平家物語 巻第四
山門への牒状の事
以仁王を迎えた三井寺では、大衆が集まって評議し、今こそ清盛の暴悪を戒める時だとして、延暦寺と興福寺に協力を求める牒状を送ることにした。延暦寺への牒状は、延暦寺と園城寺は鳥の両翼、車の両輪のように同じ天台の教えを学ぶ寺であるから、年来の遺恨を忘れて力を合わせてほしいと訴えた。
- 1さるさるさる程程ほどににに三三み井井い寺寺でらにににははは貝貝かい鐘鐘がね鳴鳴ならいらいらいててて、、、大大だい衆衆しゅ僉僉せん議議ぎすすす。。。「「「抑抑そもそも近近きん日日じつ世世せ上上じょうののの體體ていををを案案あんずるずるずるににに、、、佛佛ぶつ法法ぽうののの衰衰すい微微び、、、王王おう法法ぼうののの牢牢ろう籠籠ろう、、、まさにまさにまさにこのこのこの時時ときににに當當あたれれれりりり。。。今今こん度度ど入入にゅう道道どうののの暴暴ぼう惡惡あくををを戒戒いましめめめずずずばばば、、、いづれいづれいずれののの日日ひをををかかか期期ごすすすべきべきべき。。。宮宮みやこゝこゝここににに入入じゅ御御ぎょののの御御おん事事こと、、、正正しょう八八はち幡幡まん宮宮ぐうののの衞衞えい護護ご、、、新新しん羅羅ら大大だい明明みょう神神じんののの冥冥みょう助助じょにににあらあらあらずずずややや。。。天天てん衆衆しゅ、、、地地じ類類るいももも影影よう向向ごうををを垂垂たれれれ、、、佛佛ぶつ力力りき、、、神神しん力力りきももも降降ごう伏伏ぶくををを加加くわへへえましますましますまします事事こと、、、などなどなどかかかなからなからなからんんん。。。なかんづくなかんづくなかんずく北北ほく嶺嶺れいははは圓圓えん宗宗じゅう一一いち味味みののの學學がく地地ち、、、南南なん都都とははは夏夏げ臘臘ろう得得とく度度どののの戒戒かい場場じょうなりなりなり。。。牒牒ちょう奏奏そうののの所所ところににになどなどなどかかか與與くみせせせざるざるざるべきべきべき。。。」」」ととと、、、一一いち味味み同同どう心心しんににに僉僉せん議議ぎしてしてして、、、山山やまへへへももも奈奈な良良らへへへももも牒牒ちょう狀狀じょうをををこそこそこそ遣遣つかはしはしわしけれけれけれ。。。
- 2まづまづまず山山さん門門もんへへへののの狀狀じょうにににいはくいはくいわく、、、「「「園園おん城城じょう寺寺じ牒牒ちょうすすす。。。延延えん曆曆りゃく寺寺じののの衙衙が、、、ことにことにことに合合ごう力力りきををを致致いたしししててて、、、當當とう時時じののの破破は滅滅めつををを助助たすけけけられられられんんんととと思思おもふふう狀狀じょう。。。右右みぎ入入にゅう道道どう淨淨じょう海海かい、、、ほしいまゝほしいまゝほしいままににに佛佛ぶつ法法ぽうををを破破は滅滅めつししし、、、王王おう法法ぼうををを亂亂みだらららんんんととと欲欲ほっすすす。。。愁愁しゅう歎歎たんきはまりきはまりきわまりなきなきなき所所ところににに、、、今今こん月月げつ十十じゅう五五ご日日にちののの夜夜よ、、、一一いち院院いん第第だい二二にののの王王おう子子じ不不ふ慮慮りょののの難難なんををを遁遁のがれれれんんんががが爲爲ためににに、、、ひそかひそかひそかににに入入にゅう寺寺じせせせしめしめしめ給給たまふふう。。。こゝこゝここににに院院いん宣宣ぜんととと號號ごうしししててて、、、出出いだししし奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし、、、頻頻しきりりりににに責責せめめめありありありととといへいへいえどもどもども出出いだししし奉奉たてまつるるるににに能能あたははわずずず。。。依依よつつっててて官官かん軍軍ぐんををを放放はなちちち遣遣つかはすはすわすべきべきべき旨旨むね、、、そのそのその聞聞きこえええありありあり。。。當當とう寺寺じののの破破は滅滅めつ、、、まさにまさにまさにこのこのこの時時ときににに當當あたれれれりりり。。。諸諸しょ衆衆しゅ何何なんぞぞぞ愁愁しゅう歎歎たんせせせざらざらざらんんんややや。。。なかんづくなかんづくなかんずく延延えん曆曆りゃく、、、園園おん城城じょう兩兩りょう寺寺じははは、、、門門もん跡跡ぜき二二ふたつつつににに相相あい分分わかるるるととといへいへいえどもどもども、、、學學がくするするする所所ところははは、、、これこれこれ圓圓えん頓頓どん一一いち味味みののの教教きょう門門もんににに同同おなじじじ。。。譬譬たとへへえばばば鳥鳥とりののの左左そ右右うののの翼翼つばさののの如如ごとくくく、、、またまたまた車車くるまののの二二ふたつつつののの輪輪わににに似似にたりたりたり。。。一一いっ方方ぽう缺缺かけけけんんんにににおいおいおいてててははは、、、いかでいかでいかでかかかそのそのその歎歎なげきききなからなからなからんんんややや。。。ていれていれていればばば殊殊ことににに合合ごう力力りきををを致致いたしししててて、、、當當とう寺寺じののの破破は滅滅めつををを助助たすけけけられられらればばば、、、早早はやくくく年年ねん來來らいののの遺遺い恨恨こんををを忘忘わすれれれ、、、住住じゅう山山さんののの昔昔むかしににに復復ふくせせせんんん。。。衆衆しゅ徒徒とののの僉僉せん議議ぎかくかくかくののの如如ごとししし。。。依依よつつっててて牒牒ちょう奏奏そう件件くだんののの如如ごとししし。。。治治じ承承しょう四四し年年ねん五五ご月月がつ十十じゅう八八はち日日にち、、、大大だい衆衆しゅ等等ら。。。」」」とととぞぞぞ書書かいいいたりたりたりけるけるける。。。
現代語訳
そうするうちに三井寺では法螺貝と鐘を鳴らして大衆が評議した。「そもそも近ごろの世の様子を考えると、仏法の衰え、王法の乱れは、まさに今この時である。今度入道の暴悪を戒めなければ、いつの日を期そうというのか。宮がここにおいでになったのは、正八幡宮のご加護、新羅大明神のお助けではないか。天の神々も地の神々も姿を現し、仏の力も神の力も悪を降伏させてくださることが、どうしてないことがあろう。とりわけ北嶺(延暦寺)は天台宗を同じくする学問の地、南都(興福寺)は僧が修行し得度する戒の道場である。牒状を送れば、どうして味方しないことがあろうか」と、心を一つにして評議して、比叡山へも奈良へも牒状を送った。
まず延暦寺への牒状にいうには、「園城寺より牒す。延暦寺の役所へ、特に力を合わせて当寺の破滅を救っていただきたい旨の状。右の件、入道浄海は思うままに仏法を破り、王法を乱そうとしている。嘆ききわまりないところに、今月十五日の夜、一院の第二皇子が思いがけない災難を逃れるために、ひそかに当寺にお入りになった。ここに院宣と称して、宮をお出し申せとしきりに責め立てられたが、お出し申すことはできない。それで官軍を差し向けるとの噂がある。当寺の破滅はまさに今である。衆徒たちはどうして嘆かずにいられようか。とりわけ延暦寺と園城寺の両寺は、門跡は二つに分かれているが、学ぶところは同じ円頓の教えである。たとえば鳥の左右の翼のようであり、また車の二つの輪に似ている。一方が欠けたら、どうしてその嘆きがないことがあろうか。それゆえ特に力を合わせて当寺の破滅を救ってくだされば、すぐに年来の遺恨を忘れて、ともに山に住んだ昔に戻ろう。衆徒の評議は以上のとおりである。よって牒状は件のとおり。治承四年五月十八日、大衆等」と書いてあった。
意訳
三井寺が延暦寺に協力を求める牒状である。延暦寺と園城寺はともに天台宗であるが、平安時代中期に山門派と寺門派に分かれて激しく対立していた。牒状はその対立を「鳥の左右の翼」「車の二つの輪」にたとえて、ともに天台の教えを学ぶ同門として、年来の遺恨を忘れて協力してほしいと訴えている。漢文訓読調の格調高い文体で、以仁王を擁して平家に立ち向かう三井寺の決意を示している。
語釈・文法注
文法
- 「牢籠」
- 乱れて衰えること。
- 「新羅大明神」
- 園城寺の守護神。新羅明神。
- 「圓宗一味の學地」
- 天台宗(円宗)を同じくする学問の地。
- 「夏臘得度の戒場」
- 僧が夏安居の修行を重ね、得度して戒を受ける道場。
- 「衙」
- 役所。ここでは延暦寺の寺務所。
- 「ていれば」
- 「といへれば」の約。それゆえ、されば。
解説
延暦寺(山門)と園城寺(寺門)は、正暦四年(993)に円仁門徒と円珍門徒が争って円珍門徒が山を下りて以来、長く対立していた。治承四年(1180)の以仁王の挙兵に際し、園城寺は延暦寺・興福寺に協力を求めたが、延暦寺は平家に懐柔されて応じなかった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、435–437頁(コマ246–247)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日