平家物語 巻第四
厳島御幸の事
治承四年二月、高倉天皇は清盛の意向で三歳の皇太子(安徳天皇)に譲位させられ、清盛夫妻は准三后となった。三月、上皇は譲位後初の御幸に、八幡・賀茂などを差しおいて安芸の厳島を選び、延暦寺の大衆は反発した。出発の朝、上皇は鳥羽殿に幽閉された父法皇を訪ね、亡き母建春門院に似た姿に法皇は涙した。
- 1治治じ承承しょう四四し年年ねん正正しょう月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ鳥鳥と羽羽ば殿殿どのにににははは、、、相相しょう國國こくももも許許ゆるさささずずず、、、法法ほう皇皇おうももも恐恐おそれれれさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましましけれけれければばば、、、元元がん日日にち元元がん三三さんののの間間あいだ、、、參參さん入入にゅう仕仕つかまつるるる人人ひともももなしなしなし。。。されどもされどもされどもそのそのその中中なかににに故故こ少少しょう納納な言言ごん入入にゅう道道どう信信しん西西ぜいののの子子し息息そく、、、櫻櫻さくら町町まちののの中中ちゅう納納な言言ごん重重しげののの卿卿きょう、、、そのそのその弟弟おとうと左左さ京京きょうののの大大だい夫夫ぶ脩脩なが範範のりばかりばかりばかりぞぞぞ、、、許許ゆるささされれれてててははは參參まいららられれれけるけるける。。。
- 2同同おなじきじきじき二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、春春とう宮宮ぐう御御おん袴袴はかま著著ぎ、、、竝竝ならびににに御御おん魚魚ま味味な始始はじめめめとてとてとて、、、めでたきめでたきめでたき事事ことどもどもどもありありありしかしかしかどもどもども、、、法法ほう皇皇おうははは鳥鳥と羽羽ば殿殿どのにににててて、、、御御おん耳耳みみのののよそよそよそにににぞぞぞ聞聞きこしめすしめすしめす。。。二二に月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、主主しゅ上上しょう異異ことなるなるなる御御おん恙恙つつがもももわたらわたらわたらせせせ給給たまははわざりざりざりしししををを、、、おしおしおしおろしおろしおろし奉奉たてまつつつっててて、、、春春とう宮宮ぐう踐踐せん祚祚そありありあり。。。これこれこれももも入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、よろづよろづよろず思思おもふふう樣樣さまなるなるなるががが致致いたすすす所所ところなりなりなり。。。時時ときよくよくよくなりなりなりぬぬぬとてとてとてひしめきひしめきひしめきあへあへあえりりり。。。
- 3神神しん璽璽じ、、、寶寶ほう劒劒けん、、、内内ない侍侍し所所どころ渡渡わたししし奉奉たてまつるるる。。。上上かん達達だち部部め陣陣じんににに集集あつまつまつまっててて、、、ふるきふるきふるき事事ことどもどもども先先せん例例れいにににまかせまかせまかせててて行行おこなひひいしししににに、、、左左さ大大だい臣臣じん殿殿どの陣陣じんににに出出いでででててて、、、御御おん位位くらい讓讓ゆずりりりののの事事ことどもどもども仰仰おおせせせしししををを聞聞ききききててて、、、心心こころあるあるある人人ひと々々びとののの涙涙なみだををを流流ながししし、、、心心こころををを傷傷いたましめましめましめずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。われわれわれととと御御おん位位くらいををを儲儲もうけののの君君きみににに讓讓ゆずりりり奉奉たてまつりりり、、、藐藐は姑姑こ射射やののの山山やまののの中中うちもももしづかしづかしずかににになどなどなど思思おぼし召召めすすすさき〴〵さき〴〵さきざきだにだにだにももも、、、あはれあはれあわれははは多多おおきききならひならひならいぞぞぞかしかしかし。。。況況いわんんんやややこれこれこれははは、、、御御み心心こころならならならずずずおしおしおし下下おろささされれれさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましましけんけんけん御御み心心こころののの中中うち、、、申申もうすすすもももなか〳〵なか〳〵なかなかおろかおろかおろかなりなりなり。。。
- 4傳傳つたはれはれわれるるる御御おん寶寶たから物物ものどもどもども品品しな々々じな、、、司司つかさ々々づかさ請請うけ取取とつつっててて、、、新新しん帝帝ていののの皇皇かう后后ごう五五ご條條じょうののの内内だい裏裏りへへへわたしわたしわたし奉奉たてまつるるる。。。閑閑かん院院いん殿殿どのにににははは火火ひののの影影かげかすかかすかかすかににに、、、鷄鷄けい人人じんののの聲聲こえももも止止とどまりまりまり、、、瀧瀧たき口口ぐちののの問問もん籍籍じゃくももも絶絶たえええにににしかしかしかばばば、、、ふるきふるきふるき人人ひと々々びとははは、、、斯斯かかるかるかるめでたきめでたきめでたき祝祝いわひひいののの中中なかにににももも、、、今今いま更更さらあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、涙涙なみだををを流流ながししし、、、袖袖そでををを濡濡ぬらさらさらさぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 5新新しん帝帝てい今今こ年年とし三三さん歳歳さい、、、あはれあはれあわれいつしかいつしかいつしかなるなるなる讓讓じょう位位いかなかなかなとととぞぞぞ、、、人人ひと々々びとさゝやきさゝやきささやきあはれあはれあわれけるけるける。。。平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょうははは、、、内内うちののの御御おん乳乳めの母母と、、、帥帥そつののの亮亮すけののの夫夫おつとたるたるたるににに依依よつつっててて、、、「「「今今こん度度どののの讓讓じょう位位い、、、いつしかいつしかいつしかなりなりなりととと誰誰たれかかかかたむけかたむけかたむけ申申もうすすすべきべきべき。。。異異い國國こくにににははは周周しゅうののの成成せい王王おう三三さん歳歳さい、、、晉晉しんののの穆穆ぼく帝帝てい二二に歳歳さい、、、わがわがわが朝朝ちょうにににははは近近この衞衞えののの院院いん三三さん歳歳さい、、、六六ろく條條じょうののの院院いん二二に歳歳さい、、、これこれこれみなみなみな襁襁きょう褓褓ほうののの中中うちににに包包つつまままれれれててて、、、衣衣い帶帶たいををを正正ただしうしうしゅうせせせざりざりざりしかしかしかどもどもども、、、或或あるいははは攝攝せつ政政しょう負負おうううててて位位くらいににに即即つききき、、、或或あるいははは母母ぼ后后こう抱抱いだいいいててて朝朝ちょうににに臨臨のぞむむむととと見見みえええたりたりたり。。。後後ご漢漢かんののの孝孝こう章章しょう皇皇かう帝帝ていははは、、、生生うまれれれててて百百ひゃく日日にちととといふいふいうににに踐踐せん祚祚そありありあり。。。天天てん子子し位位くらいををを踐踐ふむむむ先先せん蹤蹤じょう、、、和和わ漢漢かんかくかくかくののの如如ごとししし。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、そのそのその時時ときののの有有ゆう職職そくののの人人ひと々々びと、、、「「「あなあなあなおそろしおそろしおそろし、、、ものものものななな申申もうささされれれそそそ。。。さればさればさればそれらそれらそれらはははよきよきよき例例れいどもどもどもかやかやかや。。。」」」とととぞぞぞつぶやきつぶやきつぶやき合合あははわれれれけるけるける。。。
- 6春春とう宮宮ぐう踐踐せん祚祚そありありありしかしかしかばばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく夫夫ふう婦婦ふ共共ともににに、、、外外がい祖祖そ父父ふ、、、外外がい祖祖そ母母もとてとてとて、、、准准じゅん三三さん后后こうののの宣宣せん旨旨じををを蒙蒙こうぶりりり、、、年年ねん官官かん、、、年年ねん爵爵しゃくををを賜賜たまはつはつわっててて、、、上上じょう日日にちののの者者ものををを召召めしししつかひつかひつかい、、、繪繪えかきかきかき花花はなつけつけつけたるたるたる者者ものどもどもども出出いででで入入いつつっててて、、、ひとへひとへひとえににに院院いん宮宮ぐうののの如如ごとくくくにににぞぞぞありありありけるけるける。。。出出しゅっ家家けののの人人ひとののの准准じゅん三三さん后后こうののの宣宣せん旨旨じををを蒙蒙こうぶるるる事事ことははは、、、法法ほう興興こう院院いんののの大大おお入入にゅう道道どう殿殿どの兼兼かね家家いえ公公こうののの外外ほかははは、、、これこれこれ始始はじめめめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。
- 7同同おなじきじきじき三三さん月月がつ上上じょう旬旬じゅんににに、、、上上じょう皇皇かう安安あ藝藝きののの嚴嚴いつく島島しまへへへ御御ご幸幸こうなるなるなるべしべしべしととと聞聞きこえええけりけりけり。。。帝帝てい王王おう位位くらいすべらすべらすべらせせせ給給たまひひいててて諸諸しょ社社しやののの御御ご幸幸こう始始はじめめめにににははは、、、八八や幡幡はた、、、賀賀か茂茂も、、、春春かす日日がへへへこそこそこそ御御ご幸幸こうははは成成なるるるべきべきべきににに、、、遙遙はる々々ばるととと安安あ藝藝きののの國國くにまでまでまでののの御御ご幸幸こうはははいかにいかにいかにととと、、、人人ひと不不ふ審審しんをををなすなすなす。。。或或ある人人ひとののの申申もうしししけるけるけるははは、、、白白しら河河かわののの院院いんははは熊熊くま野野のへへへ御御ご幸幸こう、、、後後ご白白しら河河かわははは日日ひ吉吉よしののの社社やしろへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。さればさればされば知知しんんんぬぬぬ、、、叡叡えい慮慮りょにににありありありととと申申もうすすすことことことををを。。。御御ご心心しん中中ちゅうににに深深ふかききき御御ご立立りゅう願願がんありありあり。。。そのそのその上上うえこのこのこの嚴嚴いつく島島しまをををばばば、、、平平へい家家けなのめなのめなのめならならならずずずににに崇崇あがめめめ敬敬うやまひひい申申もうささされれれけるけるける閒閒あいだ、、、上上うえにににははは平平へい家家けににに御御ご同同どう心心しん、、、下下したにににははは法法ほう皇皇おうのののいついついつとととなくなくなく鳥鳥と羽羽ば殿殿どのにににおしおしおし籠籠こめめめられられられててて渡渡わたらららせせせ給給たまへへえばばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの心心こころもももやはらぎやはらぎやわらぎ給給たまふふうかかかとととののの御御ご祈祈き念念ねんののの爲爲ためとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 8山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ憤憤いきどおりりり申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「主主しゅ上上しょう御御おん位位くらいをををすべつすべつすべっててて、、、諸諸しょ社社しやののの御御ご幸幸こう始始はじめめめにににははは、、、八八や幡幡はた、、、賀賀か茂茂も、、、春春かす日日がへへへ御御ご幸幸こうならならならずずずばばば、、、わがわがわが山山やまののの山山さん王王おうへへへこそこそこそ御御ご幸幸こうはははなるなるなるべきべきべきににに、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと安安あ藝藝きののの國國くにまでまでまでののの御御ご幸幸こうははは、、、いついついつのののならひならひならいぞぞぞややや。。。そのそのその儀儀ぎならならならばばば神神しん輿輿よふりふりふり下下おろししし奉奉たてまつつつっててて、、、御御ご幸幸こうををを止止とどめめめ奉奉たてまつれれれ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。これこれこれににに依依よつつっててて、、、しばらくしばらくしばらく御御ご延延えん引引いんありありありけりけりけり。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくやう〳〵やう〳〵ようようににになだめなだめなだめ宣宣のたまへへえばばば、、、山山さん門門もんののの衆衆しゅしづまりしづまりしずまりぬぬぬ。。。
- 9同同おなじきじきじき十十じゅう七七しち日日にち、、、上上じょう皇皇かう嚴嚴いつく島島しま御御ご幸幸こうののの御御おん門門かど出出でとてとてとて、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの北北きたののの方方かた二二に位位い殿殿どのののの宿宿しゅく所所しょ、、、八八はち條條じょう大大おお宮宮みやへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。そのそのその夜夜よやがてやがてやがて嚴嚴いつく島島しまののの御御ご神神しん事事じ始始はじめめめらるらるらる。。。殿殿てん下下かよりよりより唐唐からののの御御おん車車くるま、、、うつしうつしうつしののの馬馬うまなどなどなど參參まいらせらせらせらるらるらる。。。あくるあくるあくる十十じゅう八八はち日日にち、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの邸邸ていへへへ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。そのそのその日日ひののの暮暮くれれれ方方がたににに、、、前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうををを召召めしししててて、、、「「「明明みょう日日にち嚴嚴いつく島島しまへへへ御御ご幸幸こうののの御御おんついでついでついでににに、、、鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ參參まいつつっててて、、、法法ほう皇皇おうののの御御ご見見げん參參ざんににに入入いらららばやばやばやととと思思おぼし召召めすすすははは、、、相相しょう國國こく禪禪ぜん門門もんににに知知しらせらせらせずずずしてしてしてははは惡惡あしかりしかりしかりなななんんんややや。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう、、、「「「なんでふなんでふなんじょう事事ことかかか候候そうろうべきべきべき。。。」」」ととと奏奏そうせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、「「「さらばさらばさらば汝汝なんじ今今こ宵宵よい鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ參參まいりりりててて、、、そのそのそのやうやうようををを申申もうせせせかしかしかし。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、いそぎいそぎいそぎ鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よし奏奏そう聞聞もんせせせられられられけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうはははあまりあまりあまりににに思思おぼし召召めすすす御御ご幸幸こうにににててて、、、こはこはこわ夢夢ゆめやらやらやらんんんとととぞぞぞ仰仰おおせせせられられられけるけるける。。。
- 10あくるあくるあくる十十じゅう九九く日日にち、、、大大おお宮宮みやののの大大だい納納な言言ごん隆隆たか季季すえののの卿卿きょう、、、未未いまだだだ夜夜よ深深ぶこううう參參まいつつっててて、、、御御ご幸幸こう催催もよおささされれれけりけりけり。。。このこのこの日日ひ頃頃ごろ聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいつるつるつる嚴嚴いつく島島しま御御ご幸幸こうをををばばば、、、西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていよりよりより既既すでににに遂遂とげげげさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。三三や月月よいももも半半なかばばば過過すぎぎぎぬれぬれぬれどどど、、、霞霞かすみにににくもるくもるくもる有有あり明明あけののの月月つきははは猶猶なおおぼろおぼろおぼろなりなりなり。。。越越こし路路じををを指指さしししててて歸歸かえるるる鴈鴈かりののの、、、雲雲くも居居いにににおとづれおとづれおとずれ行行ゆくくくももも、、、折折おりふしふしふしあはれあはれあわれにににおぼしめすおぼしめすおぼしめす。。。未未いまだだだ夜夜よのののうちうちうちににに鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。門門もん前前ぜんにににててて御御おん車車くるまよりよりより下下おりりりさせさせさせおはしましおはしましおわしまし、、、門門もんののの内内うちへへへさしさしさし入入いらららせせせ給給たまふふうににに、、、人人ひと稀稀まれにににしてしてして木木こぐらくぐらくぐらく、、、ものものものさびしげさびしげさびしげなるなるなる御御おん住住すま居居ひ、、、まづまづまずあはれあはれあわれにににぞぞぞおぼしめすおぼしめすおぼしめす。。。
- 11春春はる既既すでににに暮暮くれれれなななんんんとととすすす。。。夏夏なつ木木こ立立だちにににもももなりなりなりにににけりけりけり。。。梢梢こずえののの花花はな色色いろ衰衰おとろへへえててて、、、宮宮みやののの鶯鶯うぐいす聲聲こえ老老おいいいたりたりたり。。。去去こ年年ぞののの正正しょう月月がつ六六むい日日か朝朝ちょう覲覲きんののの爲爲ためににに、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのへへへ行行ぎょう幸幸こうありありありしししにににははは、、、樂樂がく屋屋やににに亂亂らん聲聲じょうををを奏奏そうししし、、、諸諸しょ卿卿きょう列列れつににに立立たつつっててて、、、諸諸しょ衞衞え陣陣じんををを引引ひききき、、、院院いん司司じののの公公く卿卿ぎょう參參まいりりり向向むかつつっててて、、、幔幔まん門門もんををを開開ひらききき、、、掃部掃部かもん寮寮りょう筵筵えん道道どうををを布布しききき、、、正正ただしかりしかりしかりししし儀儀ぎ式式しき、、、一一いち事事じもももなしなしなし。。。今日今日きょうはははたゞたゞただ夢夢ゆめとととのみのみのみぞぞぞおぼしめすおぼしめすおぼしめす。。。
- 12櫻櫻さくら町町まちののの中中ちゅう納納な言言ごん重重しげ教教のりののの卿卿きょう參參まいつつっててて、、、御御ご氣氣き色色しょく申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうははははやはやはや寢寢しん殿殿でんののの階階はしがくしがくしがくしののの間間まへへへ御御ご幸幸こうなつなつなっててて、、、待待まちちち參參まいらせらせらせ給給たまひひいけりけりけり。。。上上じょう皇皇かうははは今今こ年年とし二二は十十たち、、、あけあけあけがたがたがたののの月月つきののの光光ひかりにににはえはえはえさせさせさせ給給たまひひいててて、、、玉玉ぎょく體體たいもももいとゞいとゞいとど美美うつくしうしうしゅうぞぞぞ見見みえええさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。御御おん母母ぼ儀儀ぎ故故こ建建けん春春しゅん門門もん院院いんにににいたくいたくいたく似似に參參まいらさらさらさせせせ給給たまひひいたりたりたりしかしかしかばばば、、、法法ほう皇皇おうはははまづまづまず故故こ女女にょ院院いんののの御御おん事事ことおぼしめしおぼしめしおぼしめし出出いでででててて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 13兩兩りょう院院いんののの御御ご座座ざ、、、近近ちかくくくしつらはれしつらはれしつらわれたりたりたり。。。御御ご問問もん答答どうははは人人ひと承承うけたまわるるるににに及及およばばばずずず。。。御御ご前前ぜんにににははは尼尼あま前前ぜばかりばかりばかりぞぞぞ候候さぶらははわれれれけるけるける。。。やゝやゝやや久久ひさしくしくしく御御おん物物もの語語がたりせせせさせさせさせおはしましおはしましおわしまし、、、はるかはるかはるかににに日日ひたけたけたけててて後後のち、、、御御おん暇暇いとま申申もうさささせせせ給給たまひひいててて、、、鳥鳥と羽羽ばののの草草くさ津津つよりよりより御御おん船船ふねにににぞぞぞ召召めささされれれけりけりけり。。。上上じょう皇皇かうははは法法ほう皇皇おうののの離離り宮宮きゅうののの古古こ亭亭てい、、、幽幽ゆう閑閑かん寂寂せき寞寞ばくののの御御おん住住すま居居ひ、、、御御み心心こころ苦苦ぐるしうしうしゅう御御ご覽覽らんじじじ置置おかかかせせせ給給たまへへえばばば、、、法法ほう皇皇おうはははまたまたまた上上じょう皇皇かうののの旅旅りょ泊泊はくののの行行あん宮宮ぐう、、、波波なみののの上上うえ、、、船船ふねののの内内うちののの御御おん有有あり樣樣さま、、、おぼつかなくおぼつかなくおぼつかなくぞぞぞおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれけるけるける。。。まことまことまことににに宗宗そう廟廟びょう、、、八八や幡幡はた、、、賀賀か茂茂もなどなどなどをををさしさしさしおかおかおかせせせ給給たまひひいててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと安安あ藝藝きののの國國くにまでまでまでののの御御ご幸幸こうをををばばば、、、神神しん明明めいもももなどなどなどかかか御御ご納納のう受受じゅなかるなかるなかるべきべきべき。。。御御ご願願がん成成じょう就就じゅ疑疑うたがひひいなしなしなしとととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
現代語訳
治承四年(1180)正月一日、鳥羽殿には、相国(清盛)も許さず、法皇も恐れておられたので、元日から三が日の間、参上する人もいない。けれどもその中で、故少納言入道信西の子息の桜町中納言重教(成範)卿と、その弟の左京大夫脩範だけが、許されて参られた。
同じ月の二十日、春宮(言仁親王)の御袴着と御魚味始めの儀があって、めでたいことであったが、法皇は鳥羽殿で、それを遠いよそごととしてお聞きになった。二月二十一日、主上(高倉天皇)は特にご病気もなかったのに、位からお下ろし申して、春宮が践祚された。これも入道相国が何事も思いのままにしたことである。時が来たといって平家の人々は騒ぎ合った。
神璽・宝剣・内侍所をお渡し申した。上達部が陣の座に集まって、古いしきたりを先例どおりに執り行ったが、左大臣殿が陣に出て御譲位のことを宣するのを聞いて、心ある人々は涙を流し、心を痛めない者はなかった。自ら位を皇太子にお譲りになって、仙洞で静かに暮らそうとお思いになる場合でさえ、あわれは多いものである。ましてこれは、お心ならずも位から下ろされなさったのであるから、そのお心の中は言葉に尽くせない。
伝来の御宝物の数々を、それぞれの役所が受け取って、新帝の皇居である五条内裏へお渡し申した。閑院殿では灯火の影もかすかに、時を告げる鶏人の声もやみ、滝口の武士の問籍も絶えてしまったので、古くから仕える人々は、このようなめでたい祝いの中でも、今さらのようにあわれに思って、涙を流し袖を濡らさない者はなかった。
新帝は今年三歳。ああ、何と早い譲位であろうかと、人々はささやき合った。平大納言時忠卿は、新帝の御乳母である帥の典侍の夫であったので、「このたびの譲位を早すぎると誰が非難できよう。異国では周の成王が三歳、晋の穆帝が二歳、わが国では近衛院が三歳、六条院が二歳で位につかれた。これらはみな産着にくるまれて、衣帯も正しく着けられなかったが、あるいは摂政が背負って位につき、あるいは母后が抱いて朝廷に臨んだと見える。後漢の孝章皇帝は生まれて百日で践祚された。天子が位を踏む先例は、和漢このとおりである」と申されたので、その時の故実に通じた人々は、「ああ恐ろしい、ものをおっしゃるな。それではそれらはよい先例だというのか」とつぶやき合われた。
春宮が践祚されたので、入道相国夫婦はともに外祖父・外祖母として准三后の宣旨を受け、年官・年爵を賜って、上日の者を召し使い、絵を描き花を飾った装束の者たちが出入りして、まるで院や宮のようであった。出家の身で准三后の宣旨を受けたのは、法興院の大入道殿兼家公のほかは、これが初めてと聞く。
同じ年の三月上旬に、上皇(高倉院)が安芸の厳島へ御幸なさると聞こえた。帝王が位を退かれて初めて諸社へ御幸なさるときは、八幡・賀茂・春日へこそ御幸になるはずなのに、はるばると安芸国までの御幸はどうしたことかと、人々は不審に思った。ある人が言うには、「白河院は熊野へ、後白河院は日吉の社へ御幸なさった。それでわかるだろう、お心次第だということが。お心の中に深いご立願があるのだ。そのうえ、この厳島は平家がことのほか崇敬申しているので、表向きは平家に同調なさり、内心では、法皇がいつまでも鳥羽殿に押し込められておいでになるので、入道相国の心も和らいでほしいとのご祈願のためだ」と聞こえた。
延暦寺の大衆が怒って申すには、「主上が位を退かれて初めて諸社へ御幸なさるとき、八幡・賀茂・春日へ御幸なさらないのであれば、わが比叡山の山王へこそ御幸なさるべきなのに、はるばると安芸国までの御幸は、いつからのならわしか。そういうことなら、神輿を振り下ろし申して御幸をお止め申せ」と申した。これによって、しばらく御幸は延期された。入道相国がいろいろとなだめられたので、延暦寺の大衆は静まった。
同じ月の十七日、上皇は厳島御幸の御門出として、入道相国の北の方二位殿の宿所である八条大宮へ御幸なさった。その夜すぐに厳島の御神事が始められた。殿下(基通)から唐の御車や移しの馬などが献上された。明けて十八日、入道相国の邸へお入りになった。その日の夕方、前右大将宗盛卿を召して、「明日、厳島へ御幸のついでに鳥羽殿へ参って、法皇にお目にかかりたいと思うが、相国禅門に知らせないではまずいだろうか」とおっしゃると、宗盛卿は「何の差し支えがございましょう」と申し上げたので、「それならそなたは今夜鳥羽殿へ参って、その旨を申し上げよ」とおっしゃった。宗盛はかしこまって承り、急いで鳥羽殿へ参ってこのことを奏上されると、法皇はあまりに思いがけない御幸なので、これは夢であろうかとおっしゃった。
明けて十九日、大宮大納言隆季卿がまだ夜深いうちに参って、御幸の支度を促された。日ごろ評判であった厳島御幸を、西八条の邸からついに出発なさった。三月も半ばを過ぎたが、霞にくもる有明の月はなおおぼろである。北国を指して帰る雁が雲の上で鳴いて行くのも、折からあわれにお思いになる。まだ夜のうちに鳥羽殿へ御幸なさった。門前で御車から降りられて門の内へお入りになると、人の姿もまばらで木々は暗く、もの寂しげなお住まいで、まずあわれにお思いになった。
春はもう暮れようとしている。夏木立にもなってしまった。梢の花は色あせ、宮の鶯の声も老いている。去年の正月六日、朝覲のために法住寺殿へ行幸されたときには、楽屋で乱声を奏し、諸卿は列に並び、諸衛の武官が陣を張り、院司の公卿が迎えに出て幔門を開き、掃部寮が筵道を敷いて、整った儀式であったが、今は一つもない。今日はただ夢のようにお思いになる。
桜町中納言重教卿が参って、上皇の到着を申し上げると、法皇はもう寝殿の階隠しの間へお出ましになって、お待ちになっていた。上皇は今年二十歳、明け方の月の光に映えて、お姿もいっそう美しくお見えになった。母君の故建春門院によく似ておられたので、法皇はまず亡き女院のことを思い出されて、涙を抑えきれずにおられた。
両院の御座が近くに設けられた。お二人のお話は、人の聞くところではない。御前には尼御前だけがお仕えしていた。しばらく長くお話をなさって、日が高く昇ってから暇乞いをなさり、鳥羽の草津から御船にお乗りになった。上皇は法皇の離宮の古びた御殿、ひっそりと寂しいお住まいを心苦しくご覧になって後にされ、法皇はまた上皇の旅の仮の宿、波の上、船の中のご様子を気がかりにお思いになった。まことに宗廟(伊勢)や八幡・賀茂などをさしおいて、はるばると安芸国まで御幸なさるのだから、神もどうしてお受け入れにならないことがあろうか。ご願の成就は疑いないと見えた。
意訳
巻第四の冒頭で、物語は清盛の外孫安徳天皇の即位を描く。高倉天皇は病もないのに位を下ろされ、三歳の新帝が立つ。時忠が和漢の幼帝の例を挙げて正当化すると、有職の人々は「されどもそれらはよき例どもかや」とつぶやく。言仁親王の即位で清盛は天皇の外祖父となり、その権勢は頂点に達した。
後半の厳島御幸では、上皇が八幡・賀茂を差しおいて平家の崇める厳島を選んだことに延暦寺が反発する。上皇は出発の朝、鳥羽殿に幽閉されている父法皇を訪ねる。荒れた離宮の春の終わりの景色と、亡き建春門院に似た息子の姿に涙する法皇。物語は、清盛の専横のもとで引き裂かれた父子の情を、静かな筆致で描き出している。
語釈・文法注
- 重教
- 底本の表記。藤原成範(しげのり、1135〜1187)のこと。信西の子で、桜を愛したので桜町中納言と呼ばれた。
文法
- 「御魚味始め」
- 幼児に初めて魚を食べさせる祝いの儀式。
- 「藐姑射の山」
- 仙人の住む山。転じて上皇の御所(仙洞)をいう。
- 「鷄人」
- 宮中で時刻を告げる役の者。
- 「問籍」
- 滝口の武士が夜ごとに名のりをすること。
- 「さればそれらはよき例どもかや」
- 時忠の挙げた例はみな、早世や不運に終わった幼帝の例であるのに、それがよい先例だというのか、と皮肉ったもの。
- 「准三后」
- 太皇太后・皇太后・皇后の三后に準じる待遇。
- 「階がくしの間」
- 寝殿の正面の階段の上に張り出した屋根の下の間。
解説
治承四年(1180)二月二十一日、高倉天皇は三歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位した。三月、高倉上皇は譲位後初の社参として安芸の厳島に御幸した。延暦寺はこれに強く反発し、園城寺・興福寺と結んで後白河法皇と高倉上皇の奪取を計画したともいわれる。こうした寺社勢力の反平家の動きは、同年四月の以仁王の挙兵につながっていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、412–416頁(コマ235–237)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日