平家物語 巻第三
城南の離宮の事
高倉天皇は鳥羽殿の法皇にひそかに手紙を送り、退位して出家したいと伝えたが、法皇は思いとどまるよう諭した。古い臣下たちは次々と世を去り、残った者も出家した。清盛は政務を天皇に任せて福原へ下ったが、天皇は聞き入れなかった。城南の離宮で冬を過ごす法皇は、寂しい景色に昔を偲んで涙し、やがて治承四年となった。
- 1百百はく行行こうののの中中なかにににははは孝孝こう行行こうををを以以もっててて先先さきとととすすす。。。明明めい王王おうははは孝孝こうををを以以もっててて天天てん下下かををを治治おさむむむととといへいへいえりりり。。。さればさればされば唐唐とう堯堯ぎょうははは老老おいいい衰衰おとろへへえたるたるたる母母ははををを尊尊たつとびびび、、、虞虞ぐ舜舜しゅんはははかたくなかたくなかたくななるなるなる父父ちちををを敬敬うやまふふうととと見見みえええたりたりたり。。。かのかのかの賢賢けん王王おう、、、聖聖せい主主しゅののの先先せん規規きををを追追おははわせせせまし〳〵まし〳〵ましましけんけんけん、、、叡叡えい慮慮りょののの程程ほどこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。
- 2そのそのその頃頃ころ、、、内内だい裏裏りよりよりより、、、鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ、、、ひそかひそかひそかににに御御おん書書しょありありありけりけりけり。。。「「「斯斯かからからからんんん世世よにににははは、、、雲雲くも居居いににに跡跡あとををを止止とどめめめてててももも、、、何何なににににかかかはははししし候候そうろうべきべきべきなれなれなればばば、、、寛寛かん平平ぴょうののの昔昔むかしをををもももとぶらひとぶらひとぶらい、、、花花か山山ざんののの古古いにしえをををももも尋尋たずねねねててて、、、山山さん林林りん流流る浪浪ろうののの行行ぎょう者者じゃととともももなりなりなりぬぬぬべうべうびょうこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」とととあそばさあそばさあそばされれれたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうののの御御おん返返へん事事じににに、、、「「「さささなななおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうらひひいそそそ、、、さてさてさてわたらわたらわたらせせせ給給たまへへえばばばこそこそこそ、、、一一ひとつつつのののたのみたのみたのみにににてててももも候候そうらへへえ。。。あとあとあとなくなくなくおぼしめしおぼしめしおぼしめしならならならせせせ給給たまひひいなななんんん後後のちははは、、、何何なにのののたのみたのみたのみかかか候候そうろうべきべきべき。。。たゞたゞただともかうもともかうもともこうも、、、愚愚ぐ老老ろうがががならならならんんんやうやうようををを、、、御御ご覽覽らんじじじはてはてはてさせさせさせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」とととあそばさあそばさあそばされれれたりたりたりけれけれければばば、、、主主しゅ上上しょうこのこのこの御御おん返返へん事事じををを龍龍りょう顏顏がんにににおしおしおし當當あてててさせさせさせ給給たまひひいててて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 3君君きみははは船船ふね、、、臣臣しんははは水水みず、、、水水みずよくよくよく船船ふねををを浮浮うかべべべ、、、水水みずまたまたまた船船ふねををを覆覆くつがえすすす、、、臣臣しんよくよくよく君君きみををを保保たもちちち、、、臣臣しんまたまたまた君君きみををを覆覆くつがえすすす。。。保保ほう元元げん、、、平平へい治治じののの頃頃ころははは入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、君君きみををを保保たもちちち奉奉たてまつるるるととといへいへいえどもどもども、、、安安あん元元げん、、、治治じ承承しょうののの今今いまはははまたまたまた、、、君君きみをををなみしなみしなみし奉奉たてまつるるる。。。史史し書書しょののの文文もんににに違違たがははわずずず。。。
- 4大大おお宮宮みやののの大大だい相相しょう國國こく、、、三三さん條條じょうののの内内ない大大だい臣臣じん、、、葉葉は室室むろののの大大だい納納な言言ごん、、、中中なか山山やまののの中中ちゅう納納な言言ごんももも失失うせせせられられられぬぬぬ。。。今今いまふるきふるきふるき人人ひととてとてとてははは、、、成成せい賴賴らい、、、親親しん範範はんばかりばかりばかりなりなりなり。。。このこのこの人人ひと々々びとももも斯斯かからからからんんん世世よにににははは、、、朝朝ちょうににに仕仕つかへへえ身身みををを立立たててて、、、大大だい中中ちゅう納納な言言ごんををを經經へてててももも何何なににににかかかはははせせせんんんとてとてとて、、、未未いまだだだ盛盛さかんんんなつなつなっししし人人ひと々々びとののの、、、家家いえををを出出いででで世世よををを遁遁のがれれれ、、、民民みん部部ぶ卿卿きょう入入にゅう道道どう親親しん範範はんははは大大おお原原はらののの霜霜しもににに伴伴ともなひひい、、、宰宰さい相相しょう入入にゅう道道どう成成せい賴賴らいははは高高こう野野やののの霧霧きりににに交交まじはつはつわっててて、、、一一いっ向向こう後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいののの外外ほかははは、、、またまたまた他他た事事じなしなしなしとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。昔昔むかしももも商商しょう山山ざんののの雲雲くもににに隱隱かくれれれ、、、頴頴えい川川せんののの月月つきににに心心こころをををすますすますすます人人ひともももありありありけんけんけんなれなれなればばば、、、これこれこれ豈豈あに博博はく覽覽らん淸淸せい潔潔けつにににしてしてして、、、世世よををを遁遁のがれれれたるたるたるにににあらあらあらずずずややや。。。
- 5中中なかにににももも高高こう野野やにににおはしおはしおわしけるけるける宰宰さい相相しょう入入にゅう道道どう成成せい賴賴らい、、、このこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「あはれあはれあわれ心心こころ疾疾とくくくももも世世よをををばばば遁遁のがれれれたるたるたるものものものかなかなかな。。。かくかくかくててて聞聞きくくくももも同同おなじじじことことことなれなれなれどもどもども、、、まのあたりまのあたりまのあたり立立たち交交まじはつはつわっててて聞聞きかかかましましましかかかばばば、、、いかばかりいかばかりいかばかり心心こころ憂憂うからからからんんん。。。保保ほう元元げん、、、平平へい治治じののの亂亂らんをををこそこそこそ、、、あさましあさましあさましととと思思おもひひいつるつるつるににに、、、世世よ末末すえににになれなれなればばば、、、斯斯かかるかるかる不不ふ思思し議議ぎももも出出いででで來來きにににけりけりけり。。。このこのこの後後のち天天てん下下かにににいかばかりいかばかりいかばかりののの事事ことかかか出出いででで來來こんんんずずずらんらんらん。。。雲雲くもををを分分わきききてててももも上上のぼりりり、、、山山やまををを隔隔へだててててててももも入入いりりりなななばやばやばや。。。」」」とととぞぞぞ宣宣のたまひひいけるけるける。。。げにげにげに心心こころあらあらあらんんん程程ほどののの人人ひとののの、、、跡跡あとををを止止とどむむむべきべきべき世世よともともとも覺覺おぼえええずずず。。。
- 6同同おなじきじきじき二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、天天てん台台だい座座ざ主主す覺覺かく快快かい法法ほっ親親しん王王のう頻頻しきりりりににに御御ご辭辭じ退退たいありありありしかしかしかばばば、、、前前さきののの座座ざ主主す明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょう還還かん著著じゃくししし給給たまふふう。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくかくかくかくさん〴〵さん〴〵さんざんししし散散ちらさらさらされれれたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、中中ちゅう宮宮ぐうととと申申もうすすすももも御御おん女女むすめ、、、關關かん白白ぱく殿殿どのもももまたまたまた壻壻むこなりなりなりけれけれければばば、、、よろづよろづよろず心心こころやすくやすくやすくややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、政政せい務務むははは一一いっ向向こう主主しゅ上上しょうののの御御おんはからひはからひはからいたるたるたるべしべしべしとてとてとて、、、福福ふく原原はらへへへぞぞぞ下下くだららられれれけるけるける。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう三三さん日日にち、、、前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう急急いそぎぎぎ參參さん内内だいしてしてして、、、このこのこの由由よし奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、主主しゅ上上しょう、、、「「「法法ほう皇皇おうののの讓讓ゆずりりりまし〳〵まし〳〵ましましたるたるたる世世よならならならばばばこそこそこそ。。。たゞたゞただ執執しっ柄柄ぺいにににいひいひいい合合あははわせせせててて、、、宗宗むね盛盛もりともかうもともかうもともこうも、、、よきよきよきやうやうようににに相相あいはからはからはからへへへ。。。」」」とてとてとて、、、きこしめしきこしめしきこしめしももも入入いれれれざりざりざりけりけりけり。。。
- 7法法ほう皇皇おうははは城城せい南南なんののの離離り宮宮きゅうにににしてしてして、、、冬冬ふゆももも半半なかばばば過過すぐさぐさぐさせせせ給給たまへへえばばば、、、射射や山山さんののの嵐嵐あらしののの音音おとのみのみのみ烈烈はげしくしくしくててて、、、寒寒かん庭庭ていののの月月つきぞぞぞさやけきさやけきさやけき。。。庭庭にはにににははは雪雪ゆき降降ふりりり積積つもれれれどもどもども、、、跡跡あと蹈蹈ふみみみつくるつくるつくる人人ひともももなくなくなく、、、池池いけにににははは氷氷つららとぢとぢとじ重重かさねねねててて、、、羣羣むれれれゐゐいししし鳥鳥とりももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。大大おお寺寺でらののの鐘鐘かねののの聲聲こえ、、、遺遺い愛愛あい寺寺じののの聞聞ききききををを驚驚おどろかしかしかし、、、西西にし山山やまののの雪雪ゆきののの色色いろ、、、香香こう爐爐ろ峯峯ぼうののの望望のぞみみみををを催催もよおすすす。。。夜夜よる霜霜しもににに寒寒さむけきけきけき砧砧きぬたのののひゞきひゞきひびき、、、かすかかすかかすかににに御御おん枕枕まくらにににつたひつたひつたい、、、曉曉あかつき氷氷ごおりをををきしるきしるきしる車車くるまののの跡跡あと、、、遙遙はるかかかののの門門もん前前ぜんににに横横よこたはれたはれたわれりりり。。。巷巷ちまたををを過過すぐるぐるぐる行行こう人人じん、、、征征せい馬馬ばののの忙忙いそがはしがはしがわしげげげなるなるなる景景けい色色しき、、、うきうきうき世世よをををわたるわたるわたる有有あり樣樣さまももも、、、思思おぼし召召めししし知知しららられれれててて哀哀あわれれれなりなりなり。。。
- 8宮宮きゅう門門もんををを守守まもるるる蠻蠻ばん夷夷いののの、、、夜夜よる晝晝ひる警警けい衞衞えいをををつとむるつとむるつとむるももも、、、前前さきののの世世よのののいかなるいかなるいかなる契契ちぎりりりにににててて、、、今今いま緣緣えんををを結結むすぶぶぶらんらんらんととと、、、仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるぞぞぞかたじけなきかたじけなきかたじけなき。。。およそおよそおよそものものものににに觸觸ふれれれ事事ことににに隨隨したがつつっててて、、、御御み心心こころををを傷傷いためめめしめしめしめずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。さるさるさるまゝまゝままにににはははかのかのかの折折おり々々おりののの御御ご遊遊ゆう覽覽らん、、、所所しょ々々しょののの御御ご參參さん詣詣けい、、、御御おん賀賀がのののめでたかりめでたかりめでたかりししし事事ことどもどもども思思おぼしししつゞけつゞけつづけててて、、、懷懷かい舊舊きゅうののの御御おん涙涙なみだおさへおさへおさえ難難がたししし。。。年年とし去去さりりり年年とし來來きたつつっててて治治じ承承しょうももも四四し年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。
現代語訳
あらゆる行いの中で、孝行を第一とする。賢明な王は孝によって天下を治めるという。それゆえ唐の堯は老い衰えた母を尊び、虞の舜は頑固な父を敬ったと見える。高倉天皇があの賢王・聖主の先例にならわれたのであろうか、そのお心のほどはまことにすばらしい。
そのころ、内裏から鳥羽殿へひそかにお手紙があった。「このような世では、宮中にとどまっていても何になりましょう。寛平の昔(宇多天皇)にならい、花山の古例をも尋ねて、山林を流浪する修行者になってしまいたいと思います」とお書きになったので、法皇のお返事には、「そのようにお思いなさいますな。あなたがそうしておいでになるからこそ、一つの頼みでもあるのです。跡もなく姿を消しておしまいになったら、何を頼みとしましょう。ただどうにでも、この老人がどうなるかを見届けてください」とお書きになったので、主上はこのお返事を顔に押し当てられて、涙を抑えきれずにおられた。
君は船、臣は水。水はよく船を浮かべ、水はまた船を覆す。臣はよく君を保ち、臣はまた君を覆す。保元・平治のころは入道相国が君をお守り申したけれども、安元・治承の今はまた、君をないがしろにし申している。史書の言葉のとおりである。
大宮の大相国(伊通)、三条内大臣(公教)、葉室大納言(顕頼)、中山中納言(顕時)も亡くなられた。今、古くからの臣としては、成頼・親範だけである。この人々もこのような世では、朝廷に仕え身を立て、大納言・中納言を経ても何になろうといって、まだ盛りであった人々が家を出て世を逃れ、民部卿入道親範は大原の霜に伴い、宰相入道成頼は高野の霧にまじって、ひたすら後世菩提のほかには他のことはないと聞こえた。昔も商山の雲に隠れ、潁川の月に心を澄ました人もあったというから、これはまさに博識で潔白な人が世を逃れたものではないか。
中でも高野におられた宰相入道成頼は、このことを伝え聞かれて、「ああ、早く世を逃れたものだ。こうして聞くのも同じことであるが、目の当たりに交わって聞いていたら、どんなにつらかったであろう。保元・平治の乱をこそ情けないと思ったのに、世が末になると、このような不思議なことも起こるのだな。これから先、天下にどんなことが起こるだろう。雲を分けてでも上り、山を隔ててでも入ってしまいたい」とおっしゃった。まことに心ある人が身をとどめるべき世とも思われない。
同じ月の二十一日、天台座主覚快法親王がしきりに辞退されたので、前座主の明雲大僧正が再任された。入道相国はこのようにさんざんにかき乱されたが、中宮も自分の娘、関白殿も婿であったので、何かと安心に思われたのであろうか、政務はすべて主上のお計らいとすべきだといって、福原へ下られた。同じ月の二十三日、前右大将宗盛卿が急いで参内してこのことを奏上されると、主上は「法皇がお譲りになった世ならばともかく。ただ執柄(関白)と相談して、宗盛がどうにでもよいように取り計らえ」といって、お聞き入れにならなかった。
法皇は城南の離宮(鳥羽殿)で冬も半ばを過ごされると、仙洞を吹く嵐の音ばかりが激しく、寒々とした庭の月が澄みわたる。庭には雪が降り積もっても、足跡をつける人もなく、池には氷が張り重なって、群れていた鳥も見えない。大寺の鐘の声は遺愛寺の鐘の音を聞くかと驚かせ、西山の雪の色は香炉峰の眺めを思わせる。夜の霜に寒々と響く砧の音がかすかにお枕元に伝わり、明け方の氷をきしませる車の跡が、遠くの門前に横たわっている。巷を行き交う旅人や、馬を急がせる様子、つらい世を渡る人々の姿も、身にしみてお感じになって哀れである。
宮門を守る荒々しい武士たちが、昼夜警護を務めるのも、前世のどのような因縁で今縁を結ぶのであろうかと、おっしゃったのは畏れ多い。およそ物に触れ事につけて、お心を痛められないことはない。それにつけても、かつての折々の御遊覧、あちこちへの御参詣、御賀のめでたかったことなどを思い続けられて、昔を懐かしむ涙を抑えがたい。年が去り年が来て、治承も四年になった。
意訳
巻第三の結びの章段である。高倉天皇は父法皇の幽閉を悲しみ、退位して出家したいとまで書き送るが、法皇は「愚老がならんやうを、御覽じはてさせ給ふべう」と、自分の行く末を見届けてくれと諭す。父子の情愛と孝の心が、冒頭の「百行の中には孝行を以て先とす」と響き合っている。
後半の鳥羽殿の冬景色は、白居易の詩句(遺愛寺の鐘、香炉峰の雪)を踏まえた美文で、幽閉された法皇の孤独と寂寥を描く。「年去り年來つて治承も四年になりにけり」の結びは、静かな時の流れのうちに、次の巻の激動(以仁王の挙兵)への予感を残している。
語釈・文法注
文法
- 「君は船、臣は水…」
- 『荀子』『貞観政要』などに見える言葉。臣は君を支えもし、また滅ぼしもする。
- 「寛平の昔」
- 宇多天皇(寛平年間)が譲位後に出家したことをいう。
- 「花山の古」
- 花山天皇がひそかに宮中を出て出家したことをいう。
- 「商山の雲に隱れ、頴川の月に心をすます」
- 秦末に商山に隠れた四人の老人(商山四皓)と、潁川で耳を洗った許由の故事。
- 「射山」
- 「藐姑射の山」の略。上皇の御所(仙洞)をいう。
- 「遺愛寺の聞き」「香爐峯の望み」
- 白居易の詩「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥げて看る」による。
解説
後白河法皇は治承三年(1179)十一月から翌年五月まで鳥羽殿に幽閉された。鳥羽殿は京の南、鳥羽にあった離宮で、白河上皇・鳥羽上皇が院政の拠点とした。治承四年(1180)二月、高倉天皇は清盛の外孫である言仁親王(安徳天皇)に譲位し、四月には以仁王が平家追討の令旨を発する(巻第四)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、409–411頁(コマ233–234)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日