平家物語 巻第四
橋合戦の事
南都へ向かう以仁王は疲れて落馬を重ね、宇治の平等院で休んだ。頼政らは宇治橋の橋板を三間外して平家の大軍を待ち受け、先陣の二百余騎は川に落ちて溺れた。橋上では五智院但馬が矢を切り払い、筒井浄妙明秀や一来法師が奮戦した。平家方では十七歳の足利忠綱が、坂東武者の渡河の作法を説いて三百余騎で増水した宇治川を一騎も流さず渡りきった。
- 1さるさるさる程程ほどににに宮宮みやははは宇宇う治治じととと寺寺てらとととののの閒閒あいだにににててて、、、六六ろく度度どまでまでまで御御ご落落らく馬馬ばありありありけりけりけり。。。これこれこれははは去去さんんんぬるぬるぬる夜夜よ御御ぎょ寢寢しんならならならざりざりざりししし故故ゆえなりなりなりとてとてとて、、、宇宇う治治じ橋橋ばし三三さん閒閒げん引引ひき放放はなししし、、、平平びょう等等どう院院いんににに入入いれれれ奉奉たてまつりりり、、、暫暫しばらくくく御御ご休休きゅう息息そくありありありけりけりけり。。。六六ろく波波は羅羅らにににははは、、、「「「すはやすはやすわや宮宮みやこそこそこそ南南なん都都とへへへ落落おちちちさせさせさせ給給たまふふうなれなれなれ、、、おつかけおつかけおっかけててて討討うちちち奉奉たてまつれれれややや。。。」」」とてとてとて、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは左左さ兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ知知とも盛盛もり、、、頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら、、、薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のり、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは上總上總かずさののの守守かみ忠忠ただ淸淸きよ、、、そのそのその子子こ上總上總かずさののの太太た郎郎ろう判判ほう官官がん忠忠ただ綱綱つな、、、飛飛ひ驒驒だののの守守かみ景景かげ家家いえ、、、そのそのその子子こ飛飛ひ驒驒だののの太太た郎郎ろう判判ほう官官がん景景かげ隆隆たか、、、高高たか橋橋はしののの判判ほう官官がん長長なが綱綱つな、、、河河こう内内ちののの判判ほう官官がん秀秀ひで國國くに、、、武武む藏藏さしののの三三さぶ郎郎ろう左左さ衞衞え門門もん有有あり國國くに、、、越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり續續つぐ、、、上總上總かずさののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ光光みつ、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え景景かげ淸淸きよををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に萬萬まん八八はっ千千せん餘餘よ騎騎き、、、木木こ幡幡はた山山やまうちうちうち越越こえええててて、、、宇宇う治治じ橋橋ばしのののつめつめつめにににぞぞぞおしおしおし寄寄よせせせたるたるたる。。。
- 2敵敵かたき平平びょう等等どう院院いんにににととと見見みてててけれけれければばば、、、鬨鬨ときをををつくるつくるつくることことこと三三さん箇箇か度度どなりなりなり。。。宮宮みやののの御御み方方かたにににももも、、、おなじうおなじうおなじゅう鬨鬨ときののの聲聲こえをををぞぞぞ合合あはせはせわせたるたるたる。。。先先せん陣陣じんががが、、、「「「橋橋はしををを引引ひいいいたるたるたるぞぞぞ、、、あやまちあやまちあやまちすすすななな。。。橋橋はしををを引引ひいいいたるたるたるぞぞぞ、、、あやまちあやまちあやまちなななすすすななな。。。」」」とととどよみどよみどよみけれけれけれどもどもども、、、後後ご陣陣じんはははこれこれこれををを聞聞ききききつけつけつけずずず、、、我我われ先先さきに〳〵に〳〵にわれさきにととと進進すすむむむ程程ほどににに、、、先先せん陣陣じん二二に百百ひゃく餘餘よ騎騎きおしおしおし落落おとささされれれ、、、水水みずににに溺溺おぼれれれててて失失うせせせにににけりけりけり。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに、、、橋橋はしののの兩兩りょう方方ほうのののつめつめつめうちうちうち立立たつつっててて、、、矢矢や合合あわせすすす。。。宮宮みやののの御御み方方かたよりよりより大大おお矢矢やののの俊俊しゅん長長ちょう、、、五五ご智智ち院院いんののの但但たじ馬馬ま、、、渡渡わた邊邊なべののの省省はぶく、、、授授さずく、、、續續つづくののの源源げん太太だががが射射いけるけるける矢矢やぞぞぞ、、、楯楯たてもももたまらたまらたまらずずず、、、鎧鎧よろいもももかけかけかけずずず、、、通通とおりりりけりけりけり。。。源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさははは、、、今日今日きょうををを最最さい後後ごとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、長長ちょう絹絹けんののの鎧鎧よろい直直ひた垂垂たれににに科科しな皮皮かわ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、わざとわざとわざと兜兜かぶとをををばばば著著き給給たまははわずずず。。。嫡嫡ちゃく子子し伊伊い豆豆ずののの守守かみ仲仲なか綱綱つなははは赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに、、、黑黑くろ絲絲いと縅縅おどしののの鎧鎧よろいなりなりなり。。。弓弓ゆみををを強強つよううう引引ひかかかんんんががが爲爲ためににに、、、これこれこれももも兜兜かぶとをををばばば著著きざりざりざりけりけりけり。。。
- 4こゝこゝここににに五五ご智智ち院院いんののの但但たじ馬馬ま、、、大大おお長長なぎ刀刀なたののの鞘鞘さやをををはづいはづいはずいててて、、、たゞたゞただ一一ひと人人り、、、橋橋はしののの上上うえにににぞぞぞ進進すすんんんだるだるだる。。。平平へい家家けののの方方かたにににはははこれこれこれををを見見みててて、、、「「「たゞたゞただ射射い取取とれれれややや、、、射射い取取とれれれ。。。」」」とてとてとて、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いけれけれけれどもどもども、、、但但たじ馬馬ま少少すこしししももも騒騒さわがががずずず、、、上上あがるるる矢矢やをををばばばついついついくゞりくゞりくぐり、、、下下さがるるる矢矢やをををばばば躍躍おどりりり越越こえええ、、、向向むかつつっててて來來くるるるをををばばば長長なぎ刀刀なたにににててて切切きつつっててて落落おとすすす。。。敵敵かたきももも御御み方方かたももも見見けん物物ぶつすすす。。。それそれそれよりよりよりしてしてしてこそこそこそ矢矢や切切ぎりののの但但たじ馬馬まとととはははいはいはいわれれれけれけれけれ。。。
- 5またまたまた堂堂どう衆衆しゅののの中中なかににに筒筒つつ井井いののの淨淨じょう妙妙みょう明明みょう秀秀しゅうははは、、、褐褐かちののの直直ひた垂垂たれににに黑黑くろ革革かわ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、五五ご枚枚まい兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、黑黑こく漆漆しつののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる黑黑くろ母母ほ衣衣ろののの矢矢や負負おひひい、、、塗塗ぬり籠籠ごめ籐籐どうののの弓弓ゆみににに、、、好好このむむむ白白しら柄柄えののの大大おお長長なぎ刀刀なた取取とりりり添添そへへえててて、、、これこれこれもももたゞたゞただ一一ひと人人り、、、橋橋はしののの上上うえにににぞぞぞ進進すすんんんだるだるだる。。。大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「遠遠とおからからからんんん者者ものははは音音おとにににももも聞聞きけけけ、、、近近ちかからからからんんん人人ひとははは目目めにににももも見見み給給たまへへえ。。。三三み井井い寺寺でらにににははは隱隱かくれれれなしなしなし、、、堂堂どう衆衆しゅののの中中なかににに筒筒つつ井井い淨淨じょう妙妙みょう明明みょう秀秀しゅうとてとてとて、、、一一いち人人にん當當とう千千せんののの兵兵つわものぞぞぞややや。。。われわれわれととと思思おもははわんんん人人ひと々々びとははは寄寄よりりりあへあへあえややや、、、見見げん參參ざんせせせんんん。。。」」」とてとてとて、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる矢矢やをををさしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いるるる。。。矢矢や庭庭にはににに敵敵かたき十十じゅう二二に人人にん射射い殺殺ころししし、、、十十じゅう一一いち人人にんににに手手て負負おおせせせたれたれたればばば、、、箙箙えびらににに一一ひとつつつぞぞぞ殘殘のこりりりたるたるたる。。。
- 6そのそのその後後のち、、、弓弓ゆみをををばばばからからからととと投投なげげげ捨捨すてててててて、、、箙箙えびらももも解解といいいててて捨捨すててててててけりけりけり。。。つらぬきつらぬきつらぬき脫脫ぬいいいででで跣跣はだしににになりなりなり、、、橋橋はしののの行行ゆき桁桁げたをををさら〳〵さら〳〵さらさらととと走走はしりりりけるけるける。。。人人ひとははは恐恐おそれれれててて渡渡わたらららねねねどもどもども、、、淨淨じょう妙妙みょう房房ぼうががが心心ここちちちにににははは、、、一一いち條條じょう、、、二二に條條じょうののの大大おお路路じとととこそこそこそふるまうふるまうふるもうたれたれたれ。。。長長なぎ刀刀なたにににててて向向むかふふう敵敵かたき五五ご人人にんなぎなぎなぎ伏伏ふせせせ、、、六六ろく人人にんににに當當あたるるる敵敵かたきにににあうあうおうててて、、、長長なぎ刀刀なた中中なかよりよりよりうちうちうち折折おれれれててて捨捨すててててててけりけりけり。。。そのそのその後後のち、、、太太た刀刀ちををを拔拔ぬいいいててて戰戰たたかふふうににに、、、敵敵かたきははは大大おお勢勢ぜいなりなりなり、、、蜘蜘く蛛蛛も手手で、、、かくなはかくなはかくなわ、、、十十じゅう文文もん字字じ、、、蜻蜻とん蛉蛉ぼうがへりがへりがえり、、、水水みず車車ぐるま、、、八八はっ方方ぽうすかさすかさすかさずずず切切きつつったりたりたりけりけりけり。。。向向むかふふう敵敵かたき八八はち人人にん切切きりりりふせふせふせ、、、九九く人人にんににに當當あたるるる敵敵かたきががが兜兜かぶとののの鉢鉢はちににに餘餘あまりりりににに強強つよくくくあてあてあて、、、目目め貫貫ぬきののの元元もとよりよりよりちやうちやうちょうととと折折おれれれ、、、ぐつぐつぐっととと拔拔ぬけけけててて、、、川川かはへへへざつぶざつぶざっぶとととぞぞぞ入入いりりりにににけるけるける。。。賴賴たのむむむ所所ところははは腰腰こし刀刀がたな、、、死死しなななんんんとととのみのみのみぞぞぞ狂狂くるひひいけるけるける。。。
- 7こゝこゝここににに乘乘じょう圓圓えん坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り慶慶けい秀秀しゅうががが召召めし使使つかひひいけるけるける一一いち來來らい法法ほっ師師しととといふいふいう大大だい力力じからののの剛剛こうののの者者もの、、、淨淨じょう妙妙みょう房房ぼうががが後後うしろにににつゞいつゞいつづいててて戰戰たたかひひいけるけるけるががが、、、行行ゆき桁桁げたははは狹狹せばししし、、、側側そば通通とおるるるべきべきべきやうやうようはははなしなしなし。。。淨淨じょう妙妙みょう房房ぼうががが兜兜かぶとののの錏錏しころににに手手てををを置置おいいいててて、、、「「「あしうあしうあしゅう候候そうろう、、、淨淨じょう妙妙みょう房房ぼう。。。」」」とてとてとて、、、肩肩かたをををづんづんずんととと跳跳おどりりり越越こえええてててぞぞぞ戰戰たたかひひいけるけるける。。。一一いち來來らい法法ほっ師師し討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。淨淨じょう妙妙みょう房房ぼうははは這這ほふ〳〵ふ〳〵うほう返返かえりりりててて、、、平平びょう等等どう院院いんののの門門もんののの前前まえなるなるなる芝芝しばののの上上うえににに物物もの具具のぐぬぎぬぎぬぎ捨捨すててて、、、鎧鎧よろいににに立立たつつったるたるたる矢矢や目目めををを數數かぞへへへたれたれたればばば六六ろく十十じゅう三三さん、、、裏裏うらかくかくかく矢矢や五五いつ所所どころ、、、されどもされどもされども痛痛いた手手でならならならねねねばばば、、、處處ところ々々どころににに灸灸きゅう治治じししし、、、頭頭かしらからげからげからげ、、、淨淨じょう衣衣え著著き、、、弓弓ゆみ切切きりりり折折おりりり杖杖つえにににつきつきつき、、、平平ひら足足あし駄駄だはきはきはき、、、阿阿あ彌彌み陀陀だ佛佛ぶつ申申もうしししててて、、、奈奈な良良らののの方方かたへへへぞぞぞまかりまかりまかりけるけるける。。。
- 8そのそのその後後のちははは淨淨じょう妙妙みょう房房ぼうががが渡渡わたつつったるたるたるををを手手て本本ほんとととしてしてして、、、三三み井井い寺寺でらののの大大だい衆衆しゅ、、、三三さん位位み入入にゅう道道どうののの一一いち類類るい、、、渡渡わた邊邊なべ黨黨とう、、、われわれわれ先先さきにににととと走走はしりりりつゞき〳〵つゞき〳〵つづきはしりつづき、、、橋橋はしののの行行ゆき桁桁げたをををこそこそこそわたりわたりわたりけれけれけれ。。。或或あるいははは分分ぶん取取どりしてしてして歸歸かえるるる者者ものもももありありあり、、、或或あるいははは痛痛いた手手で負負おうううててて腹腹はらかきかきかき切切きりりり、、、川川かはへへへ飛飛とびびび入入いるるる者者ものもももありありあり。。。橋橋はしののの上上うえののの戰戰たたかひひい、、、火火ひ出出いづるづるずるほどほどほどにににぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
- 9平平へい家家けののの方方かたののの侍侍さぶらい大大たい將將しょう上總上總かずさののの守守かみ忠忠ただ淸淸きよ、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんののの御御ご前前ぜんににに參參まいりりり、、、「「「あれあれあれ御御ご覽覽らん候候そうらへへえ、、、橋橋はしののの上上うえののの戰戰いくさ、、、手手ていたういたういとう候候そうろう。。。今今いまははは川川かはををを渡渡わたすすすべきべきべきにににててて候候そうろうががが、、、折折おりふしふしふし五五さ月月み雨雨だれののの頃頃ころ、、、水水みずまさまさまさつつっててて候候そうらへへえばばば、、、渡渡わたさささばばば馬馬うま人人ひと多多おおくくく亡亡ほろびびび候候そうらひひいなななんんん。。。淀淀よど、、、一一いも口口あらいへへへややや向向むかふふうべきべきべき、、、またまたまた河河こう内内ち路路じへへへややや囘囘まわるるるべきべきべき、、、いかゞいかゞいかがせせせんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、下下しも野野つけののの國國くにののの住住じゅう人人にん足足あし利利かがののの又又また太太た郎郎ろう忠忠ただ綱綱つな、、、生生しょう年年ねん十十じゅう七七しち歳歳さいにににてててありありありけるけるけるががが、、、進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「淀淀よど、、、一一いも口口あらい、、、河河こう内内ち路路じへへへははは、、、天天てん竺竺じく、、、震震しん旦旦だんののの武武ぶ士士しををを召召めしししててて向向むかははわれれれ候候そうらははわんんんずるずるずるかかか、、、それそれそれももも我我われ等等らこそこそこそ承承うけたまわつつっててて向向むかひひい候候そうらははわんんんずれずれずれ。。。目目めにににかけかけかけたるたるたる敵敵かたきををを討討うたたたずずずしてしてして、、、宮宮みやををを南南なん都都とへへへ入入いれれれ參參まいらせらせらせなななばばば、、、吉吉よし野野の、、、十十と津津つ川川かわののの勢勢せいどもどもども馳馳はせせせ集集あつまつまつまっててて、、、いよ〳〵いよ〳〵いよいよ大大だい事事じでででこそこそこそ候候そうらははわんんんずずずらめらめらめ。。。
- 10武武む藏藏さしととと上總上總かずさとととののの境境さかいににに利利と根根ね川川がわととと申申もうすすす大大おお河河かわ候候そうろう。。。秩秩ちち父父ぶ、、、足足あし利利かが、、、中中なか違違たごうううててて、、、常常つねははは合合かっ戰戰せんををを仕仕つかまつりりり候候そうらひひいしししににに、、、大大おお手手てははは長長なが井井いののの渡渡わたり、、、搦搦からめ手手てははは古古こ我我が杉杉すぎののの渡渡わたりよりよりより寄寄よせせせ候候そうらひひいしししににに、、、こゝこゝここににに上上こう野野ずけののの國國くにののの住住じゅう人人にん新新にっ田田たののの入入にゅう道道どう、、、足足あし利利かがにににかたらはかたらはかたらわれれれててて、、、杉杉すぎののの渡渡わたりよりよりより寄寄よせせせんんんとてとてとて設設もうけけけたりたりたりけるけるける船船ふねどもどもどもををを、、、秩秩ちち父父ぶががが方方かたよりよりよりみなみなみな破破やぶららられれれててて、、、申申もうしししけるけるけるははは、、、たゞたゞただ今今いまこゝこゝここををを渡渡わたさささずずずばばば、、、長長ながききき弓弓きゅう箭箭せんののの疵疵きずなるなるなるべしべしべし。。。水水みずににに溺溺おぼれれれてててももも死死しなななばばば死死しねねね、、、いざいざいざ渡渡わたさささうううとてとてとて、、、馬馬うま筏筏いかだををを作作つくつつっててて渡渡わたせせせばばばこそこそこそ渡渡わたしししけめけめけめ。。。坂坂ばん東東どう武武む者者しゃのののならひならひならい、、、敵敵かたきををを目目めにににかけかけかけ、、、川川かはををを隔隔へだてててたるたるたる軍軍いくさににに、、、淵淵ふち瀨瀨せ嫌嫌きらふふうやうやうようやややあるあるある。。。このこのこの河河かはののの深深ふかさささ早早はやさささ、、、利利と根根ね川川がわにににいくいくいく程程ほどののの劣劣おとりりり勝勝まさりりりはははよもよもよもあらあらあらじじじ。。。つゞけつゞけつづけややや殿殿とのばらばらばら。。。」」」とてとてとて、、、まつまつまっさきさきさきにににこそこそこそ打打うち入入いれれれたれたれたれ。。。
- 11續續つづくくく人人ひと々々びと、、、大大おお胡胡ご、、、大大おお室室むろ、、、深深ふか須須す、、、山山やま上上かみ、、、那那な波波わののの太太た郎郎ろう、、、佐佐さ貫貫ぬきののの廣廣ひろ綱綱つな、、、四四し郎郎ろう大大たい夫夫ふ、、、小小お野野の寺寺でらののの禪禪ぜん師師じ太太た郎郎ろう、、、邊邊へ屋屋や子子こののの四四し郎郎ろう、、、郎郎ろう等等どうにににははは宇宇う夫夫ぶ方方かたののの次次じ郎郎ろう、、、桐桐きり生生うののの六六ろく郎郎ろう、、、田田た中中なかののの宗宗そう太太たををを始始はじめめめとととしてしてして、、、三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎きぞぞぞ續續つづきききけるけるける。。。足足あし利利かが大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「弱弱よわききき馬馬うまをををばばば下下しも手手てににに立立たてててよよよ、、、強強つよききき馬馬うまをををばばば上上うわ手手てににになせなせなせ。。。馬馬うまののの足足あしののの及及およばばばううう程程ほどははは、、、手手た綱綱づなをををくれくれくれててて歩歩あゆままませせせよよよ。。。はずまはずまはずまばばばかいかいかいくつくつくっててて泳泳およがががせせせよよよ。。。下下さがらららうううものものものをををばばば弓弓ゆみののの弭弭はずににに取取とりりりつかつかつかせせせよよよ。。。手手てににに手手てををを取取とりりり組組くみみみ、、、肩肩かたををを竝竝ならべべべててて渡渡わたすすすべしべしべし。。。馬馬うまののの頭頭かしら沈沈しずまままばばば引引ひきききあげあげあげよよよ。。。いたういたういとう引引ひいいいててて引引ひきききかづくかづくかずくななな。。。鞍鞍くら壺壺つぼににによくよくよく乘乘のりりり定定さだまつまつまっててて、、、鐙鐙あぶみををを強強つよううう蹈蹈ふめめめ。。。水水みずしとましとましとまばばば三三さん頭頭ずののの上上うえににに乘乘のりりりかゝれかゝれかかれ。。。川川かわ中中なかにににててて弓弓ゆみ引引ひくくくななな、、、敵敵かたき射射いるるるともともとも相相あい引引びきききすすすななな。。。常常つねににに錏錏しころををを傾傾かたぶけけけよよよ。。。いたういたういとう傾傾かたぶけけけててて天天て邊邊へん射射いさすさすさすななな。。。馬馬うまにににははは弱弱よおううう、、、水水みずにににははは強強つよううう當當あたるるるべしべしべし。。。かねかねかねににに渡渡わたしししててておしおしおし落落おとさささるるるななな。。。水水みずにににしなうしなうしなうててて渡渡わたせせせややや渡渡わたせせせ。。。」」」ととと掟掟おきてててててて、、、三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き一一いっ騎騎きももも流流ながさささずずず、、、向向むかひひいののの岸岸きしへへへさつさつさっとととぞぞぞうちうちうち上上あげげげたるたるたる。。。
現代語訳
そうするうちに宮は、宇治と三井寺の間で六度も落馬なさった。これは昨夜お休みにならなかったためだといって、宇治橋の橋板を三間外し、平等院にお入れ申して、しばらくご休息になった。六波羅では、「すわ、宮が南都へお逃げになるぞ。追いかけて討ち申せ」といって、大将軍には左兵衛督知盛・頭中将重衡・薩摩守忠度、侍大将には上総守忠清、その子の上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、その子の飛騨太郎判官景隆、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先頭として、合わせてその勢二万八千余騎が、木幡山を越えて宇治橋のたもとに押し寄せた。
敵は平等院にいると見て、鬨の声を三度あげた。宮の方でも同じく鬨の声を合わせた。先陣が「橋を引いてあるぞ、気をつけろ。橋を引いてあるぞ、気をつけろ」と叫んだが、後陣はこれを聞きつけず、我先に我先にと進むうちに、先陣の二百余騎が押し落とされて、水に溺れて死んでしまった。
そうするうちに、橋の両方のたもとに陣取って矢合わせをした。宮の方からは、大矢の俊長、五智院の但馬、渡辺の省・授、続の源太の射る矢が、楯も役に立たず、鎧も通して突き抜けた。源三位入道頼政は今日を最期と思われたのであろうか、長絹の鎧直垂に科皮縅の鎧を着て、わざと兜はかぶっておられない。嫡子の伊豆守仲綱は赤地の錦の直垂に黒糸縅の鎧である。弓を強く引くために、これも兜はかぶらなかった。
ここに五智院の但馬は、大長刀の鞘を外して、ただ一人で橋の上に進み出た。平家の方ではこれを見て、「ただ射取れ、射取れ」といって、矢をつがえては引き絞り、さんざんに射かけたが、但馬は少しも騒がず、上に来る矢はさっとくぐり、下に来る矢は躍り越え、まっすぐ向かって来る矢は長刀で切って落とした。敵も味方も見物した。それからこそ矢切の但馬と呼ばれるようになった。
また堂衆の中で、筒井の浄妙明秀は、褐色の直垂に黒革縅の鎧を着て、五枚兜の緒を締め、黒漆の太刀を帯び、二十四本差した黒母衣の矢を負い、塗籠籐の弓に、愛用の白柄の大長刀を持ち添えて、これもただ一人で橋の上に進み出た。大声をあげて、「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見給え。三井寺では隠れもない、堂衆の中に筒井浄妙明秀という一人当千の兵だぞ。我こそはと思う人々は寄って来い。見参しよう」といって、二十四本差した矢をつがえては引き絞り、さんざんに射る。たちまち敵十二人を射殺し、十一人に傷を負わせたので、箙には矢が一本残った。
その後、弓をからりと投げ捨て、箙も解いて捨ててしまった。貫(革の履物)を脱いで裸足になり、橋の行桁をさらさらと走った。人は恐れて渡らないが、浄妙房の心では、一条・二条の大路を行くようにふるまった。長刀で向かって来る敵五人をなぎ伏せ、六人目の敵に当たったとき、長刀が中ほどから折れたので捨ててしまった。その後、太刀を抜いて戦うと、敵は大勢である。蜘蛛手・かくなわ・十文字・とんぼ返り・水車と、八方すきもなく切りまくった。向かう敵八人を切り伏せ、九人目の敵の兜の鉢にあまりに強く打ち当てたので、目貫の根元からちょうと折れ、ぐっと抜けて、川へざぶんと落ちてしまった。頼みとするのは腰刀ばかり、死のうとばかり狂ったように戦った。
ここに乗円坊の阿闍梨慶秀が召し使っていた一来法師という大力の剛の者が、浄妙房の後ろに続いて戦っていたが、行桁は狭く、そばを通り抜けることはできない。浄妙房の兜の錏に手を置いて、「失礼いたします、浄妙房」といって、肩をひょいと跳び越えて戦った。一来法師は討ち死にしてしまった。浄妙房ははうようにして戻り、平等院の門の前の芝の上で武具を脱ぎ捨て、鎧に立った矢の跡を数えると六十三、裏まで突き抜けた矢が五か所、けれども深手ではなかったので、あちこちに灸をすえ、頭を包み、浄衣を着て、弓を切り折って杖につき、平足駄をはいて、阿弥陀仏を唱えながら奈良の方へ去って行った。
その後は浄妙房が渡ったのを手本として、三井寺の大衆、三位入道の一族、渡辺党が我先にと走り続いて、橋の行桁を渡った。あるいは敵の首を取って帰る者もあり、あるいは深手を負って腹を切り、川へ飛び込む者もあった。橋の上の戦いは、火花が散るほどに見えた。
平家方の侍大将上総守忠清が大将軍の御前に参って、「あれをご覧ください。橋の上の戦いは激しゅうございます。今は川を渡すべきですが、ちょうど五月雨のころで水かさが増しておりますので、渡せば馬も人も多く死ぬでしょう。淀・一口へ向かうべきか、または河内路へ回るべきか、どういたしましょう」と申すと、下野国の住人足利又太郎忠綱は、生年十七歳であったが、進み出て申すには、「淀・一口・河内路へは、天竺や震旦の武士でも召して向かわせるおつもりですか。それも我々こそが承って向かうことになりましょう。目の前の敵を討たずに宮を南都へお入れ申したら、吉野・十津川の軍勢が馳せ集まって、いよいよ大事になりましょう。
武蔵と上総の境に利根川という大河がございます。秩父と足利が仲違いして、いつも合戦をしておりましたが、大手は長井の渡しから、搦手は古我杉の渡しから攻め寄せたところ、上野国の住人新田入道が足利に味方して、杉の渡しから攻めようと用意していた船を、秩父の方からすべて壊されてしまったので、新田入道が申すには、「今ここを渡らなければ、末代までの弓矢の恥となろう。水に溺れて死ぬなら死ね。さあ渡そう」といって、馬筏を組んで渡ったからこそ渡れたのです。坂東武者のならいとして、敵を目の前にして川を隔てた戦いで、淵だ瀬だと嫌うことがありましょうか。この川の深さ・速さは、利根川とたいして違いはありますまい。続け、殿ばら」といって、まっ先に川に乗り入れた。
続く人々は、大胡・大室・深須・山上・那波太郎・佐貫の広綱・四郎大夫・小野寺の禅師太郎・辺屋子四郎、郎等には宇夫方次郎・桐生六郎・田中宗太をはじめとして、三百余騎が続いた。足利は大声をあげて、「弱い馬は下流に立てよ、強い馬は上流に立てよ。馬の足が届く間は、手綱をゆるめて歩ませよ。足が浮いたら手綱を引き寄せて泳がせよ。流されそうな者は弓の弭につかまらせよ。手に手を取り組み、肩を並べて渡れ。馬の頭が沈んだら引き上げよ。強く引きすぎてかぶらせるな。鞍壺にしっかり乗り据えて、鐙を強く踏め。水が深くなったら馬の尻の上に乗りかかれ。川の中で弓を引くな。敵が射ても応戦するな。いつも錏を傾けよ。傾けすぎて兜の天辺を射させるな。馬には弱く、水には強く当たれ。まっすぐ渡ろうとして押し流されるな。水に逆らわず、流れに沿って渡せ、渡せ」と指図して、三百余騎は一騎も流されず、向こう岸へさっと上がった。
意訳
宇治川を挟んだ合戦を描く、巻第四の山場の一つである。頼政は宇治橋の橋板を外して平家の大軍を待ち受け、橋の上では五智院但馬が矢を切り払い、筒井浄妙明秀が「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見給へ」と名のりをあげて奮戦する。浄妙の背を跳び越えて戦う一来法師の「あしう候、浄妙房」の一言は、緊迫した戦場にふとした人間味を添えている。
一方、平家方では、十七歳の足利忠綱が、増水した宇治川を前にためらう忠清を退け、坂東武者の渡河の経験を語って真っ先に馬を乗り入れる。「弱き馬をば下手に立てよ」以下の具体的で的確な指示は、坂東武者の実戦の知恵を伝え、三百余騎が一騎も流されずに渡りきる場面は、武士の新しい時代の到来を印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「さしつめ引きつめ」
- 矢を次々とつがえては引き絞って。
- 「つらぬき」
- 「貫」。毛皮で作った武士の履物。
- 「蜘蛛手、かくなは、十文字、蜻蛉がへり、水車」
- いずれも太刀や長刀の使い方の名。四方八方に振るうさま。
- 「あしう候」
- 「悪しう候」。失礼いたします、の意。
- 「かいくつて」
- 「掻い繰って」。手綱をたぐり寄せて。
- 「三頭」
- 馬の尻の、尾の付け根の上の部分。
- 「かねに渡して」
- まっすぐに渡ろうとして。
- 「しなうて」
- 「撓うて」。逆らわず、流れに従って。
解説
宇治川の合戦は治承四年(1180)五月二十六日のことである。平家方の足利忠綱(藤姓足利氏)の渡河は名高く、のちの寿永三年(1184)の宇治川の先陣争い(巻第九)とともに、宇治川を舞台とする合戦の代表的な場面となっている。筒井浄妙明秀の奮戦は、謡曲「頼政」などにも取り入れられた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、445–449頁(コマ251–253)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日