平家物語 巻第五
咸陽宮の事
異国の例として、燕の太子丹は秦の始皇帝に捕らえられたが、孝心に天が感じて馬に角が生え烏の頭が白くなり、帰国を許された。丹は始皇帝を討とうと荊軻を遣わし、荊軻は樊於期の首と燕の地図を献じるふりをして咸陽宮で始皇帝に迫った。しかし始皇帝は后の琴に託された合図を聞き取って逃れ、荊軻は八つ裂きにされ、燕は滅んだ。頼朝もそうなるだろうと言う者もいた。
- 1又又また異異い國國こくににに先先せん蹤蹤じょうをををとぶらふとぶらふとぶらうににに、、、燕燕えんののの太太たい子子し丹丹たん、、、秦秦しんののの始始し皇皇かう帝帝ていにににとらはれとらはれとらわれててて、、、戒戒いましめめめををを蒙蒙こうぶるるることことこと十十じゅう二二に年年ねん、、、或或ある時時とき、、、燕燕えん丹丹たん涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、「「「われわれわれ故故こ鄕鄕きょうににに老老ろう母母ぼありありあり、、、暇暇いとまををを賜賜たまはつはつわっててて、、、今今いま一一ひと度度たびかれかれかれををを見見みんんん。。。」」」とととぞぞぞ歎歎なげきききけるけるける。。。始始し皇皇かう帝帝ていあざあざあざ笑笑わらつつっててて、、、「「「汝汝なんじににに暇暇いとまたばたばたばんんんことことこと、、、馬馬うまににに角角つの生生おひひい、、、烏烏からすののの頭頭かしらののの白白しろくくくならならならんんんををを待待まつつつべきべきべきなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。燕燕えん丹丹たん天天てんににに仰仰あうぎぎぎ、、、地地ちににに伏伏ふしししててて、、、「「「願願ねがはくはくわくははは馬馬うまににに角角つの生生おひひい、、、烏烏からすののの頭頭かしら白白しろくくくなしなしなしたべたべたべ。。。本本ほん國國ごくへへへ歸歸かえつつっててて今今いま一一ひと度度たび母母ははををを見見みんんん。。。」」」とととぞぞぞ祈祈いのりりりけるけるける。。。かのかのかの妙妙みょう音音おん菩菩ぼ薩薩さつははは靈靈りょう山山ぜん淨淨じょう土土どににに詣詣けいしししててて、、、不不ふ孝孝きょうのののともがらともがらともがらををを戒戒いましめめめ、、、孔孔こう子子し、、、顏顏がん囘囘かいははは支支し那那な震震しん旦旦だんににに出出いでででててて、、、忠忠ちゅう孝孝こうののの道道みちををを始始はじめめめ給給たまふふう。。。冥冥みょう顯顯けんののの三三さん寶寶ぼう、、、孝孝こう行行こうののの志志こころざしををを憐憐あわれみみみ給給たまふふう事事ことなれなれなればばば、、、馬馬うまににに角角つの生生おひひいててて宮宮きゅう中中ちゅうににに來來きたりりり、、、烏烏からすののの頭頭かしら白白しろくくくなつなつなっててて庭庭てい前前ぜんののの木木きににに住住すめめめりりりけりけりけり。。。始始し皇皇かう帝帝てい烏烏う頭頭とう馬馬は角角かくののの變變へんににに驚驚おどろききき、、、綸綸りん言言げんかへらかへらかえらざるざるざる事事ことををを深深ふかくくく信信しんじじじててて、、、太太たい子子し丹丹たんををを宥宥なだめめめつゝつゝつつ、、、本本ほん國國ごくへへへこそこそこそ歸歸かえささされれれけれけれけれ。。。
- 2始始し皇皇かう猶猶なお悔悔くやしみしみしみ給給たまひひいててて、、、秦秦しんののの國國くにととと燕燕えんののの國國くにののの境境さかいににに楚楚そ國國こくととといふいふいう國國くにありありあり。。。大大おおきききなるなるなる河河かは流流ながれれれたりたりたり。。。かのかのかの河河かはににに渡渡わたせせせるるる橋橋はしををを楚楚そ國國こくののの橋橋はしととといへいへいえりりり。。。始始し皇皇かうさきさきさきににに官官かん軍軍ぐんををを遣遣つかはしはしわしててて、、、燕燕えん丹丹たんががが渡渡わたらららんんん時時とき、、、川川かわ中中なかののの橋橋はしををを踏踏ふまままばばば落落おつるつるつるやうやうようにににしたゝめしたゝめしたためててて、、、渡渡わたささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、なじかはなじかはなじかわ好好よかるかるかるべきべきべき、、、まんまんまん中中なかにににててて落落おちちち入入いりりりぬぬぬ。。。されどもされどもされども水水みずにににはははちつちつちっとととももも溺溺おぼれれれずずず、、、平平へい地地じををを行行ゆくくくががが如如ごとくくくにににててて、、、向向むかひひいののの岸岸きしにににぞぞぞ著著つきききにににけるけるける。。。燕燕えん丹丹たんこはこはこわいかにいかにいかにととと思思おもひひいててて、、、後後うしろををを顧顧かえりみみみたりたりたりけれけれければばば、、、龜龜かめどもどもどもがががいくらいくらいくらととといふいふいう數數かずををを知知しらららずずず、、、水水みずののの上上うえににに浮浮うかれかれかれ來來きててて、、、甲甲こうををを竝竝ならべべべてててそのそのその上上うえをををぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。これこれこれももも孝孝こう行行こうののの志志こころざしををを、、、冥冥みょう顯顯けんののの憐憐あわれみみみ給給たまふふうににに依依よつつってててなりなりなり。。。
- 3燕燕えん丹丹たんなほなほなお恨恨うらみみみををを含含ふくんんんででで始始し皇皇かう帝帝ていににに從從したがははわずずず。。。始始し皇皇かう官官かん軍軍ぐんををを遣遣つかはしはしわしててて燕燕えん丹丹たんををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんんとととすすす。。。燕燕えん丹丹たん大大おおきききににに恐恐おそれれれ戰戰おののいいいててて、、、荊荊けい軻軻かととといふいふいう兵兵つわものををを語語かたらうらうろうててて大大だい臣臣じんににになすなすなす。。。荊荊けい軻軻か又又また田田でん光光こう先先せん生生せいととといふいふいう兵兵つわものををを語語かたらふらふらうににに、、、かのかのかの先先せん生生せい申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「君君きみはははこのこのこの身身みががが若若わこううう盛盛さかんんんなつなつなっししし事事ことをををしろしめししろしめししろしめしててて、、、かくかくかくははは賴賴たのみみみ仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるかかか。。。麒麒き麟麟りんははは千千せん里里りををを飛飛とぶぶぶととといへいへいえどもどもども、、、老老おいいいぬれぬれぬればばば駑駑ど馬馬ばにににももも劣劣おとれれれりりり。。。このこのこの身身みははは年年とし老老おいいいててて、、、いかにいかにいかにももも適適かなひひい候候そうろうまじまじまじ。。。詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、よきよきよき兵兵つわものををを語語かたらつらつらってててこそこそこそ參參まいらせらせらせめめめ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、荊荊けい軻軻か、、、「「「あなあなあなかしこかしこかしこ、、、このこのこの事事こと披披ひ露露ろうすすすななな。。。」」」ととといふいふいう。。。先先せん生生せい聞聞きいいいててて「「「このこのこのことことこと洩洩もれれれぬるぬるぬるものものものならならならばばば、、、われわれわれ先先まづづずさきさきさきににに疑疑うたがははわれれれなななんんんずずず。。。人人ひとににに疑疑うたがははわれれれぬるぬるぬるににに過過すぎぎぎたるたるたる恥恥はじこそこそこそなけれなけれなけれ。。。」」」とてとてとて、、、荊荊けい軻軻かががが門門もん前前ぜんなるなるなる杏杏すももののの木木きににに頭頭かしらをををつきつきつき當當あててて、、、うちうちうち碎碎くだいいいてててぞぞぞ死死しににににににけるけるける。。。
- 4またまたまた樊樊はん於於よ期期きととといふいふいう兵兵つわものありありあり。。。これこれこれははは秦秦しんののの國國くにののの者者ものなりなりなりしかしかしかどもどもども、、、始始し皇皇かうののの爲爲ためににに親親おや、、、叔叔お父父じ、、、兄兄きょう弟弟だい亡亡ほろぼさぼさぼされれれててて、、、燕燕えんののの國國くにににに逃逃にげげげ籠籠こもりりりぬぬぬ。。。始始し皇皇かう四四し海海かいににに宣宣せん旨旨じをををなしなしなし下下くだししし、、、燕燕えんののの指指さし圖圖ず、、、竝竝ならびににに樊樊はん於於よ期期きががが首首くびををを持持もつつっててて參參まいりりりたらたらたらんんんずるずるずる者者ものにににははは、、、五五ご百百ひゃく斤斤こんののの金金きんををを與與あたへへえんんんととと披披ひ露露ろうせせせらるらるらる。。。荊荊けい軻軻か、、、樊樊はん於於よ期期きががが許許もとににに行行ゆいいいててて、、、「「「われわれわれ聞聞きくくく、、、汝汝なんじががが首首くび五五ご百百ひゃく斤斤こんののの金金きんににに報報ほうぜぜぜられられられたんたんたんなりなりなり。。。汝汝なんじががが首首こうべわれわれわれににに借借かせせせ、、、取取とつつっててて始始し皇皇かう帝帝ていににに奉奉たてまつらららんんん。。。喜喜よろこびびびててて叡叡えい覽覽らんををを經經へられられられんんん時時とき、、、劒劒つるぎををを拔拔ぬいいいててて胸胸むねををを刺刺ささささんんんははは易易やすかりかりかりなななんんん。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、樊樊はん於於よ期期き踊踊おどりりり上上あがり〳〵り〳〵りおどりあがり、、、大大おお息息いきついついついててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「わがわがわが親親おや、、、叔叔お父父じ、、、兄兄きょう弟弟だいををを始始し皇皇かう帝帝ていににに亡亡ほろぼさぼさぼされれれててて、、、夜夜よる晝晝ひるこれこれこれををを思思おもふふうににに、、、骨骨こつ髓髓ずいにににとほつとほつとおっててて忍忍しのびびび難難がたししし。。。まことまことまことににに始始し皇皇かう帝帝てい討討うつつつべからべからべからんんんにににおいおいおいてててははは、、、わがわがわが首首くび與與あたへへえんんんことことこと、、、塵塵ちり芥芥あくたよりよりよりもももやすしやすしやすし。。。」」」とてとてとて、、、みづからみづからみずから首首くびををを切切きつつってててぞぞぞ死死しににににににけるけるける。。。
- 5またまたまた秦秦しん舞舞ぶ陽陽ようととといへいへいえるるる兵兵つわものありありあり。。。これこれこれももも秦秦しんののの國國くにののの者者ものなりなりなりしししががが、、、十十じゅう三三さんののの歳歳とし敵敵かたきををを討討うつつっててて、、、燕燕えんののの國國くにににに逃逃にげげげ籠籠こもりりりぬぬぬ。。。かれかれかれががが笑笑えんんんででで向向むかふふう時時ときははは嬰嬰みどり子子ごももも抱抱いだかかかれれれ、、、またまたまた怒怒いかつつっててて向向むかふふう時時ときははは大大だいののの男男おとこももも絶絶ぜつ入入じゅすすす。。。竝竝ならびびびなきなきなき兵兵つわものなりなりなり。。。荊荊けい軻軻かかれかれかれををを語語かたらつらつらっててて、、、秦秦しんののの都都みやこののの案案あん内内ない者者しゃににに具具ぐしししててて行行ゆくくくににに、、、あるあるある片片かた山山やま里里ざとににに宿宿しゅくしししたりたりたりけるけるける夜夜よ、、、そのそのその邊邊へん近近ちかききき里里さとににに管管かん絃絃げんをををするするするををを聞聞きいいいててて、、、調調ちょう子子しををを以以もっててて本本ほ意意いののの事事ことををを占占うらなふふうににに、、、「「「敵敵かたきののの方方かたははは水水みずなりなりなり、、、わがわがわが方方かたははは火火ひなりなりなり、、、白白はく虹虹こう日日ひををを貫貫つらぬいいいててて通通とおらららずずず、、、わがわがわが本本ほ意意いををを遂遂とげげげんんん事事ことありがたしありがたしありがたし。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 6さるさるさる程程ほどににに天天てんもももあけあけあけぬぬぬ。。。されどもされどもされども歸歸かえるるるべきべきべき道道みちにににあらあらあらねねねばばば、、、秦秦しんののの都都みやこ咸咸かん陽陽よう宮宮きゅうににに至至いたりりりぬぬぬ。。。燕燕えんののの指指さし圖圖ず、、、竝竝ならびににに樊樊はん於於よ期期きががが首首くび持持もつつっててて參參まいりりりたるたるたる由由よしををを奏奏そう聞聞もんすすす。。。臣臣しん下下かををを以以もっててて受受うけ取取とらららんんんとととしたまへしたまへしたまえばばば、、、「「「全全まったくくく人人ひと傳傳づてにににはははまゐらせまゐらせまいらせじじじ、、、直直じきににに奉奉たてまつらららんんん。。。」」」ととと奏奏そうするするする間間あいだ、、、さらばさらばさらばとてとてとて節節せち會會えののの儀儀ぎををを整整ととのへへえててて、、、燕燕えんののの使使つかいををを召召めささされれれけりけりけり。。。咸咸かん陽陽よう宮宮きゅうははは都都みやこのののめぐりめぐりめぐり一一いち萬萬まん八八はっ千千せん三三さん百百びゃく八八はち十十じゅう里里りににに積積つもれれれりりり。。。内内だい裏裏りをををばばば地地ちよりよりより三三さん里里り高高たかくくく築築つきききあげあげあげててて、、、そのそのその上上うえにににぞぞぞ立立たてててられられられたるたるたる。。。長長ちょう生生せい殿殿でんありありあり、、、不不ふ老老ろう門門もんありありあり、、、金金こがねををを以以もっててて日日ひををを作作つくりりり、、、銀銀しろがねををを以以もっててて月月つきををを作作つくれれれりりり。。。眞眞しん珠珠じゅののの砂砂いさご、、、瑠瑠る璃璃りののの砂砂いさご、、、金金こがねののの砂砂いさごををを敷敷しききき滿滿みてててりりり。。。四四し方方ほうにににははは鐵鐵くろがねののの築築つい地地じををを高高たかさささ四四し十十じゅう丈丈じょうににに築築つきききあげあげあげててて、、、殿殿でんのののうへうへうえにににももも同同おなじうじうじゅう鐵鐵くろがねののの網網あみをををぞぞぞ張張はつつったりたりたりけるけるける。。。これこれこれははは冥冥めい途途どののの使使つかいををを入入いれれれじじじとととなりなりなり。。。秋秋あきははは田田たののの面面もののの鴈鴈かり、、、春春はるははは越越こし路路じへへへ返返かえるるるにににももも、、、飛飛ひ行行ぎょう自自じ在在ざいのののさはりさはりさわりありありありとてとてとて、、、築築つい地地じにににははは、、、鴈鴈がん門門もんととと名名なづけづけづけててて、、、鐵鐵くろがねののの門門もんをををあけあけあけてててぞぞぞ通通とおささされれれけるけるける。。。そのそのその中中なかににに阿阿あ房房ほう殿殿でんとてとてとて、、、始始し皇皇かうののの常常つねににに行行ぎょう幸幸こうなつなつなっててて政政せい道道どう行行おこなははわせせせ給給たまふふう殿殿でんありありあり。。。東東とう西西ざいへへへ九九く町町ちょう、、、南南なん北北ぼくへへへ五五ご町町ちょう、、、高高たかさささ三三さん十十じゅう六六ろく丈丈じょうなりなりなり。。。大大おお床床ゆかののの下下したにににははは五五ご丈丈じょうののの旗旗はた矛矛ぼこををを立立たてててたれたれたれどもどもども、、、なほなほなお及及およばばばぬぬぬ程程ほどなりなりなり。。。上上うえをををばばば瑠瑠る璃璃りののの瓦瓦かわらををを以以もっててて葺葺ふききき、、、下下したにににははは金金こん銀銀ごんをををみがけみがけみがけりりり。。。
- 7荊荊けい軻軻かははは燕燕えんののの指指さし圖圖ずををを持持もちちち、、、秦秦しん舞舞ぶ陽陽ようははは樊樊はん於於よ期期きががが首首くびををを持持もつつっててて、、、珠珠たまののの階階きざはしををを半半なかばばばかりかりかり昇昇のぼりりりあがりあがりあがりけるけるけるががが、、、あまりあまりあまりににに内内だい裏裏りのののおびたゞしきおびたゞしきおびただしきををを見見みててて、、、秦秦しん舞舞ぶ陽陽ようわな〳〵わな〳〵わなわなとととふるひふるひふるいけれけれければばば、、、臣臣しん下下かこれこれこれをををあやしんあやしんあやしんででで、、、「「「刑刑けい人人じんをををばばば君君きみののの傍傍かたわらににに置置おかかかずずず、、、君君くん子子しははは刑刑けい人人じんににに近近ちかづかづかづかずずず、、、近近ちかづけづけづけばばばすなはちすなはちすなわち死死しををを輕輕かろんんんずるずるずる道道みちなりなりなり。。。」」」ととといへいへいえりりり。。。荊荊けい軻軻かたちたちたちかへつかへつかえっててて「「「秦秦しん舞舞ぶ陽陽よう全全まったくくく謀謀む叛叛ほんののの志志こころざしなしなしなし。。。たゞたゞただ田田い舎舎なかののの賤賤いやしきしきしきにににのみのみのみ習習ならつつっててて、、、斯斯かかるかるかる皇皇かう居居きょににに慣慣なれれれざるざるざる故故ゆえににに、、、心心こころ迷迷めい惑惑わくすすす。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、そのそのその時時とき、、、臣臣しん下下かみなみなみな靜靜しずまりまりまりぬぬぬ。。。依依よつつっててて王王おうににに近近ちかづきづきづき奉奉たてまつりりり、、、燕燕えんののの指指さし圖圖ず、、、竝竝ならびににに樊樊はん於於よ期期きががが首首くびををを見見げん參參ざんににに入入いるゝるゝるる所所ところににに、、、指指さし圖圖ずののの入入いつつったるたるたる櫃櫃ひつののの底底そこににに、、、氷氷こおりのののやうやうようなるなるなる劒劒つるぎのののありありありけるけるけるををを始始し皇皇かう帝帝てい御御ご覽覽らんじじじててて、、、やがてやがてやがて逃逃にげげげんんんとととししし給給たまへへえばばば、、、荊荊けい軻軻か御御おん袖袖そでをををむずむずむずとととひかへひかへひかえ奉奉たてまつりりり、、、劒劒つるぎををを胸胸むねにににさしさしさし當當あてててたりたりたり。。。今今いまはははかうかうこうとととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけりけりけり。。。數數すう萬萬まんののの軍軍ぐん旅旅りょははは庭庭てい上上じょうににに袖袖そでををを列列つらぬぬぬととといへいへいえどもどもども、、、救救すくははわんんんとととするするするににに力力ちからなしなしなし。。。たゞたゞただこのこのこの君君きみ逆逆げき臣臣しんににに犯犯おかささされれれさせさせさせ給給たまははわんんん事事ことをををのみのみのみ、、、歎歎なげききき悲悲かなしみしみしみあへあへあえりりりけりけりけり。。。
- 8始始し皇皇かう帝帝てい、、、「「「我我われににに暫暫ざん時時じののの暇暇いとまををを得得えさせさせさせよよよ。。。后后きさきののの琴琴ことののの音音ねををを今今いま一一ひと度度たび聞聞きかかかんんん。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、荊荊けい軻軻かしばししばししばしははは犯犯おかしししももも奉奉たてまつらららずずず。。。始始し皇皇かう帝帝ていははは三三さん千千ぜんののの后后きさきををを持持もちちち給給たまへへえりりり。。。そのそのその中中なかににに花花か陽陽よう夫夫ふ人人じんとてとてとて雙雙ならびびびなきなきなき琴琴ことののの上上じょう手手ずおはしおはしおわしききき。。。およそおよそおよそこのこのこの后后きさきののの琴琴ことののの音音ねををを聞聞きけけけばばば、、、猛猛たけききき武武もの士士のうののの怒怒いかれれれるるる心心こころもももやはらぎやはらぎやわらぎ、、、飛飛とぶぶぶ鳥鳥とりももも地地ちににに落落おちちち、、、草草そう木木もくもももゆるぐゆるぐゆるぐばかりばかりばかりなりなりなり。。。況況いわんんんややや今今いまをををかぎりかぎりかぎりののの叡叡えい聞聞ぶんににに備備そなへへえんんんととと、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく彈彈ひききき給給たまへへえばばば、、、さこそさこそさこそははは面面おも白白しろかりかりかりけめけめけめ。。。荊荊けい軻軻か首首こうべをををうなだれうなだれうなだれ、、、耳耳みみをををそばだてそばだてそばだてててて、、、殆殆ほとんどんどんど謀謀ぼう臣臣しんののの心心こころもももたゆみたゆみたゆみにににけりけりけり。。。そのそのその時時とき、、、后后きさき始始はじめめめててて更更さらににに一一いっ曲曲きょくををを奏奏そうすすす。。。「「「七七しち尺尺しゃくののの屏屏びょう風風ぶははは高高たかくくくともともとも、、、跳跳おどらららばばばなどなどなどかかか越越こえええざらざらざらんんん。。。一一いち條條じょうののの羅羅ら縠縠こくははは強強つよくくくともともとも、、、引引ひかかかばばばなどなどなどかかか絶絶たえええざらざらざらんんん。。。」」」とととぞぞぞ彈彈ひききき給給たまふふう。。。荊荊けい軻軻かはははこれこれこれををを聞聞きききき知知しらららずずず。。。始始し皇皇かう帝帝ていははは聞聞きききき知知しりりりててて、、、御御おん袖袖そでををを引引ひき切切きつつっててて、、、七七しち尺尺しゃくののの屏屏びょう風風ぶををを跳跳おどりりり越越こえええ、、、銅銅あかがねののの柱柱はしらののの陰陰かげへへへ逃逃にげげげ隱隱かくれれれさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。そのそのその時時とき荊荊けい軻軻か怒怒いかつつっててて、、、劒劒つるぎををを投投なげげげかけかけかけ奉奉たてまつるるる。。。折折おりふしふしふし御御ご前前ぜんににに番番ばんののの醫醫い師師しののの候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、劒劒つるぎににに藥藥くすりののの袋袋ふくろををを投投なげげげあはせあはせあわせたりたりたり。。。劒劒つるぎ藥藥くすりののの袋袋ふくろをををかけかけかけられられられながらながらながら、、、口口くち六六ろく尺尺しゃくののの銅銅あかがねののの柱柱はしらををを半半なかばまでまでまでこそこそこそ切切きつつったりたりたりけれけれけれ。。。荊荊けい軻軻かまたまたまた劒劒つるぎををを持持もたたたざれざれざればばば、、、つゞいつゞいつづいてててももも投投なげげげずずず。。。王王おう立立たち返返かえつつっててて、、、御御ぎょ劒劒けんををを召召めししし寄寄よせせせててて、、、荊荊けい軻軻かををを八八やつつつざきざきざきにににこそこそこそししし給給たまひひいけれけれけれ。。。秦秦しん舞舞ぶ陽陽ようももも討討うたたたれれれぬぬぬ。。。やがてやがてやがて官官かん軍軍ぐんををを遣遣つかはしはしわしててて燕燕えん丹丹たんをををももも亡亡ほろぼさぼさぼさるるる。。。蒼蒼そう天天てん許許ゆるししし給給たまははわねねねばばば、、、白白はく虹虹こう日日ひををを貫貫つらぬいいいててて通通とおらららずずず、、、秦秦しんののの始始し皇皇かうははは遁遁のがれれれててて、、、燕燕えん丹丹たん遂遂ついににに亡亡ほろびびびにににけりけりけり。。。さればさればされば今今いまののの賴賴より朝朝とももももさこそさこそさこそはははあらあらあらんんんずずずらめらめらめととと、、、色色しき代代だい申申もうすすす人人ひと々々びともももありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。
現代語訳
また異国に先例を尋ねると、燕の太子丹は秦の始皇帝に捕らえられて、十二年も拘束されていた。あるとき燕丹は涙を流して、「私の故郷には老母がいる。暇をいただいて、もう一度母に会いたい」と嘆いた。始皇帝はあざ笑って、「お前に暇をやるのは、馬に角が生え、烏の頭が白くなるのを待ってからだ」とおっしゃった。燕丹は天を仰ぎ地に伏して、「願わくは馬に角を生やし、烏の頭を白くしてください。本国へ帰ってもう一度母に会いたいのです」と祈った。あの妙音菩薩は霊鷲山の浄土に詣でて不孝の者を戒め、孔子や顔回は中国に現れて忠孝の道を始められた。神仏は孝行の志を憐れまれるので、馬に角が生えて宮中に来り、烏の頭が白くなって庭前の木にとまった。始皇帝は烏の頭が白くなり馬に角が生えた異変に驚き、天子の言葉は取り消せないことを深く信じて、太子丹を許して本国へ帰された。
始皇はなお悔しく思われて、秦の国と燕の国の境に楚国という国がある。大きな河が流れている。その河に渡した橋を楚国の橋といった。始皇はあらかじめ官軍を遣わして、燕丹が渡るとき、川の中ほどの橋を踏んだら落ちるように細工して渡らせたので、どうして無事でいられようか、真ん中で落ちてしまった。けれども水には少しも溺れず、平地を行くように向こう岸に着いた。燕丹がこれはどうしたことかと振り返ると、数えきれないほどの亀が水の上に浮かんできて、甲羅を並べてその上を通したのであった。これも孝行の志を神仏が憐れまれたからである。
燕丹はなお恨みを抱いて始皇帝に従わない。始皇は官軍を遣わして燕丹を滅ぼそうとした。燕丹はひどく恐れおののいて、荊軻という勇士を味方にして大臣にした。荊軻はまた田光先生という勇士を誘ったが、先生が言うには、「君はこの身が若く盛んであったころのことをご存じで、このように頼まれるのか。麒麟は千里を飛ぶというが、老いれば駄馬にも劣る。この身は年老いて、とてもお役に立てまい。結局、よい勇士を誘って差し上げよう」と言うと、荊軻は「決してこのことを口外するな」と言った。先生はこれを聞いて、「このことが漏れたなら、私がまっ先に疑われよう。人に疑われることほど恥ずかしいことはない」といって、荊軻の門前の李の木に頭を打ちつけて砕き、死んでしまった。
また樊於期という勇士がいた。これは秦の国の者であったが、始皇のために親・叔父・兄弟を滅ぼされて、燕の国に逃げこもっていた。始皇は天下に宣旨を下して、燕の地図と樊於期の首を持って参った者には五百斤の金を与えると布告された。荊軻は樊於期のもとに行って、「聞けば、お前の首には五百斤の金が懸けられているそうだ。お前の首を私に貸せ。それを持って始皇帝に献じよう。喜んでご覧になるとき、剣を抜いて胸を刺すのはたやすいだろう」と言うと、樊於期は躍り上がり躍り上がり、大きく息をついて、「私の親・叔父・兄弟を始皇帝に滅ぼされて、昼も夜もこれを思うと骨の髄まで耐えがたい。まことに始皇帝を討てるのなら、わが首を与えることなど塵芥よりもたやすい」といって、自ら首を切って死んだ。
また秦舞陽という勇士がいた。これも秦の国の者であったが、十三歳のとき敵を討って燕の国に逃げこもっていた。彼が笑って向かうと赤子も抱かれ、また怒って向かうと大の男も気絶する。並ぶ者のない勇士である。荊軻は彼を誘って、秦の都の案内者として連れて行ったが、ある山里に泊まった夜、近くの里で管弦の音がするのを聞いて、その調子で本意の成否を占うと、「敵の方は水、わが方は火である。白い虹が日を貫いて通らない。わが本意を遂げることは難しい」と言った。
やがて夜も明けた。けれども引き返すべき道ではないので、秦の都の咸陽宮に至った。燕の地図と樊於期の首を持って参ったことを奏上した。臣下に受け取らせようとなさると、「決して人づてには差し上げません。直接献じましょう」と申したので、それならと節会の儀式を整えて、燕の使者を召された。咸陽宮は都の周囲が一万八千三百八十里に及ぶ。内裏は地面から三里の高さに築き上げて、その上に建てられていた。長生殿があり、不老門があり、金で日を作り、銀で月を作っていた。真珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を敷き詰めていた。四方には鉄の築地を四十丈の高さに築き上げ、御殿の上にも同じく鉄の網を張っていた。これは冥途の使いを入れまいとするためである。秋に田の雁が来て、春に北へ帰るときにも、自由に飛べなくて差し支えがあるというので、築地には雁門と名づけた鉄の門を開けて通された。その中に阿房殿といって、始皇がいつもお出ましになって政治を行われる御殿がある。東西に九町、南北に五町、高さは三十六丈である。縁の下には五丈の旗矛を立てても、なお届かないほどである。屋根は瑠璃の瓦で葺き、下は金銀を磨いていた。
荊軻は燕の地図を持ち、秦舞陽は樊於期の首を持って、玉の階段を半ばほど昇ったが、秦舞陽はあまりに内裏の壮大さを見てわなわなと震えたので、臣下がこれを怪しんで、「刑人を君のそばに置かず、君子は刑人に近づかない。近づけば死を軽んじることになる」と言った。荊軻は振り返って、「秦舞陽にはまったく謀叛の心はない。ただ田舎の卑しい暮らしにばかり慣れて、このような皇居に慣れていないので、心が惑っているのだ」と言ったので、臣下はみな静まった。そこで王に近づき申して、燕の地図と樊於期の首をお目にかけたところ、地図を入れた櫃の底に氷のような剣があるのを始皇帝がご覧になって、すぐに逃げようとなさると、荊軻は御袖をむずとつかみ申して、剣を胸に突きつけた。もはやこれまでと見えた。数万の軍勢は庭に並んでいたが、救おうにも力がない。ただこの君が逆臣に殺されることばかりを嘆き悲しみ合った。
始皇帝は、「わしにしばらくの猶予をくれ。后の琴の音をもう一度聞きたい」とおっしゃったので、荊軻はしばらく手を下さなかった。始皇帝は三千人の后を持っておられた。その中に花陽夫人という並ぶ者のない琴の名手がおられた。およそこの后の琴の音を聞けば、猛き武士の怒りの心も和らぎ、飛ぶ鳥も地に落ち、草木も揺らぐほどである。まして今を最後と帝のお耳に入れようと泣く泣く弾かれたので、さぞ趣深かったであろう。荊軻は首を垂れ、耳をそばだてて、謀臣の心もほとんどゆるんでしまった。そのとき后は、さらに一曲を奏でた。「七尺の屏風は高くとも、跳べばどうして越えられないことがあろう。一筋の薄絹は強くとも、引けばどうして切れないことがあろう」と弾かれた。荊軻はこれを聞き取れない。始皇帝は聞き取って、御袖を引きちぎり、七尺の屏風を跳び越えて、銅の柱の陰へ逃げ隠れなさった。そのとき荊軻は怒って剣を投げつけ申した。ちょうど御前に番の医師が控えていたが、剣に薬の袋を投げ当てた。剣は薬の袋をかけられながら、周囲六尺の銅の柱を半ばまで切り込んだ。荊軻はもう剣を持っていないので、続けて投げることもできない。王は立ち返って御剣を取り寄せ、荊軻を八つ裂きになさった。秦舞陽も討たれた。やがて官軍を遣わして燕丹も滅ぼされた。天がお許しにならなかったので、白い虹は日を貫いて通らず、秦の始皇は逃れて、燕丹はついに滅んだ。だから今の頼朝もきっとそうなるだろうと、追従を申す人々もあったとか。
意訳
燕の太子丹と荊軻による秦の始皇帝暗殺未遂の故事を語る章段である。物語は、清盛を朝敵頼朝に狙われる始皇帝に、頼朝を燕丹になぞらえ、「今の賴朝もさこそはあらんずらめ」と、平家方の楽観を示して結ぶ。
しかし、燕丹の孝心に天が感じて馬に角が生え、亀が橋となったように、物語は燕丹の側にも天の加護を描いている。巨大な咸陽宮や阿房殿の描写は始皇帝の驕りを示し、平家の栄華とも重なり合う。追従する人々の言葉の裏に、平家の行く末への不安が読み取れる。
語釈・文法注
文法
- 「烏頭馬角の變」
- 烏の頭が白くなり、馬に角が生える異変。ありえないことのたとえ。
- 「白虹日を貫いて通らず」
- 白い虹が日を貫くのは、臣が君を害する兆しとされた。それが貫き通らないのは、謀が成就しないことを示す。
- 「羅縠」
- 薄く織った絹。
- 「色代」
- お世辞、追従。
解説
燕の太子丹と荊軻の故事は『史記』刺客列伝などに見える。荊軻が易水のほとりで「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去ってまた還らず」と歌った話は名高い。『平家物語』は琴の合図など独自の脚色を加えている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、479–483頁(コマ268–270)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日