平家物語 巻第五
文覚流されの事
法皇の御所では師長の琵琶、資賢の和琴などで御遊がたけなわであったが、文覚の大声で調子が乱れた。取り押さえようとした資行判官の烏帽子を打ち落とし、刀を抜いて暴れた文覚は、安藤右宗に組み伏せられて禁獄された。大赦で許された後も不吉なことを言い歩いたため、伊豆へ流された。護送の途中、天竜灘で嵐に遭うと、文覚は龍王を叱りつけて波を鎮め、三十一日間断食しても衰えなかった。
- 1折折おりふしふしふし御御ご前前ぜんにににははは、、、妙妙みょう音音おん院院いんののの太太だい政政じょうののの大臣殿大臣殿おおいどの御御おん琵琵び琶琶わあそばしあそばしあそばし、、、朗朗ろう詠詠えいめでたうめでたうめでとうせせせさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。按按あ察察ぜちののの大大だい納納な言言ごん資資すけ賢賢かたののの卿卿きょう、、、和和わ琴琴ごんかきかきかき鳴鳴ならしらしらし、、、子子し息息そく右右う馬馬まののの頭頭かみ資資すけ時時とき、、、風風ふう俗俗ぞく、、、催催さい馬馬ば樂樂ら歌歌うたははわるるる。。。四四し位位いののの侍侍じ從從じゅう盛盛もり定定さだ拍拍ひょう子子しとつとつとっててて、、、今今いま樣樣ようとり〴〵とり〴〵とりどり歌歌うたははわれれれけりけりけり。。。院院いん中中じゅうさゞめきさゞめきさざめき渡渡わたつつっててて、、、まことまことまことにににおもしろかりおもしろかりおもしろかりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうももも附附つけ歌歌うたせせせさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。それそれそれににに文文もん覺覺がくががが大大だい音音おん聲聲じょう出出いででで來來きててて、、、調調ちょう子子しもももちがひちがひちがい、、、拍拍ひょう子子しもももみなみなみな亂亂みだれれれにににけりけりけり。。。「「「御御ぎょ遊遊ゆうののの折折おりふしふしふしででであるあるあるににに何何なに者者ものぞぞぞ、、、狼狼ろう藉藉ぜきなりなりなり。。。そそそ首首くび突突つけけけ。。。」」」ととと仰仰おおせせせ下下くださささるゝるゝるる程程ほどこそこそこそありありありけれけれけれ、、、院院いん中中じゅうのののはやりはやりはやり男男おののの者者ものどもどもども、、、われわれわれ先先さきに〳〵に〳〵にわれさきにととと進進すすみみみ出出いでででけるけるける中中なかににに、、、資資すけ行行ゆき判判ほう官官がんととといふいふいう者者もの進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「御御ぎょ遊遊ゆうののの折折おりふしふしふしででであるあるあるににに何何なに者者ものぞぞぞ、、、狼狼ろう藉藉ぜきなりなりなり。。。とう〳〵とう〳〵とうとう罷罷まかりりり出出いでででよよよ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、文文もん覺覺がく、、、「「「高高たか雄雄おののの神神じん護護ご寺寺じへへへ、、、莊莊しょうををを一一いっ所所しょ寄寄よせせせられられられざらざらざらんんん限限かぎりりりははは、、、全全まったくくく出出いづづずまじまじまじ。。。」」」とてとてとて働働はたらかかかずずず。。。依依よつつってててぞぞぞ首首くびををを突突つかかかんんんとととすれすれすればばば、、、勸勸かん進進じん帳帳ちょうををを取取とりりりなほしなほしなおし、、、資資すけ行行ゆき判判ほう官官がんののの烏烏え帽帽ぼ子子しをををはたはたはたととと撲撲うつつってててうちうちうち落落おとししし、、、拳拳こぶしををを強強つよくくく握握にぎりりり、、、胸胸むねをををはたはたはたととと突突ついいいててて、、、後後うしろへへへ仰仰のけににに突突つききき倒倒たおすすす。。。資資すけ行行ゆき判判ほう官官がんははは烏烏え帽帽ぼ子子しうちうちうち落落おとささされれれててて、、、おめ〳〵おめ〳〵おめおめととと大大おお床床ゆかののの上上うえへへへぞぞぞ逃逃にげげげ昇昇のぼるるる。。。
- 2そのそのその後後のち文文もん覺覺がく懷懷ふところよりよりより馬馬うまののの尾尾をででで柄柄つか卷卷まいいいたりたりたりけるけるける刀刀かたなののの氷氷こおりのののやうやうようなるなるなるをををぬきぬきぬき持持もつつっててて、、、寄寄よりりり來來こんんん者者ものををを突突つかかかうううとととこそこそこそ待待まちちちかけかけかけたれたれたれ。。。左左ひだりののの手手てにににははは勸勸かん進進じん帳帳ちょう、、、右右みぎののの手手てにににははは刀刀かたなををを持持もつつっててて馳馳はせせせ廻廻まわるるる間間あいだ、、、思思おもひひいももも設設もうけけけぬぬぬ俄俄にわか事事ごとででではははありありあり、、、左左そ右右うののの手手てににに刀刀かたなををを持持もつつったるたるたるやうやうようにににぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。公公く卿卿ぎょうももも殿殿てん上上じょう人人びとももも、、、こはこはこわいかにいかにいかにととと騒騒さわがががれれれててて、、、御御ぎょ遊遊ゆうももも既既すでににに荒荒あれれれにににけりけりけり。。。院院いん中中じゅうののの騒騒そう動動どうなのめなのめなのめならならならずずず。。。こゝこゝここににに信信しな濃濃のののの國國くにののの住住じゅう人人にん安安あん藤藤どう武武む者者しゃ右右みぎ宗宗むね、、、そのそのその時時ときののの當當とう職職しょくののの武武む者者しゃ所所どころにににてててありありありけるけるけるががが、、、何何なに事事ごとぞぞぞとてとてとて太太た刀刀ちをををぬいぬいぬいててて走走はしりりり出出いでででたりたりたり。。。文文もん覺覺がく喜喜よろこんんんででで飛飛とんんんでででかゝるかゝるかかる。。。安安あん藤藤どう武武む者者しゃ斬斬きりりりてててははは惡惡あしかりしかりしかりなななんんんとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、太太た刀刀ちののの胸胸むねををを取取とりりりなほしなほしなおし、、、文文もん覺覺がくががが刀刀かたな持持もつつったるたるたる右右みぎののの腕腕かいなをををしたゝかしたゝかしたたかににに打打うつつつ。。。打打うたたたれれれてててちつちつちっとととひるむひるむひるむ所所ところににに、、、えたりえたりえたりやややをうをうおうととと、、、太太た刀刀ちををを棄棄すててててててぞぞぞ組組くんんんだりだりだりけるけるける。。。文文もん覺覺がく下下したににに伏伏ふしししながらながらながら、、、安安あん藤藤どう武武む者者しゃががが右右みぎののの腕腕かいなをををしたゝかしたゝかしたたかににに突突つくくく。。。突突つかかかれれれながらながらながらぞぞぞ締締しめめめたりたりたりけるけるける。。。互互たがいににに劣劣おとらららぬぬぬ大大だい力力じから、、、上上うえににになりなりなり下下したににになりなりなり、、、ころびころびころびあひあひあいけるけるける所所ところををを、、、上上じょう下下げ寄寄よつつっててて、、、かしこかしこかしこ顏顏がおににに、、、文文もん覺覺がくがががはたらくはたらくはたらく所所ところのののぢやうぢやうじょうををを拷拷ごうじじじてててけりけりけり。。。そのそのその後後のち門門もん外外がいへへへ引引ひききき出出いでででててて、、、廳廳ちょうののの下下しも部部べにににたぶたぶたぶ。。。賜賜たまはつはつわっててて引引ひき張張はるるる。。。ひつぱらひつぱらひっぱられれれててて立立たちちちながらながらながら、、、御御ご所所しょののの方方かたををを睨睨にらまへまへまえ、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「たとひたとひたとい奉奉ほう加加がをををこそこそこそししし給給たまははわざらざらざらめめめ、、、あまつさへあまつさへあまつさえ文文もん覺覺がくにににこれこれこれ程程ほどまでまでまで、、、からきからきからき目目めををを見見みせせせ給給たまひひいつれつれつればばば、、、たゞたゞただ今今いま思思おもひひい知知しらせらせらせ申申もうさささんんんずるずるずるものものものををを。。。三三さん界界がいはははみなみなみな火火か宅宅たくなりなりなり、、、王王おう宮宮ぐうととといふいふいうともともとも、、、いかでいかでいかでそのそのその難難なんをををばばば遁遁のがるるるべきべきべき。。。たとひたとひたとい十十じゅう善善ぜんののの帝帝てい位位いににに誇誇ほこりりり給給たまふふうととといふいふいうともともとも、、、黄黄こう泉泉せんののの旅旅たびにににいでいでいでなななんんん後後のちははは、、、牛牛ご頭頭ず馬馬め頭頭ずののの責責せめめめをををばばば免免まぬかれれれ給給たまははわじじじものものものををを。。。」」」ととと、、、跳跳おどりりり上上あがり〳〵り〳〵りおどりあがりぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。「「「このこのこの法法ほっ師師し奇奇き怪怪かいなりなりなり。。。禁禁きん獄獄ごくせせせよよよ。。。」」」とてとてとて禁禁きん獄獄ごくせせせらるらるらる。。。資資すけ行行ゆき判判ほう官官がんははは烏烏え帽帽ぼ子子しうちうちうち落落おとささされれれたるたるたる恥恥はじがましさがましさがましさににに、、、しばししばししばしははは出出しゅっ仕仕しもももせせせざりざりざりけりけりけり。。。安安あん藤藤どう武武む者者しゃははは文文もん覺覺がく組組くんんんだるだるだる勸勸けん賞賞じょうににに、、、一一いち臈臈ろうををを經經へずずずしてしてして、、、當當とう座座ざににに右右う馬馬まののの允允じょうにににぞぞぞなさなさなされれれけるけるける。。。
- 3そのそのその頃頃ころ、、、美美び福福ふく門門もん院院いんかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいててて大大たい赦赦しやありありありしかしかしかばばば、、、文文もん覺覺がく程程ほどなくなくなく赦赦ゆるささされれれけりけりけり。。。しばらくしばらくしばらくはははいづくいづくいずくにににてててももも行行おこなふふうべかりべかりべかりしししををを、、、またまたまた勸勸かん進進じん帳帳ちょうををを捧捧ささげげげててて、、、十十じっ方方ぽう檀檀だん那那なををを勸勸すすめめめありきありきありきけるけるけるががが、、、さらばさらばさらばたゞたゞただもももなくなくなくしてしてして、、、「「「あはれあはれあわれこのこのこの世世よののの中中なかはははたゞたゞただ今今いまみだれみだれみだれててて、、、君君きみももも臣臣しんももも共共ともににに亡亡ほろびびび失失うせせせんんんずるずるずるものものものををを。。。」」」などなどなど、、、かやうかやうかようににに恐恐おそろしきろしきろしき事事ことをををのみのみのみ申申もうしししありくありくありく閒閒あいだ、、、「「「このこのこの法法ほっ師師し、、、都都みやこににに置置おいいいてててはははかなふかなふかなうまじまじまじ、、、遠遠おん流流るせせせよよよ。。。」」」とてとてとて、、、伊伊い豆豆ずののの國國くにへへへぞぞぞ流流ながささされれれけるけるける。。。
- 4源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どうののの嫡嫡ちゃく子子し伊伊い豆豆ずののの守守かみ仲仲なか綱綱つな、、、そのそのその時時ときののの當當とう職職しょくにににてててあるあるある間間あいだ、、、そのそのその沙沙さ汰汰たとととしてしてして、、、東東とう海海かい道道どうよりよりより船船ふねにににててて下下くださささるるるべしべしべしとてとてとて、、、伊伊い豆豆ずののの國國くにへへへ率率いてててまかるまかるまかるににに、、、放放ほう免免べん兩兩りょう三三さん人人にんをををぞぞぞつけつけつけられられられたるたるたる。。。これらこれらこれらががが申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「廳廳ちょうののの下下しも部部べのののならひならひならい、、、かやうかやうかようののの事事ことににについついついてててこそこそこそ、、、おのづからおのづからおのずから依依え估估こももも候候そうらへへえ。。。いかにいかにいかに聖聖ひじりののの御御おん房房ぼうははは、、、知知しり人人うどははは持持もちちち給給たまははわぬぬぬかかか。。。遠遠おん國國ごくへへへ流流ながささされれれ給給たまふふうににに、、、土土と產產さん、、、粮粮ろう料料りょう如如ごときききものものものをををももも乞乞こひひい給給たまへへえかしかしかし。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、文文もん覺覺がくははは、、、「「「さやうさやうさようののの用用よう事事じいふいふいうべきべきべき得得とく意意いはははなしなしなし。。。さりながらさりながらさりながら東東ひがし山山やまののの邊邊あたりにににこそこそこそ得得とく意意いはははあれあれあれ。。。いでいでいでさらばさらばさらば文文ふみをををやらやらやらううう。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、けしかるけしかるけしかる紙紙かみををを得得えさせさせさせたりたりたり。。。文文もん覺覺がく大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「かやうかやうかようののの紙紙かみににに物物もの書書かくくくやうやうようなしなしなし。。。」」」とてとてとて投投なげげげ返返かえすすす。。。さらばさらばさらばとてとてとて厚厚こう紙紙しををを尋尋たずねねねててて得得えさせさせさせたりたりたり。。。文文もん覺覺がく笑笑わらつつっててて、、、「「「このこのこの法法ほっ師師しはははものものものをををえええ書書かかかかぬぬぬぞぞぞ。。。おのれらおのれらおのれら書書かけけけ。。。」」」とてとてとて書書かかかかするするするやうやうよう、、、「「「文文もん覺覺がくこそこそこそ高高たか雄雄おののの神神じん護護ご寺寺じ創創そう立立りゅう供供く養養ようののの爲爲ためににに、、、勸勸かん進進じん帳帳ちょうををを捧捧ささげげげててて十十じっ方方ぽう檀檀だん那那なををを勸勸すすめめめありきありきありきけるけるけるががが、、、斯斯かかるかるかる君君きみののの代代よにににしもしもしも逢逢おうううててて、、、奉奉ほう加加がをををこそこそこそししし給給たまははわざらざらざらめめめ、、、あまつさへあまつさへあまつさえ遠遠おん流流るせせせられられられててて伊伊い豆豆ずののの國國くにへへへまかりまかりまかり候候そうろう。。。遠遠えん路路ろののの間間あいだででで候候そうらへへえばばば、、、土土と產產さん、、、粮粮ろう料料りょう如如ごときききのののものものものももも大大たい切切せつににに候候そうろう。。。このこのこの使使つかいにににたべたべたべ。。。」」」ととといふいふいう。。。いふいふいうまゝまゝままににに書書かいいいててて、、、「「「さてさてさて誰誰たれ殿殿どのへへへととと書書かききき候候そうろうべきべきべきやらやらやらんんん。。。」」」「「「清清きよ水水みずののの觀觀かん音音おん房房ぼうへへへととと書書かけけけ。。。」」」ととといふいふいう。。。「「「それそれそれははは廳廳ちょうののの下下しも部部べををを欺欺あざむくくくにににこそこそこそ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、「「「一一いっ向向こう欺欺あざむくくくにににはははあらあらあらずずず。。。さりとてさりとてさりとてははは文文もん覺覺がくははは、、、清清きよ水水みずののの觀觀かん音音おんをををこそこそこそ深深ふこううう憑憑たのみみみ奉奉たてまつつつったれたれたれ。。。さらさらさらでででははは誰誰たれにににかかかははは用用よう事事じをををいふいふいうべきべきべきぞぞぞ。。。」」」ととと申申もうしししけるけるける。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに伊伊い勢勢せののの國國くに阿阿あ能能のののの津津つよりよりより船船ふねにににててて下下くだりりりけるけるけるががが、、、遠江遠江とおとうみののの國國くに天天てん龍龍りゅう灘灘なだにににててて俄俄にはかににに大大おお風風かぜ吹吹ふききき、、、大大おお浪浪なみ立立たつつっててて、、、既既すでにににこのこのこの船船ふねををを打打うち返返かえさささんんんとととすすす。。。水水すい主主しゅ、、、楫楫かん取取どりどもどもどもいかにいかにいかにもももしてしてして助助たすからからからんんんとととしししけれけれけれどもどもども、、、叶叶かなふふうべしべしべしともともとも見見みえええざりざりざりけれけれければばば、、、或或あるいははは觀觀かん音音おんののの名名みょう號號ごうををを唱唱となへへえ、、、或或あるいははは最最さい後後ごののの十十じゅう念念ねんににに及及およぶぶぶ。。。されどもされどもされども文文もん覺覺がくはははちつちつちっとととももも騒騒さわがががずずず、、、船船ふな底底ぞこににに高高たか鼾鼾いびきかいかいかいてててぞぞぞ臥臥ふしししたりたりたりけるけるける。。。既既すでにににかうかうこうととと見見みえええししし時時とき、、、がつぱがつぱがっぱととと起起おききき上上あがりりり、、、舷舷ふなばたににに立立たつつっててて、、、沖沖おきののの方方かたををを睨睨にらまへまへまえ、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「龍龍りゅう王王おうやややあるあるある、、、龍龍りゅう王王おうやややあるあるある。。。」」」とととぞぞぞ呼呼ようううだりだりだりけるけるける。。。「「「何何なにとてとてとてかやうかやうかようににに大大だい願願がん起起おこしししたるたるたる聖聖ひじりががが乘乘のつつったるたるたる船船ふねをををばばば、、、過過あやまたたたうううとととはははするするするぞぞぞ。。。たゞたゞただ今今いま天天てんののの責責せめめめ蒙蒙こうぶらららんんんずるずるずる龍龍りゅう神神じんどもどもどもかなかなかな。。。」」」とととぞぞぞいひいひいいけるけるける。。。其其そののの故故ゆえにににややや波波なみ風風かぜ程程ほどなくなくなくしづまつしづまつしずまっててて伊伊い豆豆ずののの國國くににににぞぞぞ著著つきききけるけるける。。。
- 6文文もん覺覺がく京京きょうををを出出いでででけるけるける日日ひよりよりよりしてしてして、、、心心こころののの中中うちににに祈祈き請請せいするするする事事ことありありありけりけりけり。。。われわれわれ都都みやこににに歸歸かえつつっててて、、、高高たか雄雄おののの神神じん護護ご寺寺じ創創そう立立りゅう供供く養養ようすすすべくべくべくんんんばばば、、、死死しすすすべからべからべからずずず。。。このこのこの願願がん空空むなしかるしかるしかるべくべくべくんんんばばば、、、道道みちにににててて死死しすすすべしべしべしとてとてとて、、、京京きょうよりよりより伊伊い豆豆ずへへへ著著つきききけるけるけるまでまでまで、、、折折おりふしふしふし順順じゅん風風ぷうなかりなかりなかりけれけれければばば、、、浦浦うらづたひづたひづたい、、、島島しまづたひづたひづたいしてしてして、、、三三さん十十じゅう一一いち日日にちががが間間あいだははは一一いっ向向こう斷斷だん食食じきにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。されどもされどもされども氣氣き力力りょく少少すこしししももも衰衰おとろへへえずずず、、、船船ふな底底ぞこににに行行おこなひひいうちうちうちしししてててぞぞぞ居居いたりたりたりけるけるける。。。まことまことまことにににたゞたゞただ人人びとともともとも覺覺おぼえええぬぬぬ事事ことどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。
現代語訳
ちょうど御前では、妙音院の太政大臣殿(師長)が琵琶を弾き、朗詠もみごとになさっていた。按察大納言資賢卿は和琴をかき鳴らし、子息の右馬頭資時は風俗・催馬楽を歌った。四位侍従盛定は拍子を取って、今様をとりどりに歌われた。院中はざわめきわたって、まことに興が乗っていたので、法皇も付け歌をなさった。そこへ文覚の大声が響いてきて、調子も外れ、拍子もみな乱れてしまった。「御遊の最中に何者か、狼藉である。そいつの首を突け」と仰せが下るやいなや、院中の血気盛んな者たちが我先に我先にと進み出た中で、資行判官という者が進み出て、「御遊の最中に何者か、狼藉である。早く早く出て行け」と言うと、文覚は「高雄の神護寺へ荘園を一つ寄進されない限りは、決して出て行かぬ」といって動かない。そこで首を突こうとすると、文覚は勧進帳を持ち直して、資行判官の烏帽子をはたと打ち落とし、拳を固く握って胸をはたと突き、後ろへ仰向けに突き倒した。資行判官は烏帽子を打ち落とされて、おめおめと縁の上へ逃げ上った。
その後文覚は、懐から馬の尾で柄を巻いた氷のような刀を抜いて持ち、寄って来る者を突こうと待ち構えた。左の手には勧進帳、右の手には刀を持って走り回るので、思いもよらない突然のことでもあり、両手に刀を持っているように見えた。公卿も殿上人もこれは何事かと騒がれて、御遊もすっかりだめになってしまった。院中の騒ぎはひととおりではなかった。ここに信濃国の住人安藤武者右宗は、そのときの当番の武者所であったが、何事かと太刀を抜いて走り出た。文覚は喜んで飛びかかった。安藤武者は斬ってはまずいと思ったのであろうか、太刀の峰を返して、文覚が刀を持つ右の腕をしたたかに打った。打たれて少しひるんだところに、「得たりや、おう」と太刀を捨てて組みついた。文覚は下に伏しながら、安藤武者の右の腕をしたたかに突いた。安藤武者は突かれながらも締めつけた。互いに劣らぬ大力で、上になり下になり転がり合っていたところを、上下の者が寄ってきて、得意顔で文覚の動く所の関節を締め上げた。その後、門外へ引き出して庁の下部に渡した。下部は受け取って引っ張った。文覚は引っ張られて立ちながら、御所の方を睨みつけ、大声をあげて、「たとえ寄進をなさらないとしても、そのうえこの文覚にこれほどつらい目をお見せになったのだから、今に思い知らせ申そう。三界はみな火宅である。王宮であっても、どうしてその災難を逃れられようか。たとえ十善の帝位を誇っておられても、黄泉の旅に出られた後は、牛頭馬頭の責めを免れることはできまいぞ」と、躍り上がり躍り上がり申した。「この法師はけしからぬ。禁獄せよ」といって禁獄された。資行判官は烏帽子を打ち落とされた恥ずかしさに、しばらく出仕もしなかった。安藤武者は文覚と組んだ恩賞に、順序を経ずにその場で右馬允に任じられた。
そのころ美福門院がお亡くなりになって大赦があったので、文覚はまもなく赦された。しばらくはどこかで修行していればよかったのに、また勧進帳を捧げて、あちこちの檀那に寄進を勧めて歩いたが、それもただではすまず、「ああ、この世の中は今に乱れて、君も臣もともに滅び失せるだろう」などと、このような恐ろしいことばかり言って歩いたので、「この法師を都に置いてはなるまい。遠流にせよ」といって、伊豆国へ流された。
源三位入道の嫡子伊豆守仲綱が、そのときの国守であったので、その取り計らいで、東海道を船で下らせることになり、伊豆国へ連れて行くのに、放免を二、三人つけられた。この者たちが言うには、「庁の下部のならいとして、こういうときにこそ、おのずと役得もあるものです。どうですか聖の御坊、知り合いはおられませんか。遠国へ流されるのだから、土産や食料のようなものでも頼まれたらどうですか」と言ったので、文覚は「そのような用事を頼める知人はいない。けれども東山のあたりにこそ知人がいる。さあ、それなら手紙を書こう」と言うと、粗末な紙を渡した。文覚はひどく怒って、「このような紙に物を書けるか」といって投げ返した。それならと厚紙を探して渡した。文覚は笑って、「この法師は字が書けないのだ。お前たちが書け」といって書かせた文面は、「文覚は高雄の神護寺の創立供養のために、勧進帳を捧げて方々の檀那に勧めて回っておりましたが、このような君の御代にめぐり合って、寄進をなさらないばかりか、そのうえ遠流にされて伊豆国へ参ります。遠い道のりですので、土産や食料のようなものも大切です。この使いに与えてください」という。言うとおりに書いて、「さて、どなた様宛てと書きましょうか」と言うと、「清水の観音房へと書け」と言う。「それは庁の下部をばかにしているのでしょう」と言うと、「決してばかにしているのではない。とにかく文覚は清水の観音を深く頼み申しているのだ。そうでなければ誰に用事を頼めようか」と言った。
そのうちに伊勢国の安濃の津から船で下ったが、遠江国の天竜灘で急に大風が吹き、大波が立って、今にもこの船をひっくり返しそうになった。水夫や船頭は何とかして助かろうとしたが、助かりそうにも見えないので、ある者は観音の名号を唱え、ある者は最期の十念を唱えた。けれども文覚は少しも騒がず、船底で高いびきをかいて寝ていた。もはやこれまでと見えたとき、がばっと起き上がって船ばたに立ち、沖の方を睨みつけて大声をあげ、「龍王はいるか、龍王はいるか」と呼びかけた。「どうしてこのように大願を起こした聖の乗る船を沈めようとするのか。今にも天罰を受けるであろう龍神どもよ」と言った。そのためであろうか、波風はまもなく静まって、伊豆国に着いた。
文覚は京を出た日から、心の中に祈り誓うことがあった。自分が都に帰って高雄の神護寺の創立供養をするはずならば死ぬまい。この願いがむなしいのなら道中で死ぬだろうといって、京から伊豆に着くまで、あいにく順風がなかったので浦伝い島伝いに進み、三十一日の間はまったく断食であった。けれども気力は少しも衰えず、船底で修行し続けていた。まことに普通の人とは思えないことが多かった。
意訳
文覚が法皇の御所で大暴れし、伊豆に流されるまでを描く章段である。優雅な管弦の御遊を文覚の大声が乱し、資行判官の烏帽子を打ち落とし、刀を抜いて走り回る。荒々しくも滑稽な場面である。捕らえられても「王宮といふとも、いかでその難をば遁るべき」と呪いの言葉を吐く姿には、後の世の乱れを見通す予言者めいた凄みがある。
護送の途中では、放免に「清水の観音房」宛ての手紙を書かせてからかい、天竜灘の嵐では龍王を叱りつけて波を鎮める。三十一日の断食にも衰えない文覚の超人的な姿が、伊豆で頼朝と出会う次の章段への期待を高めている。
語釈・文法注
文法
- 「附歌」
- 人の歌に合わせて付けて歌うこと。
- 「そ首」
- 「素首」。首をののしっていう語。
- 「ぢやう」
- 「定」で、関節の意か。動く所の関節を締め上げた、と解される。
- 「一臈を經ずして」
- 順序を経ずに、一足飛びに。
- 「放免」
- 検非違使庁の下部で、もと罪人を放免して使ったもの。
- 「依估」
- 役得、えこひいきの利益。
解説
文覚が後白河法皇の御所に押し入って勧進帳を読み上げたのは承安三年(1173)のことと伝えられ、物語の「治承三年」とは食い違う。文覚は伊豆に流され、同じく流人であった頼朝と知り合い、挙兵を勧めたとされる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、488–492頁(コマ273–275)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日