平家物語 巻第三
法皇御遷幸の事
治承三年十一月二十日、軍兵が法住寺殿を囲み、宗盛は法皇を鳥羽殿へ移した。供の公卿は一人もなく、法皇は宗盛を兄重盛に劣ると嘆いた。鳥羽殿では信成がひとり湯を沸かして仕え、静憲法印が許されて参上すると、法皇は涙ながらに経を読んでおられた。高倉天皇も嘆いて、夜ごとに伊勢大神宮を拝した。
- 1同同おなじきじきじき二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのをををばばば軍軍ぐん兵兵びょう四四し面面めんをををうちうちうち圍圍かこんんんででで、、、平平へい治治じににに信信のぶ賴賴よりののの卿卿きょうががが三三さん條條じょう殿殿どのをををしししたりたりたりしししやうやうようににに、、、御御ご所所しょににに火火ひをををかけかけかけ、、、人人ひとをををばばばみなみなみな燒燒やききき亡亡ほろぼすぼすぼすべきべきべき由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、局局つぼねののの女女にょう房房ぼう、、、怪怪あやしししののの女女めののの童童わらわににに至至いたるるるまでまでまで、、、ものものものをををだにだにだにうちうちうちかづかかづかかずかずずずしてしてして、、、われわれわれさきさきさきにににとととぞぞぞ遁遁にげげげ出出いでででけるけるける。。。前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう御御おん車車くるまををを寄寄よせせせててて、、、「「「とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれけれははは、、、法法ほう皇皇おう叡叡えい慮慮りょををを驚驚おどろかかかせせせおはしましおはしましおわしまし、、、「「「成成なり親親ちか、、、俊俊しゅん寛寛かん等等らがががやうやうようににに、、、遠遠とおききき國國くに、、、遙遙はるかかかののの島島しまへへへももも遷遷うつしししやらやらやられれれんんんずるずるずるにににこそこそこそ、、、更更さらににに御御おん咎咎とがあるあるあるべしべしべしともともとも思思おぼし召召めさささずずず。。。主主しゅ上上しょうさてさてさてわたらわたらわたらせせせ給給たまへへえばばば、、、政政せい務務むののの口口こう入入じゅするするするばかりばかりばかりなりなりなり。。。それそれそれもももさらさらさらずずずばばば、、、自自じ今今こん以以い後後ごさらさらさらでででもももあれあれあれかしかしかし。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、
- 2宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょう涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「いかにいかにいかに只只ただ今今いま、、、さるさるさる御御おん事事こと候候そうろうべきべきべき。。。しばらくしばらくしばらく世世よをををしづめしづめしずめんんんほどほどほど、、、鳥鳥と羽羽ばののの北北きた殿殿どのののの御御ご幸幸こうをををなしなしなし參參まいらせらせらせよよよととと、、、父父ちちののの禪禪ぜん門門もん申申もうししし候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、「「「さらばさらばさらば汝汝なんじ、、、やがてやがてやがて御御おん供供とも仕仕つかまつれれれ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれけれどもどもども、、、父父ちちののの禪禪ぜん門門もんののの氣氣き色色しょくにににおそれおそれおそれをををなしなしなしててて、、、御御おん供供ともにににははは參參まいららられれれずずず。。。「「「これこれこれにににつけつけつけてててももも、、、兄兄あにののの内内だい府府ふにににはははことことことのののほかほかほかににに劣劣おとりりりたるたるたるものものものかなかなかな。。。一一ひと年年とせももも斯斯かかるかるかる御御おん目目めにににあふあふあうべかりべかりべかりしししををを、、、内内だい府府ふががが身身みにににかへかへかへててて制制せいししし止止とめめめてててこそこそこそ、、、今日今日きょうまでまでまでももも御御み心心こころやすかりやすかりやすかりつれつれつれ。。。今今いまははは、、、諫諫いさむるむるむるものものもののののなきなきなきとてとてとて、、、斯斯かくくくはははするするするやらやらやらんんん。。。行行ゆくくくすゑすゑすえとてとてとてももも、、、たのもしからたのもしからたのもしからずずず思思おぼし召召めすすす。。。」」」とてとてとて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 3さてさてさて御御おん車車くるまににに召召めささされれれけりけりけり。。。公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びと、、、一一ひと人人りももも供供ぐ奉奉ぶせせせられられられずずず、、、北北ほく面面めんののの下下げ臈臈ろうととと、、、さてさてさてははは金金こん行行ぎょうととといふいふいう御御おん力力りき者者しゃばかりばかりばかりぞぞぞ參參まいりりりけるけるける。。。御御おん車車くるまののの尻尻しりにににははは尼尼あま前前ぜ一一ひと人人り參參まいららられれれけりけりけり。。。このこのこの尼尼あま前前ぜととと申申もうすすすははは、、、やがてやがてやがて法法ほう皇皇おうののの御御おん乳乳ちののの人人ひと、、、紀紀き伊伊いののの二二に位位いののの御御おん事事ことなりなりなり。。。七七しち條條じょうををを西西にしへへへ、、、朱朱しゅ雀雀じゃかををを南南みなみへへへ御御ご幸幸こうなしなしなし奉奉たてまつるるる。。。「「「あはやあはやあわや法法ほう皇皇おうののの流流ながささされれれさせさせさせおはしますおはしますおわしますぞぞぞややや。。。」」」とてとてとて、、、心心こころなきなきなきあやしあやしあやしののの賤賤しずののの男男を、、、しづしづしずののの女女めににに至至いたるるるまでまでまで、、、みなみなみな涙涙なみだををを流流ながししし、、、袖袖そでをををぬらさぬらさぬらさぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 4さんぬるさんぬるさんぬる七七なぬ日日かののの夜夜よののの大大だい地地じ震震しんももも、、、斯斯かかるかるかるべかりべかりべかりけるけるける前前ぜん表表ぴょうにににててて、、、十十じゅう六六ろく洛洛らく叉叉しゃののの底底そこまでまでまでももも答答こたへへえ、、、堅堅けん牢牢ろう地地じ神神じんののの驚驚おどろきききさわぎさわぎさわぎ給給たまふふうらんらんらんももも、、、ことわりことわりことわりかなかなかなとととぞぞぞ人人ひと申申もうしししけるけるける。。。さてさてさて鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなつなつなっててて後後のち、、、御御ご前前ぜんににに人人ひと一一ひと人人りももも候候さぶらははわずずず。。。何何なにとととしてしてしてかかかまぎれまぎれまぎれ入入いりりりたりたりたりけんけんけん、、、大大だい膳膳ぜんののの大大たい夫夫ふ信信のぶ成成なりがががたゞたゞただ一一ひと人人り候候さぶらひひいけるけるけるををを、、、御御ご前前ぜんへへへ召召めしししててて、、、「「「われわれわれははは近近ちこううう失失うしなははわれれれんんんずるずるずるととと思思おぼしししめずめずめずぞぞぞ。。。御御おん行行ぎょう水水ずいををを召召めさささばやばやばやととと思思おぼしししめすめすめすはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、さらさらさらぬぬぬだにだにだに信信のぶ成成なりははは、、、今今け朝朝さよりよりより肝肝きも膽膽たましいももも身身みににに添添そははわずずず、、、あきれあきれあきれたるたるたる樣樣さまにににててて候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、このこのこの仰仰おおせせせ承承うけたまわるるる事事ことのののかたじけなさかたじけなさかたじけなさににに、、、狩狩かり衣衣ぎぬののの玉玉たま襷襷だすきあげあげあげ、、、釜釜かまににに水水みずくみくみくみ入入いれれれ、、、小小こ柴柴しば墻墻がきこぼちこぼちこぼち、、、大大おお床床ゆかののの束束つか柱柱ばしら割割わりりりなどなどなどしてしてして、、、かたかたかたののの如如ごとくくくののの御御おん湯湯ゆししし出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。
- 5またまたまた靜靜じょう憲憲けん法法ほう印印いん、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていへへへ行行ゆききき向向むかつつっててて、、、「「「昨昨ゆう夜夜べ法法ほう皇皇おうののの鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなつなつなっててて候候そうろうなるなるなるににに、、、御御ご前前ぜんににに人人ひと一一ひと人人りももも候候そうらははわぬぬぬ由由よし承承うけたまわつつっててて、、、餘餘あまりりりにににあさましくあさましくあさましく覺覺おぼえええ候候そうろう。。。何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき。。。靜靜じょう憲憲けんばかりばかりばかり御御おん許許ゆるされされされををを蒙蒙こうぶつつっててて、、、參參まいりりり候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくいかゞいかゞいかが思思おもははわれれれけんけんけん、、、「「「御御ご坊坊ぼうははは一一いっ向向こうことことこと過過あやまつつつまじきまじきまじき人人ひとなりなりなり、、、とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とてとてとて赦赦ゆるささされれれけりけりけり。。。
- 6法法ほう印印いんなのめなのめなのめならならならずずず喜喜よろこびびび、、、急急いそぎぎぎ鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ參參まいりりり、、、門門もん前前ぜんにににててて車車くるまよりよりより下下おりりり、、、門門もんののの中中うちへへへさしさしさし入入いりりり給給たまふふうににに、、、折折おりふしふしふし法法ほう皇皇おうははは御御おん經經きょううちうちうちあげ〳〵あげ〳〵あげうちあげ遊遊あそばさばさばされれれけるけるける御御おん聲聲こえののの、、、ことことことにににすごうすごうすごうぞぞぞ聞聞きこえええさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。法法ほう印印いんのののつとつとつと參參まいららられれれたれたれたればばば、、、あそばさあそばさあそばされれれけるけるける御御おん經經きょうににに、、、御御おん涙涙なみだのののはら〳〵はら〳〵はらはらとととかゝらかゝらかからせせせ給給たまふふうををを見見み參參まいらせらせらせててて、、、法法ほう印印いんあまりあまりあまりののの悲悲かなしさしさしさににに、、、裘裘きゅう代代たいののの袖袖そでににに顏顏かおをををおしおしおしあてあてあてててて泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御ご前前ぜんへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。
- 7御御ご前前ぜんにににははは尼尼あま前前ぜばかりばかりばかりぞぞぞ候候さぶらははわれれれけるけるける。。。「「「やゝやゝやや法法ほう印印いんののの御御ご坊坊ぼう、、、君君きみははは昨日昨日きのうののの朝朝あした、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのにににててて供供ぐ御御ご聞聞きこし召召めしししててて後後のちははは、、、昨昨ゆう夜夜べももも今今け朝朝さもももきこしめさきこしめさきこしめさずずず。。。長長ながききき夜夜よすがらすがらすがら御御ぎょ寢寢しんもももならならならずずず、、、御御おん命命いのちももも既既すでににに危危あやううううこそこそこそ見見みえええさせさせさせおはしませおはしませおわしませ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、
- 8法法ほう印印いん涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「何何なに事事ごとももも限限かぎりりりあるあるある事事ことでででこそこそこそ候候そうらへへえ。。。平平へい家家け世世よををを取取とつつっててて二二に十十じゅう餘餘よ年年ねん、、、されどもされどもされども惡惡あく行行ぎょう法法ほうににに過過すぎぎぎててて、、、既既すでににに亡亡ほろびびび候候そうらひひいなななんんんずずず。。。さればさればされば天天てん照照しょう大大だい神神じん、、、正正しょう八八はち幡幡まん宮宮ぐうももも、、、君君きみをををばばばいかでいかでいかで思思おぼしししめしめしめし放放はなたたたせせせ給給たまふふうべきべきべき。。。中中なかにににももも君君きみののの御御おん賴賴たのみみみおはしますおはしますおわします日日ひ吉吉よし山山さん王王おう七七しち社社しゃ、、、一一いち乘乘じょう守守しゅ護護ごののの御御おん誓誓ちかひひい未未いまだだだ改改あらたまらまらまらずずずばばば、、、かのかのかの法法ほっ華華け八八はち軸軸じくににに立立たちちちかけつかけつかけってててこそこそこそ、、、君君きみをををばばば守守まもりりり參參まいらさらさらさせせせ給給たまふふうらめらめらめ。。。さればさればされば政政せい務務むははは君君きみののの御御み代代よとととなりなりなり、、、兇兇きょう徒徒とははは水水みずののの泡泡あわととと消消きえええ失失うせせせ候候そうらひひいなななんんんずずず。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうこのこのこの言言こと葉葉ばににに、、、少少すこししし慰慰なぐさままませせせおはしますおはしますおわします。。。
- 9主主しゅ上上しょうははは關關かん白白ぱく流流ながささされれれ給給たまひひい、、、臣臣しん下下かののの多多おおくくく亡亡ほろびびび損損そんずるずるずる事事ことをををのみのみのみこそこそこそ、、、御御おんなげきなげきなげきありありありつるつるつるににに、、、今今いままたまたまた法法ほう皇皇おうののの鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなりなりなりぬるぬるぬる由由よし聞聞きこしめししめししめしててて、、、つや〳〵つや〳〵つやつや供供ぐ御御ごもももきこしめさきこしめさきこしめさずずず、、、御御ご惱惱のうとてとてとて常常つねははは夜夜よるののの御御お殿殿とどにににのみのみのみ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。御御ご前前ぜんににに候候さぶらははわせせせ給給たまふふう女女にょう房房ぼうたちたちたち、、、后后きさきののの宮宮みやををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて、、、いかなるいかなるいかなるべしべしべしともともとも思思おぼし召召めさささずずず、、、法法ほう皇皇おうののの鳥鳥と羽羽ば殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなつなつなっててて後後のち、、、内内だい裏裏りにににははは臨臨りん時時じののの御御おん神神かみ事事わざとととしてしてして、、、淸淸せい涼涼りょう殿殿でんののの石石いし灰灰ばいののの壇壇だんにににしてしてして、、、主主しゅ上上しょう夜夜よごとごとごとににに伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうをををぞぞぞ御御ご拜拜はいありありありけるけるける。。。これこれこれははは一一いっ向向こう法法ほう皇皇おう御御おん祈祈いのりりりののの爲爲ためとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 10二二に條條じょうののの院院いんはははさばかりさばかりさばかりののの賢賢けん主主しゅにににてててわたらわたらわたらせせせ給給たまひひいしかしかしかどもどもども、、、天天てん子子しににに父父ふ母母もなしなしなしとてとてとて、、、常常つねははは院院いんののの仰仰おおせせせををを申申もうししし返返かえさささせせせおはしましおはしましおわしましけれけれければばばにににややや、、、繼繼けい體體たいののの君君きみにににてててもももましまさましまさましまさずずず、、、さればさればされば御御おん讓讓ゆずりりりををを受受うけけけさせさせさせ給給たまひひいたりたりたりししし六六ろく條條じょうののの院院いんももも、、、安安あん元元げん二二に年年ねん七七しち月月がつ十十じゅう四四よっ日日か、、、御御おん年年とし十十じゅう三三さんにににててて遂遂ついにににかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ。。。あさましかりあさましかりあさましかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
現代語訳
同じ月の二十日、軍兵が法住寺殿の四方を取り囲んで、平治の乱で信頼卿が三条殿にしたように、御所に火をかけ、人をみな焼き殺すだろうと聞こえたので、局の女房や身分の低い女の童に至るまで、衣をかぶることさえせずに、我先にと逃げ出した。前右大将宗盛卿が御車を寄せて、「早く早く」と申されたので、法皇は驚かれて、「成親や俊寛らのように、遠い国や遥かな島へも移そうというのであろう。少しも咎められることがあるとは思わない。主上がおいでになるので、政務に口出ししているだけである。それもいけないというなら、今後はそれもやめよう」とおっしゃると、
宗盛卿は涙をはらはらと流して、「どうして今、そのようなことがございましょう。しばらく世を鎮めるまでの間、鳥羽の北殿へ御幸をおさせ申せと、父の禅門が申しております」と申されたので、法皇が「それならそなたがすぐに供をせよ」とおっしゃったが、宗盛は父の禅門の機嫌を恐れて、お供には参られなかった。「これにつけても、兄の内府よりはことのほか劣っているものだな。先年もこのような目に遭うはずであったのを、内府がわが身にかえて制し止めたからこそ、今日まで安心していられたのだ。今は諫める者がいないといって、このようにするのであろうか。行く末も頼もしくないと思う」といって、涙を抑えきれずにおられた。
こうして御車にお乗りになった。公卿・殿上人は一人もお供せず、北面の下級の侍と、あとは金行という御力者だけが参った。御車の後ろには尼御前が一人乗られた。この尼御前というのは、法皇の御乳母の紀伊の二位のことである。七条を西へ、朱雀を南へとお連れ申した。「ああ、法皇が流されておいでになるぞ」といって、情けを知らない身分の低い男や女に至るまで、みな涙を流し、袖を濡らさない者はなかった。
去る七日の夜の大地震も、このようなことになる前兆で、十六洛叉の地の底まで響き、堅牢地神が驚き騒がれたのも、もっともなことだと人々は申した。さて鳥羽殿へ御幸なさってからは、御前に人一人もいない。どうやってまぎれ込んだのか、大膳大夫信成がただ一人お仕えしていたのを御前に召して、「私は近いうちに殺されるのだと思うぞ。行水をしたいと思うがどうか」とおっしゃると、それでなくても信成は今朝から生きた心地もせず、途方に暮れていたが、このお言葉を承ることのもったいなさに、狩衣の袖を玉襷でたくし上げ、釜に水を汲み入れ、小柴垣を壊し、縁の束柱を割るなどして、形ばかりのお湯を沸かして差し上げた。
また静憲法印は、入道相国の西八条の邸へ行って、「昨夜、法皇が鳥羽殿へ御幸なさったそうですが、御前に人一人もいないと聞いて、あまりに情けなく思います。何の差し支えがありましょう。静憲だけでもお許しをいただいて参りたい」と申されると、入道相国はどう思われたのか、「御坊は決して間違いを起こさない人だ。早く早く」といって許された。
法印はたいへん喜んで、急いで鳥羽殿へ参り、門前で車から降りて門の中へ入られると、ちょうど法皇はお経を繰り返し声高に読んでおられ、そのお声がことにもの寂しく聞こえた。法印がさっと参られると、読んでおられたお経の上に、涙がはらはらとこぼれかかっておられるのを拝見して、法印はあまりの悲しさに、裘代の袖に顔を押し当てて、泣く泣く御前へ参られた。
御前には尼御前だけがお仕えしていた。「ああ法印の御坊、君は昨日の朝、法住寺殿でお食事を召し上がってから後は、昨夜も今朝も召し上がりません。長い夜通しお休みにもなれず、お命ももう危うく見えます」と申されると、
法印は涙をおさえて申されるには、「何事にも限りがあるものです。平家が世を取って二十余年、けれども悪行は度を越して、もう滅びることでしょう。それゆえ天照大神も正八幡宮も、どうして君をお見捨てになりましょう。中でも君が頼みにしておられる日吉山王七社は、法華一乗を守るという誓いがまだ改まっていなければ、あの法華経八巻に乗り移ってでも、君をお守り申されるでしょう。そうなれば政務は君の御代となり、悪人どもは水の泡と消え失せるでしょう」と申されたので、法皇はこの言葉に少しお慰められた。
主上(高倉天皇)は、関白が流され、臣下が多く滅び損なわれることばかりをお嘆きであったのに、今また法皇が鳥羽殿へ御幸になったとお聞きになって、まったくお食事も召し上がらず、ご病気だといって、いつも夜の御殿にばかりこもっておられた。御前にお仕えする女房たちは、中宮をはじめとして、どうなることかと思いもよらず、法皇が鳥羽殿へ移られてからは、内裏では臨時の御神事として、清涼殿の石灰の壇で、主上が夜ごとに伊勢大神宮を拝まれた。これはひとえに法皇のための御祈りと聞こえた。
二条院はあれほどの賢主でいらっしゃったが、「天子に父母なし」といって、いつも院のお言葉にお逆らいになったからであろうか、皇統を継ぐ君にもなられず、その御譲りを受けられた六条院も、安元二年(1176)七月十四日、御年十三でついにお亡くなりになった。情けないことであった。
意訳
清盛のクーデターの頂点、後白河法皇の幽閉を描く章段である。法皇は流罪を覚悟し、迎えに来た宗盛に供を命じるが、宗盛は父を恐れて従わない。「兄の内府にはことのほかに劣りたるものかな」という法皇の嘆きは、重盛を失った平家の弱さを浮き彫りにしている。
鳥羽殿の法皇は、供の者もほとんどなく、大膳大夫信成が柴垣を壊して湯を沸かすほどの寂しさであった。静憲法印が駆けつけて慰める場面は、前章段の「法印問答」で清盛と渡り合った法印の、主君への深い忠誠を示している。一方、高倉天皇は父法皇の身を案じて夜ごとに伊勢を拝し、親を思わなかった二条院との対比で、その孝心がたたえられる。
語釈・文法注
文法
- 「申されたりけれは」
- 底本は「けれは」。濁点が落ちたもので「ければ」の意。底本の表記のまま翻刻した。
- 「思しめずぞ」
- 底本は「思しめずぞ」。「思しめすぞ」の誤植と考えられる。底本の表記のまま翻刻した。
- 「十六洛叉」
- 大地の下にあるという水輪・金輪などの厚さを示す数。洛叉は十万。
- 「堅牢地神」
- 大地を守る神。
- 「裘代」
- 僧が参内などのときに着る衣服。
- 「繼體の君」
- 皇統を受け継ぐ天子。二条院の子孫は皇位を継がなかったことをいう。
解説
治承三年(1179)十一月二十日、清盛は後白河法皇を法住寺殿から鳥羽殿に移して幽閉し、院政を停止した。これによって平家は朝廷の実権を握ったが、法皇の幽閉は諸国の反平家勢力を刺激し、翌年の以仁王の挙兵、さらに源頼朝・木曽義仲の挙兵へとつながっていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、406–409頁(コマ231–233)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日