平家物語 巻第四
還御の事
三月二十六日、上皇は厳島に着き、経会や舞楽を行って社々を巡り、神主らに位が与えられた。帰途は波風に悩まされながら、蟻の浦や敷名の泊で人々が歌を詠み、備前・播磨を経て福原に入った。四月八日に都に帰り、二十二日には新帝の即位が、大極殿の焼失のため紫宸殿で行われた。
- 1同同おなじきじきじき二二に十十じゅう六六ろく日日にち、、、上上じょう皇皇かう嚴嚴いつく島島しまへへへ御御ご參參さん著著ちゃく。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの最最さい愛愛あいののの内内ない侍侍しががが宿宿しゅく所所しょ、、、皇皇かう居居きょににになるなるなる。。。中中なか二二ふつ日日か御御ご逗逗とう留留りゅうあつあつあっててて、、、經經きょう會會え、、、舞舞ぶ樂樂がく行行おこなははわるるる。。。結結けち願願がんののの導導どう師師しにににははは公公こう顯顯けん僧僧そう正正じょう、、、高高こう座座ざににに上上のぼりりり、、、鐘鐘かねうちうちうち鳴鳴ならしらしらし、、、表表ひょう白白びゃくのののことばことばことばににに曰曰いわくくく、、、「「「九九ここの重重へののの都都みやこををを出出いでででさせさせさせ給給たまひひい、、、八八や重重へののの潮潮しお路路じををを分分わきききもつもつもっててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるとととこれこれこれまでまでまで參參まいらせらせらせ給給たまひひいたるたるたる、、、御御おん志志こころざしのののかたじけなさかたじけなさかたじけなさよよよ。。。」」」ととと高高たからからからかににに申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、君君きみももも臣臣しんもももみなみなみな感感かん涙涙るいをををぞぞぞ催催もよおささされれれけるけるける。。。大大おお宮宮みや、、、客客まら人人うどををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて、、、社社やしろ々々やしろ所所ところ々々どころへへへぞぞぞ皆皆みな御御ご幸幸こうなるなるなる。。。大大おお宮宮みやよりよりより五五ご町町ちょうばかりばかりばかり山山やまををを廻廻めぐらせらせらせ給給たまひひいててて、、、瀧瀧たきののの宮宮みやへへへ參參まいらせらせらせ給給たまふふう。。。公公こう顯顯けん僧僧そう正正じょう拜拜はい殿殿でんののの柱柱はしらににに書書かきききつけつけつけられられられけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 2雲雲くも居居いよりよりより落落おちちちくるくるくる瀧瀧たきののの白白しら絲絲いとにににちぎりちぎりちぎりををを結結むすぶぶぶことことことぞぞぞ嬉嬉うれしきしきしき
- 3神神かん主主ぬし佐佐さ伯伯えきののの景景かげ廣廣ひろ加加か階階かい、、、從從じゅ上上じょうののの五五ご位位い、、、國國こく司司し藤藤ふじ原原はらののの有有あり綱綱つな品品しなあげあげあげられられられててて從從じゅ下下げののの四四し品品ほん、、、竝竝ならびににに院院いんののの殿殿てん上上じょうををを許許ゆるさささるるる。。。座座ざ主主す尊尊そん永永えい法法ほう眼眼げんににになさなさなさるるる。。。神神しん慮慮りょももも動動うごききき、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの心心こころもももやはらぎやはらぎやわらぎ給給たまひひいぬぬぬらんらんらんとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 4同同おなじきじきじき二二に十十じゅう九九く日日にち、、、御御おん船船ふねかざつかざつかざっててて還還かん御御ぎょなるなるなる。。。折折おりふしふしふし波波なみ風風かぜはげしかりはげしかりはげしかりけれけれければばば、、、御御おん船船ふね漕漕こぎぎぎもどさもどさもどさせせせ、、、そのそのその日日ひははは嚴嚴いつく島島しまののの中中うち、、、蟻蟻ありののの浦浦うらととといふいふいう所所ところににに止止とどまらまらまらせせせ給給たまふふう。。。上上じょう皇皇かう、、、「「「大大だい明明みょう神神じんののの御御おん名名な殘殘ごり惜惜おしみしみしみににに、、、歌歌うた仕仕つかまつれれれ人人ひと々々びと。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、隆隆たか房房ふさののの少少しょう將將しょう、、、
- 5立立たちちち返返かえるるる名名な殘殘ごりもももありありありののの浦浦うらなれなれなればばば神神かみもももめぐみめぐみめぐみをををかくるかくるかくる白白しら浪浪なみ
- 6夜夜や半半はんばかりばかりばかり風風かぜしづまつしづまつしずまっててて、、、海海かい上上しょうもももおだしかりおだしかりおだしかりけれけれければばば、、、御御おん船船ふね漕漕こぎぎぎ出出いださせさせさせ、、、そのそのその日日ひははは備備びん後後ごののの國國くに敷敷しき名名なののの泊泊とまりににに著著つかかかせせせ給給たまふふう。。。こゝこゝここはははさんぬるさんぬるさんぬる應應おう保保ほうのののころほひころほひころおい、、、一一いち院院いん御御ご幸幸こうののの時時とき、、、國國こく司司し藤藤ふじ原原はらののの爲爲ため成成なりががが造造つくりりりたりたりたりけるけるける御御ご所所しょのののありありありけるけるけるををを、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく御御おん設設もうけけけにににしつらはしつらはしつらわれれれたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、上上じょう皇皇かうそれそれそれへへへははは御御ご幸幸こうもももならならならずずず、、、「「「今日今日きょうははは卯卯う月月づき一一ひと日日ひ、、、衣衣ころも更更がえととといふいふいう事事ことのののあるあるあるぞぞぞかしかしかし。。。」」」とてとてとて、、、各各おのおの都都みやこののの事事ことををを宣宣のたまひひい出出いだししし、、、ながめながめながめやりやりやり給給たまふふう程程ほどににに、、、岸岸きしににに色色いろ深深ふかききき藤藤ふじののの松松まつののの枝枝えだににに咲咲さきききかゝりかゝりかかりけるけるけるををを、、、上上じょう皇皇かう叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、「「「あのあのあの花花はな折折おりりりににに遣遣つかはせはせわせ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、大大おお宮宮みやののの大大だい納納な言言ごん隆隆たか季季すえののの卿卿きょう承承うけたまわりりりててて、、、左左さ史史し生生しょう中中なか原原はらののの康康やす定定さだががが端端はし船船ぶねににに乘乘のつつっててて、、、折折おりふしふしふし御御ご前前ぜんををを漕漕こぎぎぎ通通とおりりりけるけるけるををを召召めしししててて、、、折折おりりりににに遣遣つかはすはすわす。。。藤藤ふじののの花花はなををを松松まつののの枝枝えだにににつけつけつけながらながらながら、、、折折おつつっててて參參まいらせらせらせたりたりたりけれけれければばば、、、心心こころばせばせばせありありありなどなどなど仰仰おおせせせられられられててて、、、御御ぎょ感感かんありありありけりけりけり。。。「「「このこのこの花花はなにににててて歌歌うた仕仕つかまつれれれ各各おのおの。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、隆隆たか季季すえののの大大だい納納な言言ごん、、、
- 7千千ち歳歳とせへへへむむん君君きみがががよはひよはひよわいににに藤藤ふじ波波なみののの松松まつののの枝枝えだにににもももかゝりかゝりかかりぬるぬるぬるかなかなかな
- 8二二ふつ日日かののの日日ひははは備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまののの泊泊とまりににに著著つかかかせせせたまふたまふたまう。。。五五いつ日日かののの日日ひ天天てん晴晴はれれれててて、、、海海かい上上しょうももものどけかりのどけかりのどけかりけれけれければばば、、、御御ご所所しょののの御御おん船船ふねををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて、、、人人ひと々々びとののの船船ふねどもどもどもみなみなみな漕漕こぎぎぎ出出いだすすす。。。雲雲くもののの波波なみ、、、煙煙けぶりののの波波なみをををわきわきわき凌凌しのがががせせせ給給たまひひいててて、、、そのそのその日日ひははは播播はり磨磨まののの國國くに山山やま田田だののの浦浦うらににに著著つかかかせせせ給給たまふふう。。。それそれそれよりよりより御御み輿輿こしににに召召めしししててて、、、福福ふく原原はらへへへ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。六六むい日日かののの日日ひははは御御ご逗逗とう留留りゅうあつあつあっててて、、、福福ふく原原はらののの所所ところ々々どころをををみなみなみな歴歴れき覽覽らんありありあり。。。池池いけののの中中ちゅう納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょうののの山山さん莊莊そう荒荒あら田田たまでまでまで御御ご覽覽らんぜぜぜらるらるらる。。。あくるあくるあくる七七なぬ日日かののの日日ひ福福ふく原原はらををを立立たたたたせせせ給給たまふふうとてとてとて、、、入入にゅう道道どうののの家家いえののの賞賞しょう行行おこなははわるるる。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの養養よう子子し丹丹たん波波ばののの守守かみ淸淸きよ邦邦くに正正じょう下下げののの四四し位位い、、、同同おなじくじくじく入入にゅう道道どうののの孫孫まご越越えち前前ぜんののの少少しょう將將しょうははは四四し位位いののの從從じゅ上上じょうとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。そのそのその日日ひ寺寺てら井井いににに著著つかかかせせせ給給たまふふう。。。八八よう日日かののの日日ひ御御おん迎迎むかへへえののの公公く卿卿ぎょう殿殿てん上上じょう人人びと、、、鳥鳥と羽羽ばののの草草くさ津津つまでまでまでみなみなみな參參まいららられれれけりけりけり。。。還還かん御御ぎょののの時時ときははは鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへははは御御ご幸幸こうもももならならならずずず、、、すぐすぐすぐににに入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていへへへぞぞぞ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。
- 9同同おなじきじきじき二二に十十じゅう二二に日日にち、、、新新しん帝帝ていののの御御ご即即そく位位いありありあり。。。大大だい極極ごく殿殿でんにににててて行行おこなははわるるるべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、一一ひと年年とせ炎炎えん上上しょうののの後後のちははは未未いまだだだ造造つくりりりももも出出いだささされれれずずず。。。大大だい極極ごく殿殿でんなからなからなからんんん上上うえははは、、、太太だい政政じょう官官かんののの廳廳ちょうにににててて行行おこなははわるるるべきべきべきかかかととと公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかばばば、、、九九く條條じょう殿殿どの申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるにににははは、、、「「「太太だい政政じょう官官かんののの廳廳ちょうははは、、、凡凡ぼん人人にんののの家家いえににに取取とらららばばば公公く文文もん所所じょ體體ていののの所所ところなりなりなり。。。大大だい極極ごく殿殿でんなからなからなからんんん上上うえははは、、、紫紫し宸宸しい殿殿でんにににてててこそこそこそ御御ご即即そく位位いはははあるあるあるべけれべけれべけれ。。。」」」ととと申申もうさささせせせ給給たまへへえばばば、、、紫紫し宸宸しい殿殿でんにににてててぞぞぞ御御ご即即そく位位いはははありありありけるけるける。。。
- 10いんじいんじいんじ康康こう保保ほう四四し年年ねん十十じゅう一一いち月月がつ十十じゅう一一いち日日にち、、、冷冷れい泉泉ぜい院院いんののの御御ご即即そく位位い紫紫し宸宸しい殿殿でんにににてててありありありしししははは、、、主主しゅ上上しょう御御ご邪邪じゃ氣氣けににによつよつよっててて、、、大大だい極極ごく殿殿でんへへへののの御御ご幸幸こうかなはかなはかなわざりざりざりししし御御おん故故ゆえなりなりなり。。。後後ご三三さん條條じょうののの院院いんののの延延えん久久きゅうののの嘉嘉か例例れいにににまかせまかせまかせててて、、、太太だい政政じょう官官かんののの廳廳ちょうにににててて行行おこなははわるるるべきべきべきものものものをををととと、、、人人ひと々々びと申申もうししし合合あははわれれれけれけれけれどもどもども、、、そのそのその時時ときののの九九く條條じょう殿殿どのののの御御おんはからひはからひはからいののの上上うえははは、、、とかくとかくとかくににに及及およばばばずずず。。。東東とう宮宮ぐう踐踐せん祚祚そありありありしかしかしかばばば、、、中中ちゅう宮宮ぐうははは弘弘こう徽徽き殿殿でんよりよりより仁仁にん壽壽じゅ殿殿でんへへへ移移うつつつっててて、、、やがてやがてやがて高高たか御御み座座くらへへへ參參まいらせらせらせ給給たまふふう。。。平平へい家家けののの人人ひと々々びとみなみなみな出出しゅっ仕仕しせせせられられられけるけるける中中なかににに、、、小小こ松松まつ殿殿どのののの公公きん達達だちたちたちたちははは、、、去去こ年年ぞ大大おと臣臣ど薨薨こうぜぜぜられられられにににしかしかしかばばば、、、倚倚い廬廬ろにににててて籠籠ろう居居きょせせせられられられけりけりけり。。。
現代語訳
同じ月の二十六日、上皇は厳島にお着きになった。入道相国の寵愛する内侍の宿所が皇居となった。中二日ご逗留になって、経会や舞楽が行われた。結願の導師には公顕僧正が高座に上り、鐘を打ち鳴らして、表白の言葉に、「九重の都をお出になり、八重の潮路を分けて、はるばるとここまでお参りになったお志のありがたさよ」と高らかに申されたので、君も臣もみな感涙を催された。大宮・客人の宮をはじめとして、社々所々へみな御幸なさった。大宮から五町ほど山を回られて、滝の宮へ参られた。公顕僧正は拝殿の柱にこう書きつけられたとか。
雲の上から落ちてくる滝の白糸に、縁を結ぶことができたのは嬉しいことだ。
神主の佐伯景広は位が上がって従五位上、国司の藤原有綱は位が上がって従四位下となり、さらに院の殿上を許された。座主の尊永は法眼に任じられた。神のお心も動き、入道相国の心も和らいだであろうと見えた。
同じ月の二十九日、御船を飾って都へお帰りになった。ちょうど波風が激しかったので、御船を漕ぎ戻させ、その日は厳島の中の蟻の浦という所にお泊まりになった。上皇が「大明神との名残を惜しんで、歌を詠め、人々」とおっしゃったので、隆房少将が、
立ち帰るにも名残があるという「ありの浦」なので、神も恵みをかけるように白波が寄せかかってくる。
夜半ごろ風が静まって海上も穏やかになったので、御船を漕ぎ出させ、その日は備後国の敷名の泊にお着きになった。ここは去る応保のころ、一院(後白河院)が御幸されたときに、国司藤原為成が造った御所があったのを、入道相国がご休息所として整えておかれたが、上皇はそこへはお出ましにならず、「今日は卯月一日、衣替えということがあるのだったな」といって、人々はそれぞれ都のことを口にして、遠くを眺めておられると、岸に色の濃い藤が松の枝に咲きかかっているのを上皇がご覧になって、「あの花を折りに行かせよ」とおっしゃったので、大宮大納言隆季卿が承って、左史生中原康定が小舟に乗ってちょうど御前を漕ぎ通ったのを呼び寄せて、折りに行かせた。康定が藤の花を松の枝につけたまま折って差し上げたので、気がきいているなどとおっしゃって感心なさった。「この花で歌を詠め、各々」とおっしゃったので、隆季大納言が、
千年も続くであろう君のご寿命にあやかって、藤の花房が松の枝にもかかったことだ。
二日には備前の児島の泊にお着きになった。五日、空が晴れて海上ものどかになったので、上皇の御船をはじめとして、人々の船もみな漕ぎ出した。雲のような波、煙のような波を分けて進まれ、その日は播磨国の山田の浦にお着きになった。そこから御輿に乗って福原にお入りになった。六日はご逗留になって、福原のあちこちをみな見物された。池の中納言頼盛卿の山荘の荒田までご覧になった。明けて七日、福原をお立ちになるにあたって、入道の家の者への恩賞が行われた。入道相国の養子の丹波守清邦は正四位下、同じく入道の孫の越前少将(資盛)は従四位上となったと聞こえた。その日は寺井にお着きになった。八日、お迎えの公卿・殿上人がみな鳥羽の草津まで参られた。都へのお帰りの際は鳥羽殿へはお寄りにならず、すぐに入道相国の西八条の邸へお入りになった。
同じ月の二十二日、新帝の御即位があった。大極殿で行われるはずであったが、先年炎上してからまだ再建されていなかった。大極殿がないのなら太政官の庁で行うべきかと公卿たちが評議すると、九条殿(兼実)が申されるには、「太政官の庁は、普通の人の家にたとえれば公文所のような所である。大極殿がない以上は、紫宸殿でこそ御即位を行うべきである」と申されたので、紫宸殿で御即位が行われた。
去る康保四年(967)十一月十一日、冷泉院の御即位が紫宸殿で行われたのは、主上がご病気で大極殿へお出ましになれなかったためである。後三条院の延久の吉例にならって、太政官の庁で行うべきだったのにと、人々は言い合ったが、その時の九条殿のお計らいであったので、とやかく言うこともできなかった。東宮が践祚されたので、中宮(徳子)は弘徽殿から仁寿殿へ移られて、やがて高御座に上られた。平家の人々がみな出仕された中で、小松殿の公達は、去年大臣(重盛)が亡くなられたので、喪に服して籠居しておられた。
意訳
高倉上皇の厳島御幸の帰途を、和歌を交えて描く章段である。厳島では経会や舞楽が盛大に営まれ、神主や国司には位が与えられた。帰りの船旅では、蟻の浦で隆房が厳島への名残を詠み、敷名の泊では卯月一日の衣替えに都を思いつつ、松にかかる藤の花を見て隆季が上皇の長寿を祝う。
後半は安徳天皇の即位を記す。大極殿は安元三年(1177)の大火(巻第一「内裏炎上」)で焼けたままで、即位は紫宸殿で行われた。物語は先例をめぐる公卿たちの議論を記しつつ、華やかな即位の陰で、重盛の死を悼んで籠居する小松家の公達の姿を最後に置いている。
語釈・文法注
文法
- 「表白」
- 法会の初めに、その趣旨を仏前に申し述べる文。
- 「大宮、客人」
- 厳島神社の本社(大宮)と、摂社の客人社(まろうどのみや)。
- 「倚廬」
- 天皇や貴人が父母などの喪に服するときにこもる仮の建物。
和歌
雲居より落ちくる瀧の白絲にちぎりを結ぶことぞ嬉しき
- 詠者
- 公顕僧正
- 状況
- 厳島の滝の宮に参った折、拝殿の柱に書きつけたという歌。
修辞
- 縁語
- 「白絲」「結ぶ」は縁語。滝の白糸に、上皇と神との縁(ちぎり)を結ぶことを重ねる。
- 掛詞
- 「雲居」に空と宮中を掛け、上皇が都から御幸されたことを暗に示す。
立ち返る名殘もありの浦なれば神もめぐみをかくる白浪
- 詠者
- 藤原隆房
- 状況
- 厳島からの帰途、波風のために蟻の浦に泊まったとき、上皇の求めに応じて詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「ありの浦」に「(名残も)あり」と地名の「蟻の浦」を掛ける。
- 縁語
- 「返る」「浦」「白浪」「かくる」は縁語。神の恵みを白波がかかることにたとえる。
千歳へむ君がよはひに藤波の松の枝にもかゝりぬるかな
- 詠者
- 藤原隆季
- 状況
- 敷名の泊で、松の枝に咲きかかる藤の花を折らせた上皇の求めに応じて詠んだ歌。
修辞
- 見立て
- 長寿の象徴である松に藤(藤原氏)がかかることに、君の長寿にあやかって藤原氏も栄えることを重ねる。
解説
高倉上皇の厳島御幸については、随行した源通親の『高倉院厳島御幸記』に詳しい記録がある。治承四年(1180)四月二十二日、安徳天皇は紫宸殿で即位した。大極殿は安元三年(1177)の太郎焼亡で焼失して以来、再建されることはなかった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、416–419頁(コマ237–238)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日