平家物語 巻第四
若宮御出家の事
以仁王らの首五百余が六波羅に運ばれ、宮の首はかつて召し使われた女房によって確かめられた。宮の七歳の若宮は八条女院のもとにいたが、清盛の命で頼盛が引き渡しを迫り、若宮は自ら出ることを申し出た。宗盛のとりなしで命は助けられ、出家して仁和寺に入った。人相見の誤りや過去の不遇な皇子の例が語られ、宮は「源以仁」として凡人に落とされた。
- 1平平へい家家けののの人人ひと々々びと、、、宮宮みやならびにならびにならびに三三さん位位み入入にゅう道道どうののの一一いち類類るい、、、渡渡わた邊邊なべ黨黨とう、、、三三み井井い寺寺でらののの大大だい衆衆しゅ、、、都都つ合合ごう五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にんががが頸頸くび切切きつつっててて、、、太太た刀刀ち、、、長長なぎ刀刀なたののの先先さきににに貫貫つらぬききき、、、高高たかくくくさしさしさしあげあげあげ、、、夕夕ゆうべににに及及およんんんででで六六ろく波波は羅羅らへへへ歸歸かえりりり入入いりりり、、、兵兵つわもの共共ども勇勇いさみみみのゝしるのゝしるののしる事事こと夥夥おびただししし。。。中中なかにににももも三三さん位位み入入にゅう道道どうののの頸頸くびをををばばば、、、長長ちょう七七しち唱唱となうががが宇宇う治治じ川川がわののの深深ふかききき所所ところににに沉沉しずめめめてててけれけれければばば見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。子子こどもどもどもののの頸頸くびをををばばば、、、あそこあそこあそここゝこゝここよりよりより皆皆みな尋尋たずねねね出出いだささされれれたりたりたり。。。中中なかにににももも宮宮みやののの御御おん頸頸くびをををばばば、、、常常つねににに參參まいりりり通通かよふふう人人ひともももなかりなかりなかりしかしかしかばばば、、、誰誰たれ見見み知知しりりり參參まいらせらせらせたるたるたる人人ひともももなしなしなし。。。典典てん藥藥やくののの頭頭かみ定定さだ成成なりこそこそこそ、、、先先せん年年ねん御御ご療療りょう治治じののの爲爲ためににに召召めささされれれしかしかしかばばば、、、それそれそれぞぞぞ見見み知知しりりり參參まいらせらせらせたるたるたるにににこそこそこそとてとてとて召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、現現げん所所しょ勞勞ろうとてとてとて參參まいらららずずず。。。又又また六六ろく波波は羅羅らよりよりより、、、常常つねははは宮宮みやののの召召めささされれれ參參まいらせらせらせけるけるける女女にょう房房ぼうとてとてとて、、、尋尋たずねねね出出いだささされれれたりたりたり。。。御御おん子子こあまたあまたあまた產產うみみみ參參まいらせらせらせなどなどなどしてしてして、、、さしもさしもさしも御御おん契契ちぎりりり淺淺あさからからからざりざりざりしかしかしかばばば、、、なじかはなじかはなじかわ見見み損損そんじじじ奉奉たてまつるるるべきべきべき。。。唯唯ただ一一ひと目目め見見み參參まいらせらせらせててて、、、袖袖そでををを顏顏かおににに押押おし當當あてててててて涙涙なみだををを流流ながしししけるけるけるにににぞぞぞ、、、やがてやがてやがて宮宮みやののの御御おん頸頸くびとととははは知知しつつってててけるけるける。。。
- 2このこのこの宮宮みやははは腹腹はら々々ばらににに、、、御御おん子子こののの宮宮みや達達たちあまたあまたあまたおはしましおはしましおわしましけりけりけり。。。八八はち條條じょうののの女女にょ院院いんににに候候さぶらははわれれれけるけるける伊伊い豫豫よののの守守かみ盛盛もり教教のりががが女女むすめ、、、三三さん位位みののの局局つぼねととと申申もうしししけるけるける女女にょう房房ぼうののの腹腹はらににに、、、七七しち歳歳さいののの若若わか宮宮みや、、、五五ご歳歳さいののの姫姫ひめ宮宮みや、、、おはしましおはしましおわしましけりけりけり。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの弟弟おとうと池池いけののの中中ちゅう納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょうををを以以もっててて、、、八八はち條條じょうののの女女にょ院院いんへへへ申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「姫姫ひめ宮宮みやののの御御おん事事ことははは申申もうすすすににに及及およばばばずずず。。。若若わか宮宮みやをををばばばとうとうとう出出いだししし參參まいらさらさらさせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、女女にょ院院いんののの御御おん返返へん事事じににに、、、「「「斯斯かかるかるかる聞聞きこえええのののありありありししし曉曉あかつき、、、御御おん乳乳ちののの人人ひとなんどなんどなんどががが心心こころをさなうをさなうおさのう具具ぐしししたてまつりたてまつりたてまつりててて、、、失失うせせせにににけるけるけるにににややや、、、全全まったくくくこのこのこの御御ご所所しょにににははは渡渡わたらららせせせ給給たまははわずずず。。。」」」とととぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。
- 3賴賴より盛盛もりののの卿卿きょう歸歸かえりりり參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、「「「なんでふなんでふなんじょうそのそのその御御ご所所しょならならならでででははは、、、いづくいづくいずくへへへかかかわたらわたらわたらせせせ給給たまふふうべかんべかんべかんなるなるなるぞぞぞ。。。そのそのその儀儀ぎならならならばばば、、、武武ぶ士士しどもどもども參參まいつつってててさがしさがしさがし奉奉たてまつれれれ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。このこのこの中中ちゅう納納な言言ごんははは女女にょ院院いんののの御御おん乳乳めの母母と、、、宰宰さい相相しょう殿殿どのととと申申もうすすす女女にょう房房ぼうににに相相あい具具ぐしししててて、、、常常つねははは參參まいりりり通通かよははわれれれたれたれたればばば、、、日日ひ頃頃ごろはははなつかしうなつかしうなつかしゅうこそこそこそ思思おぼし召召めしししつるつるつるににに、、、このこのこの宮宮みやののの御御おん事事こと申申もうしししににに參參まいららられれれたれたれたればばば、、、いつしかいつしかいつしかうとましううとましううとましゅうぞぞぞ思思おぼしししめさめさめされれれけるけるける。。。若若わか宮宮みや、、、女女にょ院院いんににに申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「これこれこれ程程ほどののの御御おん大大だい事事じににに及及およびびび候候そうろう上上うえ、、、遂遂ついにににははは遁遁のがれれれ候候そうろうまじまじまじ。。。はや〳〵はや〳〵はやはや出出いださささせせせおはしませおはしませおわしませ。。。」」」ととと申申もうさささせせせ給給たまひひいけれけれければばば、、、女女にょ院院いん御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせ給給たまひひいててて、、、「「「人人ひとののの七七ななつつつ八八やつつつははは、、、未未いまだだだ何何なに事事ごとをををももも聞聞ききききわかわかわかぬぬぬ程程ほどぞぞぞかしかしかし。。。それそれそれににに御御おん身身み故故ゆえ、、、斯斯かかるかるかる大大だい事事じののの出出いででで來來きたるたるたるををを、、、かたはらいたくかたはらいたくかたわらいたく思思おぼしししててて、、、かやうかやうかようににに仰仰おおせせせらるゝらるゝらるることことことよよよ。。。よしなかりよしなかりよしなかりけるけるける人人ひとををを、、、このこのこの六六ろく七七しち年年ねん手手てならしならしならしててて、、、今日今日きょうははは斯斯かかるかるかる憂憂うききき目目めををを見見みるるるよよよ。。。」」」とてとてとて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。賴賴より盛盛もりののの卿卿きょう、、、若若わか宮宮みやののの御御おん事事ことかさねかさねかさねててて申申もうしししににに參參まいららられれれけれけれければばば、、、女女にょ院院いん力力ちから及及およばばばせせせ給給たまははわずずず、、、遂遂ついににに出出いだししし參參まいらせらせらせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 4御御おん母母はわ三三さん位位みののの局局つぼね、、、今今いまををを限限かぎりりりののの御御おん別別わかれれれなれなれなればばば、、、さこそさこそさこそははは御御おん名名な殘殘ごり惜惜おしうしうしゅうももも思思おぼしししめさめさめされれれけめけめけめ。。。さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御ぎょ衣衣い著著きせせせ參參まいらせらせらせ、、、御御おん髪髪ぐしかきかきかき撫撫なでででててて、、、出出いだししし參參まいらせらせらせたまふたまふたまうもももたゞたゞただ夢夢ゆめとととのみのみのみぞぞぞ思思おぼささされれれけるけるける。。。女女にょ院院いんををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて局局つぼねののの女女にょう房房ぼう、、、女女めののの童童わらわににに至至いたるるるまでまでまで、、、涙涙なみだををを流流ながししし袖袖そでををを濡濡ぬらさささぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。賴賴より盛盛もりののの卿卿きょう、、、若若わか宮宮みやををを受受うけ取取とりりりまゐらせまゐらせまいらせ、、、御御おん車車くるまににに乘乘のせせせ奉奉たてまつつつっててて六六ろく波波は羅羅らへへへ渡渡わたししし奉奉たてまつるるる。。。前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうこのこのこの宮宮みやををを見見み參參まいらせらせらせててて、、、父父ちちののの禪禪ぜん門門もんののの御御ご前前ぜんにににおはしおはしおわしててて、、、「「「前前ぜん世世せののの事事ことにににややや候候そうろうらんらんらん、、、若若わか宮宮みやををを唯唯ただ一一ひと目目め見見み參參まいらせらせらせててて候候そうらへへえばばば、、、餘餘あまりりりににに御御おん痛痛いたはしうはしうわしゅう思思おもひひい參參まいらせらせらせててて候候そうろう。。。何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき、、、このこのこの宮宮みやののの御御おん命命いのちをををばばば、、、枉枉まげげげててて宗宗むね盛盛もりにににたびたびたび候候そうらへへえかしかしかし。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、入入にゅう道道どういかゞいかゞいかが思思おもははわれれれけんけんけん、、、「「「さらばさらばさらばとうとうとう御御ご出出しゅっ家家けをををせせせさせさせさせ奉奉たてまつれれれ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう八八はち條條じょうののの女女にょ院院いんへへへ、、、このこのこの由由よし申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、女女にょ院院いん、、、「「「何何なにのののやうやうようもももあるあるあるべからべからべからずずず、、、たゞたゞただとう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とてとてとて、、、御御ご出出しゅっ家家けせせせさせさせさせ奉奉たてまつるるる。。。釋釋しゃく氏氏しににに定定さだまらまらまらせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、法法ほっ師師しににになしなしなし參參まいらせらせらせててて、、、仁仁にん和和な寺寺じののの御御お室室むろののの御御おん弟弟で子子しににになしなしなし參參まいらせらせらせ給給たまひひいけりけりけり。。。後後のちにににははは東東とう寺寺じののの一一いちののの長長ちょう者者じゃ安安やす井井いののの宮宮みやののの大大だい僧僧そう正正じょう道道どう尊尊そんととと申申もうししししししははは、、、このこのこの宮宮みやののの御御おん事事ことなりなりなり。。。
- 5奈奈な良良らにににもももまたまたまた御御ご一一いっ所所しょおはしおはしおわしけるけるけるををを、、、御御おん傅傅めのと讚讚さぬ岐岐きののの守守かみ重重しげ秀秀ひでががが御御ご出出しゅっ家家けせせせさせさせさせ奉奉たてまつりりり、、、具具ぐししし奉奉たてまつりりりててて北北ほっ國國こくへへへ落落おちちち下下くだりりりたりたりたりしししををを、、、木木き曾曾そ義義よし仲仲なかののの上上しょう洛洛らくののの時時とき、、、主主しゅうにににししし參參まいらせらせらせんんんとてとてとて、、、還還げん俗俗ぞくせせせさせさせさせ奉奉たてまつりりり、、、具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつりりりててて都都みやこへへへ上上のぼりりりたりたりたりけれけれければばば、、、木木き曾曾そががが宮宮みやともともとも申申もうししし、、、またまたまた還還げん俗俗ぞくののの宮宮みやともともとも申申もうすすす。。。後後のちにににははは嵯嵯さ峨峨がのののほとりほとりほとり、、、野野の依依よりにににまし〳〵まし〳〵ましましけれけれければばば野野の依依よりののの宮宮みやともともとも申申もうしししききき。。。
- 6昔昔むかし通通とう乘乘じょうととといひいひいいししし相相そう人人にんありありあり。。。宇宇う治治じ殿殿どの、、、二二に條條じょう殿殿どのをををばばば君君きみ三三さん代代だいののの關關かん白白ぱく、、、共共ともににに御御おん年年とし八八はち十十じゅうととと申申もうしししたりたりたりしししももも違違たがははわずずず。。。帥帥そつののの内内うちののの大大おと臣臣どををを流流る罪罪ざいののの相相そうましますましますまします、、、ととと申申もうしししたりたりたりしししももも違違たがははわずずず。。。またまたまた聖聖しょう德德とく太太たい子子しののの、、、崇崇す峻峻しゅん天天てん皇皇のうををを横横おう死死しののの相相そうましますましますましますととと申申もうさささせせせ給給たまひひいたりたりたりしししががが、、、馬馬うま子子こののの大大おと臣臣どににに殺殺ころささされれれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ。。。必必かならずずず相相そう人人にんとととしもしもしもあらあらあらねねねどもどもども、、、上上じょう古古こにににはははかくかくかくこそこそこそめでたかりめでたかりめでたかりしかしかしか。。。これこれこれははは一一いっ向向こう相相そう少少しょう納納な言言ごんががが不不ふ覺覺かくにににはははあらあらあらずずずやややとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 7中中なか頃頃ごろ兼兼けん明明めい親親しん王王のう、、、具具ぐ平平へい親親しん王王のうととと申申もうししししししははは、、、前前さきののの中中ちゅう書書しょ王王おう、、、後後のちののの中中ちゅう書書しょ王王おうとてとてとて、、、共共ともににに賢賢けん王王おう聖聖せい主主しゅののの皇皇おう子子じにににててて渡渡わたらららせせせ給給たまひひいしかしかしかどもどもども、、、遂遂ついににに位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまははわずずず。。。されどされどされどいついついつかかかははは御御ご謀謀む叛叛ほん起起おこさささせせせ給給たまひひいたりたりたりききき。。。またまたまた後後ご三三さん條條じょうののの院院いんののの第第だい三三さんののの皇皇おう子子じ輔輔すけ仁仁ひとののの親親しん王王のうととと申申もうししししししははは、、、御御ご才才さい學學がく優優すぐれれれててて坐坐おわしましししけれけれければばば、、、白白しら河河かわののの院院いん未未いまだだだ春春とう宮宮ぐうののの御御おん時時とき、、、御御おん位位くらいののの後後のちはははこのこのこの宮宮みやををを位位くらいににに即即つけけけ參參まいらさらさらさせせせ給給たまへへえととと、、、後後ご三三さん條條じょうののの院院いん御御ご遺遺ゆい詔詔じょうありありありしかしかしかどもどもども、、、白白しら河河かわののの院院いんいかゞいかゞいかがおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれけんけんけん、、、遂遂ついににに位位くらいにににははは即即つけけけ參參まいらせらせらせ給給たまははわずずず。。。せめてせめてせめてののの御御おん事事ことにににややや、、、輔輔すけ仁仁ひとののの親親しん王王のうののの御御おん子子こののの宮宮みやににに源源げん氏氏じののの姓姓しょうををを授授さずけけけ參參まいらさらさらさせせせ給給たまひひいててて、、、無無む位位いよりよりより一一いち度度どににに三三さん位位みににに敍敍じょしししててて、、、やがてやがてやがて中中ちゅう將將じょうににになしなしなし參參まいらせらせらせててて、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。一一いっ世世せののの源源げん氏氏じ、、、無無む位位いよりよりより三三さん位位みするするすることことことははは、、、嵯嵯さ峨峨がののの皇皇かう帝帝ていののの御御おん子子こ陽陽よう成成ぜい院院いんののの大大だい納納な言言ごん定定さだ宗宗むねののの卿卿きょうののの外外ほかははは、、、これこれこれ始始はじめめめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。花花はな園園ぞのののの左左さ大大だい臣臣じん有有あり仁仁ひと公公こうののの御御おん事事ことなりなりなり。。。
- 8さればさればされば今今こん度度どののの高高たか倉倉くらののの宮宮みやののの御御ご謀謀む叛叛ほんににに依依よつつっててて、、、調調ちょう伏伏ぶくののの法法ほう承承うけたまわつつっててて行行おこなははわれれれけるけるける高高こう僧僧そうたちたちたちににに、、、勸勸けん賞賞じょうどもどもども行行おこなははわるるる。。。前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうののの子子し息息そく侍侍じ從從じゅう淸淸きよ宗宗むね、、、三三さん位位みににに敍敍じょしししててて、、、三三さん位位みののの侍侍じ從從じゅうとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。今今こ年年とし十十じゅう二二に歳歳さい、、、父父ちちののの卿卿きょうはははこのこのこの齡齡よわいでででははは、、、わづかわづかわずか兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけまでまでまでこそこそこそ至至いたららられれれしかしかしか。。。忽忽たちまちちちににに上上かん達達だち部部めににに上上のぼりりり給給たまふふう事事こと、、、一一いちののの人人ひとののの公公きん達達だちののの外外ほかははは、、、これこれこれ始始はじめめめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。さるさるさる程程ほどににに源源みなもとののの以以もち仁仁ひと、、、竝竝ならびににに三三さん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさ父父ふ子子し追追つい討討とうののの賞賞しょうとととぞぞぞ、、、聞聞きき書書がきにににはははありありありけるけるける。。。まさしいまさしいまさしい太太だい上上じょう法法ほう皇皇おうののの皇皇おう子子じををを射射い奉奉たてまつるるるだにだにだにあるあるあるににに、、、あまつさへあまつさへあまつさえ凡凡ぼん人人にんににになしなしなし奉奉たてまつるるるぞぞぞ淺淺あさましきましきましき。。。源源みなもとののの以以もち仁仁ひととととはははこのこのこの高高たか倉倉くらののの宮宮みやののの御御おん事事ことなりなりなり。。。
現代語訳
平家の人々は、宮をはじめ三位入道の一族・渡辺党・三井寺の大衆、合わせて五百余人の首を切って、太刀や長刀の先に貫いて高く差し上げ、夕方になって六波羅へ帰り、兵たちが勇んで騒ぎ立てることはおびただしかった。中でも三位入道の首は、長七唱が宇治川の深い所に沈めたので見つからなかった。子どもたちの首は、あちこちからみな探し出された。中でも宮の御首は、ふだんお側に参り通う人もいなかったので、見知り申している人がいない。典薬頭定成こそ、先年ご療治のために召されたので見知り申しているだろうと召されたが、病気だといって参らなかった。また六波羅から、宮がいつも召しておられた女房を探し出した。御子を何人も生み申すなどして、あれほど深いご縁であったので、どうして見誤り申そうか。ただ一目拝見して、袖を顔に押し当てて涙を流したので、それで宮の御首だとわかった。
この宮には、さまざまな母君のもとに御子の宮たちが大勢いらっしゃった。八条女院にお仕えしていた伊予守盛教の娘で、三位局と申した女房の腹に、七歳の若宮と五歳の姫宮がいらっしゃった。入道相国が弟の池の中納言頼盛卿を使いとして八条女院に申されるには、「姫宮のことは申すまでもありません。若宮を早くお出しください」と申されたので、女院のお返事には、「このようなうわさがあった明け方、乳母などが浅はかにもお連れ申して姿を消してしまったのでしょうか、まったくこの御所にはおいでになりません」とおっしゃった。
頼盛卿が帰参してこのことを申し上げると、清盛は「何を言う、その御所以外のどこにおいでになるというのか。それなら武士どもが参って探し申せ」とおっしゃった。この中納言は女院の乳母の宰相殿という女房を妻にしていて、いつも参り通っておられたので、女院も日ごろは親しくお思いになっていたが、この宮のことを申しに来られたので、たちまちうとましくお思いになった。若宮が女院に申し上げられるには、「これほどの大事に及んだうえは、ついには逃れられないでしょう。早く早く私をお出しください」と申されたので、女院は涙を流されて、「人の七つ八つといえば、まだ何事もわきまえない年ごろなのに、自分のためにこのような大事が起こったのを心苦しく思って、このようにおっしゃるとは。つまらない人を、この六、七年手もとで育てて、今日このようなつらい目を見ることよ」といって、涙を抑えきれずにおられた。頼盛卿が若宮のことを重ねて申しに参られたので、女院はどうしようもなく、ついに若宮をお出しになった。
母君の三位局は、これが最後のお別れなので、さぞ名残惜しくお思いになったことであろう。そうしてばかりもいられないので、泣く泣く御衣を着せ申し、御髪をかき撫でてお出しになるのも、ただ夢のようにお思いになった。女院をはじめ、局の女房や女の童に至るまで、涙を流して袖を濡らさない者はなかった。頼盛卿は若宮をお受け取り申して、御車にお乗せして六波羅へお連れした。前右大将宗盛卿はこの宮を拝見して、父の禅門の御前においでになって、「前世からの因縁でしょうか、若宮をただ一目拝見しましたら、あまりにおいたわしく思われます。何の差し支えがありましょう、この宮のお命を、どうか宗盛にお与えください」と申されたので、入道はどう思われたのか、「それなら早く出家させ申せ」とおっしゃった。宗盛卿が八条女院にこのことを申し上げると、女院は「何の異存もありません。ただ早く早く」といって出家させ申した。僧籍に入られたので、法師にして仁和寺の御室の御弟子とされた。後に東寺の一の長者、安井の宮の大僧正道尊と申したのは、この宮のことである。
奈良にもまたお一方おられたのを、守り役の讃岐守重秀が出家させ申して北国へお連れして下ったが、木曾義仲が上洛したとき、主君にしようとして還俗させ申し、お連れして都へ上ったので、木曾の宮とも、還俗の宮とも申した。後には嵯峨のあたりの野依においでになったので、野依の宮とも申した。
昔、通乗という人相見がいた。宇治殿(頼通)と二条殿(教通)を、三代の帝の関白となり、ともに八十歳まで生きると言ったのも違わなかった。帥の内大臣(伊周)を流罪の相があると言ったのも違わなかった。また聖徳太子が崇峻天皇を横死の相があると申されたが、天皇は馬子の大臣に殺されてしまわれた。必ずしも人相見を専門としない者でも、上古にはこのように見事であった。今度のことは、ひとえに相少納言(惟長)の不覚ではないかと人々は申した。
中ごろ、兼明親王・具平親王と申した方々は、前中書王・後中書王といって、ともに賢王聖主の皇子でいらっしゃったが、ついに位にはおつきにならなかった。けれども謀叛を起こされたことがあっただろうか。また後三条院の第三皇子輔仁親王と申した方は、学才が優れておいでになったので、白河院がまだ東宮であられたとき、即位の後はこの宮を位におつけせよと、後三条院のご遺言があったが、白河院はどうお思いになったのか、ついに位にはおつけにならなかった。せめてもの償いであろうか、輔仁親王の御子の宮に源氏の姓を授けて、無位から一度に三位に叙し、すぐに中将になさって、三位中将と申した。一世の源氏が無位から三位になったのは、嵯峨天皇の御子で陽成院の大納言定宗卿のほかは、これが初めてと聞く。花園左大臣有仁公のことである。
さて今度の高倉宮の謀叛によって、調伏の法を承って行った高僧たちに恩賞が与えられた。前右大将宗盛卿の子息の侍従清宗は三位に叙され、三位侍従と申した。今年十二歳で、父の卿はこの年ごろには、わずかに兵衛佐にまでしか至らなかった。たちまち上達部に昇られることは、摂関家の公達のほかには、これが初めてと聞く。こうして「源以仁ならびに三位入道頼政父子追討の賞」と、除目の聞書にはあった。まさしく太上法皇の皇子を射申しただけでもひどいのに、そのうえ臣下の身に落とし申したのは情けないことである。源以仁とは、この高倉宮のことである。
意訳
以仁王の死後の処置を描く章段である。宮の首は、かつて寵愛を受けた女房によって確かめられる。七歳の若宮は八条女院のもとにかくまわれていたが、自ら「はや〳〵出させおはしませ」と申し出る健気さに、女院も涙を抑えられない。宗盛のとりなしで若宮は命を助けられ、出家して仁和寺に入った。
後半では、人相見の誤りや、才能がありながら位につけなかった皇子たちの例が語られ、最後に以仁王が「源以仁」として臣下の身に落とされたことが記される。皇子を射殺しただけでなく、皇族の身分まで奪った平家の非道を、物語は「淺ましき」と強く批判している。
語釈・文法注
文法
- 「現所勞」
- 現在病気であること。
- 「釋氏に定まらせ給ひしかば」
- 僧籍に入ることが決まったので。
- 「御傅」
- 「めのと」。守り役、養育係。
- 「中書王」
- 中務卿の親王の唐名。兼明親王を前中書王、具平親王を後中書王という。
- 「聞書」
- 除目(官職の任命)の結果を書き記した文書。
解説
以仁王の若宮は出家して道尊と名のり、のちに東寺長者となった。奈良にいたもう一人の皇子は北陸に逃れ、木曾義仲に擁立されて「北陸宮」と呼ばれた。以仁王は討たれた後、「源以光」の名で臣籍に降されたと記録にあるが、物語は「源以仁」としている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、454–458頁(コマ256–258)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日