平家物語 巻第四
競が事
頼政が謀叛を起こしたのは、宗盛が頼政の子仲綱の名馬「木の下」を無理に取り上げ、「仲綱」と焼き印して辱めたからであった。重盛の優雅なふるまいとは対照的である。頼政が三井寺へ去った後、取り残された郎等の渡辺競は宗盛に仕えるふりをして名馬「南鐐」を賜り、その馬で三井寺へ駆けつけた。南鐐は「平の宗盛入道」と焼き印されて六波羅へ送り返された。
- 1あくるあくるあくる十十じゅう六六ろく日日にち、、、高高たか倉倉くらののの宮宮みやののの御御ご謀謀む叛叛ほん起起おこさささせせせ給給たまひひいててて、、、三三み井井い寺寺でらへへへ落落おちちちさせさせさせ給給たまふふうぞぞぞやややととと申申もうすすすほどほどほどこそこそこそありありありけれけれけれ、、、京京きょう中中じゅうののの騒騒そう動動どうなのめなのめなのめならならならずずず。。。抑抑そもそもこのこのこの源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさははは、、、年年ねん來來らい日日ひ頃頃ごろもももあれあれあればばばこそこそこそありありありけめけめけめ、、、今今こ年年としいかなるいかなるいかなる心心こころにににててて謀謀む叛叛ほんをををばばば起起おこささされれれけるけるけるぞぞぞととといふいふいうににに、、、平平へい家家けののの次次じ男男なん宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうののの不不ふ思思し議議ぎのののことことことをををのみのみのみししし給給たまひひいけるけるけるににに依依よつつってててなりなりなり。。。さればさればされば人人ひとののの世世よにににあれあれあればばばとてとてとて、、、すゞろすゞろすずろにににいふいふいうまじきまじきまじきことことことをををいひいひいい、、、すすすまじきまじきまじき事事ことをををするするするははは、、、よく〳〵よく〳〵よくよく思思し慮慮りょあるあるあるべきべきべき事事ことなりなりなり。。。たとへたとへたとえばばばそのそのその頃頃ころ三三さん位位み入入にゅう道道どうののの嫡嫡ちゃく子子し伊伊い豆豆ずののの守守かみ仲仲なか綱綱つなのののもともともとににに、、、九九ここの重重へににに聞聞きこえええたるたるたる名名めい馬馬ばありありあり。。。鹿鹿か毛毛げなるなるなる馬馬うまのののならびならびならびなきなきなき逸逸いち物物もつ、、、乘乘のりりり走走はしりりり心心こころむけむけむけ、、、世世よにににあるあるあるべしべしべしともともとも覺覺おぼえええずずず。。。名名なをををばばば木木こののの下下したとととぞぞぞいはいはいわれれれけるけるける。。。
- 2宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう使使し者者じゃををを立立たてててててて、、、「「「聞聞きこえええ候候そうろう名名めい馬馬ばををを賜賜たまはつはつわっててて見見み候候そうらははわばやばやばや。。。」」」とととのたまひのたまひのたまい遣遣つかはさはさわされれれたりたりたりけれけれければばば、、、伊伊い豆豆ずののの守守かみののの返返へん事事じにににははは、、、「「「さるさるさる馬馬うまをををばばば持持もつつっててて候候そうらひひいしししををを、、、このこのこの程程ほどあまりあまりあまりににに乘乘のりりりつからかしつからかしつからかしててて候候そうろう程程ほどににに、、、しばらくしばらくしばらくいたはらいたはらいたわらせせせんんんががが爲爲ためににに、、、田田い舍舍なかへへへつかはしつかはしつかわしててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、さらさらさらんんんにににははは力力ちから及及およばばばずずずとてとてとて、、、そのそのその後後のちははは沙沙さ汰汰たなかりなかりなかりけるけるけるががが、、、多多おおくくくなみなみなみゐゐいたりたりたりけるけるける平平へい家家けののの侍侍さぶらいどもどもども、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれそのそのその馬馬うまははは一一お昨昨と日日ひももも候候そうらひひいししし、、、昨日昨日きのうももも見見みえええててて候候そうろう、、、けさけさけさももも庭庭にわ乘乘のりりりししし候候そうらひひいつるつるつる。。。」」」などなどなど、、、口口くち々々ぐちににに申申もうしししけれけれければばば、、、「「「さてさてさてははは惜惜おしむしむしむ、、、ござんなれござんなれござんなれ、、、にくしにくしにくし、、、乞乞こへへえ。。。」」」とてとてとて、、、侍侍さぶらいしてしてして馳馳はせせせさせさせさせ、、、文文ふみなどなどなどしてしてして、、、一一ひと時時ときががが中中うちににに五五ご六六ろく度度ど、、、七七しち八八はち度度どなどなどなど乞乞こははわれれれけれけれければばば、、、
- 3三三さん位位み入入にゅう道道どうこれこれこれををを聞聞きききき、、、伊伊い豆豆ずののの守守かみににに向向むかつつってててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「たとひたとひたとい金金こがねををを以以もってててまるめまるめまるめたるたるたる馬馬うまなりなりなりともともとも、、、それそれそれほどほどほど人人ひとののの乞乞こははわうううずるずるずるににに、、、惜惜おしむしむしむべきべきべきやうやうようやややあるあるある。。。そのそのその馬馬うま速速すみやかかかににに六六ろく波波は羅羅らへへへつかはせつかはせつかわせよよよ。。。」」」とととこそこそこそ宣宣のたまひひいけれけれけれ。。。伊伊い豆豆ずののの守守かみ力力ちから及及およばばばずずず、、、一一いっ首首しゅののの歌歌うたををを書書かききき添添そへへえててて、、、六六ろく波波は羅羅らへへへつかはさつかはさつかわさるるる。。。
- 4こひしくこひしくこいしくばばば來來きてててももも見見みよよよかしかしかし身身みににに添添そふるふるうるかげかげかげをををばばばいかゞいかゞいかが放放はなちちちやるやるやるべきべきべき
- 5宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう、、、まづまづまず歌歌うたののの返返へん事事じをををばばばししし給給たまははわででで、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれ馬馬うまややや、、、馬馬うまははは寔寔まことににによいよいよい馬馬うまでででありありありけりけりけり。。。されどもされどもされどもあまりあまりあまりににに惜惜おしみしみしみつるつるつるががが憎憎にくきききににに、、、主主ぬしががが名名な乘乘のりををを金金かな燒燒やきにににせせせよよよ。。。」」」とてとてとて、、、仲仲なか綱綱つなととといふいふいう金金かな燒燒やきをををしてしてして、、、廏廏うまやにににこそこそこそ立立たてててられられられけれけれけれ。。。客客まら人人うど來來きたつつっててて、、、「「「聞聞きこえええ候候そうろう名名めい馬馬ばををを見見み候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「そのそのその仲仲なか綱綱つなめめめににに鞍鞍くらおけおけおけ、、、引引ひききき出出いだせせせ、、、乘乘のれれれ、、、うてうてうて、、、はれはれはれ。。。」」」なんどなんどなんどぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 6伊伊い豆豆ずののの守守かみこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「身身みにににかへかへかへててて思思おもふふう馬馬うまなれなれなれどもどもども、、、權權けん威威いににについついついててて取取とらららるゝるゝるるさへさへさへあるあるあるににに、、、あまつさへあまつさへあまつさえ天天てん下下かののの笑笑わらはれはれわれぐさぐさぐさとととならならならんんんずるずるずる事事ことこそこそこそやすからやすからやすからねねね。。。」」」ととと大大おおきききににに憤憤いきどおららられれれけれけれければばば、、、三三さん位位み入入にゅう道道どうのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「なんでふなんでふなんじょう事事ことのののあるあるあるべきべきべきととと思思おもひひい侮侮あなずつつっててて、、、平平へい家家けののの人人ひとどもどもどもががが、、、かやうかやうかようのののしれしれしれごとごとごとをををするするするにににこそこそこそあんあんあんなれなれなれ。。。このこのこの儀儀ぎならならならばばば命命いのち生生いきききてててももも何何なににににかかかはははせせせんんん、、、便便びん宜宜ぎををを窺窺うかがふふうにににこそこそこそあらあらあらめめめ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、私私わたくしにににははは思思おもひひいももも立立たたたたれれれずずず、、、高高たか倉倉くらののの宮宮みやををを勸勸すすめめめ申申もうささされれれけるけるけるとととぞぞぞ、、、後後のちにににははは聞聞きこえええししし。。。
- 7これこれこれにににつきつきつきてててももも天天てん下下かののの人人ひと、、、小小こ松松まつののの大大おと臣臣どののの事事ことをををぞぞぞしのびしのびしのび申申もうしししけるけるける。。。あるあるある時時とき大大おと臣臣ど參參さん内内だいのののついでついでついでににに、、、中中ちゅう宮宮ぐうののの御御おん方方かたへへへ參參まいらせらせらせ給給たまふふうににに、、、八八はっ尺尺しゃくばかりばかりばかりありありありけるけるける蛇蛇くちなわののの、、、大大おと臣臣どののの指指さし貫貫ぬきののの左左ひだりののの輪輪わをををはひはひはいまはりまはりまわりけるけるけるををを、、、「「「重重しげ盛盛もり騒騒さわがががばばば女女にょう房房ぼうたちたちたちもももさわぎさわぎさわぎ、、、中中ちゅう宮宮ぐうももも驚驚おどろかかかせせせ給給たまひひいなななんんんずずず。。。」」」とととおぼしめしおぼしめしおぼしめし、、、左左ひだりののの手手てにににててて尾尾ををををおさへおさへおさえ、、、右右みぎののの手手てにににててて頭頭かしらををを取取とつつっててて、、、直直なお衣衣しののの袖袖そでののの中中うちへへへ引引ひき入入いれれれ、、、ちつちつちっとととももも騒騒さわがががずずず、、、ついついつい立立たつつっててて、、、「「「六六ろく位位いややや候候そうろう、、、六六ろく位位いややや候候そうろう。。。」」」ととと召召めささされれれけれけれければばば、、、伊伊い豆豆ずののの守守かみののの仲仲なか綱綱つな、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ衞衞え府府ふののの藏藏くら人人うどにににててて候候さぶらははわれれれけるけるけるががが、、、「「「仲仲なか綱綱つな。。。」」」ととと名名な乘乘のりりりててて參參まいららられれれたるたるたるににに、、、このこのこの蛇蛇くちなわをををたぶたぶたぶ。。。賜賜たまはつはつわっててて弓弓ゆ場場ば殿殿どのををを經經へててて、、、殿殿てん上上じょうののの小小こ庭庭にわににに出出いでででつゝつゝつつ、、、御御み倉倉くらののの小小こ舍舍とね人人りををを招招まねいいいててて、、、「「「これこれこれ賜賜たまはれはれわれ。。。」」」ととといはいはいわれれれけれけれければばば、、、大大おおきききににに頭頭かしらををを振振ふつつっててて逃逃にげげげ去去さりりりぬぬぬ。。。伊伊い豆豆ずののの守守かみ力力ちから及及およばばばずずず、、、わがわがわが郎郎ろう等等どうののの競競きおうををを召召めしししてててこれこれこれをををたぶたぶたぶ。。。賜賜たまはつはつわっててて捨捨すててててててけりけりけり。。。
- 8そのそのそのあしたあしたあした小小こ松松まつ殿殿どのよりよりより、、、よいよいよい馬馬うまににに鞍鞍くらおいおいおいててて、、、伊伊い豆豆ずののの守守かみのののもともともとへへへ遣遣つかはすはすわすとてとてとて、、、「「「さてさてさてももも昨日昨日きのうのののふるまひふるまひふるまいこそこそこそ、、、優優ゆうにににやさしうやさしうやさしゅう候候そうらひひいつれつれつれ。。。これこれこれははは乘乘のり一一いちののの馬馬うまででで候候そうろうぞぞぞ。。。夕夕ゆうべににに及及およんんんででで陣陣じん外外げよりよりより傾傾けい城城せいののの許許もとへへへ通通かよははわれれれんんん時時とき、、、用用もちゐゐいらるらるらるべしべしべし。。。」」」とてとてとて遣遣つかはさはさわさるるる。。。伊伊い豆豆ずののの守守かみ、、、大大おと臣臣どののの御御おん返返へん事事じなれなれなればばば、、、「「「御御おん馬馬うま畏畏かしこまつまつまっててて賜賜たまはりはりわり候候そうらひひいぬぬぬ。。。さてさてさてももも昨日昨日きのうののの御御おんふるまひふるまひふるまいははは、、、還還げん城城じょう樂樂らくにににこそこそこそ似似にててて候候そうらひひいしかしかしか。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。いかなれいかなれいかなればばば小小こ松松まつ殿殿どのはははかやうかやうかようににに優優ゆうなるなるなるためしためしためしもももおはせおはせおわせしししぞぞぞかしかしかし。。。このこのこの宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうはははさこそさこそさこそなからなからなからめめめ、、、人人ひとののの惜惜おしむしむしむ馬馬うま乞乞こひひい取取とつつっててて、、、あまつさへあまつさへあまつさえ天天てん下下かののの大大だい事事じににに及及およびびびぬるぬるぬるこそこそこそうたてけれうたてけれうたてけれ。。。
- 9さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にちののの夜夜よににに入入いつつっててて、、、源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさ、、、嫡嫡ちゃく子子し伊伊い豆豆ずののの守守かみ仲仲なか綱綱つな、、、次次じ男男なん源源げん大大たい夫夫ふののの判判はん官官がん兼兼かね綱綱つな、、、六六ろく條條じょうののの藏藏くら人人うど仲仲なか家家いえ、、、そのそのその子子こ藏藏くら人人うど太太た郎郎ろう仲仲なか光光みつ以以い下下げ、、、ひたひたひたかぶとかぶとかぶと三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、館館たちににに火火ひをををかけかけかけ燒燒やききき上上あげげげててて、、、三三み井井い寺寺でらへへへこそこそこそ參參まいららられれれけれけれけれ。。。こゝこゝここににに三三さん位位み入入にゅう道道どうののの年年とし頃頃ごろののの侍侍さぶらいににに、、、渡渡わた邊邊なべののの源源げん三三ぞう競競きおうののの瀧瀧たき口口ぐちととといふいふいう者者ものありありあり。。。馳馳はせせせおくれおくれおくれててて止止とどまりまりまりたりたりたりけるけるけるををを六六ろく波波は羅羅らへへへ召召めしししててて、、、「「「などなどなど汝汝なんじははは相相そう傳傳でんののの主主しゅう三三さん位位み入入にゅう道道どうががが供供ともをををばばばせせせててて、、、止止とどまつまつまったるたるたるぞぞぞ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、競競きおう畏畏かしこまつまつまっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「日日ひ頃頃ごろははは自自し然然ぜんののの事事ことももも候候そうらははわばばば、、、まつまつまっさきさきさきかけかけかけててて命命いのちををを奉奉たてまつらららうううとととこそこそこそ存存ぞんぜぜぜしかしかしか、、、今今こん度度どははは如如い何何か候候そうらひひいつるつるつるやらやらやらんんん、、、かうかうこうともともとも知知しらせらせらせられられられざりざりざりつるつるつる閒閒あいだ、、、止止とどまつまつまっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。
- 10宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう、、、「「「これこれこれにににもももまたまたまた兼兼けん參參ざんののの者者ものぞぞぞかしかしかし。。。先先せん途途と後後こう榮榮えいををを存存ぞんじじじててて、、、當當とう家家けににについついついててて奉奉ほう公公こうせせせんんんとととややや思思おもふふう。。。またまたまた朝朝ちょう敵敵てき賴賴より政政まさ法法ほっ師師しににに同同どう心心しんせせせんんんとととややや思思おもふふう。。。ありありありのののまゝまゝままににに申申もうせせせ。。。」」」とととこそこそこそ宣宣のたまひひいけれけれけれ。。。競競きおう涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「たとひたとひたとい相相そう傳傳でんのののよしみよしみよしみ候候そうろうともともとも、、、いかんかいかんかいかんか朝朝ちょう敵敵てきとととなれなれなれるるる人人ひとににに、、、同同どう心心しんをををばばば仕仕つかまつりりり候候そうろうべきべきべき。。。たゞたゞただ殿殿でん中中ちゅうににに奉奉ほう公公こう致致いたさささうううずるずるずる候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大たい將將しょう、、、「「「さらばさらばさらば奉奉ほう公公こうせせせよよよ。。。賴賴より政政まさ法法ほっ師師しがががしししけんけんけん恩恩おんにににははは、、、ちつちつちっとととももも劣劣おとるるるまじきまじきまじきぞぞぞ。。。」」」とてとてとて入入いりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。朝朝あしたよりよりより夕夕ゆうべににに及及およぶぶぶまでまでまで、、、「「「競競きおうはははあるあるあるかかか。。。」」」、、、「「「さふらふさふらふそうろう。。。」」」、、、「「「競競きおうはははあるあるあるかかか。。。」」」、、、「「「さふらふさふらふそうろう。。。」」」とてとてとて伺伺し候候こうすすす。。。
- 11日日ひもももやう〳〵やう〳〵ようよう暮暮くれれれけれけれければばば、、、大大たい將將しょう出出いでででられられられたりたりたり。。。競競きおう畏畏かしこまつまつまっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「まことまことまことややや三三さん位位み入入にゅう道道どうははは、、、三三み井井い寺寺でらにににととと聞聞きこえええ候候そうろう。。。定定さだめめめててて夜夜よ討討うちなんどなんどなんどもももややや向向むかははわれれれ候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。三三さん位位み入入にゅう道道どうののの一一いち類類るい、、、渡渡わた邊邊なべ黨黨とう、、、さてさてさてははは三三み井井い寺寺でら法法ほっ師師しにににてててぞぞぞ候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。心心こころにくにくにくうううももも候候そうらははわずずず、、、まかりまかりまかり向向むかつつっててて擇擇えりりり討討うちちちなどなどなどももも仕仕つかまつるるるべきべきべきににに、、、さるさるさる馬馬うまををを持持もつつっててて候候そうらひひいしししををを、、、このこのこのほどほどほど親親したしいしいしい奴奴やつめめめににに盗盗ぬすまままれれれててて候候そうろう。。。御御おん馬馬うま一一いっ匹匹ぴき下下くだししし預預あずかりりり候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大たい將將しょう、、、「「「尤尤もっともももさるさるさるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、白白しろ葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬うまののの、、、南南なん鐐鐐りょうとてとてとて祕祕ひ藏藏ぞうせせせられられられたりたりたりけるけるけるににに、、、よいよいよい鞍鞍くらおいおいおいててて競競きおうにににたぶたぶたぶ。。。賜賜たまはつはつわっててて宿宿しゅく所所しょににに返返かえりりり、、、「「「はやはやはや日日ひののの暮暮くれよれよれよかしかしかし。。。三三み井井い寺寺でらへへへ馳馳はせせせ參參まいりりり、、、入入にゅう道道どう殿殿どののののまつまつまっさきさきさきかけかけかけててて討討うち死死じにせせせんんん。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 12日日ひもももやう〳〵やう〳〵ようよう暮暮くれれれけれけれければばば、、、妻妻さい子子しどもどもどもをををばばば、、、かしここゝかしここゝかしここににに立立たちちち忍忍しのばばばせせせててて、、、三三み井井い寺寺でらへへへととと出出いででで立立たちちちけるけるける、、、心心こころののの中中うちこそこそこそ無無む慙慙ざんなれなれなれ。。。狂狂きょう紋紋もんののの狩狩かり衣衣ぎぬののの菊菊きく綴綴とじおほらかおほらかおおらかにににしししたるたるたるににに、、、重重じゅう代代だいののの著長著長きせなが緋緋ひ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、星星ほし白白じろ兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、いかいかいかものものものづくりづくりずくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる大大おお中中なか黑黑ぐろののの矢矢や負負おひひい、、、瀧瀧たき口口ぐちののの骨骨こつ法法ぽう忘忘わすれれれじじじとととややや、、、鷹鷹たかののの羽羽はででではいはいはいだりだりだりけるけるける的的まと矢矢や一一ひと手手てさしさしさし添添そへへえたるたるたる。。。滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ持持もつつっててて南南なん鐐鐐りょうにににうちうちうち乘乘のりりり、、、乘乘のり替替かえ一一いっ騎騎きうちうちうち具具ぐししし、、、舍舍とね人人り男男おとこににに持持もち楯楯だて脇脇わき挾挾ばさままませせせ、、、屋屋や形形かたににに火火ひかけかけかけ燒燒やきききあげあげあげててて、、、三三み井井い寺寺でらへへへこそこそこそ馳馳はせせせたりたりたりけれけれけれ。。。
- 13六六ろく波波は羅羅らにににははは競競きおうががが屋屋や形形かたよりよりより火火ひ出出いででで來來きたりたりたりとてとてとて犇犇ひしめきめきめきけりけりけり。。。宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょういそぎいそぎいそぎ出出いでででててて、、、「「「競競きおうはははあるあるあるかかか。。。」」」、、、「「「候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「すはすはすわ奴奴やつめめめををを手手て延延のびにににしてしてしてたばからたばからたばかられれれぬるぬるぬるははは。。。あれあれあれ追追おつつっかけかけかけててて討討うててて。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、競競きおうはははすぐれすぐれすぐれたるたるたる大大だい力力じからののの剛剛こうののの者者もの、、、矢矢やつぎつぎつぎばやばやばやののの手手てきゝきゝききにににてててありありありけれけれければばば、、、「「「二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる矢矢やでででははは、、、まづまづまず二二に十十じゅう四四し人人にんははは射射い殺殺ころささされれれなななんんんずずず。。。音音おとなななせせせそそそ。。。」」」とてとてとて、、、進進すすむむむ者者ものこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれ。。。
- 14たゞたゞただ今今いましもしもしも三三み井井い寺寺でらにににははは、、、渡渡わた邊邊なべ黨黨とう寄寄よりりりあひあひあいててて、、、競競きおうががが沙沙さ汰汰たありありありけりけりけり。。。「「「いかにいかにいかにもももしてしてしてこのこのこの競競きおう瀧瀧たき口口ぐちをををばばば、、、召召めししし具具ぐせせせられられられ候候そうらははわんんんずるずるずるものものものををを。。。」」」ととと、、、口口くち々々ぐちににに申申もうささされれれけれけれければばば、、、三三さん位位み入入にゅう道道どう競競きおうががが心心こころをををよくよくよく知知しつつっててて、、、のたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「むげむげむげにににそのそのその者者もの捕捕とらへへえ搦搦からめめめられられられはははせせせじじじ。。。入入にゅう道道どうににに志志こころざし深深ふかききき者者ものなれなれなればばば、、、見見みよよよ、、、たゞたゞただ今今いま參參まいらららうううずるずるずるぞぞぞ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいももも果果はてててぬぬぬににに、、、競競きおうつとつとつと參參まいりりりたりたりたり。。。「「「さればさればさればこそこそこそ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。競競きおう畏畏かしこまつまつまっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「伊伊い豆豆ずののの守守かみ殿殿どのののの木木こののの下下したがががかはりかはりかわりににに、、、六六ろく波波は羅羅らののの南南なん鐐鐐りょうをををこそこそこそ取取とつつっててて參參まいつつっててて候候そうらへへえ。。。參參まいらせらせらせ候候そうらははわんんん。。。」」」とてとてとて奉奉たてまつるるる。。。
- 15伊伊い豆豆ずののの守守かみなのめなのめなのめならならならずずず喜喜よろこびびび給給たまひひいててて、、、やがてやがてやがて尾尾お髪髪がみををを切切きりりり、、、金金かな燒燒やきをををしてしてして、、、そのそのその夜夜よ六六ろく波波は羅羅らへへへつかはさつかはさつかわさるるる。。。夜夜や半半はんばかりばかりばかりににに門門もんののの内内うちへへへ追追おひひい入入いれれれたりたりたりけれけれければばば、、、廏廏うまやににに入入いつつっててて、、、馬馬うまどもどもどもととと嚙嚙くひひいあひあひあいけれけれければばば、、、そのそのその時時とき舍舍とね人人り驚驚おどろきききあひあひあい、、、「「「南南なん鐐鐐りょうががが參參まいつつっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょういそぎいそぎいそぎ出出いでででててて見見み給給たまふふうににに、、、「「「昔昔むかしははは南南なん鐐鐐りょう、、、今今いまははは平平たいらののの宗宗むね盛盛もり入入にゅう道道どう。。。」」」ととといふいふいう金金かな燒燒やきをををこそこそこそしししたりたりたりけれけれけれ。。。大大たい將將しょう、、、「「「につくいにつくいにっくい競競きおうめめめををを切切きつつっててて捨捨すつつつべかりべかりべかりけるけるけるものものものををを、、、手手て延延のびにににしてしてしてたばからたばからたばかられれれぬるぬるぬる事事ことこそこそこそやすからやすからやすからねねね。。。今今こん度度ど三三み井井い寺寺でらへへへ寄寄よせせせたらたらたらんんんずるずるずる人人ひと々々びとははは、、、いかにいかにいかにもももしてしてして競競きおうめめめををを生生いけ捕捕どりにににせせせよよよ、、、鋸鋸のこぎりででで首首くび斬斬きらららんんん。。。」」」ととと、、、躍躍おどりりり上上あがり〳〵り〳〵りおどりあがり怒怒いかららられれれけれけれけれどもどもども、、、南南なん鐐鐐りょうががが尾尾お髪髪がみももも生生おひひいずずず、、、金金かな燒燒やきもももまたまたまた失失うせせせざりざりざりけりけりけり。。。
現代語訳
明けて十六日、「高倉宮が謀叛を起こされて、三井寺へお逃げになったそうだ」と言うやいなや、京中の騒ぎはひととおりではなかった。そもそもこの源三位入道頼政は、長年なにごともなく過ごしてきたのに、今年どういう心で謀叛を起こしたのかといえば、平家の次男宗盛卿が、とんでもないことばかりなさったからである。だから人は世に時めいているからといって、むやみに言ってはならないことを言い、してはならないことをするのは、よくよく考えるべきことである。たとえば、そのころ三位入道の嫡子伊豆守仲綱のもとに、宮中にまで聞こえた名馬があった。鹿毛の馬で並ぶもののない逸物、乗り心地も走りも気性も、世にまたとあるとは思えないほどであった。名を木の下といった。
宗盛卿が使者を立てて、「評判の名馬をいただいて見たい」とおっしゃると、伊豆守の返事には、「そのような馬を持っておりましたが、このところあまりに乗り疲れさせましたので、しばらく休ませようと田舎へやっております」と申されたので、それなら仕方がないといって、その後は沙汰がなかったが、大勢居並んでいた平家の侍たちが、「いやいや、その馬は一昨日もいましたし、昨日も見えました。今朝も庭で乗っていました」などと口々に言ったので、「さては惜しんでいるのだな。憎い。求めよ」といって、侍を走らせ、手紙を書いて、一時のうちに五、六度、七、八度も求められたので、
三位入道はこれを聞いて、伊豆守に向かって言うには、「たとえ黄金を丸めて作った馬であっても、それほど人が欲しがるのに、惜しむことがあろうか。その馬をすぐに六波羅へやれ」とおっしゃった。伊豆守はどうしようもなく、一首の歌を書き添えて六波羅へ送った。
恋しいなら来て見ればよい。わが身に添う影のような鹿毛の馬を、どうして手放してやれようか。
宗盛卿はまず歌の返事もなさらずに、「ああ、よい馬だ。馬はまことによい馬であった。けれどもあまりに惜しんだのが憎いので、持ち主の名を焼き印にせよ」といって、「仲綱」という焼き印をして、厩に立てられた。客人が来て「評判の名馬を見たい」と申すと、「その仲綱めに鞍を置け、引き出せ、乗れ、打て、張れ」などとおっしゃった。
伊豆守はこれを伝え聞かれて、「わが身にかえても大切に思う馬であるが、権威に任せて取られるのさえ悔しいのに、そのうえ天下の笑いものになるとは、とても我慢がならない」とひどく憤られたので、三位入道が言うには、「何事もあるまいと侮って、平家の連中がこのようなばかげたことをするのだ。そういうことなら、命永らえても何になろう。機会をうかがおう」とおっしゃったが、自分一人では思い立つこともできず、高倉宮をお勧め申したのだと、後に聞こえた。
これにつけても世の人々は、小松の大臣(重盛)のことを懐かしんだ。あるとき大臣が参内のついでに中宮のお部屋へ参られると、八尺ほどの蛇が大臣の指貫の左の裾を這い回っていたのを、「重盛が騒いだら女房たちも騒ぎ、中宮も驚かれるだろう」とお思いになって、左の手で尾を押さえ、右の手で頭をつかんで直衣の袖の中へ引き入れ、少しも騒がずにすっと立って、「六位はいるか、六位はいるか」とお呼びになったので、伊豆守仲綱が、そのときはまだ衛府の蔵人であったが、「仲綱」と名のって参ると、この蛇をお与えになった。仲綱はいただいて弓場殿を通り、殿上の小庭に出て、御倉の小舎人を招いて「これを受け取れ」と言うと、小舎人はひどく頭を振って逃げ去った。伊豆守は仕方なく、自分の郎等の競を呼んでこれを与えた。競は受け取って捨ててしまった。
その翌朝、小松殿からよい馬に鞍を置いて伊豆守のもとへ遣わし、「それにしても昨日のふるまいは実に優雅でございました。これは乗り心地の第一の馬です。夕方になって陣の外から恋人のもとへ通われるときにお使いください」とおっしゃった。伊豆守は大臣へのお返事なので、「御馬はかしこまっていただきました。それにしても昨日の御ふるまいは、還城楽の舞に似ておりました」と申された。どうして小松殿は、このように優雅な例もおありになったのか。この宗盛卿はそれほどでなくとも、人の惜しむ馬を求めて取り上げ、そのうえ天下の大事にまで及んでしまったのは情けないことである。
さて同じ十六日の夜になって、源三位入道頼政、嫡子の伊豆守仲綱、次男の源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子の蔵人太郎仲光以下、鎧兜に身を固めた三百余騎は、館に火をかけて焼き払い、三井寺へ参った。ここに三位入道の長年の侍で、渡辺の源三競の滝口という者がいた。駆けつけるのに遅れて都に残っていたのを六波羅へ召して、「どうしてお前は代々の主人である三位入道の供をせずに残ったのか」とおっしゃると、競はかしこまって申すには、「日ごろは万一のことがあれば、まっ先に駆けて命を捧げようと思っておりましたが、今度はどうしたことか、何とも知らせてくださらなかったので残っております」と申した。
宗盛卿は、「お前もまた当家に兼参している者だな。将来の出世を考えて当家に仕えようと思うか。それとも朝敵頼政法師に味方しようと思うか。ありのままに申せ」とおっしゃった。競は涙をはらはらと流して、「たとえ代々のよしみがあっても、どうして朝敵となった人に味方いたしましょう。ただお屋敷でご奉公いたしたいと存じます」と申したので、大将は「それなら奉公せよ。頼政法師がしてやった恩に少しも劣りはしないぞ」といって奥へ入られた。朝から夕方まで、「競はいるか」「おります」「競はいるか」「おります」といって控えていた。
日もしだいに暮れたので、大将が出て来られた。競はかしこまって申すには、「本当でしょうか、三位入道は三井寺にいると聞こえます。きっと夜討ちなどもかけられることでしょう。相手は三位入道の一族、渡辺党、それに三井寺の法師でしょう。何ほどのこともありません。押し向かって選り討ちなどもいたしたいのですが、よい馬を持っておりましたのを、近ごろ親しい奴めに盗まれてしまいました。御馬を一頭お貸し下さいませ」と申したので、大将は「もっともだ」といって、白葦毛の馬で、南鐐といって秘蔵しておられたのによい鞍を置いて競にお与えになった。競はいただいて宿所に帰り、「早く日が暮れてくれ。三井寺へ馳せ参り、入道殿のまっ先に駆けて討ち死にしよう」と言った。
日もしだいに暮れたので、妻子たちをあちこちに隠れさせて、三井寺へと出立した心の中こそ痛ましい。狂紋の狩衣の菊綴を大きくつけたものに、先祖伝来の着背長、緋縅の鎧を着て、星白の兜の緒を締め、いかものづくりの太刀を帯び、二十四本差した大中黒の矢を負い、滝口の作法を忘れまいというのか、鷹の羽で作った的矢を一組差し添えていた。滋籐の弓を持って南鐐に乗り、乗り替えの馬一騎を連れ、舎人の男に持楯を脇に抱えさせ、自分の屋形に火をかけて焼き払い、三井寺へ馳せて行った。
六波羅では、競の屋形から火が出たといって騒ぎ立った。宗盛卿が急いで出て来て、「競はいるか」と言うと、「おりません」と申す。「さては、あやつに猶予を与えてだまされたのだ。あれを追いかけて討て」とおっしゃったが、競は並外れた大力の剛の者で、矢継ぎ早の名手であったので、「二十四本差した矢では、まず二十四人は射殺されてしまうぞ。静かにしておけ」といって、進み出る者はいなかった。
ちょうどそのころ三井寺では、渡辺党が寄り集まって競のことを話し合っていた。「何とかしてあの競の滝口を連れて来られればよかったのに」と口々に申されると、三位入道は競の心をよく知っていて、「決してあの者が捕らえられたり縛られたりすることはあるまい。入道に心を寄せる者だから、見ておれ、もうすぐ参るぞ」とおっしゃり終わらないうちに、競がさっと参った。「やはりそうだった」とおっしゃった。競がかしこまって申すには、「伊豆守殿の木の下の代わりに、六波羅の南鐐を取って参りました。差し上げましょう」といって差し出した。
伊豆守はたいへんお喜びになって、すぐにたてがみと尾を切り、焼き印をして、その夜六波羅へ送り返された。夜半ごろに門の内へ追い入れたところ、馬は厩に入って他の馬たちとかみ合ったので、舎人が驚いて「南鐐が帰ってまいりました」と申した。宗盛卿が急いで出てご覧になると、「昔は南鐐、今は平の宗盛入道」という焼き印がしてあった。大将は、「憎い競めを切り捨てるべきだったのに、猶予を与えてだまされたのは悔しい。今度三井寺へ攻め寄せる人々は、何としても競めを生け捕りにせよ。鋸で首を斬ってやる」と、躍り上がり躍り上がりして怒られたが、南鐐のたてがみや尾も生えず、焼き印もまた消えなかった。
意訳
頼政が挙兵した真の理由を、名馬をめぐる宗盛の横暴として語る章段である。宗盛は仲綱の愛馬「木の下」を執拗に求めて取り上げたうえ、「仲綱」と焼き印して客の前で「仲綱めに鞍おけ、乗れ、打て」と辱めた。物語はこれに、蛇を騒がずに処理して女房たちを驚かせなかった重盛の優雅なふるまいを対比させ、平家の棟梁の器量の差を鮮やかに示している。
後半の渡辺競の話は、宗盛への痛快な報復の物語である。主人頼政に取り残された競は、宗盛に仕えるふりをして名馬「南鐐」を賜り、その馬で三井寺へ駆けつける。南鐐はたてがみと尾を切られ、「昔は南鐐、今は平の宗盛入道」と焼き印されて送り返された。宗盛が仲綱にした仕打ちを、そのまま返した形である。
語釈・文法注
文法
- 「乘りつからかして」
- 乗り疲れさせて。
- 「ござんなれ」
- 「…でござるなれ」の約。…なのだな、の意。
- 「金燒」
- 馬などに焼きごてで押す焼き印。
- 「うて、はれ」
- 「打て、張れ」。鞭で打て、たたけ、の意。
- 「還城樂」
- 舞楽の曲名。蛇を捕らえて喜ぶさまを舞うとされる。重盛が蛇を手にしたことにかけて、その優雅さをたたえた。
- 「兼參」
- 二人以上の主人に仕えること。
- 「手延にして」
- 処置を遅らせて、猶予を与えて。
- 「音なせそ」
- 「な…そ」の禁止。音を立てるな、静かにしておけ。
和歌
こひしくば來ても見よかし身に添ふるかげをばいかゞ放ちやるべき
- 詠者
- 源仲綱
- 状況
- 宗盛に愛馬「木の下」を強要され、父頼政に命じられて馬を差し出すときに書き添えた歌。
修辞
- 掛詞
- 「かげ」に「影」と、馬の毛色の「鹿毛」を掛ける。わが身に添う影のような愛馬を、どうして手放せようか、という嘆き。
解説
源仲綱(1126〜1180)は頼政の嫡男で、伊豆守を務めた。渡辺競は摂津渡辺党の武士で、頼政の郎等として名高い。宗盛と仲綱の名馬をめぐる争いは『平家物語』独自の説話で、頼政の挙兵の動機を宗盛の驕りに帰している。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、430–435頁(コマ244–246)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日