平家物語 巻第五
富士川の事
頼朝挙兵の報を受け、平家は維盛を大将軍、忠度を副将軍として東国へ討手を下した。富士川で源氏の大軍と向き合った平家は、斎藤別当実盛から坂東武者の強さを聞いておびえ、夜半、水鳥がいっせいに飛び立つ羽音を源氏の夜襲と思いこんで、戦わずに逃げ帰った。頼朝はこれを八幡大菩薩の御はからいと拝み、都では平家をあざける落書がはやった。
- 1さるさるさる程程ほどににに右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの謀謀む叛叛ほんののの由由よし頻頻しきりりりににに風風ふう聞聞ぶんありありありしかしかしかばばば、、、福福ふく原原はらにににははは公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎあつあつあっててて、、、今今いま一一いち日日にちももも勢勢せいのののつかつかつかぬぬぬ先先さきににに、、、急急いそぎぎぎ討討うつ手手てををを下下くださささるるるべしべしべしとてとてとて、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは小小こ松松まつののの權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり、、、副副ふく將將しょう軍軍ぐんにににははは薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のり、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは上總上總かずさののの守守かみ忠忠ただ清清きよををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、九九く月月がつ十十じゅう八八はち日日にちににに新新しん都都とををを立立たつつっててて、、、あくるあくるあくる十十じゅう九九く日日にちにににははは舊舊きゅう都都とににに著著つききき、、、やがてやがてやがて同同おなじきじきじき二二に十十じゅう日日にちののの日日ひ東東とう國國ごくへへへこそこそこそ赴赴おもむかかかれれれけれけれけれ。。。
- 2大大たい將將しょう軍軍ぐん小小こ松松まつののの權權ごんののの亮亮すけ維維これ盛盛もりははは生生しょう年年ねん二二に十十じゅう三三さん、、、容容よう儀儀ぎ帶帶たい佩佩はい、、、繪繪えにににかくかくかくともともとも筆筆ふでももも及及およびびび難難がたししし。。。重重じゅう代代だいののの著著き背背せ長長なが唐唐から革革かわととといふいふいう鎧鎧よろいをををばばば、、、唐唐から櫃櫃うとににに入入いれれれててて舁舁かかかかせせせらるらるらる。。。道道どう中中ちゅうにににははは赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに萌萌もえ黄黄ぎ匂匂においののの鎧鎧よろい著著きててて、、、連連れん錢錢ぜん葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬うまににに金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらををを置置おいいいててて乘乘のりりり給給たまへへえりりり。。。副副ふく將將しょう軍軍ぐん薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のりははは紺紺こん地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに、、、黑黑くろ絲絲いと縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、黑黑くろききき馬馬うまののの太太ふとううう逞逞たくましきしきしきににに、、、鑄鑄い懸懸かけ地地じののの鞍鞍くらををを置置おいいいててて乘乘のりりりたまへたまへたまえりりり。。。馬馬うま鞍鞍くら、、、鎧鎧よろい兜兜かぶと、、、弓弓ゆみ矢矢や、、、太太た刀刀ち、、、刀刀かたなににに至至いたるるるまでまでまで、、、照照てりりり輝輝かがやくくく程程ほどににに出出いででで立立たたたたれれれたれたれたればばば、、、めづらしかりめづらしかりめずらしかりししし見見けん物物ぶつなりなりなり。。。
- 3中中なかにににももも副副ふく將將しょう軍軍ぐん薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のりははは、、、あるあるある宮宮みや腹腹ばらののの女女にょう房房ぼうのののもともともとへへへ通通かよははわれれれけるけるけるががが、、、あるあるある夜夜よおはしおはしおわしたりたりたりけるけるけるににに、、、このこのこの女女にょう房房ぼうののの局局つぼねににに、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき女女にょう房房ぼう客客まら人人うど來來きててて、、、さささ夜夜よもももやう〳〵やう〳〵ようよう更更ふけけけゆくゆくゆくまでまでまで歸歸かえりりり給給たまははわずずず。。。忠忠ただ度度のり軒軒のき端端ばにににたゝずんたゝずんたたずんででで、、、扇扇おうぎををを荒荒あらくくくつかはつかはつかわれれれけれけれければばば、、、かのかのかの女女にょう房房ぼう、、、「「「野野のもせもせもせにににすだくすだくすだく蟲蟲むしののの音音ねよよよ。。。」」」ととと、、、優優ゆうににに口口くちずさみずさみずさみ給給たまへへえばばば、、、扇扇おうぎをををやがてやがてやがて使使つかひひいやみやみやみてててぞぞぞ歸歸かえららられれれけるけるける。。。そのそのその後後のちおはしおはしおわしたるたるたる夜夜よ、、、「「「いついついつぞぞぞややや何何なにとてとてとて、、、扇扇おうぎをををばばばつかひつかひつかいやみやみやみしししぞぞぞややや。。。」」」ととと問問とはははれれれけれけれければばば、、、「「「いさいさいさ、、、かしがましかしがましかしがましなどなどなど聞聞きこえええ侍侍はべりりりししし程程ほどににに、、、さてさてさてこそこそこそ扇扇おうぎをををばばば使使つかひひいやみやみやみてててははは候候そうらひひいしかしかしか。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。そのそのその後後のち、、、このこのこの女女にょう房房ぼう、、、薩薩さつ摩摩まののの守守かみのののもともともとへへへ小小こ袖袖そでををを一一ひと襲襲かさねつかはすつかはすつかわすとてとてとて、、、千千せん里里りののの名名な殘殘ごりののの惜惜おしさしさしさににに、、、一一いっ首首しゅののの歌歌うたををを書書かききき添添そへへえててて贈贈おくららられれれけるけるける。。。
- 4東東あずま路路じののの草草くさ葉葉ばをををわけわけわけててて袖袖そでよりよりよりもももたたたたたたぬぬぬたもとたもとたもとののの露露つゆぞぞぞこぼるゝこぼるゝこぼるる
- 5薩薩さつ摩摩まののの守守かみののの返返へん事事じににに、、、
- 6別別わかれれれ路路じををを何何なにかかかなげかなげかなげかむむん越越こえええてててゆくゆくゆく關關せきもももむかしむかしむかしのののあとあとあとととと思思おもへへえばばば
- 7關關せきももも昔昔むかしののの跡跡あとととと詠詠よめめめるるる事事ことははは、、、先先せん祖祖ぞ平平たいらののの將將しょう軍軍ぐん貞貞さだ盛盛もり、、、俵俵たわら藤藤とう太太だ秀秀ひで鄕鄕さと、、、將將まさ門門かど追追つい討討とうのののためためためににに東東あずまへへへ下下げ向向こうしししたりたりたりししし事事ことををを、、、今今いま思思おもひひい出出いでででててて詠詠よみみみたりたりたりけるけるけるにににややや、、、いといといとやさしうやさしうやさしゅうぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 8昔昔むかしははは朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらげらげらげににに、、、外外がい土土どへへへ向向むかふふう將將しょう軍軍ぐんははは、、、まづまづまず參參さん内内だいしてしてして節節せつををを賜賜たまはるはるわる。。。宸宸しん儀儀ぎ南南なん殿殿でんににに出出しゅつ御御ぎょしてしてして、、、近近この衞衞え階階かい下下かににに陣陣じんをををひきひきひき、、、内内ない辨辨べん外外げ辨辨べんののの公公く卿卿ぎょう參參さん列列れつしてしてして、、、中中ちゅう儀儀ぎののの節節せち會會えををを行行おこなははわるるる。。。大大たい將將しょう軍軍ぐん、、、副副ふく將將しょう軍軍ぐん、、、各各おのおの禮禮れい儀儀ぎををを正正ただしうしうしゅうしてしてして之之これををを賜賜たまはるはるわる。。。承承しょう平平へい、、、天天てん慶慶ぎょうののの蹤蹤しょう跡跡せきももも年年とし久久ひさしうしうしゅうなつなつなっててて、、、なぞらへなぞらへなぞらえ難難がたしししとてとてとて、、、今今こん度度どははは讚讚さぬ岐岐きののの守守かみののの正正まさ盛盛もりががが、、、前前さきののの對對つ馬馬しまののの守守かみ源源みなもとののの義義よし親親ちか追追つい討討とうののの爲爲ためににに、、、出出いず雲雲もののの國國くにへへへ下下げ向向こうせせせししし例例れいとてとてとて、、、鈴鈴すず許許ばかりりり賜賜たまはつはつわっててて、、、皮皮かはののの袋袋ふくろににに入入いれれれててて雜雜ぞう色色しきががが頸頸くびにににかけかけかけさせさせさせてててぞぞぞ下下くだららられれれけるけるける。。。いにしへいにしへいにしえ朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらげらげらげんんんとてとてとて都都みやこををを出出いづるづるずる將將しょう軍軍ぐんははは、、、三三みつつつののの存存ぞん知知ちありありあり。。。節節せつ刀刀とうををを賜賜たまはるはるわる日日ひ家家いえををを忘忘わすれれれ、、、家家いえををを出出いづるづるずるとてとてとて妻妻さい子子しををを忘忘わすれれれ、、、戰戰せん場場じょうにににしてしてして敵敵かたきににに戰戰たたかふふう時時とき身身みををを忘忘わするるる。。。さればさればされば今今いまののの平平へい氏氏じののの大大たい將將しょう軍軍ぐん維維これ盛盛もり、、、忠忠ただ度度のりももも定定さだめめめてててさやうさやうさようののの事事ことどもどもどもをををばばば存存ぞん知知ちせせせられられられたりたりたりけんけんけん、、、哀哀あわれれれなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 9各各おのおの九九ここの重重へののの都都みやこををを立立たつつっててて、、、千千せん里里りののの東東とう海海かいへへへ赴赴おもむかかかれれれけるけるける。。。平平たいらからからかににに歸歸かえりりり上上のぼらららんんん事事ことももも、、、まことまことまことににに危危あやうきききありさまありさまありさまどもどもどもにてにてにて、、、或或あるいははは野野の原原はらののの露露つゆににに宿宿やどををを借借かりりり、、、或或あるいははは高高たか峯峯ねののの苔苔こけににに旅旅たび寢寢ねをををししし、、、山山やまををを越越こえええ河河かはををを重重かさねねね、、、日日ひ數數かずふれふれふればばば、、、十十じゅう月月がつ十十じゅう六六ろく日日にちにににははは駿駿する河河がののの國國くに清清きよ見見みががが關關せきにににぞぞぞ著著つききき給給たまふふう。。。都都みやこをををばばば三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎きででで出出いでででたれたれたれどもどもども、、、路路ろ次次じ兵兵つわものつきつきつき添添そひひいててて七七しち萬萬まん餘餘よ騎騎きとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。先先せん陣陣じんははは蒲蒲かん原原ばら、、、富富ふ士士じ川川がわににに進進すすみみみ、、、後後ご陣陣じんははは未未いまだだだ手手て越越ごし、、、宇宇う津津つののの谷谷やににに支支ささへへえたりたりたり。。。大大たい將將しょう軍軍ぐん權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょう上總上總かずさののの守守かみ忠忠ただ清清きよををを召召めしししててて、、、「「「維維これ盛盛もりががが存存ぞん知知ちにににははは、、、足足あし柄柄がらののの山山やまうちうちうち越越こえええ、、、廣廣ひろみみみへへへ出出いでででててて軍軍いくさをををせせせんんん。。。」」」とととはやらはやらはやられれれけれけれけれどもどもども、、、上總上總かずさののの守守かみ申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「福福ふく原原はらををを御御おん立立たちちち候候そうらひひいししし時時とき、、、入入にゅう道道どう殿殿どのののの仰仰おおせせせにににははは、、、軍軍いくさをををばばば忠忠ただ清清きよににに任任まかせせせさせさせさせ給給たまへへえとととこそこそこそ仰仰おおせせせ候候そうらひひいつれつれつれ。。。伊伊い豆豆ず、、、駿駿する河河がののの勢勢せいののの參參まいるるるべきべきべきだにだにだに、、、未未いまだだだ一一いっ騎騎きももも見見みえええ候候そうらははわずずず。。。御御み方方かたののの御御おん勢勢せい七七しち萬萬まん騎騎ぎとととははは申申もうせせせどもどもども、、、國國くに々々ぐにののの驅驅かり武武む、、、馬馬うまももも人人ひとももも皆皆みな疲疲つかれれれはてはてはてててて候候そうろう。。。東東とう國國ごくははは草草くさももも木木きももも兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけににに從從したがひひいついついついててて候候そうろうなれなれなればばば、、、何何なん十十じゅう萬萬まん騎騎ぎかかか候候そうろうらんらんらん。。。たゞたゞただ富富ふ士士じ川川がわををを前前まえににに當當あてててててて、、、御御み方方かたののの御御おん勢勢せいををを待待またたたせせせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、力力ちから及及およばばばでででゆらへゆらへゆらえたりたりたり。。。
- 10さるさるさる程程ほどににに兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも鎌鎌かま倉倉くらををを立立たつつっててて、、、足足あし柄柄がらののの山山やまうちうちうち越越こえええ、、、黄黄き瀨瀨せ川川がわにににこそこそこそ著著つききき給給たまへへえ。。。甲甲か斐斐ひ、、、信信しな濃濃のののの源源げん氏氏じどもどもども、、、馳馳はせせせ來來きたつつっててて一一ひとつつつににになるなるなる。。。駿駿する河河がののの國國くに浮浮うき島島しまががが原原はらにてにてにて勢勢せいぞろへぞろへぞろえありありあり。。。都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に十十じゅう萬萬まん騎騎ぎとととぞぞぞ註註しるいいいたるたるたる。。。常常ひた陸陸ち源源げん氏氏じ佐佐さ竹竹たけののの四四し郎郎ろうががが雜雜ぞう色色しきののの、、、文文ふみ持持もつつっててて京京きょうへへへ上上のぼりりりけるけるけるををを、、、平平へい家家けののの侍侍さぶらい大大たい將將しょう上總上總かずさののの守守かみ忠忠ただ清清きよ、、、このこのこの文文ふみををを奪奪うばひひい取取とつつっててて、、、見見みるるるににに、、、女女にょう房房ぼうのののもともともとへへへののの文文ふみなりなりなり。。。苦苦くるしかるしかるしかるまじまじまじとてとてとて、、、取取とらららせせせてててけりけりけり。。。さてさてさて、、、「「「源源げん氏氏じががが勢勢せいはははいかいかいか程程ほどあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひいけれけれければばば、、、「「「下下げ郎郎ろうははは四四し五五ご百百ひゃく千千せんまでまでまでこそこそこそ、、、ものものものののの數數かずをををばばば知知しつつっててて候候そうらへへえ。。。それそれそれよりよりより上上うえをををばばば知知しりりり參參まいらららせせせずずず候候そうろう。。。多多おおいいいやらうやらうやろう、、、少少すくないいいやらうやらうやろう、、、大大おお凡凡よそ七七なぬ日日か八八よう日日かががが間間あいだははは、、、はたはたはたとととつゞいつゞいつづいててて、、、野野のももも山山やまももも、、、海海うみももも河河かはももも、、、みなみなみな武武む者者しゃででで候候そうろう。。。昨日昨日きのう黄黄き瀨瀨せ川川がわにてにてにて人人ひとののの申申もうししし候候そうらひひいつるつるつるははは、、、源源げん氏氏じののの御御おん勢勢せい二二に十十じゅう萬萬まん騎騎ぎとととこそこそこそ申申もうししし候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、上總上總かずさののの守守かみ、、、「「「あなあなあな心心こころうううややや。。。大大たい將將しょう軍軍ぐんののの御御おん心心こころののの延延のびびびさせさせさせ給給たまひひいたるたるたるほどほどほど、、、口口くち惜惜おしかりしかりしかりけるけるける事事ことはははなしなしなし。。。今今いま一一いち日日にちももも前前さきににに討討うつ手手てををを下下くださささせせせ給給たまひひいたらたらたらばばば、、、大大おお庭庭ば兄兄きょう弟弟だい、、、畠畠はたけ山山やまががが一一いち族族ぞく、、、などなどなどかかか參參まいらららででで候候そうろうべきべきべき。。。これこれこれだにだにだに參參まいりりり候候そうらははわばばば、、、伊伊い豆豆ず、、、駿駿する河河がののの勢勢せいはははみなみなみな從從したがひひいつくつくつくべかりべかりべかりつるつるつるををを。。。」」」ととと、、、後後こう悔悔かいすれすれすれどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。
- 11大大たい將將しょう軍軍ぐん權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり、、、東東とう國國ごくののの案案あん内内ない者者じゃとてとてとて、、、長長なが井井いののの齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とう實實さね盛盛もりををを召召めしししててて、、、「「「汝汝なんじほどほどほどののの强强つよ弓弓ゆみ精精せい兵兵びょう、、、八八はっ箇箇か國國こくにににはははいかいかいか程程ほどあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうあざあざあざ笑笑わらつつっててて、、、「「「さささ候候そうらへへえばばば、、、君君きみははは實實さね盛盛もりををを大大おおとととおぼしおぼしおぼしめさめさめされれれ候候そうろうにににこそこそこそ。。。纔纔わずかかか十十じゅう三三さん束束ぞくをををこそこそこそ仕仕つかまつりりり候候そうらへへえ。。。實實さね盛盛もりほどほどほど射射い候候そうろう者者ものははは、、、八八はっ箇箇か國國こくにににはははいくらいくらいくらももも候候そうろう。。。大大おお矢矢やととと申申もうすすす定定じょうののの者者ものののの、、、十十じゅう五五ご束束そくににに劣劣おとつつっててて引引ひくくくははは候候そうらははわずずず。。。弓弓ゆみののの强强つよさささももも、、、したゝかしたゝかしたたかなるなるなる者者ものののの五五ご六六ろく人人にんしてしてして張張はりりり候候そうろう。。。かやうかやうかようののの精精せい兵兵びょうどもどもどもががが射射い候候そうらへへえばばば、、、鎧鎧よろいののの二二に三三さん領領りょうはははたやすうたやすうたやすう、、、かけかけかけずずず射射いとほしとほしとおし候候そうろう。。。大大だい名名みょうととと申申もうすすす定定じょうののの者者ものののの、、、五五ご百百ひゃく騎騎きににに劣劣おとつつっててて持持もつつつははは候候そうらははわずずず。。。馬馬うまににに乘乘のつつっててて落落おつるつるつる道道みちををを知知しらららずずず、、、惡惡あく所所しょををを馳馳はすれすれすれどどど馬馬うまををを倒倒たおさささずずず。。。軍軍いくさはははまたまたまた親親おやももも討討うたたたれよれよれよ、、、子子こももも討討うたたたれよれよれよ、、、死死しにににぬれぬれぬればばば、、、乘乘のりりり越越こえ〳〵え〳〵えのりこえ戰戰たたかひひい候候そうろう。。。西西さい國國こくののの軍軍いくさととと申申もうすすすははは、、、凡凡すべててて其其そののの儀儀ぎ候候そうらははわずずず。。。親親おや討討うたたたれれれぬれぬれぬればばば引引ひき退退しりぞききき、、、佛佛ぶつ事事じ孝孝きょう養養ようししし、、、忌忌いみあけあけあけててて寄寄よせせせ、、、子子こ討討うたたたれれれぬれぬれぬればばば、、、そのそのその憂憂うれへへえ歎歎なげきききとてとてとて寄寄よせせせ候候そうらははわずずず。。。兵兵ひょう粮粮ろう米米まい盡盡つきききぬれぬれぬればばば、、、春春はるははは田田たつくりつくりつくり、、、秋秋あきははは刈刈かりりり收收おさめめめててて寄寄よせせせ、、、夏夏なつははは暑暑あつしししととといとひいとひいとい、、、冬冬ふゆははは寒寒さむしししととと嫌嫌きらひひい候候そうろう。。。東東とう國國ごくののの軍軍いくさととと申申もうすすすははは、、、すべてすべてすべてそのそのその儀儀ぎ候候そうらははわずずず。。。そのそのその上上うえ甲甲か斐斐ひ、、、信信しな濃濃のののの源源げん氏氏じ等等ら、、、案案あん内内ないははは知知しつつったりたりたり、、、富富ふ士士じののの裾裾すそよりよりより搦搦からめ手手てにににややや廻廻まわりりり候候そうらははわんずんずんずらんらんらん。。。かやうかやうかようににに申申もうせせせばばば、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんののの御御おん心心こころををを臆臆おくさせさせさせ參參まいらららせせせんんんとてとてとて、、、申申もうすすすとととややや思思おぼし召召めささされれれ候候そうらははわんんん。。。そのそのその儀儀ぎでででははは候候そうらははわずずず。。。但但ただししし軍軍いくさははは勢勢せいののの多多た少少しょうににによりよりより候候そうらははわずずず。。。大大たい將將しょう軍軍ぐんののの謀謀はかりごとににに依依よるるるとととこそこそこそ申申もうししし傳傳つたへへえててて候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、これこれこれををを聞聞きくくく兵兵つわものどもどもども皆皆みな震震ふるひひいわなゝきわなゝきわななきあへあへあえりりりけりけりけり。。。
- 12さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき二二に十十じゅう四四し日日にちののの卯卯うののの刻刻こくににに、、、富富ふ士士じ川川がわにてにてにて源源げん平平ぺいののの矢矢やあはせあはせあわせとととぞぞぞ定定さだめめめけるけるける。。。二二に十十じゅう三三さん日日にちののの夜夜よににに入入いつつっててて、、、平平へい家家けののの兵兵つわものどもどもども源源げん氏氏じののの陣陣じんををを見見み渡渡わたせせせばばば、、、伊伊い豆豆ず、、、駿駿する河河がののの人人にん民民みん百百ひゃく姓姓しょう等等ら、、、軍軍いくさににに恐恐おそれれれててて、、、或或あるいははは野野のににに入入いりりり山山やまににに隱隱かくれれれ、、、或或あるいははは船船ふねににに取取とり乘乘のつつっててて海海うみ河河かわににに浮浮うかびびびたるたるたるががが、、、いとなみいとなみいとなみののの火火ひののの見見みえええけるけるけるををを、、、あなあなあなおびたゞしおびたゞしおびただしののの源源げん氏氏じののの陣陣じんののの遠遠とお火火びのののおほさおほさおおさよよよ。。。げにげにげにももも野野のももも山山やまももも、、、海海うみももも河河かはももも、、、みなみなみな武武む者者しゃでででありありありけりけりけり。。。いかゞいかゞいかがせせせんんんとととぞぞぞあきれあきれあきれけるけるける。。。そのそのその夜夜よののの夜夜よ半半わばかりばかりばかり、、、富富ふ士士じののの沼沼ぬまにににいくらいくらいくらもももありありありけるけるける水水みず鳥鳥とりどもどもどもががが何何なににににかかかははは驚驚おどろきききたりたりたりけんけんけん、、、一一いち度度どにににばつばつばっととと立立たちちちけるけるける羽羽は音音おとののの、、、雷雷いかずち大大おお風風かぜなどなどなどのののやうやうようににに聞聞きこえええけれけれければばば、、、平平へい家家けののの兵兵つわものどもどもども、、、「「「あはやあはやあわや源源げん氏氏じののの大大おお勢勢ぜいののの向向むこうううたるたるたるははは。。。昨日昨日きのう齋齋さい藤藤とう別別べつ當當とうががが申申もうしししつるつるつるやうやうようににに、、、甲甲か斐斐ひ、、、信信しな濃濃のののの源源げん氏氏じ等等ら、、、富富ふ士士じののの裾裾すそよりよりより搦搦からめ手手てへへへややや廻廻まわりりり候候そうろうらんらんらん。。。敵敵かたき何何なん十十じゅう萬萬まん騎騎ぎかかかあるあるあるらんらんらん。。。取取とり籠籠こめめめられられられてててはははかなふかなふかなうまじまじまじ。。。こゝこゝここをををばばば落落おちちちててて、、、尾尾お張張はり川川がわ洲洲すの股股またををを防防ふせげげげややや。。。」」」とてとてとて、、、取取とるるる物物ものももも取取とりりりあへあへあえずずず、、、われわれわれ先先さきに〳〵に〳〵にわれさきにとととぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききたるたるたる。。。あまりあまりあまりにににあわてあわてあわて騒騒さわいいいででで、、、弓弓ゆみ取取とるるる者者ものははは弓弓ゆみををを知知しらららずずず、、、わがわがわが馬馬うまにににははは人人ひと乘乘のりりり、、、人人ひとののの馬馬うまにににはははわれわれわれ乘乘のりりり、、、繋繋つないいいだるだるだる馬馬うまににに乘乘のつつっててて馳馳はすれすれすればばば、、、株株くいををを廻廻めぐるるる事事こと限限かぎりりりなしなしなし。。。そのそのその邊邊へん近近ちかききき宿宿しゅく々々じゅくよりよりより、、、遊遊ゆう君君くん遊遊ゆう女女じょどもどもども召召めししし集集あつめめめ、、、遊遊あそびびび酒酒さか宴宴もりしししけるけるけるががが、、、或或あるいははは首首かしら蹴蹴けわらわらわられれれ、、、或或あるいははは腰腰こし蹈蹈ふみみみ折折おららられれれててて、、、をめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ事事ことおびたゞしおびたゞしおびただし。。。
- 13同同おなじきじきじき二二に十十じゅう四四し日日にちののの卯卯うののの刻刻こくににに、、、源源げん氏氏じ二二に十十じゅう萬萬まん騎騎ぎ富富ふ士士じ川川がわにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、天天てんももも響響ひびききき大大だい地地じもももゆるぐゆるぐゆるぐばかりばかりばかりににに、、、鬨鬨ときをををぞぞぞ三三さん箇箇か度度どつくりつくりつくりけるけるける。。。平平へい家家けののの方方かたにににははは、、、しづまりしづまりしずまり返返かえつつっててて音音おともももせせせずずず。。。人人ひとををを入入いれれれててて見見みせせせけれけれければばば、、、「「「みなみなみな落落おちちちててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。或或あるいははは敵敵かたきののの忘忘わすれれれたるたるたる鎧鎧よろい取取とつつっててて參參まいるるる者者ものもももありありあり、、、或或あるいははは平平へい家家けののの棄棄すててて置置おいいいたるたるたる大大おお幕幕まく取取とつつっててて歸歸かえるるる者者ものもももありありあり。。。「「「およそおよそおよそ平平へい家家けののの陣陣じんにににははは、、、蝿蝿はへだにだにだにももも翔翔かけりりり候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうすすす。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ、、、いそぎいそぎいそぎ馬馬うまよりよりより下下おりりり、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、手手ちょう水水ずうがひうがひうがいをををしてしてして、、、王王おう城城じょうののの方方かたををを伏伏ふししし拜拜おがみみみ、、、「「「これこれこれははは全全まったくくく賴賴より朝朝ともががが私私わたくしののの高高こう名名みょうにににはははあらあらあらずずず、、、ひとへひとへひとえににに八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつののの御御おんはからひはからひはからいなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 14やがてやがてやがて打打うち取取とるるる所所ところなれなれなればばばとてとてとて、、、駿駿する河河がののの國國くにをををばばば一一いち條條じょうののの次次じ郎郎ろう忠忠ただ賴賴より、、、遠江遠江とおとうみののの國國くにをををばばば安安やす田田だののの三三さぶ郎郎ろう義義よし定定さだににに預預あずけけけらるらるらる。。。なほなほなおももも續續つづいいいててて攻攻せむむむべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、後後うしろもももさすがさすがさすが覺覺おぼ束束つかなしなしなしとてとてとて、、、駿駿する河河がののの國國くによりよりより鎌鎌かま倉倉くらへへへぞぞぞ歸歸かえららられれれけるけるける。。。海海かい道道どう宿宿しゅく々々じゅくののの遊遊ゆう君君くん遊遊ゆう女女じょどもどもども、、、「「「あなあなあないま〳〵しいま〳〵しいまいましののの打打うつ手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんややや、、、軍軍いくさにににははは見見み逃逃にげげげをををだにだにだに、、、あさましきあさましきあさましきことことことにににするするするににに、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びとははは聞聞きききき逃逃にげげげししし給給たまへへえりりり。。。」」」とととぞぞぞ笑笑わらひひいけるけるける。。。
- 15さるさるさる程程ほどににに、、、落落らく書書しょどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。都都みやこののの大大たい將將しょう軍軍ぐんをををばばば宗宗むね盛盛もりととといひいひいい、、、討討うつ手手てののの大大たい將將しょうをををばばば權權ごんののの亮亮すけととといふいふいう閒閒あいだ、、、平平へい家家けをををひらやひらやひらやににによみよみよみなしなしなしててて、、、
- 16ひらやひらやひらやなるなるなるむねもりむねもりむねもりいかにいかにいかに騒騒さわぐぐぐらむらむらん柱柱はしらとととたのむたのむたのむすけすけすけをををおとしおとしおとしててて
- 17富富ふ士士じ川川がわのののせゞせゞせぜののの岩岩いわ越越こすすす水水みずよりよりよりもももはやくはやくはやくももも落落おつるつるつる伊伊い勢勢せ平平へい氏氏じかなかなかな
- 18またまたまた上總上總かずさ守守かみ忠忠ただ清清きよががが、、、富富ふ士士じ川川がわににに鎧鎧よろい棄棄すてててたりたりたりけるけるけるをををももも詠詠よめめめりりり。。。
- 19富富ふ士士じ川川がわににに鎧鎧よろいははは棄棄すてててつつつすみすみすみぞめぞめぞめのののころもころもころもたゞたゞただきよきよきよ後後のちののの世世よのののためためため
- 20たゞたゞただきよきよきよはははにげにげにげののの馬馬うまにににぞぞぞ乘乘のりりりてててけるけるける上總上總かずさしりがいしりがいしりがいかけかけかけてててかひかひかいなしなしなし
現代語訳
こうして右兵衛佐殿(頼朝)が謀叛を起こしたといううわさがしきりに聞こえたので、福原では公卿の評議があって、一日でも早く、勢力がつかないうちに急いで討手を下すべきだということになり、大将軍には小松の権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、侍大将には上総守忠清をはじめとして、総勢三万余騎が、九月十八日に新都を出発し、翌十九日には旧都に着き、そのまま同じ月の二十日に東国へ向かわれた。
大将軍の小松の権亮維盛は二十三歳、姿かたちや装いの立派さは、絵に描こうとしても筆が及ばない。先祖伝来の着背長で唐革という鎧は、唐櫃に入れて担がせておられる。道中では赤地の錦の直垂に萌黄匂の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っておられた。副将軍の薩摩守忠度は紺地の錦の直垂に黒糸縅の鎧を着て、太くたくましい黒い馬に鋳懸地の鞍を置いて乗っておられた。馬・鞍・鎧・兜・弓矢・太刀・刀に至るまで、照り輝くほどに装って出発されたので、すばらしい見物であった。
なかでも副将軍の薩摩守忠度は、ある皇女に仕える女房のもとへ通っておられたが、ある夜訪ねて行かれると、その女房の部屋に身分の高い女房の客が来ていて、夜がしだいに更けていくまでお帰りにならない。忠度は軒先にたたずんで、扇を荒々しく使われたので、その女房が「野原いっぱいに群がって鳴く虫の声よ」と優雅に口ずさまれると、忠度はすぐに扇を使うのをやめてお帰りになった。その後訪ねて行かれた夜、「いつぞやは、どうして扇を使うのをやめたのですか」と尋ねられると、「さあ、『やかましい』などと聞こえましたので、それで扇を使うのをやめたのでございます」と申された。その後、この女房は薩摩守のもとへ小袖を一揃い贈るというので、遠く別れる名残惜しさに、一首の歌を書き添えて贈られた。
東国への道の草葉を分けて行かれるあなたの袖よりも、旅立たずに都に残る私のたもとのほうが、涙の露がこぼれることです。
薩摩守の返事に、
別れの道を、どうして嘆くことがあろうか。これから越えて行く関も、昔先祖がたどった跡だと思えば。
関も昔の跡と詠んだのは、先祖の平将軍貞盛が、俵藤太秀郷とともに、将門追討のために東国へ下向したことを、今思い出して詠んだのであろうか、たいそう優雅なことと評判であった。
昔は朝敵を平らげるために地方へ向かう将軍は、まず参内して節刀を賜った。天皇が南殿にお出ましになり、近衛府の官人が階段の下に陣を敷き、内弁・外弁の公卿が参列して、中儀の節会を行われる。大将軍と副将軍はそれぞれ礼儀を正してこれを賜った。しかし承平・天慶の先例も年月が久しくなって、まねるのが難しいというので、今度は讃岐守正盛が、前対馬守源義親を追討するために出雲国へ下向したときの例にならって、駅鈴だけを賜り、皮の袋に入れて雑色の首にかけさせて下られた。昔から朝敵を平らげようとして都を出る将軍には、三つの心得がある。節刀を賜る日には家を忘れ、家を出るときには妻子を忘れ、戦場で敵と戦うときには身を忘れる。だから今の平氏の大将軍維盛と忠度も、きっとそのようなことを心得ておられたのであろう、哀れなことであった。
それぞれ九重の都を出発して、はるか東海道へ向かわれた。無事に帰り上れるかどうかも、まことに危ういありさまで、あるいは野原の露に宿を借り、あるいは高い峰の苔の上に旅寝をし、山を越え川を渡って日数が経つうちに、十月十六日には駿河国の清見が関にお着きになった。都を三万余騎で出たが、途中で兵が加わって七万余騎になったと聞こえた。先陣は蒲原・富士川に進み、後陣はまだ手越・宇津の谷にとどまっていた。大将軍の権亮少将維盛は、侍大将の上総守忠清を呼んで、「わたしの考えでは、足柄の山を越えて広い所へ出て戦をしよう」と勇まれたが、上総守が申すには、「福原をお立ちになったとき、入道殿(清盛)の仰せでは、戦は忠清に任せなさいとおっしゃっておりました。伊豆・駿河の軍勢が参るはずなのに、まだ一騎も見えません。味方の軍勢は七万騎と申しても、国々から駆り集めた武者で、馬も人もみな疲れきっております。東国は草も木も兵衛佐に従っておりますから、敵は何十万騎おりましょうか。ただ富士川を前にして、味方の軍勢をお待ちになるのがよろしいでしょう」と申したので、どうしようもなくためらっていた。
そのうちに兵衛佐頼朝は鎌倉を出発して、足柄の山を越え、黄瀬川にお着きになった。甲斐・信濃の源氏たちが駆けつけて一つになる。駿河国の浮島が原で軍勢の点検があった。総勢二十万騎と記されている。常陸源氏の佐竹四郎の雑色が手紙を持って京へ上っていたのを、平家の侍大将上総守忠清がその手紙を奪い取って見ると、女房のもとへの手紙であった。差し支えあるまいと返してやった。そして「源氏の軍勢はどれほどあるか」と尋ねると、「わたくしのような下郎は、四、五百か千ぐらいまでしか物の数を知りません。それより上は存じません。多いのやら少ないのやら、およそ七日八日の間は、ずっと続いて、野も山も、海も川も、みな武者でございます。昨日黄瀬川で人が申しておりましたのは、源氏の御勢は二十万騎ということでございました」と申したので、上総守は、「ああ情けない。大将軍がのんびりしておられたことほど、残念なことはない。一日でも早く討手をお下しになっていたら、大庭兄弟や畠山の一族は、どうして参らずにいようか。この者たちさえ参っていれば、伊豆・駿河の軍勢はみな味方についたはずなのに」と後悔したが、どうしようもなかった。
大将軍の権亮少将維盛は、東国の事情に詳しい者として、長井の斎藤別当実盛を呼んで、「おまえほどの強弓を引く精兵は、関東八か国にどれほどいるか」とお尋ねになると、斎藤別当はあざ笑って、「そうおっしゃるのは、殿は実盛を大矢(強弓の射手)とお思いになっているのでしょう。わたくしはわずか十三束の矢を引くだけでございます。実盛ほど射る者は、八か国にはいくらでもおります。大矢と申すほどの者は、十五束より短い矢を引くことはございません。弓の強さも、屈強な者が五、六人がかりで張るほどです。このような精兵たちが射ますと、鎧の二、三領はたやすく重ねて射通してしまいます。大名と申すほどの者は、五百騎より少ない手勢を持つことはございません。馬に乗れば落ちることを知らず、悪路を走らせても馬を倒しません。戦ではまた、親が討たれようが子が討たれようが、死ねばその屍を乗り越え乗り越えして戦います。西国の戦と申すのは、まったくそうではございません。親が討たれれば退いて、仏事供養をし、喪が明けてから攻め寄せ、子が討たれれば、その悲しみ嘆きのために攻め寄せません。兵糧米が尽きれば、春は田を作り、秋は刈り取ってから攻め寄せ、夏は暑いといやがり、冬は寒いと嫌います。東国の戦と申すのは、まったくそうではございません。そのうえ甲斐・信濃の源氏たちは地理を知っておりますから、富士の裾野から背後に回ることでしょう。このように申しますと、大将軍のお心を怖じ気づかせようとして申すのかとお思いになるでしょう。そうではございません。ただし戦は軍勢の多少によるものではございません。大将軍の謀によるものと申し伝えております」と申したので、これを聞く兵たちはみな震えおののいた。
そのうちに、同じ二十四日の卯の刻(午前六時ごろ)に、富士川で源平の矢合わせをすると決めた。二十三日の夜になって、平家の兵たちが源氏の陣を見渡すと、伊豆・駿河の人民や百姓たちが戦を恐れて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは船に乗って海や川に浮かんでいたが、その炊事の火が見えたのを、「ああ、なんとおびただしい源氏の陣の遠火の多さよ。本当に野も山も、海も川も、みな武者だったのだ。どうしよう」とあきれ果てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさんいた水鳥が、何に驚いたのか、一度にばっと飛び立った羽音が、雷や大風のように聞こえたので、平家の兵たちは、「すわ、源氏の大軍が攻めて来たぞ。昨日斎藤別当が申したように、甲斐・信濃の源氏たちが、富士の裾野から背後へ回ったのであろう。敵は何十万騎いるかわからない。取り囲まれてはかなうまい。ここは退いて、尾張川の洲股で防げ」といって、取る物も取りあえず、我先に我先にと逃げて行った。あまりにあわて騒いで、弓を取る者は弓の扱いもわからず、自分の馬には人が乗り、人の馬には自分が乗り、つないだままの馬に乗って走らせるので、杭のまわりをぐるぐる回ることかぎりがない。近くの宿々から遊女たちを呼び集めて遊び酒盛りをしていたが、あるいは頭を蹴割られ、あるいは腰を踏み折られて、わめき叫ぶ声がおびただしい。
同じ二十四日の卯の刻に、源氏二十万騎が富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺れるほどに、鬨の声を三度あげた。平家の陣は静まり返って物音もしない。人を入れて見させると、「みな逃げております」と申す。あるいは敵が忘れていった鎧を取って来る者もあり、あるいは平家が捨て置いた大幕を取って帰る者もある。「およそ平家の陣には、蝿さえも飛んでおりません」と申す。兵衛佐は急いで馬から下り、兜を脱ぎ、手を洗い口をすすいで、都の方を伏し拝み、「これはまったく頼朝個人の手柄ではない。ひとえに八幡大菩薩のおはからいである」とおっしゃった。
そのまま手に入れた所だからというので、駿河国を一条次郎忠頼に、遠江国を安田三郎義定に預けられた。なおも続いて攻めるべきであったが、背後もやはり心配だというので、駿河国から鎌倉へ帰られた。東海道の宿々の遊女たちは、「ああ縁起でもない討手の大将軍だこと。戦では敵を見て逃げることさえ恥ずかしいことにするのに、平家の人々は音を聞いただけで逃げてしまわれた」と笑った。
そのころ、落書がたくさん出た。都の大将軍を宗盛といい、討手の大将を権亮というので、平家を平屋に詠みかえて、
平屋の棟木(宗盛)はどんなに騒いでいることだろう。柱と頼む添え木(亮)を落としてしまって。
富士川の瀬々の岩を越す水よりも、さらに早く落ちていく伊勢平氏であることよ。
また上総守忠清が、富士川に鎧を捨てたことをも詠んだ。
富士川に鎧は捨ててしまった。墨染めの衣を着て出家せよ、忠清よ。後の世のために。
忠清は逃げ足の速い馬に乗ったことだ。上総鞦(しりがい)をかけても、かいのないことだ。
意訳
頼朝の挙兵に対して平家が派遣した追討軍が、富士川で戦わずに敗走するまでを描く章段である。若く美しい維盛の出陣姿や、忠度と女房との風雅な歌のやりとりは、都の貴族化した平家の姿をよく表している。
斎藤別当実盛が語る坂東武者の強さと、西国の戦のありさまとの対比は、この章段の読みどころである。それを聞いておびえた平家の兵は、水鳥の羽音を敵の夜襲と思いこんで逃げ出す。戦わずして敗れた平家を、都の人々は落書であざけった。
語釈・文法注
- 節刀
- 天皇が出征する将軍に、任命のしるしとして授ける刀。
- 驅武者
- 諸国から駆り集めた武士。自分から進んで従った者ではないので、頼りにならない。
- 大矢
- 長い矢を強い弓で射る者。矢の長さは「束」(握りこぶし一つの幅)で数える。
文法
- 「野もせにすだく蟲の音よ」
- 古歌「かしがまし野もせにすだく虫の音よ我だに物は言はでこそ思へ」の一節。初句の「かしがまし(やかましい)」をほのめかし、扇の音をとがめた。
- 「ゆらへたり」
- ためらっていた。「ゆらふ」はためらう、とどまるの意。
- 「多少により候はず」
- 多少によるのではございません。「により」の下に「も」などを補って読む。
- 「すみぞめのころもたゞきよ」
- 「衣裁つ」と「忠清」を掛ける。
- 「上總しりがい」
- 上総国産の鞦(馬の尻にかける組紐)。「しりがい(尻)」に逃げることを掛け、「上総」に忠清の官名「上総守」を掛ける。
和歌
東路の草葉をわけて袖よりもたたぬたもとの露ぞこぼるゝ
- 詠者
- 宮腹の女房
- 状況
- 東国へ出陣する忠度に、小袖を贈るときに書き添えた歌。
修辞
- 対比
- 東国へ旅立つ忠度の袖と、都に残る自分のたもととを比べ、残される者の涙のほうがまさると詠む。「たたぬ」は「(旅に)立たぬ」と「(衣を)裁たぬ」を掛ける。
別れ路を何かなげかむ越えてゆく關もむかしのあとと思へば
- 詠者
- 平忠度
- 状況
- 女房の歌への返し。先祖の平貞盛が将門追討のために東国へ下ったことを思い起こして詠んだ。
修辞
- 反語
- 「何かなげかむ」は、どうして嘆こうか、嘆くことはないの意。
ひらやなるむねもりいかに騒ぐらむ柱とたのむすけをおとして
- 詠者
- 落書
- 状況
- 富士川の敗走をあざけった落書の一首。
修辞
- 掛詞
- 「平家」を「平屋」に、「宗盛」を「棟守(棟木)」に、「亮(維盛)」を「すけ(添え木)」に掛ける。
富士川のせゞの岩越す水よりもはやくも落つる伊勢平氏かな
- 詠者
- 落書
- 状況
- 富士川の敗走をあざけった落書の一首。
修辞
- 掛詞
- 「落つる」に水が流れ落ちることと、敗れて逃げることとを掛ける。「伊勢平氏」は伊勢産の瓶子(へいじ)にもかけた、平家をあざける呼び名。
富士川に鎧は棄てつすみぞめのころもたゞきよ後の世のため
- 詠者
- 落書
- 状況
- 鎧を捨てて逃げた上総守忠清をあざけった落書。
修辞
- 掛詞
- 「ころもたゞきよ」に「衣裁て」と「忠清」を掛け、武士をやめて出家せよと皮肉る。
たゞきよはにげの馬にぞ乘りてける上總しりがいかけてかひなし
- 詠者
- 落書
- 状況
- 忠清の逃げぶりをあざけった落書。
修辞
- 掛詞
- 「上総鞦」に忠清の官名「上総守」を掛け、「かひなし」に「(鞦を)かけた甲斐がない」と「甲斐(の源氏)に歯が立たない」を響かせる。
解説
富士川の戦いは治承四年(1180)十月の出来事である。『吾妻鏡』や『山槐記』にも、平家の軍勢が水鳥の羽音に驚いて退いたことが記されている。実際には、平家の軍勢は兵糧の不足や脱走で弱っていたうえ、甲斐源氏の武田信義らの動きもあり、戦う前から士気を失っていたと考えられている。
斎藤別当実盛は、もとは源義朝に仕えた武士で、のちに平家に従った。巻第七「実盛の事」では、老いの身を隠すために白髪を黒く染めて戦い、討ち死にする姿が描かれる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、495–502頁(コマ276–280)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日