平家物語 巻第五
伊豆院宣の事
伊豆の奈古屋に住まわされた文覚は、近くの蛭が小島の頼朝のもとへ通い、重盛亡き今、天下の将軍の相をもつのは頼朝だけだと挙兵を勧めた。ためらう頼朝に、文覚は父義朝の髑髏と称するものを見せて心を動かす。さらに文覚はひそかに福原へ上り、光能を通じて後白河法皇の院宣を賜り、八日目に頼朝に届けた。頼朝はこれを三度拝して開き、石橋山の合戦にも首にかけて臨んだ。
- 1其其そののの後後のち文文もん覺覺がくをををばばば、、、當當とう國國ごくののの住住じゅう人人にん近近こん藤藤どう四四し郎郎ろう國國くに隆隆たかににに仰仰おおせせせててて、、、奈奈な古古ご屋屋やががが奧奧おくにににぞぞぞ住住すまははわせせせけるけるける。。。さるさるさる程程ほどににに兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのおはしおはしおわしけるけるける蛭蛭ひるががが小小こ島島じまももも程程ほど近近ちかししし、、、文文もん覺覺がく常常つねははは參參まいりりり、、、御御おん物物もの語語がたりどもどもども申申もうしししけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。あるあるある時時とき文文もん覺覺がく、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのににに申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「平平へい家家けにににははは小小こ松松まつののの大臣殿大臣殿おおいどのこそこそこそ、、、心心こころももも剛剛ごうににに、、、謀謀はかりごともももすぐれすぐれすぐれててておはせおはせおわせしししががが、、、平平へい家家けののの運運うん命命めいののの末末すえににになるなるなるやらやらやらんんん、、、去去こ年年ぞののの八八はち月月がつ薨薨こうぜぜぜられられられぬぬぬ。。。今今いまははは源源げん平平ぺいののの中中なかににに、、、御御ご邊邊へんほどほどほど天天てん下下かののの將將しょう軍軍ぐんののの相相そうもちもちもちたるたるたる人人ひとはははなしなしなし。。。早早はやくくく謀謀む叛叛ほんおこさおこさおこさせせせ給給たまひひいててて、、、日日に本本ほん國國ごく從從したがへへえ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、「「「それそれそれ思思おもひひいもももよらよらよらずずず。。。われわれわれははは故故こ池池いけののの禪禪ぜん尼尼にににに助助たすけけけられられられ奉奉たてまつつつったれたれたればばば、、、そのそのその恩恩おんををを報報ほうぜぜぜんんんががが爲爲ためににに、、、毎毎まい日日にち法法ほ華華け經經きょう一一いち部部ぶ轉轉てん讀讀どくししし奉奉たてまつるるるよりよりより外外ほかははは、、、またまたまた他他た事事じなしなしなし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。文文もん覺覺がくかさねかさねかさねててて、、、「「「天天てんののの與與あたふるふるうるををを取取とらららざれざれざればばば卻卻かえつつってててそのそのその咎咎とがををを受受うくくく。。。時時とき至至いたりりりたるたるたるををを行行おこなははわざれざれざればばば、、、卻卻かえつつってててそのそのその殃殃わざわいををを受受うくくくととといふいふいう本本ほん文文もんありありあり。。。かやうかやうかようににに申申もうせせせばばば、、、御御ご邊邊へんののの御御み心心こころをををがながながな引引ひかかかんんんとてとてとて、、、申申もうすすすとととやややおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうろうらんらんらん。。。そのそのその儀儀ぎでででははは候候そうらははわずずず。。。まづまづまず御御ご邊邊へんののの爲爲ためににに、、、志志こころざしののの深深ふかいいいやうやうようををを見見み給給たまへへえ。。。」」」とてとてとて、、、懷懷ふところよりよりより白白しろいいい布布ぬのにににててて包包つつんんんだるだるだる髑髑どく髏髏ろををを一一ひとつつつ取取とりりり出出いだすすす。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「これこれこれこそこそこそ御御ご邊邊へんののの父父ちち故故こ左左さ馬馬まののの頭頭こうののの殿殿とのののの首首こうべよよよ。。。平平へい治治じののの後後のちははは獄獄ごく舍舍しゃののの前前まえののの苔苔こけののの下下したににに埋埋うずもれれれててて、、、後後ご世世せ弔弔とぶらふふう人人ひともももなかりなかりなかりしししををを、、、文文もん覺覺がく存存ぞんずるずるずる旨旨むねあつあつあっててて、、、獄獄ごく守守もりににに乞乞こひひい、、、首首くびにににかけかけかけ、、、山山やま々々やま寺寺てら々々でら修修しゅ業業ぎょうしてしてして、、、このこのこの二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんががが閒閒あいだ弔弔とぶらひひい奉奉たてまつつつったれたれたればばば、、、今今いまははは定定さだめめめててて一一いち劫劫ごうももも浮浮うかびびび給給たまひひいぬぬぬらんらんらん。。。さればさればされば故故こ頭頭こうののの殿殿とのののの御御おん爲爲ためにににははは、、、さしもさしもさしも奉奉ほう公公こうののの者者ものにににててて候候そうろうぞぞぞかしかしかし。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ一一いち定定じょうとととははは覺覺おぼえええねねねどどど、、、父父ちちののの首首くびととと聞聞きくくく懷懷なつかしさかしさかしさににに、、、まづまづまず涙涙なみだをををぞぞぞ流流ながささされれれけるけるける。。。
- 2やゝやゝややあつあつあっててて兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、涙涙なみだををを抑抑おさへへえてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそも賴賴より朝朝とも敕敕ちょく勘勘かんをををゆりずゆりずゆりずしてしてして、、、爭爭いかでででかかか謀謀む叛叛ほんをををばばば起起おこすすすべきべきべき。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「それそれそれやすいやすいやすい程程ほどののの事事ことなりなりなり。。。やがてやがてやがて上上のぼつつっててて、、、申申もうししし赦赦ゆるししし奉奉たてまつらららんんん。。。」」」兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのあざあざあざ笑笑わらつつっててて、、、「「「わがわがわが身身みももも敕敕ちょく勘勘かんののの身身みにににてててありありありながらながらながら、、、人人ひとののの事事こと申申もうさささうううとととのたまふのたまふのたまう、、、聖聖ひじりののの御御ご坊坊ぼうのののあてがひあてがひあてがい樣樣ようこそこそこそ大大おおきききにににまことしからまことしからまことしからねねね。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、文文もん覺覺がく大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「わがわがわが身身みののの咎咎とがををを赦赦ゆりりりうううととと申申もうさささばばばこそこそこそひがひがひがことことことならならならめめめ、、、わわわ殿殿とのののの事事こと申申もうさささうううににに、、、なじかはなじかはなじかわひがひがひがことことことならならならんんん。。。これこれこれよりよりより今今いまののの都都みやこ福福ふく原原はらののの新新しん都都とににに上上のぼらららうううににに、、、三三みつ日日かににに過過すぐぐぐまじまじまじ。。。院院いん宣宣ぜん伺伺うかがふふうににに一一いち日日にちののの逗逗とう留留りゅうぞぞぞあらあらあらんんんずずずらんらんらん。。。都都つ合合ごう七七なぬ日日か八八よう日日かにににははは過過すぐぐぐまじまじまじ。。。」」」とてとてとて、、、つきつきつき出出いでででぬぬぬ。。。
- 3ひじりひじりひじり奈奈な古古ご屋屋やににに歸歸かえりりりててて、、、弟弟で子子しどもどもどもにににははは、、、人人ひとににに忍忍しのうううででで伊伊い豆豆ずののの御御み山山やまににに、、、七七なぬ日日か參參さん籠籠ろうののの志志こころざしありありありとてとてとて出出いでででにににけりけりけり。。。げにげにげにももも三三みつ日日かととといふいふいうにににははは、、、福福ふく原原はらののの新新しん都都とににに上上のぼりりり著著ついいいててて、、、前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ光光みつ能能よしののの卿卿きょうのののもともともとににに、、、いさゝかいさゝかいささか緣緣ゆかりありありありけれけれければばば、、、それそれそれににに尋尋たずねねね行行ゆきききててて、、、「「「伊伊い豆豆ずののの國國くにののの流流る人人にん前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、敕敕ちょく勘勘かんををを赦赦ゆるささされれれててて、、、院院いん宣宣ぜんをををだにだにだに蒙蒙こうぶりりり候候そうらははわばばば、、、八八はっ箇箇か國國こくののの家家け人人にん共共ども催催もよおししし集集あつめめめててて、、、平平へい家家けををを亡亡ほろぼしぼしぼし、、、天天てん下下かををを鎭鎭しずめめめんんんとととこそこそこそ申申もうししし候候そうらへへえ。。。」」」光光みつ能能よしののの卿卿きょう、、、「「「いさとよいさとよいさとよ、、、わがわがわが身身みももも當當とう時時じははは三三さん官官かんともともともににに停停とどめめめられられられててて、、、心心こころ苦苦ぐるしきしきしき折折おりふしふしふしなりなりなり。。。法法ほう皇皇おうもももおしおしおしこめこめこめられられられてててわたらわたらわたらせせせ給給たまへへえばばば、、、いかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずずずらんらんらん。。。さりながらさりながらさりながらももも伺伺うかごうううてててこそこそこそ見見みめめめ。。。」」」とてとてとて、、、このこのこの由由よしひそかひそかひそかににに奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、やがてやがてやがて院院いん宣宣ぜんをををぞぞぞ下下くだささされれれけるけるける。。。文文もん覺覺がく喜喜よろこんんんででで頸頸くびににに掛掛かけけけ、、、又又また三三みつ日日かととといふいふいうにににははは、、、伊伊い豆豆ずののの國國くにへへへ下下くだりりり著著つくくく。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、聖聖ひじりののの御御ご坊坊ぼうのののなまじひなまじひなまじいなるなるなる事事こと申申もうししし出出いだしししててて、、、賴賴より朝朝ともまたまたまたいかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めにににあはあはあわんんんずずずらんらんらんととと、、、思思おもははわじじじ事事ことなうなうのう案案あんじじじつゞけつゞけつづけててておはしおはしおわしけるけるける、、、八八よう日日かととといふいふいう午午うまののの刻刻こくににに下下くだりりり著著ついいいててて、、、「「「すはすはすわ院院いん宣宣ぜんよよよ。。。」」」とてとてとて奉奉たてまつるるる。。。
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現代語訳
その後文覚は、伊豆国の住人近藤四郎国隆に命じて、奈古屋の奥に住まわされた。ところで兵衛佐殿(頼朝)がおられる蛭が小島も近いので、文覚はいつも参ってお話などを申し上げていたと聞こえた。あるとき文覚が兵衛佐殿に申すには、「平家では小松の大臣殿(重盛)こそ、心も剛く謀もすぐれておられたが、平家の運命が末になるのであろうか、去年の八月に亡くなられた。今は源平の中で、あなたほど天下の将軍の相を持った人はいない。早く謀叛を起こされて日本国を従えなさい」と言ったので、兵衛佐殿は「それは思いもよらない。私は故池の禅尼に助けていただいたので、その恩に報いるために、毎日法華経一部を読誦申すほかには、ほかのことはない」とおっしゃった。文覚は重ねて、「天が与えるものを取らなければ、かえってその咎めを受ける。時が来たのに行わなければ、かえってその災いを受けるという古い言葉がある。このように申すと、あなたのお心をなんとか引き出そうとして申していると思われるでしょうか。そうではございません。まずあなたのための私の志の深さをご覧なさい」といって、懐から白い布に包んだ髑髏を一つ取り出した。兵衛佐殿が「それは何か」とおっしゃると、「これこそあなたの父、故左馬頭殿の首だ。平治の乱の後、獄舎の前の苔の下に埋もれて、後世を弔う人もなかったのを、文覚は思うところがあって獄守に乞い受け、首にかけて山々寺々を修行して、この二十余年の間弔い申したので、今はきっと一劫の苦しみからも浮かばれておられるだろう。だから故頭殿のためには、たいそうな奉公をした者なのだ」と申されたので、兵衛佐は確かだとは思わなかったが、父の首と聞く懐かしさに、まず涙を流された。
しばらくして兵衛佐殿は涙を抑えておっしゃるには、「そもそも頼朝は勅勘を許されないで、どうして謀叛を起こせようか」とおっしゃると、「それはたやすいことだ。すぐに上って、申し許してさしあげよう」。兵衛佐殿はあざ笑って、「ご自分も勅勘の身でありながら、人のことを申し上げようとおっしゃる、聖の御坊の思いつきはまったく当てにならない」とおっしゃると、文覚はひどく怒って、「わが身の咎を許してくれと申すのなら間違いだろうが、そなたのことを申すのに、どうして間違いがあろう。ここから今の都の福原の新都に上るのに三日もかかるまい。院宣を伺うのに一日の逗留があるだろう。合わせて七日か八日を過ぎることはあるまい」といって、飛び出して行った。
聖は奈古屋に帰って、弟子たちには、人に知られずに伊豆の御山に七日参籠するつもりだといって出かけた。言ったとおり三日目には福原の新都に上り着いて、前右兵衛督光能卿のもとに少し縁故があったので、そこを訪ねて行き、「伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝は、勅勘を許されて院宣さえいただけるなら、八か国の家人を集めて平家を滅ぼし、天下を鎮めようと申しております」と言った。光能卿は「さあ、それは。私も今は三つの官をみな止められて心苦しい折である。法皇も押し込められておいでなので、どうなることか。それでも伺ってみよう」といって、このことをひそかに奏上されたので、法皇はたいそうお喜びになって、すぐに院宣を下された。文覚は喜んで首にかけ、また三日目には伊豆国に下り着いた。兵衛佐殿は、聖の御坊が中途半端なことを言い出して、頼朝はまたどんなつらい目に遭うことになるのかと、あれこれ思い悩んでおられたところへ、八日目の午の刻に文覚が下り着いて、「さあ、院宣だ」といって差し上げた。
兵衛佐殿は院宣と聞くありがたさに、新しい烏帽子と浄衣を着て、手を洗いうがいをして、院宣を三度拝してから開かれた。「近年来、平氏は天子の徳化をないがしろにし、政道をはばかることがない。仏法を破り、王法を乱そうとしている。そもそもわが国は神国である。宗廟が並び立ち、神徳はあらたかである。それゆえ朝廷が開かれてから数千余年の間、帝位を傾け国家を危うくしようとした者は、みな敗北しなかった者はない。そこで、一つには神道の冥助に任せ、一つには勅宣の趣旨を守って、早く平氏の一族を滅ぼして朝廷の怨敵を退けよ。代々伝わる兵法を継ぎ、先祖代々の奉公の忠勤を抜きんでて、身を立て家を興せ。院宣はこのとおりである。よって伝達は件のとおり。治承四年七月十四日、前右兵衛督光能が承って謹んで上る。前右兵衛佐殿へ」と書かれていた。この院宣を錦の袋に入れて、石橋山の合戦のときも、兵衛佐殿は首にかけておられたと聞こえた。
意訳
文覚が頼朝に挙兵を勧め、後白河法皇の院宣を得るまでを描く章段である。ためらう頼朝に、文覚は父義朝の髑髏と称するものを見せる。頼朝は「一定とは覺えねど」と半信半疑ながら、父を思って涙を流す。文覚の強引さと、頼朝の慎重さが対照的に描かれている。
文覚はわずか八日で福原から院宣を持ち帰り、頼朝はこれを三度拝して開く。院宣は平家を朝敵とし、源氏の挙兵に大義名分を与えるものであった。物語は、頼朝が石橋山の合戦にもこの院宣を首にかけて臨んだと伝えて結んでいる。
語釈・文法注
文法
- 「御心をがな引かん」
- お心をなんとか引き出そう。「がな」は願望を表す。
- 「ゆりずして」
- 許されないで。「ゆる」の未然形に打消の「ず」が付いた形。
- 「あてがひ樣」
- 考えつき、計画。
- 「一劫」
- 非常に長い時間。
- 「蔑如」
- ないがしろにすること。
解説
頼朝が挙兵の根拠としたのは以仁王の令旨であり、文覚が後白河法皇の院宣を届けたという話は『平家物語』独自のもので、史実とは考えられていない。ただし文覚がのちに頼朝の信任を得て、神護寺や東寺の復興に尽力したことは事実である。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、492–495頁(コマ275–276)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日