平家物語 巻第三
行隆の沙汰の事
前関白基房の侍江大夫判官遠成は、六波羅に捕らえられる前に、子の家成とともに河原坂の宿所に火をかけて自害した。清盛の心には天魔が入れ替わったといわれ、京中は騒いだ。一方、十余年も官を止められ困窮していた前左少弁行隆は、清盛に呼び出されて死を覚悟したが、思いがけず厚遇され、もとの左少弁に返り咲いた。
- 1前前さきののの關關かん白白ぱく松松まつ殿殿どのののの侍侍さぶらいににに江江こう大大たい夫夫ふののの判判はん官官がん遠遠とお成成なりととといふいふいう者者ものありありあり。。。これこれこれももも平平へい家家けににに快快こころよからからからざりざりざりけるけるけるががが、、、六六ろく波波は羅羅らよりよりより搦搦からめめめ取取とらららるるるべしべしべしととと聞聞きこえええししし程程ほどににに、、、子子し息息そく江江こう左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう家家いえ成成なり相相あい具具ぐしししててて南南みなみををを指指さしししててて落落おちちち行行ゆきききけるけるけるががが、、、稻稻いな荷荷り山山やまににに打打うち上上あがりりり、、、馬馬うまよりよりより下下おりりりててて、、、親親おや子子こいひいひいい合合あはせはせわせけるけるけるははは、、、「「「これこれこれよりよりより東東とう國國ごくへへへ落落おちちち下下くだりりり、、、流流る人人にん前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝ともををを賴賴たのまままばやばやばやとととははは思思おもへへえどもどもども、、、それそれそれももも當當とう時時じははは敕敕ちょく勘勘かんののの身身みにににててて、、、わがわがわが身身み一一ひとつつつだにだにだにかなひかなひかない難難がとうううおはすおはすおわすなりなりなり。。。そのそのその外外ほか日日に本本ほん國國ごくににに、、、平平へい家家けののの莊莊しょう園園えんならならならぬぬぬ所所ところやややあるあるある。。。とてもとてもとても遁遁のがれれれざらざらざらんんんものものもの故故ゆえににに、、、年年とし頃頃ごろ住住すみみみ馴馴なれれれたるたるたる所所ところををを、、、人人ひとににに見見みせせせんんんももも恥恥はぢぢじがましがましがまし。。。これこれこれよりよりより取取とつつっててて返返かへししし、、、六六ろく波波は羅羅らよりよりより召召めしししののの使使つかいあらあらあらばばば、、、館館たちににに火火ひかけかけかけ、、、燒燒やききき上上あげげげ、、、腹腹はらかきかきかき切切きつつっててて死死しなななんんんにににははは如如しかかかじじじ。。。」」」とてとてとて、、、またまたまた河河か原原はら坂坂ざかののの宿宿しゅく所所しょへへへ取取とつつっててて返返かえすすす。。。
- 2案案あんののの如如ごとくくく源源げん大大たい夫夫ふののの判判はん官官がん季季すえ貞貞さだ、、、攝攝つ津津のののの判判はん官官がん盛盛もり澄澄ずみ、、、ひたひたひたかぶとかぶとかぶと三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、河河か原原はら坂坂ざかののの宿宿しゅく所所しょへへへおしおしおし寄寄よせせせててて、、、鬨鬨ときをををどつどつどっとととぞぞぞつくりつくりつくりけるけるける。。。江江こう大大たい夫夫ふののの判判はん官官がん、、、緣緣えんににに立立たち出出いでででててて、、、大大だい音音おん聲聲じょうををを揚揚あげげげててて、、、「「「いかにいかにいかに各各おのおの、、、六六ろく波波は羅羅らででではははこのこのこの樣樣ようををを申申もうさささせせせ給給たまへへえ。。。」」」とてとてとて、、、館館たちににに火火ひかけかけかけ、、、燒燒やきききあげあげあげ、、、父父ふ子子し共共ともににに腹腹はらかきかきかき切切きつつっててて、、、焰焰ほのおののの中中なかにににててて燒燒やけけけ死死しにににぬぬぬ。。。
- 3抑抑そもそもかやうかやうかようににに人人ひとののの亡亡ほろびびび損損そんずるずるずる事事ことをををいかにいかにいかにととといふいふいうににに、、、前前さきののの大大おお殿殿とのののの御御おん子子こ三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのととと、、、當當とう時時じ關關かん白白ぱくにににならならならせせせ給給たまふふう二二に位位いののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのととと、、、中中ちゅう納納な言言ごん御御おん爭爭そう論論ろん故故ゆえとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。さらばさらばさらば關關かん白白ぱく殿殿どの御御ご一一いっ所所しょばかりばかりばかりこそこそこそ、、、いかなるいかなるいかなる御御おん目目めにににもももあはせあはせあわせ給給たまふふうべきべきべきににに、、、四四し十十じゅう三三さん人人にんののの人人ひと々々びとののの事事ことにににあふあふあうべきべきべきやややははは。。。およそおよそおよそはははこれこれこれにににももも限限かぎるるるまじかんまじかんまじかんなれなれなれどもどもども、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの心心こころににに天天てん魔魔ま入入いりりりかはつかはつかわっててて、、、よろづよろづよろず腹腹はらをををすゑすゑすえかねかねかね給給たまふふう由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、京京きょう中中じゅうまたまたまた騒騒さわぎぎぎ合合あへへえりりり。。。
- 4去去こ年年ぞ讚讚さぬ岐岐きののの院院いん御御ご追追つい號號ごうあつあつあっててて、、、崇崇す德德とく天天てん皇皇のうととと號號ごうししし、、、宇宇う治治じののの惡惡あく左左さ府府ふ、、、贈贈ぞう官官かん贈贈ぞう位位い行行おこなははわれれれたりたりたりととといへいへいえどもどもども、、、世世せ間間けんははは猶猶なおももも靜靜しずかかかならならならずずず。。。そのそのその頃頃ころ前前さきののの左左さ少少しょう辨辨べん行行ゆき隆隆たかととと聞聞きこえええしししははは、、、故故こ中中なか山山やまののの中中ちゅう納納な言言ごん顯顯あき時時ときののの卿卿きょうののの長長ちょう男男なんなりなりなり。。。二二に條條じょうののの院院いんののの御御おん時時ときははは辨辨べん官官かんににに加加くわはつはつわっててて、、、さしもさしもさしもゆゝしうゆゝしうゆゆしゅうおはせおはせおわせしししががが、、、このこのこの十十じゅう餘餘よ年年ねんははは官官かんをををももも止止とどめめめられられられててて、、、夏夏なつ冬冬ふゆののの衣衣ころも更更がえにににももも及及およばばばすすす、、、朝朝ちょう暮暮ぼののの湌湌さんももも稀稀まれなりなりなり。。。あるあるあるかかかなきなきなきかかかののの體體ていにににててておはしおはしおわしけるけるけるををを、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく使使し者者じゃををを以以もっててて、、、「「「きつきつきっととと立立たち寄寄よりりりたまへたまへたまえ、、、申申もうししし合合あははわすすすべきべきべき事事ことありありあり。。。」」」ととと宣宣のたまひひい遣遣つかはさはさわされれれたりたりたりけれけれければばば、、、
- 5行行ゆき隆隆たか、、、「「「このこのこの十十じゅう餘餘よ年年ねんははは官官かんをををももも停停とどめめめられられられててて、、、よろづよろづよろず何何なに事事ごとにににももも交交まじはらはらわらざりざりざりつるつるつるものものものををを、、、いかさまいかさまいかさまにににももも讒讒ざん言言げんしてしてして、、、失失うしなははわんんんとととするするする者者もののののあるあるあるにににこそこそこそ。。。」」」とてとてとて、、、大大おおきききににに恐恐おそれれれ騒騒さわがががれれれけりけりけり。。。北北きたののの方方かた以以い下下げ女女にょう房房ぼうたちたちたち、、、聲聲こえ々々ごえにににをめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまひひいけりけりけり。。。
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現代語訳
前関白松殿(基房)の侍に、江大夫判官遠成という者がいた。この者も平家に快く思われていなかったので、六波羅に捕らえられるだろうと聞こえたので、子息の江左衛門尉家成を連れて南を指して落ちて行ったが、稲荷山に上り、馬から下りて、親子で相談したことには、「ここから東国へ落ちて、流人の前右兵衛佐頼朝を頼りたいとは思うが、それもいまは勅勘の身で、自分一人の身さえままならないでおられる。そのほか日本国中に、平家の荘園でない所があるだろうか。どうせ逃れられないのであれば、長年住み慣れた所を人に見せるのも恥ずかしい。ここから引き返して、六波羅から召しの使いが来たら、館に火をかけて焼き払い、腹を切って死ぬにこしたことはない」といって、また河原坂の宿所へ引き返した。
案の定、源大夫判官季貞と摂津判官盛澄が、鎧兜に身を固めた三百余騎で河原坂の宿所へ押し寄せて、鬨の声をどっとあげた。江大夫判官は縁に立ち出て大声をあげ、「どうだ、おのおの方、六波羅ではこの様子を申し上げなさい」といって、館に火をかけて焼き払い、父子ともに腹を切って、炎の中で焼け死んだ。
そもそもこのように人が滅び損なわれていくのはなぜかといえば、前の大殿(基房)の御子の三位中将殿(師家)と、いま関白におなりになった二位中将殿(基通)との、中納言をめぐる争いのためと聞こえた。それならば関白殿お一人だけがどんな目にもお遭いになるべきなのに、四十三人もの人々が災難に遭ってよいものか。これだけにとどまるまいということだが、入道相国の心に天魔が入れ替わって、何事にも腹の虫が収まらないでおられると聞こえたので、京中はまた騒ぎ合った。
去年、讃岐院に追号があって崇徳天皇と号し、宇治の悪左府にも贈官・贈位が行われたけれども、世間はなお穏やかではない。そのころ前左少弁行隆という人は、故中山中納言顕時卿の長男である。二条院の御代には弁官に加わって、たいそう羽振りがよかったが、この十余年は官職も止められて、夏冬の衣替えもできず、朝夕の食事にも事欠く。あるかなきかの暮らしをしておられたところへ、入道相国が使者をよこして、「すぐに立ち寄られよ。相談したいことがある」とおっしゃったので、
行隆は、「この十余年は官職も止められて、何事にも関わらずにいたのに、きっと誰かが讒言して、私を殺そうとしているのだ」といって、たいへん恐れ騒がれた。北の方以下の女房たちも、声々に泣き叫ばれた。
そのうちに西八条殿から使いがしきりに来たので、行隆は「出向いてこそ、どうにでもなろう」といって、人に車を借りて出かけられると、思いのほか、入道はすぐに出て来て対面し、「そなたの父の卿は、入道が大小のことを相談した人である。その子息であるから、そなたのことも決しておろそかには思っていない。長年の籠居も気の毒に思っていたが、法皇の政務の上のことなので力が及ばなかった。今は出仕なされ。官職のことも取り計らいましょう。それでは早くお帰りなさい」といって帰されたので、宿所では女房や侍たちが集まって、死んだ人が生き返ったような心地がして、嬉し泣きをされた。
その後、源大夫判官季貞を使いとして、知行なさるべき荘園の文書を数多く送り届け、まずさぞお困りであろうといって、絹百疋・金百両に米を積んで送られた。出仕の支度にといって、雑色・牛飼・牛車に至るまで、きれいに整えて送られたので、行隆は手の舞い足の踏むところも知らないほど喜び、これは夢であろうかと驚かれた。同じ月の十七日、五位の蔵人に任じられて、もとのように左少弁に返り咲いた。今年五十一歳で、今さら若返られたのであった。ただ、それもほんのひとときの栄華と見えた。
意訳
治承三年の政変の余波を、二つの対照的な人の運命で描く章段である。基房の侍江大夫判官遠成は、流人頼朝を頼ろうにも頼れず、日本中が平家の荘園で逃げ場がないと悟って、父子で自害する。一方、十余年も不遇だった行隆は、清盛に呼び出されて死を覚悟したところ、思いがけず厚遇されて返り咲く。
同じ清盛の一言が、ある者には死を、ある者には栄華をもたらす。物語はその移ろいやすさを「たゞ片時の榮華とぞ見えし」と冷ややかに結び、清盛の権力のもとで人の運命がいかに翻弄されたかを示している。また、ここで初めて「流人前の右兵衞の佐賴朝」の名が出て、のちの源氏の挙兵を予感させる。
語釈・文法注
文法
- 「ひたかぶと」
- 全員が鎧兜に身を固めること。
- 「まじかんなれども」
- 「まじかるなれども」の撥音便。…ないということだが。
- 「腹をすゑかね」
- 腹立ちを抑えきれない。
- 「しきなみに」
- 頻浪に。次々と、しきりに。
- 「さしつどひで」
- 底本は「つどひで」。通行本文は「さしつどひて」。底本の表記のまま翻刻した。
- 「手の舞ひ、足の蹈むところをも覺えず」
- 喜びのあまり、手足の動きもわからないほどである。『詩経』の序による。
- 「侍中」
- 蔵人の唐名。
解説
藤原行隆(1130〜1187)は中山顕時の子で、二条天皇の代に弁官を務めたが、長く不遇であった。治承三年の政変後に左少弁に復帰し、のちに東大寺再建の造東大寺長官を務めた。『平家物語』は、清盛の気まぐれな恩寵の例として行隆を描いている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、403–405頁(コマ230–231)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日