににこそこそこそ。。。
- 4同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち日日にち、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの四四し男男なん頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら、、、左左さ近近こん衞衞えののの權權ごん中中ちゅう將將じょうにににあがりあがりあがり給給たまふふう。。。同同おなじきじきじき十十じゅう三三さん日日にち、、、福福ふく原原はらにににははは内内だい裏裏り造造つくりりり出出いだささされれれててて、、、主主しゅ上上しょう御御ご遷遷せん幸幸こうありありありけりけりけり。。。大大だい嘗嘗じょう行行おこなははわるるるべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、大大だい嘗嘗じょう會會えははは十十じゅう月月がつののの末末すえ、、、東東とう河河かににに行行ぎょう幸幸こうしてしてして御御ご禊禊けいありありあり。。。大大だい内内だいののの北北きたののの野野のににに齋齋さい場場じょう所所しょををを造造つくつつっててて、、、神神じん服服ぷく、、、神神じん具具ぐををを調調ととのふふう。。。大大だい極極ごく殿殿でんののの前前まえ、、、龍龍りゅう尾尾び堂堂どうののの壇壇だん下下かににに廻廻かい立立りゅう殿殿でんををを建建たててて、、、御御お湯湯ゆををを召召めすすす。。。同同おなじきじきじき壇壇だんのののならびならびならびににに大大だい嘗嘗じょう宮宮ぐうををを造造つくつつっててて、、、神神しん膳膳ぜんををを供供そなふふう。。。神神しん宴宴えんありありあり、、、御御ぎょ遊遊ゆうありありあり、、、大大だい極極ごく殿殿でんにてにてにて大大たい禮禮れいありありあり、、、清清せい暑暑しょ堂堂どうにてにてにて御御み神神か樂樂ぐらありありあり、、、豐豐ぶ樂樂らく院院いんにてにてにて宴宴えん會會かいありありあり。。。然然しかるるるをををこのこのこの福福ふく原原はらののの新新しん都都とにににははは大大だい極極ごく殿殿でんもももなけれなけれなければばば、、、大大たい禮禮れい行行おこなははわるるるべきべきべきやうやうようもももなくなくなく、、、清清せい暑暑しょ堂堂どうもももなけれなけれなければばば御御み神神か樂樂ぐら奏奏そうすすすべきべきべき所所ところもももなしなしなし。。。豐豐ぶ樂樂らく院院いんもももなけれなけれなければばば宴宴えん會會かいももも行行おこなははわれれれずずず。。。今今こ年年としはははたゞたゞただ新新しん嘗嘗じょう會會え、、、五五ご許許ばかりりりででであるあるあるべきべきべき由由よし、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎあつあつあっててて、、、なほなほなお新新しん嘗嘗じょうののの祭祭まつりをををばばば、、、舊舊きゅう都都とののの神神じん祇祇ぎ官官かんにてにてにてぞぞぞ遂遂とげげげられられられけるけるける。。。五五ご節節せつはははこれこれこれ清清きよ見見み原原はらのののそのかみそのかみそのかみ、、、吉吉よし野野のののの宮宮みやにににしてしてして、、、月月つき白白しろくくくさえさえさえ、、、嵐嵐あらしはげしかりはげしかりはげしかりししし夜夜よ、、、御御み心心こころをををすましすましすましててて琴琴きんををを彈彈ひききき給給たまひひいしかしかしかばばば、、、神神しん女女にょ天天あま降降くだつつっててて、、、五五いつ度度たび袖袖そでをををひるがへすひるがへすひるがえす。。。これこれこれぞぞぞ五五ご節節せつののの始始はじめめめなるなるなる。。。
現代語訳
同じ十一月八日、大将軍の権亮少将維盛が福原へ帰って来られた。入道相国(清盛)はたいそう怒って、「維盛を鬼界が島へ流せ。忠清を死罪にせよ」とおっしゃった。そこで同じ九日、平家の侍が老いも若きも数百人集まって、忠清の死罪の件をどうするべきかと評議した。主馬判官盛国が進み出て、「この忠清を、日ごろ臆病者とは思っておりません。あれが十八歳のときと覚えております。鳥羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党が二人逃げこもったのを、近寄って捕らえようと申す者が一人もいなかったのに、この忠清がただ一人、白昼に築地を越えて跳びこみ、一人を討ち取り、一人を捕らえて、名を後世に揚げた者ですぞ。今度の失態はただごととも思われません。これにつけても、よくよく兵乱をお慎みになるべきです」と申した。同じ十日に除目が行われて、権亮少将維盛は右近衛中将に昇進された。「今度坂東へ討手として向かわれたとは申しても、これといった手柄もない。これはいったい何の褒美なのか」と人々はささやきあった。
昔、平将軍貞盛と俵藤太秀郷が、将門を追討するために東国へ下向したが、朝敵がたやすくは滅びそうになかったので、重ねて討手を下すべきだと公卿の評議があって、宇治の民部卿忠文と清原重藤が、軍監という職を賜って下るうちに、駿河国の清見が関に宿った夜、その重藤が広々とした海上を遠く見わたして、「漁船の火の影は寒々として波を焼き、宿駅の道の鈴の音は夜の山を過ぎてゆく」という漢詩を高らかに口ずさまれたので、忠文は優雅なことに思って、感涙を流された。
そのうちに将門を、貞盛と秀郷がついに討ち取って、その首を持たせて上るうちに、駿河国の清見が関で行き会った。そこから前後の大将軍が連れ立って上洛した。貞盛と秀郷には褒美が与えられた。そのとき忠文と重藤にも褒美があるべきかと公卿の評議があったので、九条の右大臣師輔公が、「今度坂東へ討手が向かったとはいっても、朝敵がたやすく滅びそうになかったところに、この人たちが勅命を受けて関の東へ赴いたとき、朝敵はすでに滅びたのである。それならば忠文と重藤にも、どうして褒美がないことがあろうか」と申されたが、そのときの摂政である小野宮殿(実頼)が、「疑わしいことは行ってはならないと、『礼記』の文にございますから」といって、とうとう褒美を与えられなかった。忠文はこれを無念に思って、「小野宮殿の子孫を奴として見よう。九条殿の子孫は、いつの世までも守護神となろう」と誓いながら、ついに食を断って死んでしまった。それで九条殿の子孫はめでたく栄えておられるが、小野宮殿の子孫にはしかるべき人もおられず、今は絶えはててしまわれたのである。
同じ十一日、入道相国の四男、頭中将重衡が左近衛権中将に昇進された。同じ十三日、福原では内裏が造りあげられて、天皇がお移りになった。大嘗会が行われるはずであったが、大嘗会は十月の末に鴨川に行幸して御禊がある。大内裏の北の野に斎場所を造って、神服や神具を整える。大極殿の前、龍尾堂の壇の下に廻立殿を建てて、天皇が御湯を召される。同じ壇の並びに大嘗宮を造って、神膳を供える。神宴があり、御遊があり、大極殿で大礼があり、清暑堂で御神楽があり、豊楽院で宴会がある。ところがこの福原の新都には大極殿もないので、大礼を行う手だてもなく、清暑堂もないので御神楽を奏する所もない。豊楽院もないので宴会も行われない。今年はただ新嘗会と五節だけを行うべきだと公卿の評議があって、それでも新嘗の祭は、旧都の神祇官で執り行われた。五節というのは、清見原の天皇(天武天皇)の昔、吉野の宮で、月が白く冴え、嵐の激しかった夜に、天皇が心を澄まして琴を弾かれると、天女が天から降りて来て、五度袖をひるがえして舞った。これが五節の始まりである。
意訳
富士川の敗戦の後始末を描く章段である。清盛は維盛と忠清を厳しく罰しようとするが、侍たちの評定で忠清は許され、維盛はかえって昇進する。戦わずに逃げた大将軍が昇進したことに、人々は陰口をたたいた。
後半は、将門の乱の勧賞をめぐる忠文の怨みの故事と、五節の起こりを語る。新都福原には大極殿も豊楽院もなく、即位の大嘗会さえ行えなかった。遷都が都の儀式をも損なったことを、物語は淡々と記している。
語釈・文法注
- 勸賞
- 功績に対して朝廷が与える褒美。官位の昇進などをいう。
- 大嘗會
- 天皇が即位して初めて行う新嘗祭。一代に一度の重大な儀式。
- 五節
- 新嘗会・大嘗会のときに行われる、舞姫による舞の行事。
文法
- 「搦めう」
- 捕らえよう。「搦めむ」の音便。
- 「こはされば」
- これはいったい。
- 「干死に」
- 食を断って死ぬこと。
- 「漁舟の火の影は」
- 『和漢朗詠集』に収める唐の杜荀鶴の詩句。
解説
忠文の怨みの話は、『大鏡』などにも見える。藤原忠文は天慶三年(940)、征東大将軍として将門追討に下ったが、到着する前に将門は討たれていた。恩賞を受けられなかった忠文が実頼を恨んで死に、のちに怨霊となったと伝えられる。
五節の舞は、天武天皇が吉野で琴を弾いたとき、天女が舞い降りたのに始まるという伝説がある。新嘗会・大嘗会の豊明節会で舞姫が舞う、宮廷の重要な行事であった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、502–504頁(コマ280–281)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日