平家物語 巻第三
大臣流罪の事
治承三年十一月十六日、清盛は関白基房以下四十三人の官職を解いた。基房は太宰権帥に左遷されて出家し、備前に置かれた。摂政関白の流罪は初めてである。清盛の婿の基通が異例の昇進で関白となった。太政大臣師長は尾張に流され、熱田明神で琵琶を弾くと宝殿が震動した。按察大納言資方父子らも都を追われた。
- 1法法ほう印印いん歸歸かえりりり參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よし奏奏そう聞聞もんせせせられられられけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうももも道道どう理理り至至し極極ごくしてしてして、、、重重かさねねねててて仰仰おおせせせ下下くださささるゝるゝるる旨旨むねもももなしなしなし。。。
- 2同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にち、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくこのこのこの日日ひ頃頃ごろ思思おもひひい立立たちちち給給たまへへえるるる事事ことなれなれなればばば、、、關關かん白白ぱく殿殿どのををを始始はじめめめ奉奉たてまつりりり、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かく四四し十十じゅう三三さん人人にんががが官官かん職職しょくををを止止とどめめめててて、、、おしおしおしこめこめこめ奉奉たてまつらららるるる。。。中中なかにににももも關關かん白白ぱく殿殿どのをををばばば太太だ宰宰ざいののの帥帥そつににに移移うつしししててて、、、鎭鎭ちん西西ぜいへへへとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。「「「かからかからかからんんん世世よにににははは、、、とてもとてもとてもかくかくかくてててもももありありありなななんんん。。。」」」とてとてとて、、、鳥鳥と羽羽ばのののほとりほとりほとり故故ふる川川かわととといふいふいう所所ところにににててて御御ご出出しゅっ家家けありありあり。。。御御おん年年とし三三さん十十じゅう五五ご。。。「「「禮禮れい儀儀ぎよくよくよく知知しろし召召めしししててて、、、曇曇くもりりりなきなきなき鏡鏡かがみにににててておはしおはしおわしつるつるつる人人ひとををを。。。」」」とてとてとて、、、世世よののの惜惜おしみしみしみ奉奉たてまつるるる事事ことなのめなのめなのめならならならずずず。。。遠遠おん流流るののの人人ひとののの道道みちにににててて出出しゅっ家家けしししたるたるたるをををばばば、、、約約やく束束そくののの國國くにへへへははは遣遣つかはさはさわさぬぬぬ事事ことにににてててあるあるある間間あいだ、、、始始はじめめめははは日日ひゅう向向がののの國國くにととと定定さだめめめられられられたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、これこれこれははは御御ご出出しゅっ家家けののの間間あいだ、、、備備び前前ぜんののの國國こ府府ふののの邊邊へん、、、湯湯ゆ迫迫はざまととといふいふいう所所ところにににぞぞぞ置置おききき奉奉たてまつるるる。。。
- 3大大だい臣臣じん流流る罪罪ざいののの例例れいははは左左さ大大だい臣臣じん蘇蘇そ我我がののの赤赤あか兄兄え、、、右右う大大だい臣臣じん豐豐とよ成成なり、、、左左さ大大だい臣臣じん魚魚うお名名な、、、右右う大大だい臣臣じん菅菅すが原原はら、、、かけまくかけまくかけまくももも忝忝かたじけなくくく今今いまののの北北きた野野のののの天天てん神神じんののの御御おん事事ことなりなりなり。。。左左さ大大だい臣臣じん高高こう明明めい公公こう、、、内内ない大大だい臣臣じん藤藤ふじ原原はらののの伊伊い周周しゅう公公こうににに至至いたるるるまでまでまで、、、そのそのその例例れい既既すでににに六六ろく人人にん、、、されどもされどもされども攝攝せつ政政しょう關關かん白白ぱく流流る罪罪ざいののの例例れいはははこれこれこれ始始はじめめめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。
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現代語訳
法印が帰参してこのことを奏上されると、法皇ももっともだとお思いになって、重ねて仰せ下されることもなかった。
同じ月の十六日、入道相国はかねて思い立っておられたことなので、関白殿をはじめ、太政大臣以下の公卿・殿上人四十三人の官職を解いて、押し込め申し上げた。中でも関白殿は太宰権帥に移して、九州へということであった。「このような世にはどうなってもかまわない」といって、鳥羽のほとりの古川という所で出家なさった。御年三十五。「礼儀をよくご存じで、曇りのない鏡のようでいらっしゃった方なのに」といって、世の人々はたいそう惜しみ申し上げた。遠流の人が途中で出家した場合は、約束の国へは遣わさないことになっているので、初めは日向国と定められていたが、出家なさったので、備前の国府のあたりの湯迫という所に置き申し上げた。
大臣の流罪の例は、左大臣蘇我赤兄、右大臣藤原豊成、左大臣藤原魚名、右大臣菅原道真、口にするのも畏れ多い今の北野の天神のことである。左大臣源高明公、内大臣藤原伊周公に至るまで、その例はすでに六人あるが、摂政・関白の流罪の例はこれが初めてと聞く。
故中殿(基実)の御子で二位中将の基通は入道の婿であったので、大臣・関白に任じられた。去る円融院の御代、天禄三年(972)十一月一日、一条の摂政謙徳公(藤原伊尹)が亡くなられたので、弟の堀川関白忠義公(兼通)は、そのときまだ従二位の中納言でいらっしゃった。その弟の法興院の大入道兼家公は、そのころ大納言で右大将でいらっしゃったので、忠義公は弟に位を越えられておられたが、今また越え返して、内大臣正二位となって内覧の宣旨をお受けになったのを、人々はみな耳目を驚かすご昇進と言い合ったものである。
これはそれよりもさらに度を越している。非参議で二位中将から、大納言・中納言を経ずに大臣・摂政になったのは、これが初めてである。普賢寺殿(基通)のことである。上卿・宰相・大外記・大夫・史に至るまで、みなあきれた様子でお仕えしていた。
太政大臣師長は官職を解かれて、東国へ流された。去る保元の乱では、父の悪左大臣殿(頼長)の縁座によって兄弟四人が流罪に処せられた。兄の右大将兼長、弟の左中将隆長、範長禅師の三人は帰京を待たずに配所でついに亡くなった。この方は土佐の畑で九年の春秋を送り迎え、長寛二年(1164)八月に召し返されてもとの位に戻り、翌年正二位となって、仁安元年(1166)十月に前中納言から権大納言に昇られた。ちょうど大納言の欠員がなかったので、定員の外に加えられた。大納言が六人になったのはこれが初めてである。また前中納言から権大納言に昇ったことも、後山階の大臣躬守公、宇治大納言隆国卿のほかは、これが初めてと聞く。管弦の道に通じ、才芸に優れておられたので、順調に昇進し、太政大臣まで極められたのに、またどのような罪の報いであろうか、重ねて流されることになった。
保元の昔は南海の土佐へ移され、治承の今はまた東国の尾張国とかいう。もともと罪なくして配所の月を見たいということは、風流を解する人の願うことなので、大臣は少しも気にかけられなかった。あの唐の太子の賓客であった白楽天が潯陽の江のほとりに住んだという昔を思いやって、鳴海潟の潮路をはるかに見渡し、いつも明るい月を眺め、浦風に詩を吟じ、琵琶を弾き、和歌を詠んで、気ままに月日を送られた。
あるとき尾張国の第三の宮である熱田明神に参詣されて、その夜、神を楽しませるために琵琶を弾き朗詠されると、もともと風流を知らない土地なので、情趣を解する者もいない。村の老人や女、漁師、田舎の老人たちは、頭を垂れ耳をそばだてて聞いても、まったく音の清濁を聞き分けて調子を知ることはない。けれども瓠巴が琴を弾いたときは魚が躍り上がり、虞公が歌ったときは梁の塵が動いたという。芸の妙を極めたときには自然に感動を呼び起こすのが道理なので、人々は身の毛がよだって、満座は不思議な思いに打たれた。しだいに夜が更けて、「譜香調」の曲では花の香りが満ち、「流泉」の曲の間には月の清らかな光が競うようである。「願わくは今生の世俗の文字の業、狂言綺語の誤りをもって」という朗詠をして秘曲を弾かれると、明神は感応に堪えずに、宝殿が大きく震動した。「平家の悪行がなかったら、どうして今このめでたいしるしを拝むことができただろう」といって、大臣は感涙を流された。
按察大納言資方卿、子息の右近衛少将で讃岐守を兼ねた源資時は、二つの官を解かれた。参議で皇太后宮権大夫と右兵衛督を兼ねた藤原光能、大蔵卿で右京大夫と伊予守を兼ねた高階康経、蔵人左少弁で中宮権大進を兼ねた藤原基親は、三つの官をともに解かれた。
中でも按察大納言資方卿、子息の右近衛少将、孫の右少将雅方の三人は、今日のうちに都から追放すべきだということで、上卿には藤大納言実国、博士判官中原範貞に命じて、その日のうちに都から追い出された。大納言がおっしゃるには、「三界は広いといっても、五尺の身の置き所もない。一生は短いといっても、一日を暮らすのさえ難しい」といって、夜中に宮中をひそかに抜け出して、遠く雲のかなたへ赴かれた。あの大江山や生野の道を通って、初めは丹波国の村雲という所にしばらく身を寄せておられたが、そこからついに尋ね出されて、信濃国へ流されたと聞こえた。
意訳
治承三年の政変を描く章段である。清盛は関白基房以下四十三人を一挙に解官し、婿の基通を異例の昇進で関白に据えた。物語は大臣の流罪の先例を並べ、摂政関白の流罪は初めてであると強調して、清盛の専横を浮き彫りにしている。
一方、尾張に流された太政大臣師長は、「罪なくして配所の月を見ん」という風雅の心で配所の日々を送る。熱田明神で琵琶を弾くと宝殿が震動したという話は、師長の芸の妙を伝えるとともに、「平家の惡行なかりせば、今この瑞相をばいかでか拜むべき」という師長自身の言葉によって、流罪さえも風雅に転じる貴族の姿を描いている。
語釈・文法注
文法
- 「かからん世には、とてもかくてもありなん」
- このような世の中では、どうなってもかまわない、の意。
- 「罪なくして配所の月を見ん」
- 源顕基の言葉として伝わる。罪もないのに流されて、配所で月を見るのは風流なことだ、の意。
- 「胡巴琴を彈ぜしかば、魚鱗躍り迸り」
- 中国の琴の名人瓠巴(こは)が琴を弾くと、魚が躍り上がって聞いたという故事(『列子』)。
- 「虞公歌を發せしかば、梁塵動き搖く」
- 漢の虞公が歌うと、梁の上の塵まで動いたという故事。
- 「狂言綺語」
- 道理に合わない言葉と、飾りたてた言葉。詩文や物語をいう。白居易の文による朗詠の句。
- 「壻」
- 「婿」に同じ。
解説
治承三年(1179)十一月十五日から十七日にかけて、清盛は関白藤原基房・その子師家を解官し、太政大臣藤原師長ら院近臣三十九人(物語では四十三人)を解官・配流した。基房は太宰権帥に左遷され、途中で出家した。代わって清盛の娘婿の藤原基通(普賢寺殿)が関白・内大臣となった。師長は琵琶の名手として知られ、配流先の尾張で熱田社に琵琶を奉納したと伝えられる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、400–403頁(コマ229–230)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日