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平家物語 巻第五

五節の沙汰の事

富士川から逃げ帰った維盛に清盛は激怒したが、侍たちの評定で忠清は許され、維盛はかえって右近衛中将に昇進して人々の陰口を招いた。物語は、将門追討の勧賞をめぐる忠文の怨みの故事を引き、さらに新都福原では大嘗会を行えず、新嘗会と五節だけが行われたことを記して、五節の起こりを語る。

  1. 1同おな同おなおなじきじきじき十じふ十じふじゅう一いち一いちいち月ぐわつ月ぐわつがつ八やう八やうよう日か日かかののの日ひ日ひひ、、、大たい大たいたい將しやう將しやうしょう軍ぐん軍ぐんぐん權ごん權ごんごんののの亮すけ亮すけすけ少せう少せうしょう將しやう將しやうしょう維これ維これこれ盛もり盛もりもり、、、福ふく福ふくふく原はら原はらはらへへへ歸かへ歸かへかえりりり上のぼ上のぼのぼりりり給たま給たまたまふふう。。。入にふ入にふにゅう道だう道だうどう相しやう相しやうしょう國こく國こくこく大おほ大おほおおきききににに怒いか怒いかいかつつっててて、、、「「「維これ維これこれ盛もり盛もりもりをををばばば鬼き鬼きき界かい界かいかいががが島しま島しましまへへへ流なが流ながながすすすべしべしべし。。。忠たゞ忠たゞただ清きよ清きよきよをををばばば死し死しし罪ざい罪ざいざいににに行おこな行おこなおこなふふうべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。これこれこれににに依よ依よよつつっててて同おな同おなおなじきじきじき九ここの九ここのここの日か日かかののの日ひ日ひひ、、、平へい平へいへい家け家けけののの侍さぶらひ侍さぶらひさぶらい老らう老らうろう少せう少せうしょう數す數すす百ひやく百ひやくひゃく人にん人にんにん參さん參さんさん會くわい會くわいかいしてしてして、、、忠たゞ忠たゞただ清きよ清きよきよががが死し死しし罪ざい罪ざいざいののの事こと事ことこと、、、いかゞいかゞいかがあるあるあるべからべからべからんんんととと評ひやう評ひやうひょう定ぢやう定ぢやうじょうすすす。。。主しゆ主しゆしゅ馬め馬めめののの判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん盛もり盛もりもり國くに國くにくに進すゝ進すゝすすみみみ出い出いいでででててて、、、「「「このこのこの忠たゞ忠たゞただ清きよ清きよきよををを日ひ日ひひ頃ごろ頃ごろごろ不ふ不ふふ覺かく覺かくかく人じん人じんじんとととははは存ぞん存ぞんぞんじじじ候さふら候さふらそうらははわずずず。。。あれあれあれががが十じふ十じふじゅう八はつ八はつはっ歳さい歳さいさいととと覺おぼ覺おぼおぼえええ候さふらふ候さふらふそうろう。。。鳥と鳥とと羽ば羽ばば殿どの殿どのどのののの寶ほう寶ほうほう藏ざう藏ざうぞうににに五ご五ごご畿き畿きき内ない内ないない一いち一いちいちののの惡あく惡あくあく黨たう黨たうとう二ふた二ふたふた人り人りり逃に逃ににげげげ籠こも籠こもこもりりりたりたりたりしししををを、、、寄よ寄よよつつっててて搦から搦からからめうめうめうととと申まう申まうもうすすす者もの者ものもの一いち一いちいち人にん人にんにんももも候さふら候さふらそうらははわざりざりざりしししににに、、、このこのこの忠たゞ忠たゞただ清きよ清きよきよたゞたゞただ一いち一いちいち人にん人にんにん、、、白はく白はくはく晝ちう晝ちうちゅうににに築つい築ついつい地ぢ地ぢじををを越こ越ここえええ、、、はねはねはね入い入いいつつっててて、、、一いち一いちいち人にん人にんにんをををばばば討う討ううちちち取と取ととりりり、、、一いち一いちいち人にん人にんにんをををばばば搦から搦からからめめめ取と取ととつつっててて、、、名な名ななををを後こう後こうこう代だい代だいだいににに揚あ揚ああげげげたりたりたりししし者もの者ものものぞぞぞかしかしかし。。。今こん今こんこん度ど度どどののの不ふ不ふふ覺かく覺かくかくはははたゞたゞただごとごとごととととももも覺おぼ覺おぼおぼえええ候さふら候さふらそうらははわずずず。。。これこれこれにににつけつけつけてててももも、、、よく〳〵よく〳〵よくよく兵ひやう兵ひやうひょう亂らん亂らんらんののの御おん御おんおんつゝしみつゝしみつつしみ候さふらふ候さふらふそうろうべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞ申まう申まうもうしししけるけるける。。。同おな同おなおなじきじきじき十とを十とをとお日か日かかののの日ひ日ひひ除ぢ除ぢじ目もく目もくもく行おこな行おこなおこなははわれれれててて、、、權ごん權ごんごんののの亮すけ亮すけすけ少せう少せうしょう將しやう將しやうしょう維これ維これこれ盛もり盛もりもり右う右うう近こん近こんこん衞ゑ衞ゑえののの中ちゆう中ちゆうちゅう將じやう將じやうじょうにににあがりあがりあがり給たま給たまたまふふう。。。今こん今こんこん度ど度どど坂ばん坂ばんばん東どう東どうどうへへへ討うつ討うつうつ手て手ててににに向むか向むかむかははわれれれたりたりたりとととははは申まう申まうもうせせせどもどもども、、、させるさせるさせる仕し仕しし出いだ出いだいだしししたるたるたる事こと事ことことももも候さふら候さふらそうらははわずずず。。。こここはははさればさればされば何なに何なになにののの勸けん勸けんけんぞぞぞやややとととぞぞぞ、、、人ひと人ひとひと々びと々びとびとさゝやきさゝやきささやきあはあはあわれれれけるけるける。。。
  2. 2昔むかし昔むかしむかし平へい平へいへい將しやう將しやうしょう軍ぐん軍ぐんぐん貞さだ貞さださだ盛もり盛もりもり、、、俵たはら俵たはらたわら藤とう藤とうとう太だ太だだ秀ひで秀ひでひで鄕さと鄕さとさと、、、將まさ將まさまさ門かど門かどかどををを追つい追ついつい討たう討たうとうののの爲ため爲ためためににに東あづま東あづまあずまへへへ下げ下げげ向かう向かうこうしししたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてき容たや容たやたや易す易すすううう亡ほろ亡ほろほろびびび難がた難がたがたかりかりかりしかしかしかばばば、、、重かさ重かさかさねねねててて討うつ討うつうつ手て手ててををを下くだ下くだくださささるるるべしべしべしととと、、、公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう僉せん僉せんせん議ぎ議ぎぎあつあつあっててて、、、宇う宇うう治ぢ治ぢじののの民みん民みんみん部ぶ部ぶぶ卿きやう卿きやうきょう忠たゞ忠たゞただ文ふみ文ふみふみ、、、清きよ清きよきよ原はら原はらはらののの重しげ重しげしげ藤ふぢ藤ふぢふじ、、、軍ぐん軍ぐんぐん監けん監けんけんととといふいふいう職つかさ職つかさつかさををを賜たま賜たまたまはつはつわっててて下くだ下くだくだるるる程ほど程ほどほどににに、、、駿する駿するする河が河ががののの國くに國くにくに清きよ清きよきよ見み見みみががが關せき關せきせきににに宿しゆく宿しゆくしゅくしししたりたりたりけるけるける夜よ夜よよ、、、かのかのかの重しげ重しげしげ藤ふぢ藤ふぢふじ、、、漫まん漫まんまん々まん々まんまんたるたるたる海かい海かいかい上しやう上しやうしょうををを遠えん遠えんえん見けん見けんけんしてしてして、、、「「「漁ぎよ漁ぎよぎょ舟しう舟しうしゅうののの火ひ火ひひののの影かげ影かげかげははは寒さむ寒さむさむうううしてしてして波なみ波なみなみををを燒や燒ややききき、、、驛えき驛えきえき路ろ路ろろののの鈴すゞ鈴すゞすずののの聲こゑ聲こゑこえははは夜よる夜よるよる山やま山やまやまををを過す過すすぐぐぐ。。。」」」ととといふいふいう唐から唐からから詩うた詩うたうたををを、、、高たか高たかたからからからかににに口くち口くちくちずさびずさびずさび給たま給たまたまへへえばばば、、、忠たゞ忠たゞただ文ふみ文ふみふみ優いう優いうゆうににに覺おぼ覺おぼおぼえええててて、、、感かん感かんかん涙るい涙るいるいをををぞぞぞ流なが流ながながささされれれけるけるける。。。
  3. 3さるさるさる程ほど程ほどほどににに將まさ將まさまさ門かど門かどかどをををばばば、、、貞さだ貞さださだ盛もり盛もりもり、、、秀ひで秀ひでひで鄕さと鄕さとさとががが遂つひ遂つひついににに討う討ううちちち取と取ととつつっててて、、、そのそのその首かうべ首かうべこうべををを持も持ももたたたせせせててて上のぼ上のぼのぼるるる程ほど程ほどほどににに、、、駿する駿するする河が河ががののの國くに國くにくに清きよ清きよきよ見み見みみががが關せき關せきせきにてにてにて行ゆ行ゆゆききき逢あ逢あおうううたりたりたり。。。それそれそれよりよりより前ぜん前ぜんぜん後ご後ごごののの大たい大たいたい將しやう將しやうしょう軍ぐん軍ぐんぐんうちうちうちつれつれつれててて上しやう上しやうしょう洛らく洛らくらくすすす。。。貞さだ貞さださだ盛もり盛もりもり、、、秀ひで秀ひでひで鄕さと鄕さとさとににに勸けん勸けんけん賞じやう賞じやうじょう行おこな行おこなおこなははわれれれけりけりけり。。。時とき時ときときににに忠たゞ忠たゞただ文ふみ文ふみふみ、、、重しげ重しげしげ藤ふぢ藤ふぢふじにににももも勸けん勸けんけん賞じやう賞じやうじょうあるあるあるべきべきべきかかかととと、、、公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう僉せん僉せんせん議ぎ議ぎぎありありありしかしかしかばばば、、、九く九くく條でう條でうじょうののの右う右うう丞じよう丞じようじょう相しやう相しやうしょう師もろ師もろもろ輔すけ輔すけすけ公こう公こうこう、、、「「「今こん今こんこん度ど度どど坂ばん坂ばんばん東どう東どうどうへへへ討うつ討うつうつ手て手てて向むか向むかむこうううたりたりたりととといへいへいえどもどもども、、、朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてきたやすうたやすうたやすう亡ほろ亡ほろほろびびび難がた難がたがたかりかりかりししし所ところ所ところところににに、、、このこのこの人ひと人ひとひと敕ちよく敕ちよくちょく諚ぢやう諚ぢやうじょうををを承うけたまは承うけたまはうけたまわつつっててて關せき關せきせきののの東ひがし東ひがしひがしへへへ赴おもむ赴おもむおもむきききししし時とき時ときとき、、、朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてき既すで既すですでににに亡ほろ亡ほろほろびびびたりたりたり。。。さればさればされば忠たゞ忠たゞただ文ふみ文ふみふみ、、、重しげ重しげしげ藤ふぢ藤ふぢふじにににももも、、、などなどなどかかか勸けん勸けんけん賞じやう賞じやうじょうなかるなかるなかるべきべきべき。。。」」」ととと申まう申まうもうさささせせせ給たま給たまたまへへえどもどもども、、、そのそのその時とき時ときときののの執しつ執しつしっ柄ぺい柄ぺいぺい小を小をを野の野ののののの宮みや宮みやみや殿どの殿どのどの、、、「「「疑うたが疑うたがうたがはしきはしきわしきをををばばばなすなすなす事こと事ことことなかれなかれなかれととと、、、禮らい禮らいらい記き記ききののの文もん文もんもんににに候さふら候さふらそうらへへえばばば。。。」」」とてとてとて、、、遂つひ遂つひついににになさなさなさせせせ給たま給たまたまははわずずず。。。忠たゞ忠たゞただ文ふみ文ふみふみこれこれこれををを口くち口くちくち惜を惜をおしきしきしき事こと事ことことににに思おも思おもおもつつっててて、、、小を小をを野の野ののののの宮みや宮みやみや殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん末すゑ末すゑすえをををばばば奴やつこ奴やつこやつこににに見み見みみなさなさなさんんん、、、九く九くく條でう條でうじょう殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん末すゑ末すゑすえははは、、、いついついつののの世よ世よよまでまでまでももも守しゆ守しゆしゅ護ご護ごご神じん神じんじんとととならならならんんんととと誓ちか誓ちかちかひひいつゝつゝつつ、、、遂つひ遂つひついににに干ひ干ひひ死じに死じにじににににこそこそこそ死し死ししににににににけれけれけれ。。。さればさればされば九く九くく條でう條でうじょう殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん末すゑ末すゑすえはははめでたうめでたうめでとう榮さか榮さかさかえええさせさせさせ給たま給たまたまへへえどもどもども、、、小を小をを野の野ののののの宮みや宮みやみや殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん末すゑ末すゑすえにににははは然しか然しかしかるるるべきべきべき人ひと人ひとひともももましまさましまさましまさずずず、、、今いま今いまいまははは絶た絶たたえええはてはてはて給たま給たまたまひひいけるけるけるにににこそこそこそ。。。
  4. 4同おな同おなおなじきじきじき十じふ十じふじゅう一いち一いちいち日にち日にちにち、、、入にふ入にふにゅう道だう道だうどう相しやう相しやうしょう國こく國こくこくののの四し四しし男なん男なんなん頭とう頭とうとうののの中ちゆう中ちゆうちゅう將じやう將じやうじょう重しげ重しげしげ衡ひら衡ひらひら、、、左さ左ささ近こん近こんこん衞ゑ衞ゑえののの權ごん權ごんごん中ちゆう中ちゆうちゅう將じやう將じやうじょうにににあがりあがりあがり給たま給たまたまふふう。。。同おな同おなおなじきじきじき十じふ十じふじゅう三さん三さんさん日にち日にちにち、、、福ふく福ふくふく原はら原はらはらにににははは内だい内だいだい裏り裏りり造つく造つくつくりりり出いだ出いだいだささされれれててて、、、主しゆ主しゆしゅ上しやう上しやうしょう御ご御ごご遷せん遷せんせん幸かう幸かうこうありありありけりけりけり。。。大だい大だいだい嘗じやう嘗じやうじょう行おこな行おこなおこなははわるるるべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、大だい大だいだい嘗じやう嘗じやうじょう會ゑ會ゑえははは十じふ十じふじゅう月ぐわつ月ぐわつがつののの末すゑ末すゑすえ、、、東とう東とうとう河か河かかににに行ぎやう行ぎやうぎょう幸かう幸かうこうしてしてして御ご御ごご禊けい禊けいけいありありあり。。。大だい大だいだい内だい内だいだいののの北きた北きたきたののの野の野ののににに齋さい齋さいさい場ぢやう場ぢやうじょう所しよ所しよしょををを造つく造つくつくつつっててて、、、神じん神じんじん服ぷく服ぷくぷく、、、神じん神じんじん具ぐ具ぐぐををを調とゝの調とゝのととのふふう。。。大だい大だいだい極ごく極ごくごく殿でん殿でんでんののの前まへ前まへまえ、、、龍りう龍りうりゅう尾び尾びび堂だう堂だうどうののの壇だん壇だんだん下か下かかににに廻くわい廻くわいかい立りふ立りふりゅう殿でん殿でんでんををを建た建たたててて、、、御お御おお湯ゆ湯ゆゆををを召め召めめすすす。。。同おな同おなおなじきじきじき壇だん壇だんだんのののならびならびならびににに大だい大だいだい嘗じやう嘗じやうじょう宮ぐう宮ぐうぐうををを造つく造つくつくつつっててて、、、神しん神しんしん膳ぜん膳ぜんぜんををを供そな供そなそなふふう。。。神しん神しんしん宴えん宴えんえんありありあり、、、御ぎよ御ぎよぎょ遊いう遊いうゆうありありあり、、、大だい大だいだい極ごく極ごくごく殿でん殿でんでんにてにてにて大たい大たいたい禮れい禮れいれいありありあり、、、清せい清せいせい暑しよ暑しよしょ堂だう堂だうどうにてにてにて御み御みみ神か神かか樂ぐら樂ぐらぐらありありあり、、、豐ぶ豐ぶぶ樂らく樂らくらく院ゐん院ゐんいんにてにてにて宴えん宴えんえん會くわい會くわいかいありありあり。。。然しか然しかしかるるるをををこのこのこの福ふく福ふくふく原はら原はらはらののの新しん新しんしん都と都ととにににははは大だい大だいだい極ごく極ごくごく殿でん殿でんでんもももなけれなけれなければばば、、、大たい大たいたい禮れい禮れいれい行おこな行おこなおこなははわるるるべきべきべきやうやうようもももなくなくなく、、、清せい清せいせい暑しよ暑しよしょ堂だう堂だうどうもももなけれなけれなければばば御み御みみ神か神かか樂ぐら樂ぐらぐら奏そう奏そうそうすすすべきべきべき所ところ所ところところもももなしなしなし。。。豐ぶ豐ぶぶ樂らく樂らくらく院ゐん院ゐんいんもももなけれなけれなければばば宴えん宴えんえん會くわい會くわいかいももも行おこな行おこなおこなははわれれれずずず。。。今こ今ここ年とし年としとしはははたゞたゞただ新しん新しんしん嘗じやう嘗じやうじょう會ゑ會ゑえ、、、五ご五ごご許ばか許ばかばかりりりででであるあるあるべきべきべき由よし由よしよし、、、公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう僉せん僉せんせん議ぎ議ぎぎあつあつあっててて、、、なほなほなお新しん新しんしん嘗じやう嘗じやうじょうののの祭まつり祭まつりまつりをををばばば、、、舊きう舊きうきゅう都と都ととののの神じん神じんじん祇ぎ祇ぎぎ官くわん官くわんかんにてにてにてぞぞぞ遂と遂ととげげげられられられけるけるける。。。五ご五ごご節せつ節せつせつはははこれこれこれ清きよ清きよきよ見み見みみ原はら原はらはらのののそのかみそのかみそのかみ、、、吉よし吉よしよし野の野ののののの宮みや宮みやみやにににしてしてして、、、月つき月つきつき白しろ白しろしろくくくさえさえさえ、、、嵐あらし嵐あらしあらしはげしかりはげしかりはげしかりししし夜よ夜よよ、、、御み御みみ心こゝろ心こゝろこころをををすましすましすましててて琴きん琴きんきんををを彈ひ彈ひひききき給たま給たまたまひひいしかしかしかばばば、、、神しん神しんしん女によ女によにょ天あま天あまあま降くだ降くだくだつつっててて、、、五いつ五いついつ度たび度たびたび袖そで袖そでそでをををひるがへすひるがへすひるがえす。。。これこれこれぞぞぞ五ご五ごご節せつ節せつせつののの始はじ始はじはじめめめなるなるなる。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

同じ十一月八日、大将軍の権亮少将維盛が福原へ帰って来られた。入道相国(清盛)はたいそう怒って、「維盛を鬼界が島へ流せ。忠清を死罪にせよ」とおっしゃった。そこで同じ九日、平家の侍が老いも若きも数百人集まって、忠清の死罪の件をどうするべきかと評議した。主馬判官盛国が進み出て、「この忠清を、日ごろ臆病者とは思っておりません。あれが十八歳のときと覚えております。鳥羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党が二人逃げこもったのを、近寄って捕らえようと申す者が一人もいなかったのに、この忠清がただ一人、白昼に築地を越えて跳びこみ、一人を討ち取り、一人を捕らえて、名を後世に揚げた者ですぞ。今度の失態はただごととも思われません。これにつけても、よくよく兵乱をお慎みになるべきです」と申した。同じ十日に除目が行われて、権亮少将維盛は右近衛中将に昇進された。「今度坂東へ討手として向かわれたとは申しても、これといった手柄もない。これはいったい何の褒美なのか」と人々はささやきあった。

昔、平将軍貞盛と俵藤太秀郷が、将門を追討するために東国へ下向したが、朝敵がたやすくは滅びそうになかったので、重ねて討手を下すべきだと公卿の評議があって、宇治の民部卿忠文と清原重藤が、軍監という職を賜って下るうちに、駿河国の清見が関に宿った夜、その重藤が広々とした海上を遠く見わたして、「漁船の火の影は寒々として波を焼き、宿駅の道の鈴の音は夜の山を過ぎてゆく」という漢詩を高らかに口ずさまれたので、忠文は優雅なことに思って、感涙を流された。

そのうちに将門を、貞盛と秀郷がついに討ち取って、その首を持たせて上るうちに、駿河国の清見が関で行き会った。そこから前後の大将軍が連れ立って上洛した。貞盛と秀郷には褒美が与えられた。そのとき忠文と重藤にも褒美があるべきかと公卿の評議があったので、九条の右大臣師輔公が、「今度坂東へ討手が向かったとはいっても、朝敵がたやすく滅びそうになかったところに、この人たちが勅命を受けて関の東へ赴いたとき、朝敵はすでに滅びたのである。それならば忠文と重藤にも、どうして褒美がないことがあろうか」と申されたが、そのときの摂政である小野宮殿(実頼)が、「疑わしいことは行ってはならないと、『礼記』の文にございますから」といって、とうとう褒美を与えられなかった。忠文はこれを無念に思って、「小野宮殿の子孫を奴として見よう。九条殿の子孫は、いつの世までも守護神となろう」と誓いながら、ついに食を断って死んでしまった。それで九条殿の子孫はめでたく栄えておられるが、小野宮殿の子孫にはしかるべき人もおられず、今は絶えはててしまわれたのである。

同じ十一日、入道相国の四男、頭中将重衡が左近衛権中将に昇進された。同じ十三日、福原では内裏が造りあげられて、天皇がお移りになった。大嘗会が行われるはずであったが、大嘗会は十月の末に鴨川に行幸して御禊がある。大内裏の北の野に斎場所を造って、神服や神具を整える。大極殿の前、龍尾堂の壇の下に廻立殿を建てて、天皇が御湯を召される。同じ壇の並びに大嘗宮を造って、神膳を供える。神宴があり、御遊があり、大極殿で大礼があり、清暑堂で御神楽があり、豊楽院で宴会がある。ところがこの福原の新都には大極殿もないので、大礼を行う手だてもなく、清暑堂もないので御神楽を奏する所もない。豊楽院もないので宴会も行われない。今年はただ新嘗会と五節だけを行うべきだと公卿の評議があって、それでも新嘗の祭は、旧都の神祇官で執り行われた。五節というのは、清見原の天皇(天武天皇)の昔、吉野の宮で、月が白く冴え、嵐の激しかった夜に、天皇が心を澄まして琴を弾かれると、天女が天から降りて来て、五度袖をひるがえして舞った。これが五節の始まりである。

意訳

富士川の敗戦の後始末を描く章段である。清盛は維盛と忠清を厳しく罰しようとするが、侍たちの評定で忠清は許され、維盛はかえって昇進する。戦わずに逃げた大将軍が昇進したことに、人々は陰口をたたいた。

後半は、将門の乱の勧賞をめぐる忠文の怨みの故事と、五節の起こりを語る。新都福原には大極殿も豊楽院もなく、即位の大嘗会さえ行えなかった。遷都が都の儀式をも損なったことを、物語は淡々と記している。

語釈・文法注

勸賞
功績に対して朝廷が与える褒美。官位の昇進などをいう。
大嘗會
天皇が即位して初めて行う新嘗祭。一代に一度の重大な儀式。
五節
新嘗会・大嘗会のときに行われる、舞姫による舞の行事。

文法

「搦めう」
捕らえよう。「搦めむ」の音便。
「こはされば」
これはいったい。
「干死に」
食を断って死ぬこと。
「漁舟の火の影は」
『和漢朗詠集』に収める唐の杜荀鶴の詩句。

解説

忠文の怨みの話は、『大鏡』などにも見える。藤原忠文は天慶三年(940)、征東大将軍として将門追討に下ったが、到着する前に将門は討たれていた。恩賞を受けられなかった忠文が実頼を恨んで死に、のちに怨霊となったと伝えられる。

五節の舞は、天武天皇が吉野で琴を弾いたとき、天女が舞い降りたのに始まるという伝説がある。新嘗会・大嘗会の豊明節会で舞姫が舞う、宮廷の重要な行事であった。

関連

出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、502–504頁(コマ280–281)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日