平家物語 巻第四
高倉の宮園城寺へ入御の事
以仁王は高倉小路を北へ、近衛大路を東へ逃れ、賀茂川を渡って如意山に入った。慣れない山道を夜通し歩いて足から血を流しながら、明け方に三井寺(園城寺)に着き、衆徒を頼ると、大衆はかしこまって喜び、法輪院を御所として迎えた。
場面イラスト(準備中)
- 1さるさるさる程程ほどににに宮宮みやははは高高たか倉倉くらををを北北きたへへへ、、、近近この衞衞えををを東東ひがしへへへ、、、賀賀か茂茂も河河がはををを渡渡わたらららせせせ給給たまひひいててて、、、如如にょ意意い山山やまへへへ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。むかしむかしむかし淸淸きよ見見み原原はらののの天天てん皇皇のう、、、大大おお友友ともののの皇皇おう子子じににに襲襲おそははわれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、吉吉よし野野の山山やまへへへ入入いらららせせせ給給たまひひいけるけるけるにににこそこそこそ、、、少少お女女とめののの姿姿すがたをををばばば借借からららせせせ給給たまひひいけるけるけるなれなれなれ。。。今今いまこのこのこの宮宮みやののの御御おん有有あり樣樣さまももも、、、それそれそれにににははは少少すこしししもももたがはたがはたがわせせせ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。
- 2知知しらららぬぬぬ山山やま路路じををを、、、夜夜よもすがらもすがらもすがらはる〴〵はる〴〵はるばるととと分分わけけけ入入いらららせせせ給給たまふふうににに、、、いついついつならはしならはしならわしののの御御おん事事ことなれなれなればばば、、、御御おん足足あしよりよりより出出いづるづるずる血血ちははは、、、砂砂いさごををを染染そめめめててて紅紅くれないののの如如ごとししし。。。夏夏なつ草草くさののの茂茂しげみみみががが中中なかののの露露つゆけさけさけさももも、、、さこそさこそさこそははは所所ところせうせうしょうおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれけめけめけめ。。。かくかくかくしてしてして曉曉あかつきがたがたがたににに三三み井井い寺寺でらへへへ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。かひかひかいなきなきなき命命いのちののの惜惜おしさしさしさににに、、、衆衆しゅ徒徒とををを賴賴たのんんんででで入入じゅ御御ぎょありありありととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、大大だい衆衆しゅ大大おおきききにににかしこまりかしこまりかしこまり喜喜よろこんんんででで、、、法法ほう輪輪りん院院いんににに御御ご所所しょをををしつらひしつらひしつらい、、、かたかたかたののの如如ごとくくく供供ぐ御御ごししし出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。
現代語訳
そうして宮は、高倉小路を北へ、近衛大路を東へ進み、賀茂川をお渡りになって、如意山へお入りになった。昔、清見原の天皇(天武天皇)が大友皇子に襲われなさって吉野山へお入りになったときにこそ、少女の姿をお借りになったという。今この宮のご様子も、それに少しも違わない。
見知らぬ山道を夜通しはるばると分け入られると、いつ慣れたことでもないので、御足から出る血は砂を染めて紅のようである。夏草の茂みの中の露のしげさも、さぞ窮屈にお思いになったことであろう。こうして明け方に三井寺にお入りになった。「かいのない命が惜しくて、衆徒を頼って来た」とおっしゃったので、大衆はたいへん恐縮して喜び、法輪院に御所を設けて、形どおりにお食事を用意して差し上げた。
意訳
女房姿に変装した以仁王が、夜の山道を越えて三井寺に逃げ込む短い章段である。物語は、壬申の乱で天武天皇が少女の姿に変装して吉野に逃れたという故事を引き、以仁王の境遇を古の天皇に重ねている。慣れない山道で足から血を流しながら歩く宮の姿は、皇子の身の哀れを印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「淸見原の天皇」
- 天武天皇。飛鳥浄御原宮で即位したのでこう呼ぶ。
- 「所せう」
- 「所狭く」のウ音便。窮屈に、わずらわしく。
- 「かひなき命」
- 生きていてもかいのない命。
解説
三井寺(園城寺)は延暦寺と対立していた天台宗寺門派の本山で、平家の圧迫に反発していた。以仁王を受け入れた三井寺は、延暦寺と興福寺に協力を求める牒状を送る(「山門への牒状の事」「南都への牒状の事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、429–430頁(コマ243–244)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日