平家物語 巻第五
文覚の荒行の事
頼朝が挙兵したのは高雄の文覚上人の勧めによる。文覚はもと遠藤盛遠という武士で、十九歳で出家し、修行の苦しさを試そうと真夏の藪に七日裸で伏した。真冬の那智の滝に打たれて死にかけるが、不動明王の使いの二童子に救われ、三七日の行を遂げた。さらに那智千日籠りをはじめ、日本中の霊山を巡って修行し、飛ぶ鳥も祈り落とすほどの験者となった。
- 1然然しかるるるにににかのかのかの賴賴より朝朝ともははは去去さんんんぬるぬるぬる平平へい治治じ元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ、、、父父ちち左左さ馬馬まののの頭頭かみ義義よし朝朝ともががが謀謀む叛叛ほんににに依依よつつっててて、、、既既すでににに誅誅ちゅうせせせらるらるらるべかりべかりべかりしししををを、、、故故こ池池いけののの禪禪ぜん尼尼にのののあながちあながちあながちににに歎歎なげきききのたまふのたまふのたまうににに依依よつつっててて、、、生生しょう年年ねん十十じゅう四四し歳歳さいととと申申もうししし、、、永永えい曆曆りゃく元元がん年年ねん三三さん月月がつ二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、伊伊い豆豆ずののの國國くに北北ほう條條じょう蛭蛭ひるががが小小こ島島じまへへへ流流ながささされれれててて、、、二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんののの春春しゅん秋秋じゅうををを送送おくりりりむかふむかふむかう。。。年年とし比比ごろもももあれあれあればばばこそこそこそありありありけめけめけめ、、、今今こ年年としいかなるいかなるいかなる心心こころにににててて謀謀む叛叛ほんをををばばば起起おこささされれれけるけるけるぞぞぞととといふいふいうににに、、、高高たか雄雄おののの文文もん覺覺がく上上しょう人人にんののの勸勸すすめめめ申申もうささされれれけるけるけるににに依依よつつってててなりなりなり。。。
- 2そも〳〵そも〳〵そもそもこのこのこの文文もん覺覺がくととと申申もうすすすははは、、、渡渡わた邊邊なべののの遠遠えん藤藤どう左左さ近近こんののの將將しょう監監げん茂茂もち遠遠とおががが子子こににに遠遠えん藤藤どう武武む者者しゃ盛盛もり遠遠とおとてとてとて、、、上上じょう西西さい門門もん院院いんののの衆衆しゅなりなりなり。。。然然しかるるるををを十十じゅう九九くののの年年とし道道どう心心しん起起おこししし、、、髻髻もとどり切切きりりり、、、修修しゅ行行ぎょうににに出出いでででんんんとととしししけるけるけるががが、、、修修しゅ行行ぎょうととといふいふいうばばばいかいかいか程程ほどののの大大だい事事じやらやらやらんんん、、、ためしためしためしててて見見みんんんとてとてとて、、、六六ろく月月がつののの日日ひののの草草くさもももゆるがゆるがゆるがずずず照照てつつったるたるたるににに、、、あるあるある片片かた山山やま里里ざとののの藪藪やぶののの中中なかへへへはひりはひりはいり、、、はだかはだかはだかににになりなりなり、、、仰仰あうのののけけけににに伏伏ふすすす。。。虻虻あぶぞぞぞ、、、蚊蚊かぞぞぞ、、、蜂蜂はち、、、蟻蟻ありなどなどなどいふいふいう毒毒どく蟲蟲むしどもどもどもががが、、、身身みにににひしひしひしととと取取とりりりついついついててて、、、刺刺さししし喰喰くひひいなどなどなどしししけれけれけれどもどもども、、、ちつちつちっとととももも身身みをををももも働働はたらかかかさささずずず。。。七七なぬ日日かまでまでまでははは起起おきききももも上上あがらららずずず、、、八八よう日日かととといふいふいうににに起起おききき上上あがりりりててて、、、「「「修修しゅ行行ぎょうととといふいふいうはははこれこれこれ程程ほどののの大大だい事事じやらやらやらんんん。。。」」」ととと人人ひとににに問問とへへへばばば、、、「「「それそれそれ程程ほどならならならんんんにににははは、、、いかでいかでいかで命命いのちももも生生いくくくべきべきべき。。。」」」ととといふいふいう間間あいだ、、、「「「さてさてさてははは安安あん平平ぺい、、、ござんなれござんなれござんなれ。。。」」」とてとてとて、、、やがてやがてやがて修修しゅ行行ぎょうにににこそこそこそ出出いでででにににけれけれけれ。。。熊熊くま野野のへへへ參參まいりりり、、、那那な智智ちごもりごもりごもりせせせんんんとととしししけるけるけるががが、、、まづまづまず行行ぎょうのののこゝろみこゝろみこころみににに、、、聞聞きこゆるゆるゆる瀧瀧たきにににしばらくしばらくしばらく打打うたたたれれれててて見見みんんんとてとてとて、、、瀧瀧たき本本もとへへへこそこそこそ參參まいりりりけれけれけれ。。。
- 3頃頃ころははは十十じゅう二二に月月がつののの十十とお日日か餘餘あまりりりののの事事ことなれなれなればばば、、、雪雪ゆき降降ふりりりつもりつもりつもり、、、つらゝつらゝつららいていていて、、、谷谷たにののの小小を川川がはももも音音おともももせせせずずず。。。峯峯みねののの嵐嵐あらし吹吹ふききき氷氷こおりりり、、、瀧瀧たきののの白白しら絲絲いと垂垂たる氷氷ひとととなつなつなっててて、、、皆皆みな白白しろ妙妙たえにににおしおしおしなべなべなべててて、、、四四よ方方もののの梢梢こずえももも見見みえええわかわかわかずずず。。。然然しかるるるににに文文もん覺覺がく、、、瀧瀧たき壺壺つぼにににおりおりおりひたりひたりひたり、、、首首くびぎはぎはぎわつかつつかつつかっててて、、、慈慈じ救救くののの呪呪じゅををを滿滿みてててけるけるけるががが、、、二二ふつ三三か日日にちこそこそこそありありありけれけれけれ、、、四四し五五ご日日にちにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、文文もん覺覺がくこらへこらへこらえずずずしてしてして浮浮うきききあがりあがりあがりぬぬぬ。。。數數す千千せん丈丈じょう張張みなぎりりり落落おつるつるつる瀧瀧たきなれなれなればばば、、、なじかはなじかはなじかわたまるたまるたまるべきべきべき、、、さつさつさっとととおしおしおし落落おとささされれれ、、、刀刀かたなののの刃刃やいばののの如如ごとくくくににに、、、さしもさしもさしも嚴嚴きびしきしきしき岩岩いわかどかどかどののの中中なかををを、、、浮浮うきききぬぬぬ沈沈しずみみみぬぬぬ、、、五五ご六六ろく町町ちょうこそこそこそ流流ながれれれけれけれけれ。。。時時ときににに美美うつくしきしきしき童童どう子子じ一一ひと人人り來來きたつつっててて、、、文文もん覺覺がくががが手手てををを取取とつつっててて引引ひき上上あげげげ給給たまふふう。。。人人ひと奇奇き特特どくののの思思おもひひいをををなしなしなしててて、、、火火ひををを燒燒たきききあぶりあぶりあぶりなどなどなどしししけれけれければばば、、、定定じょう業業ごうならならならぬぬぬ命命いのちででではははありありあり、、、文文もん覺覺がく程程ほどなくなくなく生生いききき出出いでででぬぬぬ。。。大大だいののの眼眼まなこををを見見みいからかしいからかしいからかし、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「われわれわれこのこのこの瀧瀧たきににに三三さん七七しち日日にちうたうたうたれれれててて、、、慈慈じ救救くののの三三さん洛洛らく叉叉しゃををを滿滿みてててうううととと思思おもふふう大大だい願願がんありありあり。。。今日今日きょうはははわづかわづかわずか五五いつ日日かにににこそこそこそなれなれなれ。。。未未いまだだだ七七なぬ日日かだにだにだにももも過過すぎぎぎざるざるざるににに、、、何何なに者者ものかかかこれこれこれまでまでまでははは取取とつつっててて來來きたれれれるるるぞぞぞ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、聞聞きくくく人人ひと、、、身身みののの毛毛けよだつよだつよだってててものものものいはいはいわずずず。。。またまたまた瀧瀧たき壺壺つぼににに歸歸かえりりり立立たつつってててぞぞぞうたうたうたれれれけるけるける。。。
- 4第第だい二二に日日にちととと申申もうすすすににに、、、八八はち人人にんののの童童どう子子じ來來きたつつっててて、、、文文もん覺覺がくががが左左そ右右うののの手手てををを取取とつつっててて引引ひき上上あげげげんんんとととしたまへしたまへしたまえばばば、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに抓抓つかみみみあうあうおうててて上上あがらららずずず。。。第第だい三三さん日日にちととと申申もうすすすににに、、、遂遂ついにににはかなくはかなくはかなくなりなりなりぬぬぬ。。。時時ときににに瀧瀧たき壺壺つぼををを汚汚けがさささじじじとととややや、、、鬢鬢びんずらゆうゆうゆうたるたるたる天天てん童童どう二二ふた人人り、、、瀧瀧たきののの上上うえよりよりより下下おりりり降降くだらららせせせ給給たまひひいててて、、、世世よににに暖暖あたたかかかににに香香こうばしきばしきばしき御御おん手手てををを以以もっててて、、、文文もん覺覺がくががが頂頂ちょう上上じょうよりよりより始始はじめめめててて、、、手手て足足あしののの爪爪つま先先さき、、、手手た裏裏のうらににに至至いたるるるまでまでまで、、、撫撫なででで下下くださささせせせ給給たまへへえばばば、、、文文もん覺覺がく夢夢ゆめののの心心ここちちちしてしてして生生いききき出出いでででぬぬぬ。。。「「「そもそもそもいかなるいかなるいかなる人人ひとにににてててましませましませましませばばば、、、かくかくかくははは憐憐あわれみみみ給給たまふふうやらやらやらんんん。。。」」」ととと問問とひひい奉奉たてまつれれればばば、、、童童どう子子じ答答こたへへえててて曰曰いわくくく、、、「「「我我われはははこれこれこれ大大だい聖聖しょう不不ふ動動どう明明みょう王王おうののの御御おん使使つかいににに金金こん伽伽が羅羅ら、、、勢勢せい多多た伽伽かととといふいふいう二二に童童どう子子じなりなりなり。。。文文もん覺覺がく無無む上上じょうののの願願がんををを起起おこししし勇勇ゆう猛猛もうののの行行ぎょうををを企企くわだつつつ、、、行行ゆいいいててて力力ちからををを合合あははわせせせよよよととと、、、明明みょう王王おうののの敕敕ちょくににに依依よつつっててて來來きたれれれるるるなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞ答答こたへへえたまふたまふたまう。。。文文もん覺覺がく聲聲こえををを怒怒いからかいらかいらかいててて、、、「「「さてさてさて明明みょう王王おうははは何何い處處ずくにににましますましますましますぞぞぞ。。。」」」「「「都都と率率そつ天天てんににに。。。」」」ととと答答こたへへえててて、、、雲雲くも居居いはるかはるかはるかににに昇昇のぼりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 5文文もん覺覺がく掌掌たなごころををを合合あははわせせせててて、、、さてさてさてわがわがわが行行ぎょうをををばばば、、、大大だい聖聖しょう不不ふ動動どう明明みょう王王おうまでまでまでももも知知しろし召召めささされれれたるたるたるにににこそこそこそととと、、、いよいよいよいよいよいよたのもしうたのもしうたのもしゅう思思おもひひい、、、猶猶なお瀧瀧たき壺壺つぼににに歸歸かえりりり立立たつつってててぞぞぞうたうたうたれれれけるけるける。。。そのそのその後後のちはははまことまことまことにににめでたきめでたきめでたき瑞瑞ずい相相そうどもどもども多多おおかりかりかりけれけれければばば、、、吹吹ふききき來來くるるる風風かぜももも身身みにににしましましまずずず、、、落落おちちち來來くるるる水水みずももも湯湯ゆののの如如ごとししし。。。かくかくかくててて三三さん七七しち日日にちののの大大だい願願がん遂遂ついににに遂遂とげげげしかしかしかばばば、、、那那な智智ちににに千千せん日日にち籠籠こもりりりけりけりけり。。。大大おお峯峯みね三三さん度度ど、、、葛葛かつら城城ぎ二二に度度ど、、、高高こう野野や、、、粉粉こ川川かわ、、、金金きん峯峯ぷ山山せん、、、白白はく山山さん、、、立立たて山山やま、、、富富ふ士士じののの嶽嶽たけ、、、伊伊い豆豆ず、、、箱箱はこ根根ね、、、信信しな濃濃のののの戸戸と隱隱がくし、、、出出で羽羽わののの羽羽は黑黑ぐろ、、、總總そうじじじててて日日に本本ほん國國ごく殘殘のこるるる所所ところなうなうのう行行おこなひひい廻廻めぐりりり、、、さすがさすがさすがなほなほなお故故こ鄕鄕きょうややや戀戀こいしかりしかりしかりけんけんけん、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼりりりたりたりたりけれけれければばば、、、およそおよそおよそ飛飛とぶぶぶ鳥鳥とりをををももも祈祈いのりりり落落おとすすす程程ほどののの、、、刃刃やいばののの驗驗げん者者じゃとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
現代語訳
さて、あの頼朝は、去る平治元年(1159)十二月、父左馬頭義朝の謀叛によって当然誅されるはずであったのを、故池の禅尼がしいて嘆かれたので、生年十四歳で、永暦元年(1160)三月二十日、伊豆国北条の蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り迎えてきた。長年何事もなく過ごしてきたのに、今年どういう心で謀叛を起こしたのかといえば、高雄の文覚上人がお勧め申したからである。
そもそもこの文覚という人は、渡辺党の遠藤左近将監茂遠の子で遠藤武者盛遠といい、上西門院に仕える武士であった。それが十九の年に道心を起こして髻を切り、修行に出ようとしたが、修行というのはどれほどつらいものか試してみようと、六月の、草も揺るがぬほど日が照りつける日に、ある山里の藪の中へ入って裸になり、仰向けに寝た。虻や蚊、蜂や蟻などという毒虫が体にびっしり取りついて刺したりかんだりしたが、少しも身動きしない。七日までは起き上がらず、八日目に起き上がって、「修行というのはこれほどつらいものか」と人に尋ねると、「それほどなら、どうして命が助かりましょう」と言うので、「それなら楽なものだ」といって、すぐに修行に出かけた。熊野へ参って那智にこもろうとしたが、まず修行の手始めに、名高い滝にしばらく打たれてみようと、滝のもとへ参った。
ころは十二月の十日過ぎのことなので、雪が降り積もり、つららが下がり、谷の小川も凍って音もしない。峰の嵐は吹き凍らせ、滝の白糸はつららとなって、あたり一面真っ白で、四方の梢も見分けがつかない。そこへ文覚は滝壺に下りてつかり、首まで水に浸かって慈救の呪を唱えていたが、二、三日はもちこたえたものの、四、五日にもなると、文覚はこらえきれずに浮き上がってしまった。数千丈もみなぎり落ちる滝なので、どうしてたまろうか、さっと押し流されて、刀の刃のように鋭い岩角の間を浮きつ沈みつ、五、六町も流された。そのとき美しい童子が一人現れて、文覚の手を取って引き上げてくださった。人々は不思議に思って、火を焚いて温めなどしたので、定業ではない命だったから、文覚はまもなく生き返った。大きな眼をむいて大声をあげ、「わしはこの滝に三七日打たれて、慈救の呪を三十万遍唱えようという大願がある。今日はまだ五日にしかならない。七日も過ぎないのに、誰がここまで連れて来たのか」と言ったので、聞く人は身の毛がよだって何も言えない。文覚はまた滝壺に戻って打たれた。
二日目に、八人の童子が来て文覚の左右の手を取って引き上げようとなさったが、文覚はさんざんにつかみ合って上がらない。三日目に、とうとう息が絶えてしまった。そのとき滝壺を汚すまいというのであろうか、みずらを結った天童が二人、滝の上から降りて来られて、たいそう温かく香しいお手で、文覚の頭の上から手足の爪先、手のひらに至るまで撫で下ろされたので、文覚は夢のような心地で生き返った。「いったいどなたなので、このようにお憐れみくださるのですか」とお尋ねすると、童子は答えて、「われらは大聖不動明王の御使いで、金伽羅・制多伽という二童子である。文覚が無上の願を起こして勇猛な修行を企てているので、行って力を貸してやれという明王のご命令で来たのだ」とお答えになった。文覚が声を張り上げて、「では明王はどこにおいでになるのか」と言うと、「兜率天に」と答えて、雲のかなたに昇って行かれた。
文覚は手を合わせて、さてはわが修行を大聖不動明王までもご存じなのだと、いよいよ心強く思って、なお滝壺に戻って打たれた。その後はまことにめでたい瑞相が多くあったので、吹いて来る風も身にしみず、落ちて来る水も湯のようである。こうして三七日の大願をついに遂げたので、那智に千日こもった。大峰三度、葛城二度、高野・粉河・金峰山・白山・立山・富士の嶽・伊豆・箱根・信濃の戸隠・出羽の羽黒と、日本国中残る所なく修行して回り、さすがにやはり故郷が恋しかったのであろうか、都へ帰り上ったところ、およそ飛ぶ鳥も祈り落とすほどの、切れ味鋭い験者と評判になった。
意訳
頼朝挙兵の陰の立役者である文覚の前半生を語る章段である。もとは遠藤盛遠という武士で、出家後は常人離れした荒行を重ねた。真夏の藪で毒虫に七日刺されても動じず、真冬の那智の滝で死にかけても修行をやめない。不動明王の二童子が救いに現れる場面は、文覚の強烈な信念と験力を印象づけている。
「飛ぶ鳥をも祈り落す程の、刃の驗者」と評された文覚は、続く章段で法皇の御所に押し入り、伊豆に流されて頼朝と出会うことになる。荒々しく型破りな文覚の人物像が、物語に新しい動きをもたらしている。
語釈・文法注
文法
- 「安平、ござんなれ」
- 「安平」はたやすいこと。それならたやすいものだ、の意。
- 「首ぎはつかつて」
- 首のきわまで水に浸かって。
- 「慈救の呪」
- 不動明王の真言(慈救咒)。
- 「三洛叉」
- 洛叉は十万。三十万遍。
- 「金伽羅、勢多伽」
- 不動明王に仕える二童子、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦(せいたか)童子。
- 「刃の驗者」
- 刃のように鋭い霊験をもつ修験者。
解説
文覚(1139〜1203)は遠藤盛遠として上西門院に仕えたが、のちに出家し、神護寺の再興に尽力した。出家の動機については、人妻の袈裟御前を誤って殺したためとする説話が『源平盛衰記』などに見えるが、『平家物語』の流布本は触れていない。那智の滝の荒行の話は名高く、歌舞伎や浮世絵の題材となった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、484–486頁(コマ271)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日