平家物語 巻第五
朝敵ぞろへの事
頼朝挙兵の知らせに、平家の人々は遷都の興もさめた。在京の畠山重能は、北条以外の東国武士は朝敵には味方しないと言った。清盛は、池の禅尼の嘆願で命を助けた恩を忘れた頼朝に激怒した。物語は神武天皇の世の土蜘蛛以来の朝敵を数えあげ、一人として本懐を遂げた者はないと述べ、延喜の帝の宣旨に鷺さえ従った話を引いて、昔の王威の重さを語る。
- 1平平へい家家けののの人人ひと々々びと、、、都都みやこ遷遷うつりりりののの事事こともももはやはやはや興興きょうさめさめさめぬぬぬ。。。若若わかききき公公く卿卿ぎょう殿殿てん上上じょう人人びとははは、、、「「「哀哀あわれれれ疾疾とくくくしてしてして事事ことののの出出いででで來來こよよよかしかしかし。。。われわれわれ先先さきににに討討うつ手手てににに向向むかははわううう。。。」」」などなどなどいふいふいうぞぞぞはかなきはかなきはかなき。。。畠畠はたけ山山やまののの莊莊しょう司司じ重重しげ能能よし、、、小小お山山やま田田だののの別別べつ當當とう有有あり重重しげ、、、宇宇う都都つの宮宮みやののの左左さ衞衞え門門もん朝朝とも綱綱つな、、、これらこれらこれらははは大大おお番番ばん役役やくにににててて、、、折折おりふしふしふし在在ざい京京きょうしししたりたりたりけるけるけるががが、、、畠畠はたけ山山やま申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「親親したしうしうしゅうなつなつなっててて候候そうろうなれなれなればばば、、、北北ほう條條じょうははは知知しりりり候候そうらははわずずず。。。自自じ餘餘よののの輩輩ともがらははは、、、よもよもよも朝朝ちょう敵敵てきののの方方かた人人うどははは仕仕つかまつりりり候候そうらははわじじじ。。。只只ただ今今いま聞聞きこしめししめししめしなほさなほさなおさんんんずるずるずるものものものををを。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「げにげにげにももも。。。」」」ととと申申もうすすす人人ひともももありありあり、、、「「「いやいやいやたゞたゞただ今今いま、、、御御おん大大だい事事じににに及及およびびび候候そうらひひいなななんんんずずず。。。」」」ととと、、、さゝやくさゝやくささやく人人ひともももありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 2入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの怒怒いかららられれれけるけるける樣樣さま、、、なのめなのめなのめななななずなずならず。。。「「「抑抑そもそもかのかのかの賴賴より朝朝ともははは、、、去去さんんんぬるぬるぬる平平へい治治じ元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ、、、父父ちち義義よし朝朝ともががが謀謀む叛叛ほんににに依依よつつっててて、、、既既すでににに誅誅ちゅうせせせらるらるらるべかりべかりべかりしししををを、、、故故こ池池いけののの禪禪ぜん尼尼にのののあながちあながちあながちににに歎歎なげきききのたまふのたまふのたまう間間あいだ、、、流流る罪罪ざいにににははは宥宥なだめめめられられられたんたんたんなりなりなり。。。然然しかるるるにににそのそのその恩恩おんををを忘忘わすれれれててて、、、當當とう家家けににに向向むかつつっててて弓弓ゆみををを引引ひききき、、、矢矢やをををももも放放はなつつつにににこそこそこそあんあんあんなれなれなれ。。。そのそのその儀儀ぎならならならばばば神神しん明明めいももも三三さん寶寶ぼうももも、、、いかでいかでいかでかかか赦赦ゆるししし給給たまふふうべきべきべき。。。たゞたゞただ今今いま天天てんののの譴譴せめめめ蒙蒙こうぶらららんんんずるずるずる賴賴より朝朝ともかなかなかな。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 3そも〳〵そも〳〵そもそもわがわがわが朝朝ちょう敵敵てきののの始始はじまりまりまりけるけるける事事ことははは、、、昔昔むかし倭倭やまと磐余磐余いわれ彥彥ひこののの命命みことののの御御ぎょ宇宇うののの四四し年年ねん、、、紀紀き州州しゅう名名な草草ぐさののの郡郡こおり高高たか尾尾おののの村村むらににに一一ひとつつつののの蜘蜘ち蛛蛛ちゅうありありあり。。。軀軀み短短みじかくくく、、、手手て足足あし長長ながくくくしてしてして、、、力力ちから人人ひとにににすぐれすぐれすぐれたりたりたり。。。人人じん民民みん多多おおくくく損損そん害害がいせせせしかしかしかばばば、、、官官かん軍軍ぐん發發はっ向向こうしてしてして宣宣せん旨旨じををを讀讀よみみみかけかけかけ、、、葛葛くずののの網網あみををを結結むすんんんででで、、、遂遂ついにににこれこれこれををを覆覆おおひひい殺殺ころすすす。。。それそれそれよりよりより此此こののの方方かた野野や心心しんををを挾挾さしわさんんんででで、、、朝朝ちょう威威いををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんんとととするするするともがらともがらともがら、、、大大おお石石いしののの山山やま丸丸まる、、、大大おお山山やまののの皇皇み子子こ、、、山山やま田田だののの石石いし川川かわ、、、守守もり屋屋やののの大大だい臣臣じん、、、蘇蘇そ我我がののの入入いる鹿鹿か、、、大大おお友友ともののの眞眞ま鳥鳥とり、、、文文ふん屋屋やののの宮宮みや田田た、、、橘橘たちばなののの逸逸はや勢勢なり、、、氷氷ひ上上がみののの川川かわ繼繼つぎ、、、惠惠え美美みののの押押おし勝勝かつ、、、早早さ良良はらののの太太たい子子し、、、井井い上上がみののの皇皇かう后后ごう、、、伊伊い豫豫よののの親親しん王王のう、、、大大だ宰宰ざいののの少少しょう貳貳に藤藤ふじ原原はらののの廣廣ひろ嗣嗣つぐ、、、藤藤ふじ原原はらののの仲仲なか成成なり、、、平平たいらののの將將まさ門門かど、、、藤藤ふじ原原はらののの純純すみ友友とも、、、安安あ倍倍べののの貞貞さだ任任とう、、、宗宗むね任任とう、、、前前さきののの對對つ馬馬しまののの守守かみ源源げん義義よし親親ちか、、、惡惡あく左左さ府府ふ、、、惡惡あく衞衞え門門もんののの督督かみににに至至いたるるるまでまでまで、、、そのそのその例例れい既既すでににに二二に十十じゅう餘餘よ人人にん。。。されどもされどもされども一一いち人人にんとととしてしてして素素そ懷懷かいををを遂遂とぐるぐるぐる者者ものなしなしなし。。。みなみなみな屍屍かばねををを山山さん野野やにににさらしさらしさらし、、、首首こうべををを獄獄ごく門門もんにににかけかけかけらるらるらる。。。
- 4このこのこの世世よこそこそこそ王王おう位位いもももむげむげむげににに輕輕かろけれけれけれ、、、昔昔むかしははは宣宣せん旨旨じををを向向むかつつっててて讀讀よみみみけれけれければばば、、、枯枯かれれれたるたるたる草草そう木木もくももも忽忽たちまちちちににに花花はな咲咲さききき、、、實實みなりなりなり、、、飛飛とぶぶぶ鳥鳥とりももも從從したがひひいききき。。。近近ちか頃頃ごろののの事事ことぞぞぞかしかしかし、、、延延えん喜喜ぎののの帝帝みかど神神しん泉泉せん苑苑えんへへへ行行ぎょう幸幸こうなつなつなっててて、、、池池いけののの汀汀みぎわににに鷺鷺さぎののの居居いたりたりたりけるけるけるををを、、、六六ろく位位いををを召召めしししててて、、、「「「あのあのあの鷺鷺さぎ取取とつつっててて參參まいれれれ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、いかんかいかんかいかんか捕捕とらららるるるべきべきべきとととははは思思おもへへえどもどもども、、、綸綸りん言言げんなれなれなればばば歩歩あゆみみみ向向むかふふう。。。鷺鷺さぎ羽羽はねづくろひづくろひづくろいしてしてして立立たたたたんんんとととすすす。。。「「「宣宣せん旨旨じぞぞぞ。。。」」」ととと仰仰おおすれすれすればばば、、、ひらんひらんひらんででで飛飛とびびび去去さらららずずず。。。すなはちすなはちすなわちこれこれこれををを捕捕とつつっててて參參まいらせらせらせたりたりたりけれけれければばば、、、「「「汝汝なんじががが宣宣せん旨旨じににに從從したごうううててて參參まいりりりたるたるたるこそこそこそ神神しん妙妙びょうなれなれなれ。。。やがてやがてやがて五五ご位位いににになせなせなせ。。。」」」とてとてとて。。。鷺鷺さぎををを五五ご位位いにににぞぞぞなさなさなされれれけるけるける。。。今日今日きょうよりよりより後後のち鷺鷺さぎののの中中なかののの王王おうたるたるたるべしべしべしととといふいふいう御御おん札札ふだををを、、、みづからみづからみずからあそばいあそばいあそばいててて、、、首首くびにににつけつけつけてててぞぞぞ放放はなたたたせせせ給給たまふふう。。。全全まったくくくこれこれこれははは鷺鷺さぎののの御御おん料料りょうにににはははあらあらあらずずず、、、たゞたゞただ王王おう威威いののの程程ほどをををしろしめさしろしめさしろしめさんんんががが爲爲ためなりなりなり。。。
現代語訳
平家の人々は、遷都のことももう興がさめてしまった。若い公卿・殿上人は、「ああ、早く事が起こればよい。我こそ先に討手に向かおう」などと言うのは頼りないことである。畠山庄司重能・小山田別当有重・宇都宮左衛門朝綱は大番役で、ちょうど在京していたが、畠山が申すには、「頼朝と親しくなっておりますので、北条のことはわかりません。そのほかの者たちは、まさか朝敵の味方はいたしますまい。すぐに事情がお分かりになるでしょう」と申したので、「もっともだ」と言う人もあり、「いや、今にも大事に及ぶでしょう」とささやく人もあったとか。
入道相国の怒りようはひととおりではなかった。「そもそもあの頼朝は、去る平治元年十二月、父義朝の謀叛によって当然誅されるはずであったのを、故池の禅尼がしいて嘆き申されたので、流罪に減じてやったのだ。それなのにその恩を忘れて、当家に向かって弓を引き矢を放つとは。そういうことなら、神仏もどうして許されようか。今にも天罰を受けるであろう頼朝よ」とおっしゃった。
そもそもわが国で朝敵が始まったのは、昔、神武天皇の御代の四年、紀伊国名草郡高尾村に一匹の土蜘蛛がいた。体は短く手足は長く、力は人にまさっていた。人民を多く損なったので、官軍が向かって宣旨を読みかけ、葛の網を結んでついにこれを覆い殺した。それ以来、野心を抱いて朝廷の威光を滅ぼそうとした者は、大石山丸・大山皇子・山田石川・物部守屋・蘇我入鹿・大伴真鳥・文屋宮田・橘逸勢・氷上川継・恵美押勝・早良太子・井上皇后・伊予親王・大宰少弐藤原広嗣・藤原仲成・平将門・藤原純友・安倍貞任・宗任・前対馬守源義親・悪左府(頼長)・悪衛門督(信頼)に至るまで、その例はすでに二十余人に及ぶ。けれども一人として本懐を遂げた者はない。みな屍を山野にさらし、首を獄門にかけられた。
今の世こそ王位もひどく軽くなったが、昔は宣旨を向かって読めば、枯れた草木もたちまち花が咲き実がなり、飛ぶ鳥も従った。近ごろのことである。延喜の帝(醍醐天皇)が神泉苑へ行幸なさって、池の汀に鷺がいたのを、六位の者を召して「あの鷺を捕って参れ」とおっしゃったので、どうして捕れようかとは思ったが、勅命なので歩み寄った。鷺は羽づくろいをして飛び立とうとする。「宣旨であるぞ」と言うと、身を伏せて飛び去らない。そこでこれを捕って差し上げると、「お前が宣旨に従って参ったのは殊勝である。すぐに五位にせよ」といって、鷺を五位になされた。「今日から後は鷺の中の王であれ」という札をご自身でお書きになって、首につけて放たれた。これはまったく鷺のためではなく、ただ王威のほどを示そうとなさったのである。
意訳
頼朝挙兵の報に対する平家の反応と、朝敵の歴史を語る章段である。清盛は、池の禅尼の嘆願で命を助けた頼朝の背信に激怒する。物語は朝敵の名を二十余人挙げて、一人として本懐を遂げた者はないと述べ、頼朝もまた滅ぶであろうという平家方の見方を示す。
一方で、延喜の帝の宣旨に鷺さえ従ったという話は、昔の王威の重さを語ると同時に、「この世こそ王位もむげに輕けれ」と、平家の専横によって王威が地に落ちた今の世を嘆いている。
語釈・文法注
文法
- 「なのめななず」
- 底本は「なのめななず」。「なのめならず」の誤植と考えられる。底本の表記のまま翻刻した。
- 「大番役」
- 諸国の武士が交代で京都の警護にあたる役。
- 「倭磐余彥の命」
- 神武天皇。
- 「ひらんで」
- 「平んで」。身を低く伏せて。
解説
神泉苑で鷺が宣旨に従って五位を授けられたという説話から、鷺の一種を「五位鷺」と呼ぶようになったと伝えられる。畠山重能・小山田有重はのちに子の重忠らが頼朝方につき、重能自身も平家滅亡後に許された。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、477–478頁(コマ267–268)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日