平家物語 巻第五
大庭が早馬の事
高野山の成頼入道は青侍の夢の話を伝え聞き、平家の世の終わりを感じた。九月二日、相模の大庭景親から福原へ早馬が届いた。八月十七日に伊豆の流人頼朝が舅の北条時政と挙兵して目代山木兼隆を討ち、石橋山に籠もったが、景親が攻めて頼朝はわずか七、八騎で土肥の杉山へ逃げたこと、三浦一族は畠山らに衣笠城を攻められ、大介義明は討たれ、子らは安房・上総へ渡ったことを知らせるものであった。
- 1中中なかにににももも高高こう野野やにににおはしおはしおわしけるけるける宰宰さい相相しょう入入にゅう道道どう成成せい賴賴らい、、、このこのこの事事ことどもどもどもををを傳傳つたへへえ聞聞きいいいててて、、、「「「あはやあはやあわや平平へい家家けののの代代よはははやうやうやうやうようよう末末すえににになりなりなりぬるぬるぬるははは。。。嚴嚴いつく島島しまののの大大だい明明みょう神神じんののの平平へい家家けののの方方かた人人うどししし給給たまふふうととといふいふいう事事ことももも、、、そのそのそのいはれいはれいわれありありあり。。。但但ただしししこのこのこの嚴嚴いつく島島しまののの大大だい明明みょう神神じんははは沙沙しゃ竭竭かつ羅羅ら龍龍りゅう王王おうののの第第だい三三さんののの姫姫ひめ君君ぎみなれなれなればばば、、、女女にょ神神じんとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつののの、、、節節せつ刀刀とををを、、、賴賴より朝朝ともににに賜賜たまふふうととと仰仰おおせせせられられられつるつるつるもももことわりことわりことわりなりなりなり。。。春春かす日日が大大だい明明みょう神神じんののの、、、そのそのその後後のちはははわがわがわが孫孫まごにににももも賜賜たびびび候候そうらへへえととと仰仰おおせせせられられられけるけるけるこそこそこそ心心こころ得得えねねね。。。それそれそれももも平平へい家家け亡亡ほろびびび、、、源源げん氏氏じののの世世よ盡盡つきききなななんんん後後のち、、、大大たい織織しょく冠冠かんののの御御おん末末すえ、、、執執しっ柄柄ぺい家家かののの君君きん達達だちののの天天てん下下かののの將將しょう軍軍ぐんににになりなりなり給給たまふふうべきべきべきかかか。。。」」」なんどなんどなんどのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。折折おりふしふしふしあるあるある僧僧そうののの來來きたりたりたりけるけるけるががが申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「それそれそれ神神しん明明めいははは和和わ光光こう垂垂すい跡跡じゃくののの方方ほう便便べんまち〳〵まち〳〵まちまちにににましませましませましませばばば、、、あるあるある時時ときははは女女にょ神神じんともともともなりなりなり、、、またまたまたあるあるある時時ときははは俗俗ぞく體體たいともともとも現現げんじじじ給給たまへへえりりり。。。まことまことまことにににこのこのこの嚴嚴いつく島島しまののの大大だい明明みょう神神じんははは、、、三三さん明明みょう六六ろく通通つうののの靈靈れい神神じんにににてててましませましませましませばばば、、、俗俗ぞく體體たいととと現現げんじじじ給給たまははわんんん事事ことももも、、、難難かたかるかるかるべきべきべきにににあらあらあらずずずややや。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。うきうきうき世世よをををいとひいとひいとい、、、まことまことまことののの道道みちににに入入いりりり給給たまへへえばばば、、、ひとへひとへひとえににに後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいののの外外ほかははは、、、またまたまた他他た事事じあるあるあるまじきまじきまじき事事ことなれなれなれどもどもども、、、善善ぜん政政せいををを聞聞きいいいてててははは感感かんじじじ、、、愁愁うれへへえををを聞聞きいいいてててははは歎歎なげくくく、、、これこれこれみなみなみな人人にん間間げんのののならひならひならいなりなりなり。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき九九く月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、相相さが摸摸みののの國國くにののの住住じゅう人人にん大大おお庭庭ば三三さぶ郎郎ろう景景かげ親親ちか、、、福福ふく原原はらへへへ早早はや馬馬うまををを以以もっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「去去さんんんぬるぬるぬる八八はち月月がつ十十じゅう七七しち日日にち、、、伊伊い豆豆ずののの國國くにののの流流る人人にん前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、舅舅しゅうと北北ほう條條じょう四四し郎郎ろう時時とき政政まさををを語語かたらうらうろうててて、、、伊伊い豆豆ずののの國國くにののの目目もく代代だい和和いず泉泉みののの判判ほう官官がん兼兼かね隆隆たかををを、、、八八や牧牧まきががが館館たちにににててて夜夜よ討討うちににに討討うちちち候候そうらひひいぬぬぬ。。。そのそのその後後のち土土と肥肥ひ、、、土土つち屋屋や、、、岡岡おか崎崎ざきををを始始はじめめめとととしてしてして三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、石石いし橋橋ばし山山やまにににたてたてたて籠籠こもつつっててて候候そうろう所所ところををを、、、景景かげ親親ちか、、、御御み方方かたににに志志こころざしををを存存ぞんずるずるずる者者ものどもどもども一一いっ千千せん餘餘よ騎騎きををを引引いん率率そつしてしてして、、、おしおしおし寄寄よせせせてててさん〴〵さん〴〵さんざんににに攻攻せめめめ候候そうらへへえばばば、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけわづかわづかわずか七七しち八八はっ騎騎きにににうちうちうちなさなさなされれれ、、、大大おお童童わらわににになつなつなっててて戰戰たたかひひい、、、土土と肥肥ひののの杉杉すぎ山山やまへへへ逃逃にげげげ籠籠こもりりりぬぬぬ。。。畠畠はたけ山山やま五五ご百百ひゃく騎騎きにににててて御御み方方かたををを仕仕つかまつるるる。。。三三み浦浦うら大大おお介介すけががが子子こどもどもども三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎きにににててて源源げん氏氏じ方方がたをををしてしてして、、、由由ゆ井井い、、、小小こ坪坪つぼののの浦浦うらででで攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。畠畠はたけ山山やま軍軍いくさにににまけまけまけててて武武む藏藏さしののの國國くにへへへ引引ひき退退しりぞくくく。。。そのそのその後後のち畠畠はたけ山山やまががが一一いち族族ぞく、、、河河かわ越越ごえ、、、稻稻いな毛毛げ、、、小小お山山やま田田だ、、、江江え戸戸ど、、、葛葛かさ西西い、、、總總そうじじじててて七七しち黨黨とうののの兵兵つわものどもどもども、、、盡盡ことごとくくく起起おこりりりあひあひあい、、、そのそのその勢勢せい二二に千千せん餘餘よ騎騎き、、、三三み浦浦うら衣衣きぬ笠笠がさののの城城じょうにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、一一いち日日にち一一いち夜夜や攻攻せめめめ候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、大大おお介介すけ討討うたたたれれれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。子子こどもどもどもはははみなみなみな九九く里里り濱濱はまののの浦浦うらよりよりより船船ふねににに乘乘のつつっててて、、、安安あ房房わ、、、上總上總かずさへへへ渡渡わたりりり候候そうらひひいぬぬぬとととこそこそこそ、、、人人ひと申申もうしししけれけれけれ。。。」」」
現代語訳
中でも高野山においでになった宰相入道成頼は、これらのことを伝え聞いて、「ああ、平家の世もようやく末になったのだな。厳島大明神が平家の味方をなさるということにも理由がある。ただしこの厳島大明神は娑竭羅龍王の第三の姫君なので、女神と聞いている。八幡大菩薩が節刀を頼朝に与えるとおっしゃったのももっともである。春日大明神が、その後はわが孫にもお与えくださいとおっしゃったのは合点がいかない。それも平家が滅び、源氏の世が尽きた後、大織冠(藤原鎌足)の子孫である摂関家の公達が天下の将軍におなりになるということか」などとおっしゃった。ちょうどそこへ来ていたある僧が申すには、「そもそも神は、仏が光を和らげて姿を現した方便がさまざまでいらっしゃるので、あるときは女神ともなり、またあるときは俗人の姿でも現れなさる。まことにこの厳島大明神は、三明六通を備えた霊神でいらっしゃるので、俗人の姿で現れなさることも難しくはないでしょう」と申した。つらい世を厭うて仏道に入られたのだから、ひたすら後世菩提のほかに他のことはないはずだが、善い政治を聞いては感じ入り、憂いを聞いては嘆くのは、みな人間のならいである。
そうするうちに、同じ年の九月二日、相模国の住人大庭三郎景親が福原へ早馬で知らせてきたことには、「去る八月十七日、伊豆国の流人の前右兵衛佐頼朝が、舅の北条四郎時政を味方に引き入れて、伊豆国の目代和泉判官兼隆を八牧の館で夜討ちにしました。その後、土肥・土屋・岡崎をはじめとして三百余騎で石橋山に立てこもっていたところを、景親が、お味方に心を寄せる者ども一千余騎を率いて押し寄せ、さんざんに攻めましたので、兵衛佐はわずか七、八騎に討ちなされ、髪を振り乱して戦い、土肥の杉山へ逃げこもりました。畠山が五百騎でお味方いたしました。三浦大介の子どもたちは三百余騎で源氏方となって、由比・小坪の浦で攻め戦いました。畠山は戦に負けて武蔵国へ引き退きました。その後、畠山の一族、河越・稲毛・小山田・江戸・葛西、すべて七党の兵どもがことごとく起こって、その勢二千余騎で三浦の衣笠の城に押し寄せ、一日一夜攻めましたところ、大介は討たれました。子どもたちはみな九里浜の浦から船に乗って、安房・上総へ渡ったと人々は申しております」
意訳
ついに源頼朝の挙兵が平家に知らされる章段である。前半では、高野山の成頼入道が青侍の夢を聞いて平家の世の末を感じ、神々の姿をめぐる問答が交わされる。
後半の大庭景親の早馬は、頼朝の挙兵から石橋山の敗戦、三浦一族の衣笠城の陥落までを簡潔に伝える。頼朝はわずか七、八騎で杉山に逃れたが、この敗北から再起して東国を従えていくことになる。
語釈・文法注
文法
- 「大織冠」
- 藤原鎌足。死の直前に大織冠の位を授けられた。
- 「和光垂跡」
- 仏が光を和らげ、神の姿となって現れること。
- 「三明六通」
- 仏や聖者が備える三種の智慧と六種の神通力。
- 「大童になつて」
- 兜が脱げ、髪が乱れて童のような姿になって。
解説
治承四年(1180)八月十七日、源頼朝は伊豆で挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討った。同月二十三日の石橋山の戦いで大庭景親に敗れたが、安房へ逃れて再起し、上総介広常・千葉常胤らを味方につけて、十月には鎌倉に入った。三浦義明(大介)は衣笠城で討ち死にした。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、475–477頁(コマ266–267)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日