平家物語 巻第四
宮の御最後の事
宇治川を渡った足利忠綱は名のりをあげて平等院に攻め入り、平家の大軍が続いた。頼政は膝を射られ、次男兼綱・嫡子仲綱らが討たれたのち、辞世の歌を詠んで平等院で自害した。南都へ逃れた以仁王は、光明山の鳥居の前で追いつかれ、流れ矢に当たって討たれた。南都の大衆は迎えに出ていたが、あと五十町のところで間に合わなかった。
- 1足足あし利利かががががそのそのその日日ひののの裝裝しょう束束ぞくにににははは、、、朽朽くち葉葉ばののの綾綾あやののの直直ひた垂垂たれににに、、、赤赤あか革革かわ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、高高たか角角づのうつうつうったるたるたる兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、金金こがねづくりづくりづくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ持持もつつっててて、、、連連れん錢錢せん葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬うまににに、、、柏柏かし木木はぎにににみゝづくみゝづくみみずく打打うつつったるたるたる金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くら置置おいいいてててぞぞぞ乘乘のつつったりたりたりけるけるける。。。鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たちちちあがりあがりあがり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「昔昔むかし朝朝ちょう敵敵てき將將まさ門門かどををを亡亡ほろぼしぼしぼしててて、、、勸勸けん賞賞じょう蒙蒙こうぶつつっててて名名なををを後後こう代代たいににに揚揚あげげげたりたりたりししし、、、俵俵たわら藤藤とう太太た秀秀ひで鄕鄕さとににに十十じゅう代代だいののの後後こう胤胤いん、、、下下しも野野つけののの國國くにののの住住じゅう人人にん足足あし利利かがののの太太た郎郎ろう俊俊とし綱綱つなががが子子こ又又また太太た郎郎ろう忠忠ただ綱綱つな、、、生生しょう年年ねん十十じゅう七七しち歳歳さいにににまかりまかりまかりなるなるなる。。。かやうかやうかようににに無無む官官かん無無む位位いなるなるなる者者ものののの宮宮みやににに向向むかひひい參參まいらせらせらせててて弓弓ゆみををを引引ひききき、、、矢矢やををを放放はなつつつ事事ことははは、、、天天てんののの恐恐おそれれれ少少すくなからからからずずず候候そうらへへえどもどもども、、、但但ただししし弓弓ゆみももも矢矢やももも、、、冥冥みょう加加がのののほどほどほどももも、、、平平へい家家けののの御御おん上上うえにににこそこそこそ止止とどまりまりまり候候そうらははわめめめ。。。三三さん位位み入入にゅう道道どう殿殿どのののの御御み方方かたにににわれわれわれととと思思おもははわんんん人人ひと々々びとははは、、、寄寄よりりりあへあへあえややや、、、見見げん參參ざんせせせんんん。。。」」」とてとてとて、、、平平びょう等等どう院院いんののの門門もんののの内内うちへへへ、、、攻攻せめめめ入入いり〳〵り〳〵りせめいり戰戰たたかひひいけりけりけり。。。
- 2大大たい將將しょう軍軍ぐん左左さ兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ知知とも盛盛もりこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、「「「渡渡わたせせせややや渡渡わたせせせ。。。」」」ととと下下げ知知じししし給給たまへへえばばば、、、二二に萬萬まん八八はっ千千せん餘餘よ騎騎きみなみなみなうちうちうち入入いれれれててて渡渡わたすすす。。。さばかりさばかりさばかり早早はやききき宇宇う治治じ川川がわももも、、、馬馬うまややや人人ひとにににせかせかせかれれれててて、、、水水みずははは上上かみにににぞぞぞたゝへたゝへたたえたるたるたる。。。雜雜ぞう人人にんばらばらばらははは馬馬うまののの下下した手手てににに取取とりりりつき〳〵つき〳〵つきとりつき渡渡わたるるる程程ほどににに、、、膝膝ひざよりよりより上上うえをををぬらさぬらさぬらさぬぬぬ者者ものももも多多おおかりかりかりけりけりけり。。。おのづからおのづからおのずからはづるゝはづるゝはずるる水水みずにににははは、、、何何なにもももたまらたまらたまらずずず流流ながれれれたりたりたり。。。
- 3こゝこゝここににに伊伊い賀賀が、、、伊伊い勢勢せ兩兩りょう國國ごくののの官官かん兵兵びょう等等ら、、、馬馬うま筏筏いかだおしおしおし破破やぶららられれれててて、、、六六ろっ百百ぴゃく餘餘よ騎騎きこそこそこそ流流ながれれれたれたれたれ。。。萌萌もえ黄黄ぎ、、、緋緋ひ縅縅おどし、、、赤赤あか縅縅おどし、、、いろ〳〵いろ〳〵いろいろののの鎧鎧よろいののの、、、浮浮うきききぬぬぬ沉沉しずみみみぬぬぬゆらゆらゆられれれけるけるけるははは、、、神神かん無無な備備び山山やまののの紅紅もみ葉葉じののの峯峯みねののの嵐嵐あらしにににさそはさそはさそわれれれててて、、、龍龍たつ田田たののの川川かはののの秋秋あきのののくれくれくれ、、、井井い關關ぜきにににかゝりかゝりかかりててて、、、流流ながれれれもももあへあへあえぬぬぬににに異異ことならならならずずず。。。そのそのその中中なかににに緋緋ひ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きたるたるたる武武む者者しゃ三三さん人人にん、、、網網あ代代じろににに流流ながれれれかゝりかゝりかかりててて、、、浮浮うきききぬぬぬ沉沉しずみみみぬぬぬゆらゆらゆられれれけるけるけるををを、、、伊伊い豆豆ずののの守守かみ見見み給給たまひひいててて、、、かくかくかくぞぞぞ詠詠えいじじじ給給たまひひいけるけるける。。。
- 4伊伊い勢勢せ武武む者者しゃはははみなみなみな緋緋ひ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて宇宇う治治じののの網網あ代代じろにににかゝりかゝりかかりぬるぬるぬるかなかなかな
- 5これらこれらこれらはははみなみなみな伊伊い勢勢せののの國國くにののの住住じゅう人人にんなりなりなり。。。黑黑くろ田田だののの後後ご平平へい四四し郎郎ろう、、、日日ひ野野のののの十十じゅう郎郎ろう、、、乙乙おと部部べののの彌彌や七七しちととといふいふいう者者ものなりなりなり。。。中中なかにににももも日日ひ野野のののの十十じゅう郎郎ろうははは古古ふる兵兵つわものにににてててありありありけれけれければばば、、、弓弓ゆみののの弭弭はず、、、岩岩いわののの閒閒はざまにににねぢねぢねじ立立たててててててかきかきかき上上あがりりり、、、二二ふた人人りののの者者ものどもどもどもををを引引ひき上上あげげげててて、、、助助たすけけけけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 6大大おお勢勢ぜいみなみなみな渡渡わたつつっててて、、、平平びょう等等どう院院いんののの門門もんののの内内うちへへへ、、、攻攻せめめめ入入いり〳〵り〳〵りせめいり戰戰たたかひひいけりけりけり。。。このこのこのまぎれまぎれまぎれににに宮宮みやをををばばば南南なん都都とへへへ先先さき立立だたたたせせせ參參まいらせらせらせ、、、三三さん位位み入入にゅう道道どうののの一一いち類類るい、、、渡渡わた邊邊なべ黨黨とう、、、三三み井井い寺寺でらののの大大だい衆衆しゅ、、、殘殘のこりりり止止とどまつまつまっててて防防ふせぎ矢矢や射射いけりけりけり。。。源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どうははは七七しち十十じゅうにににあまつあまつあまっててて軍軍いくさしてしてして、、、弓弓ゆん手手でののの膝膝ひざ口口ぐちををを射射いさせさせさせ、、、痛痛いた手手でなれなれなればばば、、、心心こころ靜靜しずかかかににに自自じ害害がいせせせんんんとてとてとて、、、平平びょう等等どう院院いんののの門門もんののの内内うちへへへ引引ひき退退しりぞくくく所所ところににに、、、敵敵かたき襲襲おそひひいかゝれかゝれかかればばば、、、次次じ男男なん源源げん大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん兼兼かね綱綱つなははは、、、紺紺こん地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに唐唐から綾綾あや縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、白白しろ月月つき毛毛げなるなるなる馬馬うまににに金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらおいおいおいててて乘乘のりりりたまひたまひたまいたりたりたりけるけるけるががが、、、父父ちちををを延延のばさささんんんががが爲爲ためににに、、、返返かえしししあはせ〳〵あはせ〳〵あわせかえしあわせ防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふう。。。
- 7上總上總かずさののの太太た郎郎ろう判判ほう官官がんががが射射いけるけるける矢矢やににに、、、源源げん大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん内内うち兜兜かぶとををを射射いさせさせさせてててひるむひるむひるむ所所ところににに、、、上總上總かずさののの守守かみががが童童わらわ次次じ郎郎ろう丸丸まるととといふいふいう大大だい力力じからののの剛剛こうののの者者もの、、、萌萌もよ黄黄ぎ匂匂においののの鎧鎧よろい著著き、、、三三さん枚枚まい兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、打打うち物物ものののの鞘鞘さやをををはづいはづいはずいててて、、、源源げん大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がんにににおしおしおし竝竝ならべべべててて、、、むずむずむずととと組組くんんんでででどうどうどうととと落落おつつつ。。。源源げん大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がんははは大大だい力力じからにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、治治じ郎郎ろう丸丸まるををを取取とつつっててておさへおさへおさえててて首首くびをををかきかきかき、、、立立たち上上あがらららんんんとととするするする所所ところににに、、、平平へい家家けののの兵兵つわものどもどもども十十じゅう四四し五五ご騎騎き落落おちちち重重かさなつつっててて、、、遂遂ついににに兼兼かね綱綱つなををを討討うつつってててけりけりけり。。。
- 8伊伊い豆豆ずののの守守かみ仲仲なか綱綱つなもももさん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、痛痛いた手手であまたあまたあまた負負おうううててて、、、平平びょう等等どう院院いんののの釣釣つり殿殿どのにににててて自自じ害害がいしてしてしてけりけりけり。。。そのそのその頸頸くびをををばばば下下しも河河こう邊邊べののの藤藤とう三三ざぶ郎郎ろう淸淸きよ親親ちか取取とつつっててて、、、大大おお床床ゆかののの下下したへへへぞぞぞ投投なげげげ入入いれれれたるたるたる。。。六六ろく條條じょうののの藏藏くら人人うど仲仲なか家家いえ、、、そのそのその子子こ藏藏くら人人うど太太た郎郎ろう仲仲なか光光みつもももさん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、一一いっ所所しょにににててて討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。このこのこの仲仲なか家家いえととと申申もうすすすははは、、、故故こ帶帶たて刀刀はきののの先先せん生生じょう義義よし賢賢かたががが嫡嫡ちゃく子子しなりなりなり。。。しかるしかるしかるををを父父ちち討討うたたたれれれててて後後のち、、、孤孤みなしごにににてててありありありしししををを、、、三三さん位位み入入にゅう道道どう養養よう子子しにににしてしてして、、、不不ふ便便びんにににししし給給たまひひいしかしかしかばばば、、、日日ひ頃頃ごろののの契契けい約約やくををを違違たがへへえじじじとととややや、、、一一いっ所所しょででで死死しにににけるけるけるこそこそこそ無無む慙慙ざんなれなれなれ。。。
- 9三三さん位位み入入にゅう道道どう、、、渡渡わた邊邊なべ長長ちょう七七しち唱唱となうををを召召めしししててて、、、「「「わがわがわが頸頸くび打打うててて。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、主主しゅうののの生生いき頸頸くび打打うたたたんんんずるずるずる事事ことののの悲悲かなしさしさしさににに、、、「「「仕仕つかまつるるるともともとも存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。御御ご自自じ害害がい候候そうらははわばばば、、、そのそのその後後のちこそこそこそ賜賜たまはりはりわり候候そうらははわめめめ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、げにげにげにもももとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、西西にしににに向向むかひひい手手てををを合合あははわせせせ、、、高高こう聲聲じょうににに十十じゅう念念ねん唱唱となへへえ給給たまひひいててて、、、最最さい後後ごのののことばことばことばあはれあはれあわれなるなるなる。。。
- 10埋埋うもれ木木ぎののの花花はな咲咲さくくくことことこともももなかりなかりなかりしししにににみのみのみのなるなるなるはてはてはてぞぞぞ悲悲かなしかりしかりしかりけるけるける
- 11これこれこれををを最最さい後後ごのののことばことばことばにににててて、、、太太た刀刀ちののの先先さきををを腹腹はらににに突突つききき立立たててて、、、うつぶしうつぶしうつぶしざまざまざまににに貫貫つらぬかつかつかってててぞぞぞ失失うせせせられられられけるけるける。。。そのそのその時時ときににに歌歌うた詠詠よむむむべうべうびょうはははなかりなかりなかりしかしかしかどもどもども、、、若若わこうううよりよりよりあながちあながちあながちにににすいすいすいたるたるたる道道みちなれなれなればばば、、、最最さい後後ごののの時時ときももも忘忘わすれれれ給給たまははわずずず。。。そのそのその頸頸くびをををばばば長長ちょう七七しち唱唱となうががが取取とつつっててて、、、石石いしにににくゝりくゝりくくりあはせあはせあわせ、、、宇宇う治治じ川川がわののの深深ふかききき所所ところににに沉沉しずめめめてててけりけりけり。。。
- 12平平へい家家けののの侍侍さぶらいどもどもども、、、いかにいかにいかにもももしてしてして競競きおう瀧瀧たき口口ぐちをををばばば生生いけ捕捕どりにににせせせばやばやばやととと窺窺うかがひひいけれけれけれどもどもども、、、競競きおうもももさきさきさきににに心心こころ得得えてててさん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、痛痛いた手手であまたあまたあまた負負おひひい、、、腹腹はらかきかきかき切切きつつっててて死死しににににににけるけるける。。。圓圓えん滿滿まん院院いんののの大大たい輔輔ふ源源げん覺覺かくははは、、、今今いまははは宮宮みやももも遙遙はるかかかににに延延のびびびさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬらんらんらんとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、大大おお太太だ刀刀ち、、、大大おお長長なぎ刀刀なた、、、左左そ右右うににに持持もつつっててて敵敵かたきののの中中なかをををわつわつわっててて出出いででで、、、宇宇う治治じ川川がわへへへ飛飛とんんんででで入入いりりり、、、物物もの具具のぐ一一ひとつつつももも捨捨すてててずずず、、、水水みずののの底底そこををを潛潛くぐつつっててて、、、向向むかひひいののの岸岸きしにににぞぞぞ著著つきききにににけるけるける。。。高高たかききき所所ところににに走走はしりりり上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「いかにいかにいかに平平へい家家けののの君君きん達達だち、、、これこれこれまでまでまでははは御御おん大大だい事事じかかかようようよう。。。」」」ととといひいひいい捨捨すてててててて、、、三三み井井い寺寺でらへへへこそこそこそ歸歸かえりりりけれけれけれ。。。
- 13飛飛ひ驒驒だののの守守かみ景景かげ家家いえははは古古ふる兵兵つわものにににてててありありありけれけれければばば、、、このこのこのまぎれまぎれまぎれににに宮宮みやははは定定さだめめめててて、、、南南なん都都とへへへややや落落おちちちさせさせさせ給給たまふふうらんらんらんとてとてとて、、、ひたひたひたかぶとかぶとかぶと四四し五五ご百百ひゃく騎騎き、、、鞭鞭むち鐙鐙あぶみををを合合あはせはせわせててて追追おつつっかけかけかけ奉奉たてまつるるる。。。案案あんののの如如ごとくくく宮宮みやははは三三さん十十じっ騎騎き許許ばかりりりででで落落おちちちさせさせさせ給給たまふふう所所ところををを、、、光光こう明明みょう山山せんののの鳥鳥とり居居いののの前前まえにににててて追追おひひいつきつきつき奉奉たてまつりりり、、、雨雨あめののの降降ふるるる樣樣ようににに射射い奉奉たてまつりりりけれけれければばば、、、いづれいづれいずれががが矢矢やとととははは知知しらららねねねどもどもども、、、矢矢や一一ひとつつつ來來きたつつっててて、、、宮宮みやののの左左ひだりののの御御おん側側わき腹腹ばらににに立立たちちちけれけれければばば、、、御御おん馬馬うまよりよりより落落おちちちさせさせさせ給給たまひひいててて、、、御御おん頸頸くび取取とららられれれさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。御御おん伴伴とも申申もうしししたるたるたる鬼鬼おに佐佐さ渡渡ど、、、荒荒あら土土と佐佐さ、、、荒荒こう大大たい夫夫ふ、、、刑刑ぎょう部部ぶ俊俊しゅん秀秀しゅうももも、、、命命いのちをををばばばいついついつののの爲爲ためにににかかか惜惜おしむしむしむべきべきべきとてとてとて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、一一いっ所所しょででで討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。
- 14そのそのその中中なかににに乳乳めの母母と子子ごののの六六ろく條條じょうののの亮亮すけののの大大たい夫夫ふ宗宗むね信信のぶははは、、、新新にい野野のががが池池いけへへへ飛飛とんんんででで入入いりりり、、、浮浮うき草草くさ顏顏かおににに取取とりりり蔽蔽おおひひい慄慄ふるへへえゐゐいたれたれたればばば、、、敵敵かたきははは前前まえをををぞぞぞうちうちうち通通とおりりりぬぬぬ。。。やゝやゝややあつあつあっててて敵敵かたき四四し五五ご百百ひゃく騎騎き、、、さゞめいさゞめいさざめいててて歸歸かえりりりけるけるける中中なかににに、、、淨淨じょう衣衣え著著きたるたるたる死死し人人にんののの頸頸くびもももなきなきなきををを、、、蔀蔀しとみのののもともともとよりよりよりかきかきかき出出いだいいいたるたるたるををを見見みれれればばば、、、宮宮みやにににてててぞぞぞおはしましおはしましおわしましけるけるける。。。「「「われわれわれ死死しなななばばば御御おん棺棺かんににに入入いれれれよよよ。。。」」」ととと仰仰おおせせせられられられししし小小さ枝枝えだととと聞聞きこえええししし御御おん笛笛ふえをををももも、、、未未いまだだだ御御おん腰腰こしにににぞぞぞささささささせせせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。走走はしりりり出出いでででててて、、、取取とりりりつきつきつき奉奉たてまつらららばやばやばやとととははは思思おもへへえどもどもども、、、恐恐おそろしけれろしけれろしければばばそれそれそれもももかなはかなはかなわずずず。。。敵敵かたきみなみなみな通通とおつつっててて後後のち、、、池池いけよりよりより上上あがりりり、、、ぬれぬれぬれたるたるたる物物ものどもどもどもしぼりしぼりしぼり著著きててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく都都みやこへへへ上上のぼりりりたりたりたりけるけるけるををを、、、憎憎にくまままぬぬぬ者者ものこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれ。。。
- 15さるさるさる程程ほどににに南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅ七七しち千千せん餘餘よ人人にん、、、兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、宮宮みやののの御御おん迎迎むかへへえににに參參まいりりりけるけるけるががが、、、先先せん陣陣じんははは木木こ津津つににに進進すすみみみ、、、後後ご陣陣じんははは未未いまだだだ興興こう福福ぶく寺寺じののの南南なん大大だい門門もんにににぞぞぞゆらへゆらへゆらえたるたるたる。。。宮宮みやははははやはやはや光光こう明明みょう山山せんののの鳥鳥とり居居いののの前前まえにににててて、、、討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、大大だい衆衆しゅ力力ちから及及およばばばずずず、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。今今いま五五ご十十じっ町町ちょうばかりばかりばかり待待まちちちつけつけつけさせさせさせ給給たまははわででで、、、討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひいけるけるける、、、宮宮みやののの御御ご運運うんのののほどほどほどこそこそこそうたてけれうたてけれうたてけれ。。。
現代語訳
足利のその日の装束は、朽葉色の綾の直垂に赤革縅の鎧を着て、高角を打った兜の緒を締め、黄金づくりの太刀を帯び、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓を持って、連銭葦毛の馬に、柏木にみみずくの模様を打った金覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて、「昔、朝敵将門を滅ぼして恩賞を受け、名を後の世に揚げた俵藤太秀郷から十代の子孫、下野国の住人足利太郎俊綱の子、又太郎忠綱、生年十七歳になる。このように官位もない者が宮に向かい申して弓を引き矢を放つことは、天の恐れも少なくないが、弓矢の冥加も平家の御身の上にこそとどまるであろう。三位入道殿の味方で我こそはと思う人々は、寄って来い、見参しよう」といって、平等院の門の内へ攻め入り攻め入り戦った。
大将軍左兵衛督知盛はこれをご覧になって、「渡せ、渡せ」と命じられたので、二万八千余騎がみな乗り入れて渡った。あれほど流れの速い宇治川も、馬や人にせき止められて、水は上流にたまった。雑兵たちは馬の下流側に取りつき取りつき渡ったので、膝から上を濡らさない者も多かった。たまたま外れて流れる水には、何も耐えられずに流された。
ここに伊賀・伊勢両国の官兵たちは、馬筏を押し破られて六百余騎が流された。萌黄・緋縅・赤縅など、色とりどりの鎧が浮いたり沈んだりして揺られるさまは、神奈備山の紅葉が峰の嵐に誘われて、竜田川の秋の暮れに井堰にかかって流れきれずにいるのと変わらない。その中に緋縅の鎧を着た武者三人が網代に流れかかって、浮いたり沈んだりして揺られていたのを、伊豆守がご覧になって、このように詠まれた。
伊勢武者はみな緋縅の鎧を着て、宇治の網代にかかってしまったことよ。
これらはみな伊勢国の住人である。黒田後平四郎・日野十郎・乙部弥七という者である。中でも日野十郎は老練な武者であったので、弓の弭を岩の間にねじ立ててよじ登り、二人の者を引き上げて助けたと聞こえた。
大軍がみな渡って、平等院の門の内へ攻め入り攻め入り戦った。この混乱に紛れて宮を南都へ先に逃がし申し、三位入道の一族、渡辺党、三井寺の大衆は残りとどまって防ぎ矢を射た。源三位入道は七十を過ぎて戦って、左の膝口を射られ、深手だったので、心静かに自害しようと平等院の門の内へ引き下がるところに、敵が襲いかかったので、次男の源大夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に唐綾縅の鎧を着て、白月毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っておられたが、父を逃がすために、引き返しては戦い引き返しては戦って防いだ。
上総太郎判官の射た矢に、源大夫判官は兜の内側を射られてひるんだところに、上総守の童で次郎丸という大力の剛の者が、萌黄匂の鎧を着て三枚兜の緒を締め、刀の鞘を払って、源大夫判官に馬を押し並べて、むずと組んでどうと落ちた。源大夫判官は大力でいらっしゃったので、次郎丸を取り押さえて首をかき、立ち上がろうとするところに、平家の兵ども十四、五騎が落ち重なって、ついに兼綱を討ち取った。
伊豆守仲綱もさんざんに戦い、深手を多く負って、平等院の釣殿で自害した。その首は下河辺藤三郎清親が取って、縁の下へ投げ入れた。六条蔵人仲家とその子の蔵人太郎仲光もさんざんに戦い、同じ所で討ち死にした。この仲家というのは、故帯刀先生義賢の嫡子である。父が討たれた後、孤児となっていたのを三位入道が養子にしてかわいがっておられたので、日ごろの約束を違えまいと思ったのであろうか、同じ所で死んだのは哀れである。
三位入道は渡辺長七唱を呼んで、「わしの首を打て」とおっしゃると、主人の生首を打つことの悲しさに、「とてもできるとは思えません。ご自害なさいましたら、その後でいただきましょう」と申したので、もっともだと思われたのであろうか、西に向かって手を合わせ、声高に十念を唱えて、最期の言葉は哀れであった。
埋もれ木のように、花の咲くこと(世に出て栄えること)もなかったのに、実がなる(身がなる)最期がこのようであるのは悲しいことだ。
これを最期の言葉として、太刀の先を腹に突き立て、うつ伏せに倒れて刺し貫かれてお亡くなりになった。そのときに歌を詠めるような状況ではなかったが、若いころから深く好んだ道なので、最期のときも忘れられなかったのである。その首は長七唱が取って石にくくりつけ、宇治川の深い所に沈めた。
平家の侍たちは、何とかして競の滝口を生け捕りにしようとうかがったが、競もそれを察してさんざんに戦い、深手を多く負って、腹を切って死んだ。円満院の大輔源覚は、今は宮もはるかに逃げのびなさったであろうと思ったのか、大太刀と大長刀を左右に持って敵の中を割って出て、宇治川へ飛び込み、武具一つも捨てずに水の底をくぐって、向こう岸に着いた。高い所に走り上って大声をあげ、「どうだ平家の公達、ここまでは大変だろう」と言い捨てて、三井寺へ帰って行った。
飛騨守景家は老練な武者であったので、この混乱に紛れて宮はきっと南都へお逃げになるだろうといって、鎧兜に身を固めた四、五百騎で、鞭と鐙を合わせて追いかけ申した。案の定、宮は三十騎ほどで逃げておられたところを、光明山の鳥居の前で追いつき申して、雨の降るように矢を射かけ申したので、誰の矢ともわからないが、矢が一本飛んで来て宮の左の脇腹に立ったので、御馬からお落ちになって、御首を取られてしまわれた。お供していた鬼佐渡・荒土佐・荒大夫・刑部俊秀も、命をいつのために惜しむべきかといって、さんざんに戦い、同じ所で討ち死にした。
その中で乳母子の六条亮大夫宗信は、新野が池へ飛び込み、浮草を顔にかぶって震えていたので、敵は前を通り過ぎて行った。しばらくして敵四、五百騎がざわめいて帰ってくる中に、浄衣を着た首のない死体を蔀に載せて担いで行くのを見ると、宮でいらっしゃった。「私が死んだら棺に入れよ」とおっしゃった小枝という御笛も、まだ御腰に差しておられた。走り出てすがりつき申したいとは思ったが、恐ろしくてそれもできない。敵がみな通り過ぎた後、池から上がって濡れた着物を絞って着て、泣く泣く都へ上ったのを、憎まない者はなかった。
さて南都の大衆七千余人は兜の緒を締めて宮のお迎えに参ったが、先陣は木津まで進み、後陣はまだ興福寺の南大門にとどまっていた。宮はもう光明山の鳥居の前で討たれてしまわれたと聞こえたので、大衆はどうしようもなく、涙をおさえてとどまった。あと五十町ばかり待ちきれずに討たれてしまわれた宮のご運のほどこそ情けないことである。
意訳
以仁王と源頼政の最期を描く章段である。足利忠綱が名のりをあげて攻め入り、平家の大軍が宇治川を渡ると、頼政の一族は宮を逃がすために防ぎ矢を射て次々と討たれていく。七十余歳の頼政は、膝を射られてなお心静かに西に向かい、「埋木の花咲くこともなかりしに」の辞世を詠んで自害した。歌人として名高い頼政の最期にふさわしい場面である。
一方、南都へ逃れた以仁王は、光明山の鳥居の前で流れ矢に当たって討たれた。「われ死なば御棺に入れよ」と言った名笛「小枝」は、首のない亡骸の腰にまだ差されていた。迎えの南都の大衆があと五十町の所まで来ていたことが、宮の悲運をいっそう際立たせている。
語釈・文法注
文法
- 「高角うつたる兜」
- 兜の正面に大きな鍬形(角)を打ちつけたもの。
- 「切斑の矢」
- 鷲の羽の白黒のまだらが段になった矢羽根の矢。
- 「俵藤太秀鄕」
- 藤原秀郷。平将門を討った武将。
- 「十念」
- 「南無阿弥陀仏」を十回唱えること。
- 「貫かつて」
- 「貫かれて」の転。刺し貫かれて。
- 「御大事かよう」
- 「御大事か、よう(ようよう)」で、大変だろう、ご苦労なことだ、とあざける言葉。
- 「さゞめいて」
- ざわざわと騒ぎながら。
和歌
伊勢武者はみな緋縅の鎧著て宇治の網代にかゝりぬるかな
- 詠者
- 源仲綱
- 状況
- 宇治川で流された伊勢の武者三人が、緋縅の鎧のまま網代にかかっているのを見て詠んだ歌。
修辞
- 見立て
- 網代にかかる緋縅の武者を、宇治の網代にかかる氷魚(ひお)や紅葉に見立てて、平家方の武者をあざける。
埋木の花咲くこともなかりしにみのなるはてぞ悲しかりける
- 詠者
- 源頼政
- 状況
- 平等院で自害する前に詠んだ辞世の歌。
修辞
- 掛詞
- 「みのなる」に「実の生る」と「身の成る」を掛ける。
- 比喩
- 自らを土に埋もれた木にたとえ、世に出て栄えることもなかった生涯の果てが、このような最期であることを嘆く。
解説
治承四年(1180)五月二十六日、源頼政は宇治の平等院で自害し、以仁王は南山城の光明山の鳥居の前(現在の京都府木津川市)で討たれた。頼政の墓と伝えるものが平等院にあり、「扇の芝」は頼政が扇を敷いて自害した場所と伝えられる。以仁王の挙兵は短期間で鎮圧されたが、その令旨は諸国の源氏に伝えられ、同年八月の源頼朝の挙兵へとつながっていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、449–454頁(コマ253–255)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日