平家物語 巻第四
源氏そろへの事
後白河法皇の第二皇子以仁王(高倉宮)は、才能に恵まれながら建春門院にうとまれ、三十歳まで親王にもなれずにいた。源三位入道頼政はひそかに宮を訪ね、平家打倒の令旨を下せば諸国の源氏が駆けつけると、源氏の名を国ごとに挙げて勧めた。宮は令旨を下し、源行家がそれを東国の源氏に伝え歩いた。熊野では、平家方の湛増が源氏方の新宮・那智勢と戦って敗れた。
- 1藏藏くら人人うどののの左左さ衞衞え門門もんののの權權ごんののの佐佐すけ定定さだ長長なが、、、今今こん度度どののの御御ご即即そく位位いににに違違い亂亂らんなくなくなくめでたきめでたきめでたきやうやうようををを、、、厚厚こう紙紙し十十じゅう枚枚まい許許ばかりりりににに書書かいいいててて、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの北北きたののの方方かた八八はち條條じょう二二に位位い殿殿どのへへへ參參まいらせらせらせたりたりたりけれけれければばば、、、笑笑えみみみををを含含ふくんんんでででぞぞぞ喜喜よろこばばばれれれけるけるける。。。かやうかやうかようにににはなやかはなやかはなやかににに、、、めでたきめでたきめでたき事事ことどもどもどもありありありしかしかしかどもどもども、、、世世せ間間けんははは猶猶なおにが〳〵しうにが〳〵しうにがにがしゅうぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 2そのそのその頃頃ころ一一いち院院いん第第だい二二にののの皇皇おう子子じ、、、以以もち仁仁ひとののの王王おうととと申申もうししししししははは、、、御御おん母母はわ加加か賀賀がののの大大だい納納な言言ごん季季すえ成成なりののの卿卿きょうののの御御おん女女むすめなりなりなり。。。三三さん條條じょう高高たか倉倉くらにににまし〳〵まし〳〵ましましけれけれければばば、、、高高たか倉倉くらののの宮宮みやとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。いんじいんじいんじ永永えい萬萬まん元元がん年年ねん十十じゅう一一いち月月がつ十十じゅう五五ご日日にちののの曉曉あかつき御御おん年年とし十十じゅう五五ごにににててて、、、忍忍しのびびびつゝつゝつつ近近この衞衞え河河かわ原原らののの大大おお宮宮みやののの御御ご所所しょにににててて、、、ひそかひそかひそかににに御御ご元元げん服服ぷくありありありけりけりけり。。。御御ご手手しゅ跡跡せき美美うつくしうしうしゅうあそばしあそばしあそばし、、、御御ご才才さい覺覺かくもももすぐれすぐれすぐれてててまし〳〵まし〳〵ましましけれけれければばば、、、太太たい子子しにににももも立立たちちち、、、位位くらいにににももも即即つかかかせせせ給給たまふふうべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、故故こ建建けん春春しゅん門門もん院院いんののの御御おん猜猜そねみみみににによつよつよっててて、、、おしおしおし籠籠こめめめられられられさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。花花はなののの下下もとののの春春はるののの遊遊あそびびびにににははは、、、紫紫し毫毫ごうをををふるつふるつふるっててて、、、手手てづからづからずから御御ご作作さくををを書書かききき、、、月月つきののの前前まえののの秋秋あきののの宴宴えんにににははは、、、玉玉ぎょく笛笛てきををを吹吹ふいいいててて、、、みづからみづからみずから雅雅が音音いんをををあやつりあやつりあやつり給給たまふふう。。。かくかくかくしてしてしてあかしあかしあかし暮暮くらさせさせさせ給給たまふふうほどほどほどににに、、、治治じ承承しょう四四し年年ねんにににははは御御おん年年とし三三さん十十じゅうにににぞぞぞならならならせせせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。
- 3そのそのその頃頃ころ近近この衞衞え河河かわ原原らににに候候さぶらははわれれれけるけるける源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どう賴賴より政政まさ、、、あるあるある夜夜よひそかひそかひそかにににこのこのこの宮宮みやののの所所ところににに參參まいりりりててて、、、申申もうささされれれけるけるける事事ことこそこそこそ恐恐おそろしけれろしけれろしけれ。。。たとへたとへたとえばばば、、、「「「君君きみははは天天てん照照しょう大大だい神神じん四四し十十じゅう八八はち世世せいののの正正しょう統統とう、、、神神じん武武む天天てん皇皇のうよりよりより七七しち十十じゅう八八はち代代だいににに當當あたらららせせせ給給たまふふう。。。しかれしかれしかればばば太太たい子子しにににももも立立たちちち、、、位位くらいにににももも即即つかかかせせせ給給たまふふうべかりべかりべかりししし人人ひとののの、、、三三さん十十じゅうまでまでまで宮宮みやにににててて渡渡わたらららせせせ給給たまふふう御御おん事事ことをををばばば、、、御御み心心こころうしうしうしとととはははおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうらははわずずずややや。。。はや〳〵はや〳〵はやはや御御ご謀謀む叛叛ほん起起おこさささせせせ給給たまひひいててて平平へい家家けををを亡亡ほろぼしぼしぼし、、、法法ほう皇皇おうのののいついついつとととなくなくなく鳥鳥と羽羽ば殿殿どのにににおしおしおし籠籠こめめめられられられててて渡渡わたらららせせせ給給たまふふう御御おん憤憤いきどおりりりをををもももやすめやすめやすめ參參まいらせらせらせ、、、君君きみももも位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまふふうべしべしべし。。。これこれこれひとへひとへひとえににに御御ご孝孝こう行行こうののの御御おん至至いたりりりにににてててこそこそこそ候候そうらははわんんんずれずれずれ。。。もしもしもしおぼしめしおぼしめしおぼしめし立立たたたたせせせたまひたまひたまいててて、、、令令りょう旨旨じををを下下くだささされれれ給給たまふふうものものものならならならばばば、、、喜喜よろこびびびをををなしなしなしててて馳馳はせせせ參參まいらららんんんずるずるずる源源げん氏氏じどもどもどもこそこそこそ、、、國國くに々々ぐにににに多多おおくくく候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて申申もうしししつゞくつゞくつづく。。。
- 4「「「まづまづまず京京きょう都都とにににははは出出で羽羽わののの前前ぜん司司じ光光みつ信信のぶののの子子こどもどもども、、、伊伊い賀賀がののの守守かみ光光みつ基基もと、、、出出で羽羽わののの判判はん官官がん光光みつ長長なが、、、出出で羽羽わののの藏藏くら人人うど光光みつ茂茂しげ、、、出出で羽羽わののの冠冠かん者者じゃ光光みつ義義よし、、、熊熊くま野野のにににははは故故こ六六ろく條條じょう判判はん官官がん爲爲ため義義よしががが末末ばつ子子し十十じゅう郎郎ろう義義よし盛盛もりとてとてとて隱隱かくれれれててて候候そうろう。。。攝攝つ津津のののの國國くににににははは多多た田田だののの藏藏くら人人うど行行ゆき綱綱つなこそこそこそ候候そうらへへえどもどもども、、、これこれこれははは新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうののの謀謀む叛叛ほんののの時時とき、、、同同どう心心しんしししながらながらながら返返かえりりり忠忠ちゅうしししたるたるたる不不ふ當當とう人人にんにににててて候候そうらへへえばばば、、、申申もうすすすににに及及およばばばずずず。。。さりながらさりながらさりながらそのそのその弟弟おとうと多多た田田だののの次次じ郎郎ろう朝朝とも實實ざね、、、手手て島島しまののの冠冠かん者者じゃ隆隆たか賴賴より、、、太太おお田田たののの太太た郎郎ろう賴賴より基基もと。。。河河こう内内ちののの國國くににににははは石石いし川川かわののの郡郡こおりののの知知ち行行ぎょうしししけるけるける武武む藏藏さしののの權權ごんののの守守かみ入入にゅう道道どう義義よし基基もと、、、子子し息息そく石石いし川川かわののの判判はん官官がん代代だい義義よし包包かね。。。大大やま和和とののの國國くににににははは宇宇う野野のののの七七しち郎郎ろう親親ちか治治はるががが子子こどもどもども、、、太太た郎郎ろう有有あり治治はる、、、次次じ郎郎ろう淸淸きよ治治はる、、、三三さぶ郎郎ろう成成なり治治はる、、、四四し郎郎ろう義義よし治治はる。。。近近おう江江みののの國國くににににははは山山やま本本もと、、、柏柏かし木木はぎ、、、錦錦にし織織ごり。。。
- 5美美み濃濃の、、、尾尾お張張はりにににははは山山やま田田だののの次次じ郎郎ろう重重しげ弘弘ひろ、、、河河こう邊邊べののの太太た郎郎ろう重重しげ直直なお、、、泉泉いずみののの太太た郎郎ろう重重しげ光光みつ、、、浦浦うら野野のののの四四し郎郎ろう重重しげ遠遠とお、、、安安あ食食じきののの次次じ郎郎ろう重重しげ賴賴より、、、そのそのその子子こののの太太た郎郎ろう重重しげ資資すけ、、、木木き田田だののの三三さぶ郎郎ろう重重しげ長長なが、、、開開かい田田でんののの判判はん官官がん代代だい重重しげ國國くに、、、矢矢や島島しまののの先先せん生生じょう重重しげ高高たか、、、そのそのその子子こ太太た郎郎ろう重重しげ行行ゆき。。。甲甲か斐斐ひののの國國くににににははは逸逸へん見見みののの冠冠かん者者じゃ義義よし淸淸きよ、、、そのそのその子子こののの太太た郎郎ろう淸淸きよ光光みつ、、、武武たけ田田だののの太太た郎郎ろう信信のぶ義義よし、、、加加か々々が美美みののの次次じ郎郎ろう遠遠とお光光みつ、、、同同おなじきじきじき小小こ次次じ郎郎ろう長長なが淸淸きよ、、、一一いち條條じょうののの次次じ郎郎ろう忠忠ただ賴賴より、、、板板いた垣垣がきののの三三さぶ郎郎ろう兼兼かね信信のぶ、、、逸逸へん見見みののの兵兵ひょう衞衞え有有あり義義よし、、、武武たけ田田だののの五五ご郎郎ろう信信のぶ光光みつ、、、安安やす田田だののの三三さぶ郎郎ろう義義よし定定さだ。。。信信しな濃濃のののの國國くににににははは大大おお内内うちののの太太た郎郎ろう維維これ義義よし、、、岡岡おか田田だののの冠冠かん者者じゃ親親ちか義義よし、、、平平ひら賀賀がののの冠冠かん者者じゃ盛盛もり義義よし、、、そのそのその子子こののの四四し郎郎ろう義義よし信信のぶ、、、故故こ帶帶たて刀刀はきののの先先せん生生じょう義義よし方方かたががが次次じ男男なん、、、木木き曾曾そののの冠冠かん者者じゃ義義よし仲仲なか。。。伊伊い豆豆ずののの國國くににににははは流流る人人にん前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも。。。常常ひた陸陸ちののの國國くににににははは信信し太太だののの三三さぶ郎郎ろう先先せん生生じょう義義よし憲憲のり、、、佐佐さ竹竹たけののの冠冠かん者者じゃ昌昌まさ義義よし、、、そのそのその子子こののの太太た郎郎ろう忠忠ただ義義よし、、、三三さぶ郎郎ろう義義よし宗宗むね、、、四四し郎郎ろう高高たか義義よし、、、五五ご郎郎ろう義義よし季季すえ。。。陸陸む奧奧つののの國國くににににははは故故こ左左さ馬馬まののの頭頭かみ義義よし朝朝ともががが末末ばつ子子し九九く郎郎ろう冠冠かん者者じゃ義義よし經經つね、、、これこれこれみなみなみな六六ろく孫孫そん王王おうののの御御ご苗苗びょう裔裔えい、、、多多た田田だののの新新しん發發ぼ意意ち滿滿まん仲仲じゅうががが後後こう胤胤いんなりなりなり。。。
- 6朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらげらげらげ宿宿しゅく望望もうををを遂遂とぐるぐるぐる事事ことははは、、、源源げん平平ぺいいづれいづれいずれ勝勝しょう劣劣れつなかりなかりなかりしかしかしかどもどもども、、、今今いまははは雲雲うん泥泥でい交交まじはりはりわりををを隔隔へだてててててて、、、主主しゅう從從じゅうののの禮禮れいにににもももなほなほなお劣劣おとれれれりりり。。。國國くにははは國國こく司司しににに從從したがひひい、、、莊莊しょうははは預預あずかっ所所しょににに召召めし使使つかははわれれれ、、、公公く事事じ雜雜ぞう事事じにににかりかりかり立立たてててられられられててて、、、安安やすききき心心こころもももししし候候そうらははわずずず。。。つら〳〵つら〳〵つらつら當當とう世世せいののの體體ていををを見見み候候そうろうににに、、、上上うえにににははは從從したがひひいたるたるたるやうやうようなれなれなれどもどもども、、、内内ない々々ないにににははは一一いっ向向こう平平へい家家けをををそねまそねまそねまぬぬぬ者者ものややや候候そうろう。。。君君きみもしもしもし思思おぼししし立立たたたたせせせ給給たまひひいててて、、、令令りょう旨旨じををを賜賜たまひひいつるつるつる程程ほどならならならばばば、、、國國くに々々ぐにののの源源げん氏氏じどもどもども、、、夜夜よををを日日ひににについついついででで馳馳はせせせ上上のぼりりり、、、平平へい家家けををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんん事事ことははは、、、時時じ日日じつををを廻廻めぐらすらすらすべからべからべからずずず。。。そのそのその儀儀ぎにににててて候候そうらははわばばば、、、入入にゅう道道どうももも年年としこそこそこそ寄寄よつつっててて候候そうらへへえどもどもども、、、若若わかききき子子こどもどもども數數あま多多た候候そうらへへえばばば、、、引引ひき具具ぐしししててて參參まいりりり候候そうろうべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 7宮宮みやはははこのこのこの事事こといかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずずずらんらんらんととと、、、おぼしめしおぼしめしおぼしめしわづらはわづらはわずらわせせせ給給たまひひいててて、、、しばししばししばしははは御御ご承承しょう引引いんもももなかりなかりなかりけるけるけるががが、、、こゝこゝここににに阿阿あ古古こ丸丸まろ大大だい納納な言言ごん宗宗むね通通みちののの卿卿きょうののの孫孫まご、、、備備びん後後ごののの前前ぜん司司じ季季すえ通通みちががが子子こににに、、、少少しょう納納な言言ごん惟惟これ長長ながととと申申もうししししししははは、、、すぐれすぐれすぐれたるたるたる相相そう人人にんののの上上じょう手手ずにににてててありありありけれけれければばば、、、時時ときののの人人ひと相相そう少少しょう納納な言言ごんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。このこのこの人人ひとこのこのこの宮宮みやををを見見み參參まいらせらせらせててて、、、「「「位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまふふうべきべきべき御御おん相相そうましますましますまします。。。相相あい構構かまへへえててて天天てん下下かののの事事こと、、、思思おぼしししめしめしめし棄棄すつつつななな。。。」」」ととと申申もうささされれれけるけるける。。。折折おりふしふしふしこのこのこの三三さん位位み入入にゅう道道どうももも、、、かやうかやうかようににに勸勸すすめめめ申申もうささされれれけれけれければばば、、、さてさてさてはははしかるしかるしかるべきべきべき天天てん照照しょう大大だい神神じんののの御御おん告告つげげげやらやらやらんんんとてとてとて、、、ひし〳〵ひし〳〵ひしひしととと思思おぼしししめしめしめし立立たたたたせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 8まづまづまず新新しん宮宮ぐうののの十十じゅう郎郎ろう義義よし盛盛もりををを召召めしししててて藏藏くら人人うどににになさなさなされれれ、、、行行ゆき家家いえととと改改かい名名みょうしてしてして、、、令令りょう旨旨じののの御御おん使使つかいににに東東とう國國ごくへへへこそこそこそ下下くだささされれれけれけれけれ。。。四四し月月がつ二二に十十じゅう八八はち日日にち都都みやこををを立立たつつっててて、、、近近おう江江みののの國國くによりよりより始始はじめめめててて、、、美美み濃濃の、、、尾尾お張張はりののの源源げん氏氏じどもどもどもににに、、、次次し第第だいにににふれふれふれててて下下くだるるる程程ほどににに、、、五五ご月月がつ十十とお日日かにににははは伊伊い豆豆ずののの北北ほう條條じょう蛭蛭ひるががが小小こ島島じまににに著著ついいいててて、、、流流る人人にん前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのににに令令りょう旨旨じををを取取とりりり出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。信信し田田だののの三三さぶ郎郎ろう先先せん生生じょう義義よし憲憲のりははは兄兄あになれなれなればばば賜賜たばんんんとてとてとて、、、信信し太太だののの浮浮うき島島しまへへへ下下くだるるる。。。木木き曾曾そののの冠冠かん者者じゃ義義よし仲仲なかははは甥甥おいなれなれなればばば取取とらせらせらせんんんとてとてとて、、、山山さん道道どうへへへこそこそこそ赴赴おもむきききけれけれけれ。。。
- 9こゝこゝここににに熊熊くま野野のののの別別べつ當當とう湛湛たん增增ぞうははは平平へい家家け重重じゅう恩恩おんののの身身みなりなりなりしししががが、、、何何なにとととしてしてしてかかか聞聞きききき出出いだしししけんけんけん、、、「「「新新しん宮宮ぐうののの十十じゅう郎郎ろう義義よし盛盛もりこそこそこそ、、、高高たか倉倉くらののの宮宮みやののの令令りょう旨旨じ賜賜たまひひいててて、、、既既すでににに謀謀む叛叛ほんををを起起おこすすすなれなれなれ。。。那那な智智ち、、、新新しん宮宮ぐうののの者者ものどもどもどもははは、、、定定さだめめめててて源源げん氏氏じののの方方かた人人うどをををぞぞぞせせせんんんずずずらんらんらん。。。湛湛たん增增ぞうははは平平へい家家けののの御御ご恩恩おんををを天天あま山山やまににに蒙蒙こうぶりりりたれたれたればばば、、、いかでいかでいかでかかか背背そむききき奉奉たてまつるるるべきべきべき。。。矢矢や一一ひとつつつ射射いかけかけかけててて、、、そのそのその後後のち都都みやこへへへ仔仔し細細さいををを申申もうさささんんん。。。」」」とてとてとて、、、ひたひたひたかぶとかぶとかぶと一一いっ千千せん餘餘よ人人にん、、、新新しん宮宮ぐうののの港港みなとへへへ發發はっ向向こうすすす。。。
- 10新新しん宮宮ぐうにににははは鳥鳥と居居いののの法法ほう眼眼げん、、、高高たか坊坊ぼうののの法法ほう眼眼げん、、、侍侍さぶらいにににははは宇宇う井井い、、、鈴鈴すず木木き、、、水水みず屋屋や、、、龜龜かめののの甲甲こう、、、那那な智智ちにににははは執執しゅ行行ぎょう法法ほう眼眼げん以以い下下げ、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい一一いっ千千せん五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にん、、、鬨鬨ときつくりつくりつくり矢矢や合合あわせしてしてして、、、源源げん氏氏じののの方方かたにににははは兎兎とこそこそこそ射射いれれれ、、、平平へい家家けののの方方かたにににはははかくかくかくこそこそこそ射射いれれれととと、、、互互たがいににに矢矢やさけびさけびさけびののの聲聲こえののの退退たい轉轉てんもももなくなくなく、、、鏑鏑かぶら鳴鳴なりりりやむやむやむひまひまひまもももなくなくなく、、、三三みつ日日かががが程程ほどこそこそこそ戰戰たたかつつったれたれたれ。。。されどもされどもされどもおぼえおぼえおぼえののの法法ほう眼眼げん湛湛たん增增ぞうははは、、、家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう多多おおくくく討討うたたたせせせ、、、わがわがわが身身み手手て負負おひひい、、、からきからきからき命命いのち生生いきききつゝつゝつつ、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく本本ほん宮宮ぐうへへへこそこそこそ還還かえりりり上上のぼりりりけれけれけれ。。。
現代語訳
蔵人左衛門権佐定長が、このたびの御即位が滞りなくめでたく行われた様子を厚紙十枚ほどに書いて、入道相国の北の方八条の二位殿へ差し上げたところ、笑みを含んで喜ばれた。このように華やかでめでたいことがあったけれども、世間はやはり苦々しく見えた。
そのころ、一院(後白河法皇)の第二皇子で以仁王と申した方は、母が加賀大納言季成卿の娘である。三条高倉においでになったので、高倉宮と申した。去る永万元年(1165)十一月十五日の明け方、御年十五で、人目を忍んで近衛河原の大宮の御所で、ひそかに元服なさった。筆跡も美しく、才知も優れておられたので、皇太子にも立ち、位にもおつきになるはずであったが、故建春門院のねたみによって押し込められておられた。花の下の春の遊びには筆をふるって自ら詩を書き、月の前の秋の宴には玉の笛を吹いて自ら雅楽を奏でられた。こうして日々を明かし暮らしておられるうちに、治承四年には御年三十になっておられた。
そのころ近衛河原に住んでおられた源三位入道頼政が、ある夜ひそかにこの宮の御所に参って申し上げたことこそ恐ろしい。それは、「君は天照大神から四十八世の正統で、神武天皇から七十八代目に当たられます。それゆえ皇太子にも立ち、位にもおつきになるはずの方が、三十まで親王の位にもつかず宮でおられることを、つらいとはお思いになりませんか。早く早く謀叛を起こされて平家を滅ぼし、法皇がいつまでも鳥羽殿に押し込められておられるお怒りもお鎮め申し、君も位におつきになるべきです。これこそ何よりのご孝行でございましょう。もし思い立たれて令旨をお下しになるなら、喜んで馳せ参じる源氏どもは国々に大勢おります」といって、申し続けた。
「まず京都には出羽前司光信の子どもで、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光茂、出羽冠者光義。熊野には故六条判官為義の末子の十郎義盛が隠れております。摂津国には多田蔵人行綱がおりますが、これは新大納言成親卿の謀叛のとき、同心しながら裏切った不届き者ですから、数に入れるまでもありません。ただしその弟の多田次郎朝実、手島冠者隆頼、太田太郎頼基。河内国には石川郡を知行していた武蔵権守入道義基、その子の石川判官代義包。大和国には宇野七郎親治の子どもの太郎有治・次郎清治・三郎成治・四郎義治。近江国には山本・柏木・錦織。
美濃・尾張には山田次郎重弘、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子の太郎重資、木田三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子の太郎重行。甲斐国には逸見冠者義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定。信濃国には大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢の次男の木曾冠者義仲。伊豆国には流人の前右兵衛佐頼朝。常陸国には信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、その子の太郎忠義・三郎義宗・四郎高義・五郎義季。陸奥国には故左馬頭義朝の末子の九郎冠者義経。これらはみな六孫王(源経基)の子孫で、多田新発意満仲の後裔です。
朝敵を平らげて宿願を遂げることでは、源氏も平家もどちらも優劣はなかったのですが、今は雲と泥ほども隔たって、主従の礼にもなお劣っております。国では国司に従い、荘園では預所に召し使われ、公事や雑事に駆り立てられて、安らかな心もありません。よくよく今の世の様子を見ますと、表向きは従っているようでも、内心では平家をねたまない者がおりましょうか。君がもし思い立たれて令旨をくださるなら、国々の源氏どもは夜を日に継いで馳せ上り、平家を滅ぼすのに日数はかからないでしょう。そういうことでしたら、この入道も年は取っておりますが、若い子どもが大勢おりますので、引き連れて参ります」と申した。
宮はこのことがどうなるであろうかと思い悩まれて、しばらくはお聞き入れにならなかったが、ここに阿古丸大納言宗通卿の孫で備後前司季通の子に、少納言惟長という人がいて、すぐれた人相見の名人であったので、当時の人は相少納言と呼んでいた。この人がこの宮を拝見して、「位におつきになるはずの御相がおありです。決して天下のことをお見捨てなさいますな」と申された。ちょうどこの三位入道もこのように勧め申したので、さてはしかるべき天照大神のお告げであろうかと、きっぱりと思い立たれた。
まず新宮十郎義盛を召して蔵人に任じ、行家と改名させて、令旨の御使として東国へ下された。行家は四月二十八日に都を立って、近江国から始めて美濃・尾張の源氏たちに次々と伝えながら下るうちに、五月十日には伊豆の北条の蛭が小島に着いて、流人の前右兵衛佐殿に令旨を取り出して差し上げた。信太三郎先生義憲は兄なので与えようと、信太の浮島へ下った。木曾冠者義仲は甥なので取らせようと、東山道へ向かった。
ここに熊野の別当湛増は平家から重い恩を受けた身であったが、どうやって聞きつけたのか、「新宮十郎義盛が高倉宮の令旨をいただいて、もう謀叛を起こすそうだ。那智・新宮の者どもはきっと源氏の味方をするだろう。湛増は平家のご恩を天や山ほども受けているのだから、どうして背き申せようか。矢を一本射かけて、その後で都へ事情を申し上げよう」といって、鎧兜に身を固めた一千余人で新宮の港へ向かった。
新宮には鳥居法眼・高坊法眼、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼以下、合わせてその勢一千五百余人が、鬨の声をあげ矢合わせをして、源氏の方ではこう射るぞ、平家の方ではこう射るぞと、互いの矢叫びの声も絶え間なく、鏑矢の鳴りやむ間もなく、三日の間戦った。けれども名高い法眼湛増は、家の子・郎等を多く討たせ、自身も傷を負って、命からがら泣く泣く本宮へ逃げ帰った。
意訳
以仁王の挙兵の発端を描く章段である。後白河法皇の皇子でありながら、建春門院にうとまれて親王宣下も受けられなかった以仁王のもとへ、七十を超える源頼政が平家打倒を勧めに訪れる。頼政が国ごとに源氏の名を挙げていく長い名寄せは、源氏の勢力が全国に潜在していることを示すとともに、後に挙兵する頼朝・義仲・義経の名をここで初めてそろえて読者に示している。
以仁王は人相見の言葉にも後押しされて決意し、源行家が令旨を携えて東国へ下る。その動きは早くも熊野で平家方の湛増に察知され、新宮・那智との合戦となった。平家打倒の戦いの最初の火の手が、ここに上がったのである。
語釈・文法注
文法
- 「御猜み」
- ねたみ。建春門院は自分の子(高倉天皇)を皇位につけるため、以仁王を遠ざけたとされる。
- 「返り忠」
- 味方を裏切って敵方に通じること。行綱が鹿ケ谷の謀議を清盛に密告したことをいう(巻第二)。
- 「先生」
- 帯刀先生。東宮を護衛する帯刀舎人の長。
- 「新發意」
- 新たに出家した者。源満仲は晩年に出家した。
- 「雲泥交はりを隔てて」
- 雲と泥ほども身分の差がついて、という意。
- 「天山に蒙りたれば」
- 天や山ほども高く大きな恩を受けているので。
- 「兎こそ射れ」
- 「兎」は「と」の当て字。「とこそ射れ、かくこそ射れ」で、ああ射るぞ、こう射るぞ、と互いに言い合うさま。
解説
以仁王(1151〜1180)は後白河法皇の第三皇子とされることが多いが、物語は「第二の皇子」とする。治承四年(1180)四月九日、以仁王は平家追討の令旨を発し、源行家(もと義盛)がこれを諸国の源氏に伝えた。これがのちの源平の争乱(治承・寿永の乱)の始まりとなる。源頼政(1104〜1180)は保元・平治の乱で平家方についた源氏の長老で、清盛の推挙で従三位に昇ったが、のちに以仁王とともに挙兵した。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、419–423頁(コマ238–240)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日