平家物語 巻第五
新都の事
六月九日、新都の造営が始められたが、和田の松原の地は五条までしか区画が取れず、播磨の印南野や摂津の昆陽野も検討されたが決まらなかった。旧都は捨てられ新都は定まらず、人々は浮雲のような思いで嘆いた。通親の提案でまず里内裏を造ることになり、五条大納言国綱が造進を命じられたが、世の乱れの中での遷都と造内裏は民の苦しみを顧みないものだと人々は批判した。
- 1同同おなじきじきじき六六ろく月月がつ九九ここの日日かののの日日ひ、、、新新しん都都とののの事事こと始始はじめめめあるあるあるべしべしべしとてとてとて、、、上上しょう卿卿けいにににははは德德とく大大だい寺寺じののの左左さ大大だい將將しょう實實さね定定さだののの卿卿きょう、、、土土つち御御み門門かどののの宰宰さい相相しょうののの中中ちゅう將將じょう通通みち親親ちかののの卿卿きょう、、、奉奉ぶ行行ぎょうののの辨辨べんにににははは前前さきののの左左さ少少しょう行行ゆき隆隆たか、、、多多おおくくくののの官官かん人人にんどもどもども召召めししし具具ぐしししててて當當とう國國ごく和和わ田田だののの松松まつ原原ばら、、、西西にしののの野野のををを點點てんじじじててて、、、九九く條條じょうののの地地ちををを割割わららられれれけるけるけるににに、、、一一いち條條じょうよりよりより下下しも五五ご條條じょうまでまでまではははそのそのその所所ところあつあつあっててて、、、それそれそれよりよりより下下しもはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。行行ぎょう事事じ官官かん歸歸かえりりりまゐつまゐつまいってててこのこのこの由由よしををを奏奏そう聞聞もんすすす。。。さらばさらばさらば播播はり磨磨まののの印印いな南南み野野のかかか、、、なほなほなお攝攝つ津津のののの國國くに昆昆こ陽陽や野野のかかかなんどなんどなんど、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかどもどもども、、、事事こと行行おこなふふうべしべしべしともともとも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。舊舊きゅう都都とははは既既すでにににうかれうかれうかれぬぬぬ。。。新新しん都都とははは未未いまだだだことことことゆかゆかゆかずずず。。。ありありありとととしししあるあるある人人ひとははは、、、皆皆みな身身みををを浮浮うき雲雲くもののの思思おもひひいをををなしなしなし、、、もともともとこのこのこの所所ところににに住住すむむむ者者ものははは地地ちををを失失うしなつつっててて憂憂うれへへえ、、、今今いま移移うつるるる人人ひと々々びとははは土土ど木木ぼくののの煩煩わずらひひいをををのみのみのみ歎歎なげきききあへあへあえりりり。。。すべてすべてすべてたゞたゞただ夢夢ゆめのののやうやうようなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。土土つち御御み門門かどののの宰宰さい相相しょうののの中中ちゅう將將じょう通通みち親親ちかののの卿卿きょうののの申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「異異い國國こくにににははは三三さん條條じょうののの廣廣こう路路ろををを開開ひらいいいててて、、、十十じゅう二二にののの洞洞どう門門もんををを立立たつつつととと見見みえええたりたりたり。。。いはんいはんいわんややや五五ご條條じょうまでまでまであらあらあらんんん都都みやこににに、、、などなどなどかかか内内だい裏裏りををを立立たてててざるざるざるべきべきべき。。。かつ〴〵かつ〴〵かつがつまづまづまず里里さと内内だい裏裏り造造つくらららるるるべしべしべし。。。」」」ととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎあつあつあっててて、、、五五ご條條じょうののの大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つなののの卿卿きょう、、、臨臨りん時時じににに周周す防防ほうののの國國くにををを賜賜たまはつはつわっててて造造ぞう進進しんせせせらるらるらるべきべきべき由由よし、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくはからひはからひはからい申申もうささされれれけりけりけり。。。
- 2このこのこの國國くに綱綱つなののの卿卿きょうととと申申もうすすすははは、、、雙雙ならびびびなきなきなき大大だい福福ふく長長ちょう者者じゃにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、内内だい裏裏り造造つくりりり出出いだささされれれんんん事事こと、、、左左そ右右うににに及及およばばばねねねどもどもども、、、いかんかいかんかいかんか國國くにののの費費ついえええ、、、民民たみののの煩煩わずらひひいなかるなかるなかるべきべきべき。。。まことまことまことにににさしさしさし當當あたつつったるたるたる天天てん下下かののの大大だい事事じ、、、大大だい嘗嘗じょう會會えなどなどなどののの行行おこなははわるるるべきべきべきをををさしさしさしおいおいおいててて、、、斯斯かかるかるかる世世よののの亂亂みだれれれににに遷遷せん都都と、、、造造ぞう内内だい裏裏り、、、少少すこしししももも相相そう應應おうせせせずずず。。。古古いにしえのののかしこきかしこきかしこき御御み代代よにににははは、、、すなはちすなはちすなわち内内だい裏裏りににに茅茅かやををを葺葺ふききき、、、軒軒のきをををだにだにだにももも整整ととのへへえずずず、、、煙煙けぶりののの乏乏とぼしきしきしきををを見見み給給たまふふう時時ときにににははは、、、限限かぎりりりあるあるある御御み貢貢つぎ物物ものをををももも許許ゆるささされれれききき。。。これこれこれ即即すなわちちち民民たみををを惠惠めぐみみみ、、、國國くにををを助助たすけけけ給給たまふふうににに依依よつつってててなりなりなり。。。楚楚そ章章しょう華華かののの臺臺うてなををを建建たてててててて黎黎れい民民みんあらけあらけあらけ、、、秦秦しん阿阿あ房房ほうののの殿殿でんををを起起おこしししてててははは天天てん下下か亂亂みだるるるととといへいへいえりりり。。。茅茅ぼう茨茨し剪剪きらららずずず、、、采采さい椽椽てんけづらけづらけずらずずず、、、舟舟しゅう車車しゃ飾飾かざらららずずず、、、衣衣い服服ふく文文あやなかりなかりなかりけるけるける世世よもももありありありけんけんけんものものものををを。。。さればさればされば唐唐とうののの太太たい宗宗そうののの驪驪り山山さん宮宮きゅうををを造造つくつつっててて、、、民民たみののの費費ついえええをををややや憚憚はばからららせせせ給給たまひひいけんけんけん、、、遂遂ついににに臨臨りん幸幸こうなくなくなくしてしてして、、、瓦瓦かわらににに松松まつ生生おひひい、、、墻墻かきににに蔦蔦つた茂茂しげつつってててやみやみやみにににけるけるけるにににははは相相そう違違いかなかなかなとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
同じ六月九日、新都の造営を始めることになって、上卿には徳大寺左大将実定卿、土御門宰相中将通親卿、奉行の弁には前左少弁行隆が、大勢の役人を連れて、摂津国和田の松原の西の野を選んで九条の区画を割り付けたところ、一条から五条までは土地があったが、それより下はなかった。行事官が帰参してこのことを奏上した。それなら播磨の印南野か、やはり摂津国の昆陽野かなどと公卿たちが評議したが、うまくいきそうにも見えなかった。旧都はもう捨てられてしまった。新都はまだ定まらない。世にあるすべての人は、みな身を浮雲のように思い、もとからこの地に住む者は土地を失って嘆き、今移ってくる人々は土木工事の煩いばかりを嘆き合った。すべてただ夢のようなことであった。土御門宰相中将通親卿が申されるには、「異国では三条の大路を開いて十二の門を立てたと見える。まして五条まである都に、どうして内裏を立てられないことがあろう。とりあえず、まず里内裏を造るべきである」と、公卿たちが評議して、五条大納言国綱卿が臨時に周防国を賜って造進するようにと、入道相国が取り計らわれた。
この国綱卿という人は並ぶ者のない大金持ちでいらっしゃったので、内裏を造ることは言うまでもないが、どうして国の費えや民の煩いがないことがあろう。まことに差し迫った天下の大事である大嘗会などを行うべきなのをさしおいて、このような世の乱れの中での遷都や造内裏は、少しもふさわしくない。昔の賢い御代には、内裏に茅を葺いて軒さえも整えず、民のかまどの煙が乏しいのをご覧になったときは、決まった貢ぎ物さえも免除された。これは民を恵み、国を助けられるためである。楚が章華台を建てて民は離散し、秦が阿房宮を起こして天下は乱れたという。茅葺きの屋根の端も切りそろえず、垂木も削らず、舟や車も飾らず、衣服に模様もなかった世もあったというのに。それゆえ唐の太宗は驪山宮を造ったが、民の費えをはばかられたのであろうか、ついに行幸せずに、瓦に松が生え、垣に蔦が茂るまま終わったのとは違うことよと、人々は申した。
意訳
福原の新都の造営が思うように進まない様子を描く章段である。和田の松原の地は狭く、五条までしか区画が取れない。旧都は捨てられ、新都は定まらない中で、人々は浮雲のようにさまよう。
物語は後半で、仁徳天皇が民のかまどの煙を見て貢ぎ物を免じた故事や、唐の太宗が驪山宮への行幸を控えた故事を引き、民の苦しみを顧みない清盛の遷都と造内裏を厳しく批判している。
語釈・文法注
文法
- 「前の左少行隆」
- 底本は「左少」で「辨」がない。通行本文は「前の左少辨行隆」。底本の表記のまま翻刻した。
- 「うかれぬ」
- 捨てられてさまよう、荒れて人がいなくなる。
- 「かつ〴〵」
- とりあえず、ひとまず。
- 「黎民あらけ」
- 民が離散し。
- 「茅茨剪らず、采椽けづらず」
- 堯帝の質素な宮殿をたたえる『史記』の言葉。
解説
福原の新都は、清盛の別荘があった福原(現在の神戸市兵庫区)の周辺に計画されたが、平地が狭く、条坊を十分に割り付けることができなかった。結局、本格的な都の造営は行われず、里内裏が造られただけで、同年十一月には京都への還都が決まった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、468–470頁(コマ263)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日