平家物語 巻第四
大衆そろへの事
三井寺の大衆は六波羅への夜討ちを評議したが、平家方の一如坊真海が長々と反対意見を述べて時を稼いだ。乗円坊慶秀が天武天皇の故事を引いて出撃を促し、頼政らは大手・搦手に分かれて出陣したが、堀や逆木を取り除くうちに夜が明け、夜討ちは失敗した。以仁王は名笛「蝉折」を金堂の弥勒に納め、二十三日の明け方、一千五百余騎を率いて南都へ向かった。
- 1寺寺てらにににははは宮宮みや入入いらららせせせたまひたまひたまいててて後後のち、、、大大おお關關ぜき小小こ關關ぜき掘掘ほりりり切切きつつっててて、、、大大だい衆衆しゅ僉僉せん議議ぎすすす。。。「「「抑抑そもそも山山さん門門もんははは心心こころがはりがはりがわりしつしつしつ。。。南南なん都都とはははいまだいまだいまだ參參まいらららずずず。。。このこのこのことことこと延延のびびびてててははは惡惡あしかりしかりしかりなななんんん。。。いざやいざやいざや今今こ夜夜よい六六ろく波波は羅羅らにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、夜夜よ討討うちにににせせせんんん。。。そのそのその儀儀ぎならならならばばば老老ろう少少しょう二二ふた手手てににに相相あい分分わかつつっててて、、、まづまづまず老老ろう僧僧そうどもどもどもははは如如にょ意意いががが峯峯みねよりよりより搦搦からめ手手てへへへ向向むかふふうべしべしべし。。。足足あし輕輕がるどもどもどもををを先先さき立立だてててててて、、、白白しら川川かわののの在在ざい家家けににに火火ひをををかけかけかけ燒燒やききき上上あげげげばばば、、、在在ざい京京きょう人人にん、、、六六ろく波波は羅羅らののの武武ぶ士士しどもどもども、、、あはやあはやあわや事事こと出出いででで來來きたりたりたりとてとてとて、、、馳馳はせせせ向向むかははわんんんずずずらんらんらん。。。そのそのその時時とき岩岩いわ坂坂さか、、、櫻櫻さくら本本もとのののほとりほとりほとりにににしばししばししばし支支ささへへえててて防防ふせぎぎぎ戰戰たたかははわんんん間間あいだににに、、、大大おお手手てははは松松まつ坂坂さかよりよりより伊伊い豆豆ずののの守守かみををを大大たい將將しょう軍軍ぐんとととしてしてして、、、若若わか大大だい衆衆しゅ、、、惡惡あく僧僧そうどもどもどもははは、、、六六ろく波波は羅羅らにににおしおしおし寄寄よせせせ、、、風風かざ上上かみににに火火ひをををかけかけかけ燒燒やきききあげあげあげ、、、一一ひともみもみもみ揉揉もんんんででで攻攻せめめめんんんににに、、、などなどなどかかか太太だい政政じょう入入にゅう道道どう燒燒やききき出出いだいいいててて、、、討討うたたたざるざるざるべきべきべき。。。」」」とととぞぞぞ僉僉せん議議ぎしししたりたりたりけるけるける。。。
- 2こゝこゝここににに平平へい家家けののの祈祈いのりりりしししけるけるける、、、一一いち如如にょ坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り眞眞しん海海かいははは、、、弟弟で子子し、、、同同どう宿宿じゅく數數す十十じゅう人人にん引引ひき具具ぐしししててて、、、僉僉せん議議ぎののの庭庭にはににに進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「かやうかやうかようににに申申もうせせせばばば、、、平平へい家家けののの方方かた人人うどとととやややおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうろうらんらんらん。。。一一いっ向向こうそのそのその儀儀ぎにににてててははは候候そうらははわずずず。。。たとひたとひたといさささ候候そうろうともともとも、、、いかゞいかゞいかが衆衆しゅ徒徒とののの義義ぎをををももも思思おもひひい、、、わがわがわが寺寺てらののの名名なをををももも惜惜おしましましまでででははは候候そうろうべきべきべき。。。昔昔むかしははは源源げん平平ぺい左左そ右右うににに爭爭あらそひひいててて、、、朝朝ちょう家家かののの御御おん固固かためめめたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、近近ちか頃頃ごろははは源源げん氏氏じののの運運うん傾傾かたぶききき、、、平平へい家家け世世よををを取取とつつっててて二二に十十じゅう餘餘よ年年ねん、、、天天てんににに靡靡なびかかかぬぬぬ草草そう木木もくももも候候そうらははわずずず。。。さればさればされば内内うち々々うちののの館館たちののの有有あり樣樣さまももも小小こ勢勢ぜいにににてててははは容容た易易やすくくく叶叶かなひひい難難がたししし。。。よく〳〵よく〳〵よくよく謀謀はかりごとををを廻廻めぐらしらしらし、、、勢勢せいををを催催もよおししし、、、後後ご日日にちににに寄寄よせせせらるらるらるべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと、、、ほどほどほどををを延延のばばばさささんんんががが爲爲ためににに、、、長長なが々々ながとととこそこそこそ僉僉せん議議ぎしししたりたりたりけれけれけれ。。。
- 3こゝこゝここににに乘乘じょう圓圓えん坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り慶慶けい秀秀しゅうははは、、、衣衣ころもののの下下したににに萌萌もよ黄黄ぎ匂匂においののの腹腹はら卷卷まきををを著著き、、、大大おおきききなるなるなる打打うち刀刀がたな前前まえ垂垂だれにににさしさしさしほらしほらしほらし、、、白白しら柄柄えののの長長なぎ刀刀なた杖杖つえにににつきつきつき、、、僉僉せん議議ぎののの庭庭にはににに進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「證證しょう據據こををを外外ほかににに引引ひくくくべからべからべからずずず。。。まづまづまずわがわがわが寺寺てらののの本本ほん願願がん天天てん武武む天天てん皇皇のう、、、未未いまだだだ東東とう宮宮ぐうののの御御おん時時とき、、、大大おお友友ともののの皇皇おう子子じににに襲襲おそははわれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、芳芳よし野野のののの奧奧おくををを出出いでででさせさせさせ給給たまひひいててて、、、大大やま和和とののの國國くに宇宇う多多だののの郡郡こおりををを過過すぎぎぎさせさせさせ給給たまふふうにににははは、、、そのそのその勢勢せい僅僅わずかににに十十じゅう七七しち騎騎き、、、されどもされどもされども伊伊い賀賀が、、、伊伊い勢勢せにににうちうちうち越越こえええ、、、美美み濃濃の、、、尾尾お張張はりののの軍軍ぐん兵兵びょうををを以以もっててて大大おお友友ともののの皇皇おう子子じををを亡亡ほろぼしぼしぼしててて、、、遂遂ついににに位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまひひいききき。。。窮窮きゅう鳥鳥ちょう懷懷ふところににに入入いるるる、、、人人じん倫倫りんこれこれこれをををあはれむあはれむあわれむととといふいふいう本本ほん文文もんありありあり。。。自自じ餘餘よははは知知しらららずずず、、、慶慶けい秀秀しゅうががが門門もん徒徒とにににおいおいおいてててははは、、、今今こ夜夜よい六六ろく波波は羅羅らにににおしおしおし寄寄よせせせててて打打うち死死じにせせせよよよややや。。。」」」とととぞぞぞ僉僉せん議議ぎしししけるけるける。。。圓圓えん滿滿まん院院いんののの大大たい輔輔ふ源源げん覺覺かく進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「僉僉せん議議ぎ端端はし多多おおししし、、、たゞたゞただ夜夜よののの更更ふくるくるくるににに、、、いそげいそげいそげややや、、、進進すすめめめ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 4まづまづまず搦搦からめ手手てににに向向むかふふう老老ろう僧僧そうどもどもどもののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさ、、、乘乘じょう圓圓えん坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り慶慶けい秀秀しゅう、、、律律りつ成成じょう坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り日日にち胤胤いん、、、帥帥そつののの法法ほっ師師し禪禪ぜん智智ち、、、禪禪ぜん智智ちががが弟弟で子子し義義ぎ寶寶ほう、、、禪禪ぜん永永ようををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい一一いっ千千せん人人にん、、、手手てににに手手てににに續續たい松松まつををを持持もつつっててて、、、如如にょ意意いががが峯峯みねへへへぞぞぞ向向むかひひいけるけるける。。。大大おお手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは嫡嫡ちゃく子子し伊伊い豆豆ずののの守守かみ仲仲なか綱綱つな、、、次次じ男男なん源源げん大大たい夫夫ふののの判判はん官官がん兼兼かね綱綱つな、、、六六ろく條條じょうののの藏藏くら人人うど仲仲なか家家いえ、、、そのそのその子子こ藏藏くら人人うど仲仲なか光光みつ。。。大大だい衆衆しゅにににははは圓圓えん滿滿まん院院いんののの大大たい輔輔ふ源源げん覺覺かく、、、成成じょう喜喜き院院いんののの荒荒あら土土と佐佐さ、、、律律りつ成成じょう坊坊ぼうののの伊伊い賀賀がののの公公きみ、、、法法ほう輪輪りん院院いんののの鬼鬼おに佐佐さ渡渡ど、、、これらこれらこれらははは力力ちからのののつよさつよさつよさ、、、弓弓ゆみ箭箭や、、、打打うち物物もの取取とつつってててははは、、、いかなるいかなるいかなる鬼鬼おににににももも神神かみにににもももあふあふあうととといふいふいう、、、一一いち人人にん當當とう千千せんののの兵兵つわものなりなりなり。。。
- 5平平びょう等等どう院院いんにににははは因因いな幡幡ばののの律律りつ者者しゃ荒荒こう大大たい夫夫ふ、、、角角すみののの六六ろく郎郎ろう房房ぼう、、、島島しまののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り、、、筒筒つつ井井い法法ほっ師師しににに、、、郷郷きょうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り、、、惡惡あく少少しょう納納な言言ごん、、、北北きたののの院院いんにににははは金金こん光光こう院院いんののの六六ろく天天てん狗狗ぐ、、、式式しき部部ぶ大大たい輔輔ふ、、、能能の登登と、、、加加か賀賀が、、、佐佐さ渡渡ど、、、備備びん後後ご等等らなりなりなり。。。松松まつ井井いののの肥肥ひ後後ご、、、澄澄しょう南南なん院院いんののの筑筑ちく後後ご、、、賀賀が屋屋やののの筑筑ちく前前ぜん、、、大大おお矢矢やののの俊俊とし長長なが、、、五五ご智智ち院院いんののの但但たじ馬馬ま、、、慶慶けい秀秀しゅうががが房房ぼう人人にん六六ろく十十じゅう人人にんののの中中うち、、、加加か賀賀が光光こう乘乘じょう、、、刑刑ぎょう部部ぶ春春しゅん秀秀しゅう、、、法法ほっ師師しばらばらばらにににははは一一いち來來らい法法ほっ師師しにににしかしかしかざりざりざりききき。。。堂堂どう衆衆しゅにににははは筒筒つつ井井いののの淨淨じょう妙妙みょう、、、明明みょう秀秀しゅう、、、小小お倉倉ぐらののの尊尊そん月月げつ、、、尊尊そん永永よう、、、玆玆じ慶慶けい、、、樂樂らく住住じゅう、、、鐵鐵かな拳拳こぶしののの玄玄げん永永よう、、、武武ぶ士士しにににははは渡渡わた邊邊なべののの省省はぶく、、、播播はり磨磨まののの次次じ郎郎ろう授授さずく、、、薩薩さつ摩摩まののの兵兵ひょう衞衞え長長ちょう七七しち唱唱となう、、、競競きおうののの瀧瀧たき口口ぐち、、、與與あたうののの右右う馬馬まののの允允じょう、、、續續つづくののの源源げん太太だ、、、淸淸きよし、、、進進すすむををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい一一いっ千千せん五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にん、、、三三み井井い寺寺でらをををこそこそこそうちうちうち立立たちちちけれけれけれ。。。
- 6寺寺てらにににははは宮宮みや入入いらららせせせ給給たまひひいててて後後のち、、、大大おお關關ぜき小小こ關關ぜき掘掘ほりりり切切きりりり、、、垣垣かい楯楯だてかきかきかき、、、逆逆さか木木もぎ引引ひきききたりたりたりけれけれければばば、、、堀堀ほりににに橋橋はし渡渡わたししし、、、逆逆さか木木もぎとりとりとりのけのけのけなどなどなどしししけるけるける程程ほどににに、、、時時じ刻刻こくおしおしおし移移うつつつっててて、、、關關せき路路じののの鷄鷄とり鳴鳴なきききあへあへあえりりり。。。伊伊い豆豆ずののの守守かみ、、、「「「こゝこゝここにににててて鳥鳥とり鳴鳴ないいいてててははは、、、六六ろく波波は羅羅らへへへははは白白はく晝晝ちゅうにににこそこそこそ寄寄よせせせんんんずれずれずれ。。。いかゞいかゞいかがせせせんんん。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、圓圓えん滿滿まん院院いんののの大大たい輔輔ふ源源げん覺覺かく、、、またまたまた先先さきののの如如ごとくくくににに進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「昔昔むかし秦秦しんののの昭昭しょう王王おう、、、孟孟もう嘗嘗しょう君君くんををを召召めししし縛縛いましめめめられられられたりたりたりしししににに、、、后后きさきののの御御おんたすけたすけたすけににに依依よつつっててて兵兵つわもの三三さん千千ぜん人人にんををを引引ひき具具ぐしししててて逃逃にげげげ免免まぬかれれれけるけるけるががが、、、程程ほどなくなくなく函函かん谷谷こく關關かんににに至至いたりりりぬぬぬ。。。異異い國國こくのののならひならひならいににに、、、鷄鷄とりののの鳴鳴なかかかぬぬぬかぎりかぎりかぎりははは、、、關關せきののの戸戸とををを開開ひらくくくことことことなしなしなし。。。このこのこの孟孟もう嘗嘗しょう君君くんががが三三さん千千ぜんののの客客かくののの中中なかににに田田でん甲甲こうととといふいふいう兵兵つわものありありあり。。。鷄鷄とりののの鳴鳴なくくくまねまねまねをををゆゝしうゆゝしうゆゆしゅうしししけれけれければばば、、、鷄鷄けい鳴鳴めいともともともいはいはいわれれれけりけりけり。。。かのかのかの鷄鷄けい鳴鳴めい、、、高高たかききき處處ところににに走走はしりりり上上あがりりり、、、鷄鷄とりののの鳴鳴なくくくまねまねまねをををゆゝしうゆゝしうゆゆしゅうしししたりたりたりけれけれければばば、、、關關せき路路じののの鷄鷄とり聞聞きききき傳傳つたへへえててて、、、みなみなみな鳴鳴なきききあへあへあえりりり。。。そのそのその時時とき關關せき守守もり、、、鳥鳥とりのののそらそらそらねねねににに誑誑はかささされれれててて、、、關關せきののの戸戸とををを開開あけけけてててぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。さればさればさればこれこれこれももも敵敵かたきののの謀謀はかりごとにににややや鳴鳴なかかかすすすらんらんらん、、、たゞたゞただ寄寄よせせせよよよややや。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 7斯斯かかりかりかりししし程程ほどににに五五さ月月つきののの短短みじか夜夜よなれなれなればばば、、、ほの〴〵ほの〴〵ほのぼのとととぞぞぞ明明あけけけにににけるけるける。。。伊伊い豆豆ずののの守守かみのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「夜夜よ討討うちにににこそこそこそさりともさりともさりともととと思思おもひひいつれつれつれ、、、晝晝ひる軍軍いくさにににはははいかにいかにいかにももも叶叶かなふふうまじまじまじ。。。あれあれあれ呼呼よびびび返返かえせせせややや。。。」」」とてとてとて、、、大大おお手手てははは松松まつ坂坂さかよりよりより取取とつつっててて返返かへししし、、、搦搦からめ手手てははは如如にょ意意いががが峯峯みねよりよりより引引ひき返返かえすすす。。。若若わか大大だい衆衆しゅ、、、惡惡あく僧僧そうどもどもども、、、「「「これこれこれははは一一いち如如にょ房房ぼうががが長長なが僉僉せん議議ぎにににこそこそこそ、、、夜夜よははは明明あけけけたりたりたり。。。そのそのその坊坊ぼう斬斬きれれれ。。。」」」とてとてとて、、、おしおしおし寄寄よせせせててて坊坊ぼうをををさん〴〵さん〴〵さんざんににに斬斬きるるる。。。防防ふせぐぐぐ所所ところののの弟弟で子子し、、、同同どう宿宿じゅく、、、皆皆みな討討うたたたれれれにににけりけりけり。。。わがわがわが身身み手手て負負おひひい、、、はふ〳〵はふ〳〵はうはう六六ろく波波は羅羅らへへへ參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よし訴訴うつたへへえ申申もうしししけれけれけれどもどもども、、、六六ろく波波は羅羅らにににははは軍軍ぐん兵兵びょう數數すう萬萬まん騎騎ぎ馳馳はせせせ集集あつまつまつまっててて、、、ちつちつちっとととももも騒騒さわぐぐぐ氣氣け色色しきもももししし給給たまははわずずず。。。
- 8さるさるさる程程ほどににに宮宮みやははは、、、山山さん門門もんははは心心こころがはりがはりがわりしつしつしつ、、、南南なん都都とははは未未いまだだだ參參まいらららずずず、、、このこのこの寺寺てらばかりばかりばかりでででははは、、、いかにいかにいかにもももかなふかなふかなうべからべからべからずずずとてとてとて、、、同同おなじきじきじき二二に十十じゅう三三さん日日にちののの曉曉あかつきがたがたがたににに三三み井井い寺寺でらををを出出いでででさせさせさせ給給たまひひいててて、、、南南なん都都とへへへ落落おちちちさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。このこのこの宮宮みやははは蟬蟬せみ折折おれ、、、小小こ枝枝えだとてとてとて、、、漢漢かん竹竹ちくののの笛笛ふえををを二二ふたつつつ持持もちちち給給たまへへえりりり。。。中中なかにににももも蟬蟬せみ折折おれははは昔昔むかし鳥鳥と羽羽ばののの院院いんののの御御おん時時とき、、、宋宋そう朝朝ちょうののの御御み門門かどへへへ砂砂しゃ金金きんををを多多おおくくく參參まいらつさらつさらつさせせせ給給たまひひいたりたりたりしかしかしかばばば、、、返返へん報報ぽうとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、生生いきききたるたるたる蟬蟬せみののの如如ごとくくくににに節節ふしのののつきつきつきたるたるたる笛笛ふえ竹竹たけををを、、、一一ひと節節よ參參まいらつさらつさらつさせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。これこれこれ程程ほどののの重重ちょう寶寶ほうををを、、、いかゞいかゞいかがさうさうそうなうなうのう彫彫えらららせせせらるらるらるべきべきべきとてとてとて、、、三三み井井い寺寺でらののの大大だい進進しんののの僧僧そう正正じょう覺覺かく宗宗しゅうににに仰仰おおせせせててて、、、壇壇だん上上じょうににに立立たててて、、、七七なぬ日日か加加か持持じしてしてして彫彫えらららせせせ給給たまへへえるるる御御おん笛笛ふえなりなりなり。。。あるあるある時時とき高高たか松松まつののの中中ちゅう納納な言言ごん實實さね平平ひらののの卿卿きょう參參まいつつっててて、、、このこのこの御御おん笛笛ふえををを吹吹ふかかかれれれけるけるけるににに、、、世世よののの常常つねののの笛笛ふえのののやうやうようににに思思おもひひい忘忘わすれれれててて、、、膝膝ひざよりよりより下下しもににに置置おかかかれれれたりたりたりけれけれければばば、、、笛笛ふえややや咎咎とがめめめけんけんけん、、、そのそのその時時とき蟬蟬せみ折折おれれれにににけりけりけり。。。さてさてさてこそこそこそ蟬蟬せみ折折おれとととははは召召めささされれれけれけれけれ。。。このこのこの宮宮みや笛笛ふえののの御御ご器器き量量りょうたるたるたるににに依依よつつっててて、、、御御ご相相そう傳傳でんありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。されどもされどもされども今今いまををを限限かぎりりりとととややや思思おぼし召召めささされれれけんけんけん、、、金金こん堂堂どうののの彌彌み勒勒ろくにににこめこめこめ參參まいらせらせらせ給給たまひひいけりけりけり。。。龍龍りゅう華華げののの曉曉あかつき、、、値値ち遇遇ぐののの御御おん爲爲ためかかかとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、あはれあはれあわれなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 9さるさるさる程程ほどににに宮宮みやははは、、、老老ろう僧僧そうどもどもどもにににはははみなみなみな暇暇いとま賜賜たまひひいててて、、、止止とどめめめさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。然然しかるるるべきべきべき若若わか大大だい衆衆しゅ、、、惡惡あく僧僧そうどもどもどもははは參參まいりりりけりけりけり。。。三三さん位位み入入にゅう道道どうののの一一いち類類るい、、、渡渡わた邊邊なべ黨黨とう、、、三三み井井い寺寺でらののの大大だい衆衆しゅ引引ひき具具ぐしししててて、、、そのそのその勢勢せい一一いっ千千せん五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にんとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。乘乘じょう圓圓えん坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り慶慶けい秀秀しゅうははは鳩鳩はとののの杖杖つえにににすがりすがりすがり、、、宮宮みやののの御御ご前前ぜんにににまゐりまゐりまいり、、、雙雙そう眼眼がんよりよりより涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「いづくいづくいずくまでまでまでももも御御おん供供とも仕仕つかまつるるるべうべうびょう候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、年年とし既既すでににに八八はち旬旬じゅんにににたけたけたけててて、、、行行ぎょう歩歩ぶいかにいかにいかにもももかなひかなひかない難難がたくくく候候そうらへへえばばば、、、弟弟で子子しででで候候そうろう刑刑ぎょう部部ぶ房房ぼう俊俊しゅん秀秀しゅうををを參參まいらせらせらせ候候そうらははわんんん。。。これこれこれははは一一ひと年年とせ平平へい治治じののの合合かっ戰戰せんののの時時とき、、、故故こ左左さ馬馬まののの頭頭かみ義義よし朝朝ともががが手手てににに候候そうらひひいててて、、、六六ろく條條じょう河河かわ原原らででで討討うち死死じに仕仕つかまつりりり候候そうらひひいししし、、、相相さが摸摸みののの國國くにののの住住じゅう人人にん山山やまののの内内うちののの須須す藤藤どう刑刑ぎょう部部ぶののの丞丞じょう俊俊とし通通みちががが子子こにににててて候候そうらひひいしししををを、、、聊聊いささかかかゆかりゆかりゆかり候候そうろうににに依依よつつっててて、、、あとあとあとふところふところふところにににててておほしおほしおおし立立たてててててて、、、心心こころののの底底そこまでまでまでもももよくよくよく知知しつつっててて候候そうらへへえばばば、、、いづくいづくいずくまでまでまでももも召召めししし具具ぐせせせられられられ候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。宮宮みやももも哀哀あわれれれににに思思おぼし召召めしししててて、、、「「「いついついつのののよしみよしみよしみににに、、、かくかくかくははは申申もうすすすらんらんらん。。。」」」とてとてとて御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
現代語訳
三井寺では宮がお入りになってから、大関・小関を掘り切って守りを固め、大衆が評議した。「そもそも延暦寺は心変わりした。南都はまだ来ない。このことが長引いてはまずいだろう。さあ今夜六波羅へ押し寄せて夜討ちにしよう。そういうことなら老若二手に分かれて、まず老僧たちは如意が峰から搦手へ向かえ。足軽どもを先に立てて白川の民家に火をかけて焼き払えば、京に駐在する者や六波羅の武士どもは、すわ事が起こったといって駆けつけるだろう。そのとき岩坂・桜本のあたりでしばらく食い止めて防ぎ戦っている間に、大手は松坂から伊豆守を大将軍として、若大衆・悪僧どもが六波羅へ押し寄せ、風上に火をかけて焼き払い、一気に攻めたてれば、どうして太政入道を焼き出して討ち取れないことがあろうか」と評議した。
ここに平家のための祈祷をしていた一如坊の阿闍梨真海は、弟子や同宿の僧数十人を引き連れて評議の場に進み出て申すには、「このように申せば、平家の味方と思われるでしょう。決してそうではございません。たとえそうであっても、どうして衆徒の義理を思い、わが寺の名を惜しまずにいられましょう。昔は源氏と平家が左右に争って朝廷の守りとなっていましたが、近ごろは源氏の運が傾き、平家が世を取って二十余年、天下になびかぬ草木もございません。それゆえ平家の館の様子を見ても、小勢ではたやすく攻め落とせません。よくよく計略を巡らし、軍勢を集めて、後日に攻め寄せるのがよろしいでしょう」と、時間を稼ぐために長々と論じたてた。
ここに乗円坊の阿闍梨慶秀は、衣の下に萌黄匂の腹巻を着け、大きな打刀を前に差し込み、白柄の長刀を杖について評議の場に進み出て、「証拠をよそに求めるまでもない。まずわが寺の本願の天武天皇は、まだ東宮であられたとき、大友皇子に襲われて吉野の奥をお出になり、大和国宇陀郡をお過ぎになったときには、その軍勢はわずか十七騎であったが、伊賀・伊勢へと越え、美濃・尾張の軍兵をもって大友皇子を滅ぼし、ついに位におつきになった。『窮鳥懐に入る、人倫これを哀れむ』という古い言葉がある。ほかの者は知らないが、慶秀の門徒においては、今夜六波羅に押し寄せて討ち死にせよ」と論じた。円満院の大輔源覚が進み出て、「評議は手間取りすぎる。夜が更けていくぞ、急げ、進め」と申した。
まず搦手に向かう老僧たちの大将軍には、源三位入道頼政、乗円坊の阿闍梨慶秀、律成坊の阿闍梨日胤、帥の法師禅智、禅智の弟子の義宝・禅永を先頭として、合わせてその勢一千人が、手に手に松明を持って如意が峰へ向かった。大手の大将軍には、嫡子の伊豆守仲綱、次男の源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子の蔵人仲光。大衆には円満院の大輔源覚、成喜院の荒土佐、律成坊の伊賀の公、法輪院の鬼佐渡。これらは力が強く、弓矢を取っても打物を取っても、どんな鬼神にも立ち向かうという一人当千の兵である。
平等院には因幡の律者荒大夫、角の六郎房、島の阿闍梨、筒井法師に郷の阿闍梨、悪少納言。北の院には金光院の六天狗、式部大輔・能登・加賀・佐渡・備後らである。松井の肥後、澄南院の筑後、賀屋の筑前、大矢の俊長、五智院の但馬、慶秀の房人六十人の中では加賀光乗・刑部春秀、法師たちの中では一来法師にまさる者はいなかった。堂衆には筒井の浄妙明秀、小倉の尊月・尊永・慈慶・楽住、鉄拳の玄永。武士には渡辺の省・播磨次郎授・薩摩兵衛長七唱・競の滝口・与の右馬允・続の源太・清・進を先頭として、合わせてその勢一千五百余人が三井寺を出発した。
寺では宮がお入りになってから、大関・小関を掘り切り、垣楯を並べ、逆茂木を立てていたので、堀に橋を渡し、逆茂木を取りのけなどしているうちに時刻が移って、関路の鶏が鳴き始めた。伊豆守が「ここで鶏が鳴いては、六波羅へは真昼に攻め寄せることになる。どうしたものか」とおっしゃると、円満院の大輔源覚がまた先のように進み出て、「昔、秦の昭王が孟嘗君を捕らえて縛ったとき、后の助けで孟嘗君は兵三千人を連れて逃れ、まもなく函谷関に着いた。異国のならいで、鶏が鳴かないうちは関の戸を開けない。この孟嘗君の三千人の食客の中に田甲という者がいた。鶏の鳴きまねがたいそううまかったので、鶏鳴とも呼ばれた。その鶏鳴が高い所に走り上って鶏の鳴きまねを見事にしたので、関路の鶏がそれを聞き伝えてみな鳴き出した。そのとき関守は鶏の空鳴きにだまされて、関の戸を開けて通した。だからこれも敵の計略で鳴かせているのだろう。ただ攻め寄せよ」と申した。
そうしているうちに五月の短夜なので、ほのぼのと明けてしまった。伊豆守がおっしゃるには、「夜討ちでこそ何とかなると思っていたが、昼の戦いではとうてい勝ち目はあるまい。あれを呼び返せ」といって、大手は松坂から引き返し、搦手は如意が峰から引き返した。若大衆・悪僧どもは、「これは一如房の長評議のせいで夜が明けてしまったのだ。その坊を斬れ」といって押し寄せて、坊をさんざんに打ち壊した。防いだ弟子や同宿はみな討たれてしまった。真海自身も傷を負い、ほうほうの体で六波羅へ参ってこのことを訴えたが、六波羅には軍兵数万騎が馳せ集まっていて、少しも騒ぐ様子はなかった。
そうするうちに宮は、延暦寺は心変わりした、南都はまだ来ない、この寺だけではどうにもならないといって、同じ月の二十三日の明け方に三井寺をお出になって、南都へお逃げになった。この宮は蝉折・小枝という漢竹の笛を二本持っておられた。中でも蝉折は、昔鳥羽院の御代に宋の皇帝へ砂金をたくさん贈られたところ、その返礼であろうか、生きた蝉のような形の節がついた笛竹を一節贈られたものである。これほどの重宝をどうしてたやすく彫らせられようかといって、三井寺の大進僧正覚宗に命じて壇上に立て、七日間加持してから彫らせなさった御笛である。あるとき高松中納言実平卿が参ってこの御笛を吹かれたとき、ふつうの笛のように思ってうっかり膝より下に置かれたので、笛がとがめたのであろうか、そのとき蝉の形の節が折れてしまった。それで蝉折と呼ばれたのである。この宮は笛の名手であられたので、この笛を伝えられたのだという。けれども今を最後とお思いになったのであろうか、金堂の弥勒菩薩にお納めになった。弥勒の龍華三会の暁に再びめぐり会うためであろうかと思われて、哀れなことであった。
そうして宮は、老僧たちにはみな暇を与えて残らせなさった。しかるべき若大衆・悪僧どもはお供した。三位入道の一族、渡辺党、三井寺の大衆を引き連れて、その勢は一千五百余人と聞こえた。乗円坊の阿闍梨慶秀は鳩の杖にすがって宮の御前に参り、両眼から涙をはらはらと流して申すには、「どこまでもお供いたすべきでございますが、年はすでに八十を過ぎて、歩くこともかないませんので、弟子の刑部房俊秀を差し上げましょう。これは先年平治の合戦のとき、故左馬頭義朝の手に属して六条河原で討ち死にいたしました、相模国の住人山内須藤刑部丞俊通の子でございますが、いささか縁がありまして、幼いころから懐で育ててきて、心の底までよく知っておりますので、どこまでもお連れください」といって、涙をおさえて寺にとどまった。宮も哀れにお思いになって、「いつのよしみでこのように言ってくれるのか」といって、涙を抑えかねておられた。
意訳
三井寺の大衆が六波羅への夜討ちを評議し、出陣する場面である。平家方の一如坊真海は長々と慎重論を述べて時を稼ぎ、乗円坊慶秀は天武天皇の故事と「窮鳥懐に入る」の言葉を引いて出撃を訴える。勇将・悪僧たちの名が列挙され、合戦の前の高揚感が伝わってくる。
しかし出陣の準備に手間取るうちに夜が明け、夜討ちは失敗に終わる。孟嘗君の「鶏鳴狗盗」の故事を引いて強行を説く源覚の言葉もむなしく、怒った若大衆は真海の坊を打ち壊した。以仁王は南都に望みをかけて三井寺を出るが、名笛「蝉折」を金堂の弥勒に納め、老いた慶秀は弟子を託して涙ながらに別れる。悲劇の結末を予感させる別れの場面である。
語釈・文法注
文法
- 「窮鳥懷に入る、人倫これをあはれむ」
- 追い詰められた鳥が懐に飛び込んできたら、人はこれを憐れむ。頼ってきた者は見捨てないというたとえ。『顔氏家訓』による。
- 「續松」
- 「たいまつ」。松明。
- 「澄南院」
- 底本の頭注に「澄は證の誤り」とある。底本の表記のまま翻刻した。
- 「鷄鳴」
- 孟嘗君の食客で、鶏の鳴きまねがうまかった者。「鶏鳴狗盗」の故事。
- 「參らつさせ」
- 「参らせさせ」の転か。差し上げなさる。
- 「龍華の曉」
- 釈迦入滅から五十六億七千万年後に弥勒菩薩が下生し、龍華樹の下で説法するとき。
- 「あとふところ」
- 後ろから懐に抱くように、幼いころから大切に育てること。
解説
治承四年(1180)五月二十三日、以仁王と頼政は三井寺を出て南都(興福寺)に向かった。延暦寺の離反によって三井寺での籠城は困難となり、興福寺の支援に望みを託したのである。以仁王が金堂の弥勒に納めたという「蝉折」の笛は、園城寺に伝わるとされる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、440–445頁(コマ249–251)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日