平家物語 巻第四
南都返牒の事
興福寺の大衆は一致して三井寺に返牒を送った。返牒は、清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵り、祖父正盛以来の平家の卑しい出自から、清盛が権勢を極めて法皇を幽閉し関白を流すまでの悪行を数えあげた。そして、興福寺も軍勢を整えて進発するので、三井寺は陣を固めて待つように、と励ました。
- 1南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅこのこのこの狀狀じょうををを披披ひ見見けんしてしてして、、、一一いち味味み同同どう志志しににに僉僉せん議議ぎしてしてして、、、やがてやがてやがて返返へん牒牒ちょうをををこそこそこそ送送おくりりりけれけれけれ。。。そのそのその返返へん牒牒ちょうにににいはくいはくいわく、、、「「「興興こう福福ぶく寺寺じ牒牒ちょうすすす。。。園園おん城城じょう寺寺じののの衙衙が。。。來來らい牒牒ちょう一一いっ紙紙しににに載載のせせせられられられたりたりたり。。。右右みぎ入入にゅう道道どう淨淨じょう海海かいががが爲爲ためににに、、、貴貴き寺寺じののの佛佛ぶつ法法ぽうををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんんととと欲欲ほっするするするよしよしよしのののことことこと牒牒ちょうすすす。。。玉玉ぎょく泉泉せん、、、玉玉ぎょく花花か、、、兩兩りょう家家けののの宗宗しゅう義義ぎををを立立たつつつととと雖雖いえどももも、、、金金きん章章しょう、、、金金きん句句く、、、同同おなじうじうじゅう一一いち代代だいののの教教きょう文文もんよりよりより出出いでででたりたりたり。。。南南なん京京きょう、、、北北ほく京京きょう、、、共共ともににに以以もっててて如如にょ來來らいののの弟弟で子子したりたりたり。。。自自じ寺寺じ、、、他他た寺寺じ、、、互互たがいににに調調ちょう達達たつががが魔魔ま障障しょうををを伏伏ふくすすすべしべしべし。。。抑抑そもそも淸淸きよ盛盛もり入入にゅう道道どうははは平平へい氏氏じののの糟糟そう糠糠こう、、、武武ぶ家家けののの塵塵じん芥芥かいなりなりなり。。。祖祖そ父父ふ正正まさ盛盛もり、、、藏藏くら人人うど五五ご位位いののの家家いえににに仕仕つかへへえててて、、、諸諸しょ國國こく受受じゅ領領りょうののの鞭鞭むちををを執執とるるる。。。大大おお藏藏くら卿卿きょう爲爲ため房房ふさ加加か州州しゅう刺刺し史史しのののいにしへいにしへいにしえ、、、檢檢け非非び所所しょににに補補ふししし、、、修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ顯顯あき季季すえ播播はり磨磨まののの大大たい守守しゅたりたりたりししし昔昔むかし、、、廏廏うまやののの別別べつ當當とう職職しきににに任任にんずずず。。。しかるしかるしかるををを親親しん父父ぶ忠忠ただ盛盛もり昇昇しょう殿殿でんををを許許ゆるささされれれししし時時とき、、、都都と鄙鄙ひののの老老ろう少少しょう、、、みなみなみな蓬蓬ほう戸戸こののの瑕瑕か瑾瑾きんををを惜惜おしみしみしみ、、、内内ない外外げののの英英えい豪豪ごう、、、各各おのおの馬馬ば臺臺だいののの讖讖しん文文もんににに泣泣なくくく。。。忠忠ただ盛盛もり靑靑せい雲雲うんののの翅翅つばさをををかきかきかきつくろふつくろふつくろうととといへいへいえどもどもども、、、世世よののの民民たみなほなほなお白白はく屋屋おくののの種種たねををを輕輕かろんんんずずず。。。名名なををを惜惜おしむしむしむ靑靑せい侍侍じ、、、そのそのその家家いえををを望望のぞむむむ事事ことなしなしなし。。。
- 2然然しかれれればばばすなはちすなはちすなわち去去さんんんぬるぬるぬる平平へい治治じ元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ、、、太太だい上上じょう天天てん皇皇のう一一いっ戰戰せんののの功功こうををを感感かんじじじててて、、、不不ふ次次じののの賞賞しょうををを授授さずけけけ給給たまひひいしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、高高たかくくく相相しょう國國こくににに上上のぼつつっててて、、、兼兼かねねねててて兵兵ひょう仗仗じょうををを賜賜たまはるはるわる。。。男男なん子子し或或あるいははは台台たい階階かいををを辱辱かたじけのうううししし、、、或或あるいははは羽羽う林林りんににに列列つらなりなりなり、、、女女にょ子子し或或あるいははは中中ちゅう宮宮ぐう職職しきににに備備そなはりはりわり、、、或或あるいははは准准じゅ后后ごうののの宣宣せんををを蒙蒙こうぶるるる。。。羣羣くん弟弟てい庶庶しょ子子しみなみなみな棘棘きょく路路ろににに歩歩あゆみみみ、、、そのそのその孫孫まご、、、かのかのかの甥甥おい、、、悉悉ことごとくくく竹竹ちく符符ふををを割割さくくく。。。しかのみならずしかのみならずしかのみならず九九きゅう州州しゅうををを統統とう領領りょうししし、、、百百はく司司しををを進進しん退退たいしてしてしてみなみなみな奴奴ぬ婢婢び僕僕ぼく從從じゅうとととすすす。。。一一いち毛毛もう心心こころににに違違たがへへえばばば、、、王王おう侯侯こうととといへいへいえどもどもどもこれこれこれををを捕捕とらへへえ、、、片片へん言言げん耳耳みみににに逆逆さからふれらふれらうればばば、、、公公く卿卿ぎょうととといへいへいえどもどもどもこれこれこれををを搦搦からむむむ。。。これこれこれににに依依よつつっててて或或あるいははは一一いっ旦旦たんののの身身しん命命みょうををを延延のべべべんんんがががためためため、、、或或あるいははは片片へん時時じののの凌凌りょう蹂蹂じゅうををを遁遁のがれれれんんんととと思思おもうううててて、、、萬萬ばん乘乘じょうののの聖聖せい主主しゅなほなほなお面面めん轉轉てんののの媚媚こびをををなしなしなし、、、重重じゅう代代だいののの家家か君君くんかへつてかへつてかえって膝膝しっ行行こうののの禮禮れいをををいたすいたすいたす。。。代代だい々々だい相相そう傳傳でんののの家家か領領りょうををを奪奪うばふふうととといへいへいえどもどもども、、、上上じょう宰宰さいももも恐恐おそれれれててて舌舌したををを捲捲まききき、、、宮宮みや々々みや相相そう承承じょうののの莊莊しょう園園えんををを取取とるるるととといへいへいえどもどもども、、、權權けん威威いををを憚憚はばかつつってててものものものいふいふいう事事ことなしなしなし。。。
- 3勝勝かちちちににに乘乘のるるるあまりあまりあまり、、、去去こ年年ぞののの冬冬ふゆ十十じゅう一一いち月月がつ太太だい上上じょう皇皇かうのののすみかすみかすみかををを追追つい捕捕ぶしてしてして、、、博博はく陸陸りく公公こうののの身身みをををおしおしおしながすながすながす。。。叛叛ほん逆逆ぎゃくののの甚甚はなはだしきしきしきことことこと、、、まことまことまことににに古古こ今今こんににに絶絶たえええたりたりたり。。。そのそのその時時ときわれらわれらわれら、、、すべからくすべからくすべからく賊賊ぞく衆衆しゅににに行行ゆききき向向むかつつっててて、、、そのそのその罪罪つみををを問問とふふうべしべしべしととといへいへいえどもどもども、、、或或あるいははは神神しん慮慮りょににに相相あい憚憚はばかりりり或或あるいははは綸綸りん言言げんととと稱稱しょうするするするににに依依よつつっててて、、、鬱鬱うつ陶陶とうををを抑抑おさへへえててて光光こう陰陰いんををを送送おくるるる閒閒あいだ、、、かさねかさねかさねててて軍軍ぐん兵兵びょうををを起起おこしししててて、、、一一いち院院いん第第だい二二にののの親親しん王王のう宮宮ぐうをををうちうちうち圍圍かこむむむ所所ところににに、、、八八や幡幡はた三三さん所所じょ、、、春春かす日日が大大だい明明みょう神神じん、、、ひそかひそかひそかににに影影よう向向ごうををを垂垂たれれれ、、、仙仙せん蹕蹕ぴつをををさゝげさゝげささげ奉奉たてまつりりり、、、貴貴き寺寺じににに送送おくりりりつけつけつけててて、、、新新しん羅羅らののの扉扉とびらににに預預あずけけけ奉奉たてまつるるる。。。王王おう法法ぼうつきつきつきざるざるざる旨旨むねあきらけしあきらけしあきらけし。。。依依よつつっててて貴貴き寺寺じ、、、身身しん命命みょうををを棄棄すてててててて守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるる條條じょう、、、含含がん識識しきののの類類たぐい、、、誰誰たれかかか隨隨ずい喜喜きせせせざらざらざらんんん。。。
- 4このこのこの時時ときわれらわれらわれら遠遠えん域域いきにににあつあつあっててて、、、そのそのその情情なさけををを感感かんずるずるずる所所ところににに、、、淸淸きよ盛盛もり公公こうなほなほなお兇兇きょう器器きををを起起おこしししててて、、、貴貴き寺寺じににに入入いらららんんんととと欲欲ほっするするするよしよしよし、、、ほのかほのかほのかににに傳傳つたへへえ承承うけたまわるるるににに依依よつつっててて、、、かねかねかねててて用用よう意意いををを致致いたすすす。。。十十じゅう八八はち日日にち辰辰たつののの一一いっ點點てんににに大大だい衆衆しゅををを發發はっししし、、、諸諸しょ寺寺じににに牒牒ちょう奏奏そうししし、、、末末まつ寺寺じににに下下げ知知じしてしてして、、、軍軍ぐん士士しををを得得えててて後後のち、、、案案あん内内ないををを達達たつせせせんんんととと欲欲ほっするするする所所ところににに、、、靑靑せい鳥鳥ちょう飛飛とびびび來來きたつつっててて芳芳ほう翰翰かんををを投投なげげげたりたりたり。。。數數すう日日じつののの鬱鬱うつ念念ねん一一いち時時じににに解解げ散散さんすすす。。。かのかのかの唐唐とう家家け淸淸しょう涼涼りょう一一いっ山山さんののの苾苾ひっ芻芻すう、、、なほなほなお武武ぶ宗宗そうののの官官かん兵兵ぺいをををかへすかへすかえす。。。いはんいはんいわんややや和和わ國國こく南南なん北北ぼく兩兩りょう門門もんののの衆衆しゅ徒徒と、、、何何なんぞぞぞ謀謀ぼう臣臣しんののの邪邪じゃ類類るいををを拂拂はらははわざらざらざらんんん。。。よくよくよく梁梁りょう園園えん左左そ右右うののの陣陣じんををを固固かためめめててて、、、よろしくよろしくよろしくわれらわれらわれらががが進進しん發發ぱつののの告告つげげげををを待待まつつつべしべしべし。。。狀狀じょうををを察察さつしししててて疑疑ぎ貽貽たいをををなすなすなすことことことなかれなかれなかれ。。。以以もっててて牒牒ちょうすすす、、、件件くだんののの如如ごとししし。。。治治じ承承しょう四四し年年ねん五五ご月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、大大だい衆衆しゅ等等ら。。。」」」とととぞぞぞ書書かきききたりたりたりけるけるける。。。
現代語訳
南都の大衆はこの牒状を読んで、心を一つにして評議し、すぐに返牒を送った。その返牒にいうには、「興福寺より牒す。園城寺の役所へ。来た牒状は一紙に記されていた。右の件、入道浄海のために、貴寺の仏法を滅ぼされようとしていることを牒された。玉泉(天台)・玉花(法相)の両家はそれぞれの宗義を立てているが、尊い経文はともに釈迦一代の教えから出たものである。南都・北京(園城寺)は、ともに如来の弟子である。自寺・他寺の区別なく、互いに提婆達多のような仏法の敵を降伏させるべきである。そもそも清盛入道は平氏の酒かすやぬか、武家のちりあくたのような者である。祖父の正盛は蔵人五位の家に仕えて、諸国の受領の鞭を執る身であった。大蔵卿為房が加賀守であったときには検非違所に任じられ、修理大夫顕季が播磨守であったときには厩の別当職に任じられた。ところが父の忠盛が昇殿を許されたとき、都も田舎も老いも若きも、みな賤しい家柄の者が昇殿することを惜しみ、内外のすぐれた人々は、おのおの馬台の讖文(世が乱れるという予言)を思って泣いた。忠盛は青雲の翼を整えて出世したけれども、世の人々はやはり賤しい家の出だと軽んじた。名を惜しむ青侍は、その家に仕えようとはしなかった。
ところが去る平治元年(1159)十二月、太上天皇(後白河院)が一戦の功を感じて、破格の恩賞を与えられてからこのかた、高く太政大臣に昇り、さらに兵仗を賜った。男子はあるいは大臣の位をかたじけなくし、あるいは近衛の将に列なり、女子はあるいは中宮となり、あるいは准后の宣旨を受けた。弟たちや庶子はみな公卿の列に加わり、孫や甥はことごとく国守となった。そればかりか九州を支配し、百官を思うままにして、みな召使いとした。少しでも心に背けば、王侯であっても捕らえ、一言でも耳に逆らえば、公卿であっても縛り上げる。そのため、あるいはしばらくでも命を長らえるため、あるいはしばしの辱めを逃れようとして、天子でさえなお顔色をうかがってこびへつらい、代々の家の主もかえって膝で進むような礼を尽くす。代々相伝の家領を奪っても、大臣も恐れて舌を巻き、宮々に伝わる荘園を取っても、権威をはばかってものを言う者はいない。
勝ちに乗じるあまり、去年の冬十一月には太上皇(後白河法皇)の御所を襲って捕らえ、関白(基房)の身を流した。謀叛のはなはだしいことは、まことに古今に例がない。そのときわれらは、すぐにも賊の衆に向かってその罪を問うべきであったが、あるいは神慮をはばかり、あるいは綸言と称されたので、憤りを抑えて月日を送っていたところ、重ねて軍兵を起こして一院の第二の親王宮を取り囲んだところに、八幡三所・春日大明神がひそかに姿を現して、宮のお出ましをお守りし、貴寺に送り届けて新羅明神の扉にお預けになった。王法が尽きていないことは明らかである。そこで貴寺が身命を捨てて宮をお守り申すことを、心ある者で誰が喜ばない者があろうか。
このときわれらは遠く離れていて、その情けに感じていたところ、清盛公がなお凶器を起こして貴寺に攻め入ろうとしているとかすかに伝え聞いたので、かねてから用意をしていた。十八日の辰の一点(午前七時ごろ)に大衆を出発させ、諸寺に牒状を送り、末寺に命じて、兵を集めた後にお知らせしようとしていたところに、使いが来てお手紙を届けてくれた。数日来の憂いが一度に晴れた。あの唐の清涼山の僧たちでさえ、武宗の官兵を追い返した。まして日本の南北両門の衆徒が、どうして謀臣の悪党どもを払いのけずにいられようか。よく梁園(園城寺)の左右の陣を固めて、われらが進発の知らせを待たれよ。この状を察して疑うことのないように。以上牒す、件のとおり。治承四年五月二十一日、大衆等」と書いてあった。
意訳
興福寺から三井寺への返牒である。清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒し、祖父正盛が受領の家人にすぎなかったこと、父忠盛の昇殿が人々に嘆かれたことなど、平家の出自の卑しさをことさらに強調している。続いて清盛の栄華と専横、後白河法皇の幽閉と関白基房の配流を列挙して、その罪を責める。
藤原氏の氏寺である興福寺にとって、藤氏長者基房の配流は耐えがたい屈辱であった。この返牒の激しい言葉は、のちの清盛による南都焼き討ち(巻第五「奈良炎上」)への伏線ともなっていく。
語釈・文法注
文法
- 「玉泉、玉花」
- 玉泉は天台宗の祖智顗が住んだ玉泉寺、玉花は法相宗の祖玄奘が住んだ玉華宮。天台宗(園城寺)と法相宗(興福寺)をいう。
- 「調達が魔障」
- 調達は提婆達多。釈迦に敵対した弟子で、仏法の妨げをする者のたとえ。
- 「糟糠」「塵芥」
- 酒かすとぬか、ちりとあくた。取るに足りない卑しいもののたとえ。
- 「馬臺の讖文」
- 「野馬台詩」と呼ばれる予言の詩。日本の国が衰え、卑しい者が上に立つことを予言したとされる。
- 「白屋の種」
- 白い(飾りのない)粗末な家の出、身分の低い家柄。
- 「棘路」
- 公卿の位。
- 「竹符を割く」
- 国守に任じられること。
- 「博陸公」
- 関白の唐名。藤原基房をいう。
- 「靑鳥」
- 使者、手紙を運ぶ使い。
- 「苾芻」
- 比丘、僧。
解説
興福寺は藤原氏の氏寺であり、治承三年の政変で関白基房が配流されたことに強く反発していた。以仁王の挙兵に際して興福寺は以仁王を支持し、大衆が上洛の準備をしたが、宇治での合戦(「橋合戦の事」)に間に合わなかった。治承四年(1180)十二月、清盛の命を受けた平重衡が南都を攻め、興福寺と東大寺は焼失する。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、438–440頁(コマ248–249)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日