平家物語 巻第四
南都への牒状の事
延暦寺の大衆は、末寺の三井寺が対等の「鳥の両翼」と書いたことに憤って返事もしなかった。清盛は座主明雲に大衆を鎮めさせ、近江米や北国の絹を贈って懐柔し、落書がその分配の不公平を皮肉った。三井寺は興福寺にも牒状を送り、清盛の暴虐と南都の長者配流を挙げて、ともに立つよう求めた。
- 1山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、このこのこの狀狀じょうををを披披ひ見見けんしてしてして、、、「「「こはこはこわいかにいかにいかに、、、當當とう山山ざんののの末末まつ寺寺じでででありありありながらながらながら、、、鳥鳥とりののの左左そ右右うののの翼翼つばさののの如如ごとくくく、、、またまたまた車車くるまののの二二ふたつつつののの輪輪わににに似似にたりたりたりととと、、、おさへおさへおさえててて書書かくくく條條じょう、、、これこれこれ以以もっててて奇奇き怪怪かいなりなりなり。。。」」」とてとてとて、、、返返へん牒牒ちょうにににももも及及およばばばずずず。。。そのそのその上上うえ入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、天天てん台台だい座座ざ主主す明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょうににに、、、衆衆しゅ徒徒とををを鎭鎭しずめめめらるらるらるべきべきべき由由よしのたまひのたまひのたまいけれけれければばば、、、座座ざ主主すいそぎいそぎいそぎ登登とう山山ざんしてしてして、、、大大だい衆衆しゅををを鎭鎭しずめめめ給給たまふふう。。。斯斯かかりかりかりししし程程ほどににに宮宮みやののの御御おん方方かたへへへははは、、、不不ふ定定じょうののの由由よしをををぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。またまたまた入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの謀謀はかりごとににに、、、近近おう江江み米米ごめ二二に萬萬まん石石ごく、、、北北ほっ國國こくののの織織おり延延のべ絹絹ぎぬ三三さん千千ぜん疋疋びき、、、往往おう來來らいののの爲爲ためににに山山さん門門もんへへへ寄寄よせせせらるらるらる。。。これこれこれををを谷谷たに々々だに嶺嶺みね々々みねへへへ引引ひかかかれれれけるけるけるににに、、、俄俄にはかののの事事ことにににてててありありありけれけれければばば、、、一一いち人人にんしてしてして數數あま多多た取取とるるる大大だい衆衆しゅもももありありあり、、、またまたまた手手てををを空空むなしうしうしゅうしてしてして、、、一一ひとつつつももも取取とらららぬぬぬ衆衆しゅ徒徒ともももありありあり。。。何何なに者者もののののしわざしわざしわざにににやややありありありけんけんけん、、、落落らく書書がきをををぞぞぞしししたりたりたりけるけるける。。。
- 2山山やま法法ほう師師しおりおりおりのべのべのべ衣衣ごろも薄薄うすくくくしてしてして恥恥はじをををばばばえええこそこそこそ隱隱かくさささざりざりざりけれけれけれ
- 3またまたまた絹絹きぬにににももも當當あたらららぬぬぬ大大だい衆衆しゅののの詠詠よみみみたりたりたりけるけるけるにににややや、、、
- 4織織おり延延のべををを一一ひときれきれきれももも得得えぬぬぬわれらわれらわれらさへさへさへうすうすうす恥恥はじをををかくかくかく數數かずににに入入いるるるかなかなかな
- 5またまたまた南南なん都都とへへへののの狀狀じょうにににいはくいはくいわく、、、「「「園園おん城城じょう寺寺じ牒牒ちょうすすす。。。興興こう福福ぶく寺寺じののの衙衙が。。。殊殊ことににに合合ごう力力りきををを致致いたしししててて、、、當當とう寺寺じののの破破は滅滅めつををを助助たすけけけられられられんんんととと乞乞こふふう狀狀じょう。。。右右みぎ佛佛ぶつ法法ぽうののの殊殊しゅ勝勝しょうなるなるなる事事ことははは、、、王王おう法法ぼうををを守守まもらららんんんがががためためため、、、王王おう法法ぼうまたまたまた長長ちょう久久きゅうなるなるなる事事ことははは、、、すなはちすなはちすなわち佛佛ぶつ法法ぽうににによるよるよる。。。こゝこゝここににに入入にゅう道道どう前前さきののの太太だい政政じょう大大だい臣臣じん平平たいらののの朝朝あ臣臣そん淸淸きよ盛盛もり公公こう、、、法法ほう名名みょう淨淨じょう海海かい、、、ほしいまゝほしいまゝほしいままににに國國こく威威いをををひそかひそかひそかにににししし、、、朝朝ちょう政政せいををを亂亂みだりりり、、、内内ないにににつけつけつけ、、、外外げにににつけつけつけ、、、怨怨うらみみみをををなしなしなし、、、歎歎なげきききをををなすなすなす閒閒あいだ、、、今今こん月月げつ十十じゅう五五ご日日にちののの夜夜よ、、、一一いち院院いん第第だい二二にののの皇皇おう子子じ不不ふ慮慮りょののの難難なんををを遁遁のがれれれんんんががが爲爲ためににに、、、俄俄にはかににに入入にゅう寺寺じせせせしめしめしめ給給たまふふう。。。こゝこゝここににに院院いん宣宣ぜんととと號號ごうしししててて出出いだししし奉奉たてまつるるるべきべきべき旨旨むね、、、頻頻しきりりりににに責責せめめめありありありととといへいへいえどもどもども、、、衆衆しゅ徒徒と一一いっ向向こう惜惜おしみしみしみ奉奉たてまつつつっててて、、、出出いだししし奉奉たてまつるるるににに能能あたははわずずず。。。依依よつつってててかのかのかの禪禪ぜん門門もん、、、武武ぶ士士しををを當當とう寺寺じへへへ入入いれれれんんんととと欲欲ほっすすす。。。佛佛ぶつ法法ぽうととといひいひいい、、、王王おう法法ぼうととといひいひいい、、、一一いち時時じにににまさにまさにまさに破破は滅滅めつせせせんんんととと欲欲ほっすすす。。。
- 6昔昔むかし唐唐とうののの會會かい昌昌しょう天天てん子子し、、、軍軍ぐん兵兵びょうをををもつもつもっててて佛佛ぶつ法法ぽうををを亡亡ほろぼさぼさぼさしめしめしめししし時時とき、、、淸淸しょう涼涼りょう山山せんののの衆衆しゅ合合かっ戰戰せんををを致致いたしししてててこれこれこれををを防防ふせぐぐぐ。。。王王おう權權けんなほなほなおかくかくかくののの如如ごとししし。。。いかにいかにいかにいはんいはんいわんややや謀謀む叛叛ほん八八はち逆逆ぎゃくののの輩輩ともがらににに於於おいてててをををややや。。。誰誰たれののの人人ひとかかか匡匡きょう正正せいすすすべきべきべきぞぞぞややや。。。なかんづくなかんづくなかんずく南南なん京京きょうははは例例れいなくなくなくしてしてして、、、罪罪つみなきなきなき長長ちょう者者じゃををを配配はい流流るせせせらるらるらる。。。このこのこの時時ときにににあらあらあらずずずんんんばばば、、、いづれいづれいずれののの日日ひかかか會會かい稽稽けいををを遂遂とげげげんんん。。。願願ねがはくはくわくははは衆衆しゅ徒徒と、、、内内うちにににははは佛佛ぶつ法法ぽうののの破破は滅滅めつををを助助たすけけけ、、、外外ほかにににははは惡惡あく逆逆ぎゃくののの叛叛ほん類類るいををを退退しりぞけけけばばば、、、同同どう心心しんののの至至いたりりり、、、本本ほん懷懷かいににに足足たんんんぬぬぬべしべしべし、、、衆衆しゅ徒徒とののの僉僉せん議議ぎ、、、かくかくかくののの如如ごとししし。。。依依よつつっててて牒牒ちょう奏奏そう件件くだんののの如如ごとししし。。。治治じ承承しょう四四し年年ねん五五ご月月がつ十十じゅう八八はち日日にち、、、大大だい衆衆しゅ等等ら。。。」」」とととぞぞぞ書書かきききたりたりたりけるけるける。。。
現代語訳
延暦寺の大衆はこの牒状を見て、「これはどうしたことか。当山の末寺でありながら、鳥の左右の翼のよう、また車の二つの輪に似ているなどと、勝手に書くとは、まことにけしからぬ」といって、返事もしなかった。そのうえ入道相国が天台座主明雲大僧正に、衆徒を鎮めるようにとおっしゃったので、座主は急いで登山して大衆を鎮められた。こうして宮のもとへは、味方するかどうかはっきりしないと申し送った。また入道相国の計略で、近江米二万石、北国の織延絹三千疋が、手なずけるために延暦寺へ贈られた。これを谷々・嶺々へ配ったところ、急なことであったので、一人で大量に取る大衆もあれば、手ぶらで一つも取れない衆徒もいた。誰のしわざであったか、落書が書かれた。
山法師の織延衣は薄くて、恥を隠すこともできないことだ。
また、絹の分け前にありつけなかった大衆が詠んだのであろうか、
織延の絹を一切れももらえなかったわれらまで、薄恥をかく仲間に入ってしまったよ。
また南都への牒状にいうには、「園城寺より牒す。興福寺の役所へ。特に力を合わせて当寺の破滅を救ってくださるよう願う状。右の件、仏法がすぐれていることは王法を守るためであり、王法がまた長く続くことは仏法によるのである。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海は、思うままに国の威光を私し、朝廷の政治を乱し、内につけ外につけ、恨みを買い嘆きを招いているので、今月十五日の夜、一院の第二皇子が思いがけない災難を逃れるために、急に当寺にお入りになった。ここに院宣と称して宮をお出し申せとしきりに責め立てられたが、衆徒はひたすら惜しみ申して、お出し申すことができない。そこであの禅門は武士を当寺へ差し向けようとしている。仏法も王法も、まさに一度に滅びようとしている。
昔、唐の会昌天子(武宗)が軍兵によって仏法を滅ぼそうとしたとき、清涼山の僧たちは合戦してこれを防いだ。王の権威に対してさえこのとおりである。まして謀叛・八逆の輩に対してはなおさらである。誰がこれを正さずにいられようか。とりわけ南都では先例もなく、罪のない長者(藤氏長者の基房)を配流された。今この時でなければ、いつの日に恥をすすぐことができようか。願わくは衆徒が、内には仏法の破滅を救い、外には悪逆の謀叛人を退けてくだされば、同心の至りとして本望を遂げることができよう。衆徒の評議は以上のとおりである。よって牒状は件のとおり。治承四年五月十八日、大衆等」と書いてあった。
意訳
三井寺の呼びかけに対する延暦寺の反応と、興福寺への牒状を記す章段である。延暦寺は、末寺と見なす三井寺が対等の立場で書いてきたことに反発し、清盛の懐柔策も受けて動かない。米や絹の分配の不公平をからかった二首の落書は、権力に操られる僧たちの姿を皮肉っている。
興福寺への牒状は、仏法と王法が互いに支え合うという考えを冒頭に掲げ、清盛を「謀叛八逆の輩」と断じて、唐の清涼山の僧が武宗の廃仏に抵抗した先例を引く。藤原氏の氏寺である興福寺に対しては、氏長者基房の配流を「會稽の恥」として、ともに立つよう訴えている。
語釈・文法注
文法
- 「おさへて書く條」
- 自分勝手に書いたこと。
- 「不定の由」
- 味方するかどうか決まらない、ということ。
- 「往來の爲に」
- つきあいのために、手なずけるために。
- 「會昌天子」
- 唐の武宗。会昌年間(841〜846)に大規模な廃仏(会昌の廃仏)を行った。
- 「會稽を遂げん」
- 「会稽の恥をすすぐ」。越王勾践が会稽山で呉王夫差に敗れた恥を、のちにすすいだ故事による。
和歌
山法師おりのべ衣薄くして恥をばえこそ隱さざりけれ
- 詠者
- (落書)
- 状況
- 清盛が延暦寺に贈った織延絹を、大衆が奪い合って分けたのを皮肉った落書。
修辞
- 掛詞
- 「おりのべ」に絹の名の「織延」と、山を「下りのべ」(下りる)ことを掛けるとも解される。絹が薄くて恥を隠せないことに、懐柔されて節を曲げた恥を重ねる。
織延を一きれも得ぬわれらさへうす恥をかく數に入るかな
- 詠者
- (絹をもらえなかった大衆)
- 状況
- 織延絹の分配にあずからなかった大衆が詠んだとされる歌。
修辞
- 縁語
- 「うす恥」の「うす」は絹の薄さと縁がある。何ももらえないのに、懐柔された山法師の仲間として恥をかくことを嘆く。
解説
延暦寺は以仁王の挙兵に協力せず、園城寺と興福寺が以仁王を支持した。清盛は延暦寺の懐柔に成功し、以仁王と頼政は孤立していく。なお物語は、延暦寺の大衆が牒状を読む場面を「南都への牒狀の事」の章段に含めている(底本の章段の区切りによる)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、437–438頁(コマ247–248)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日