平家物語 巻第三
法印問答の事
治承三年十一月、大地震があり、陰陽頭安倍泰親は重大な凶事を予言した。清盛が数千騎を率いて福原から上洛し、朝廷を恨んでいるとの噂が立つ。法皇の使者静憲法印に対し、清盛は重盛の中陰中の御遊、越前国の没収、中納言の人事、鹿ケ谷の陰謀などを挙げて法皇を責めた。静憲は少しも騒がず理を説いて答え、人々は法印をほめたたえた。
- 1同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち月月がつ七七なぬ日日かののの夜夜よののの戌戌いぬののの刻刻こくばかりばかりばかり、、、大大だい地地じ夥夥おびただしうしうしゅう動動うごいいいてててやゝやゝやや久久ひさししし。。。陰陰おん陽陽ようののの頭頭かみ阿阿あ倍倍べののの泰泰やす親親ちか、、、急急いそぎぎぎ内内だい裏裏りへへへ馳馳はせせせ參參まいりりり、、、「「「今今こん度度どののの地地じ震震しん、、、占占せん文文もんのののさすさすさす所所ところ、、、そのそのその愼愼つつしみしみしみ輕輕かるからからからずずず候候そうろう。。。當當とう道道どう三三さん經經きょうののの中中うちににに、、、坤坤こん儀儀ぎ經經きょうののの說說せつををを見見み候候そうろうににに、、、年年としををを得得えてててははは年年としををを出出いでででずずず。。。月月つきををを得得えてててははは月月つきををを出出いでででずずず、、、日日ひををを得得えてててははは日日ひををを出出いでででずずず、、、以以もってててののの外外ほかににに火火か急急きゅうににに候候そうろう。。。」」」とてとてとて、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながしししけれけれければばば、、、傳傳てん奏奏そうののの人人ひとももも色色いろををを失失うしなひひい、、、君君きみももも叡叡えい慮慮りょををを驚驚おどろかかかせせせおはしますおはしますおわします。。。
- 2若若わかききき公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとははは、、、「「「けしからけしからけしからぬぬぬ泰泰やす親親ちかががが泣泣なきききやうやうようかなかなかな。。。たゞたゞただ今今いま何何なに事事ごとのののあるあるあるべきべきべきかかか。。。」」」とてとてとて、、、一一いち度度どにににどつどつどっとととぞぞぞ笑笑わらひひい合合あははわれれれけるけるける。。。されどもされどもされどもこのこのこの泰泰やす親親ちかははは晴晴せい明明めい五五ご代代だいののの苗苗びょう裔裔えいををを受受うけけけててて、、、天天てん文文もんははは淵淵えん源源げんををを窮窮きわめめめ、、、推推すい條條じょう掌掌たなごころををを指指さすすすががが如如ごとししし。。。一一いち事事じももも違違たがははわざりざりざりけれけれければばば、、、指指さすすすののの神神み子子ことととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 3雷雷いかずちののの落落おちちちかゝりかゝりかかりたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、雷雷らい火火かののの爲爲ためににに狩狩かり衣衣ぎぬののの袖袖そでははは燒燒やけけけながらながらながら、、、そのそのその身身みははは恙恙つつがもももなかりなかりなかりけりけりけり。。。上上じょう代代だいにににももも末末まつ代代だいにににもももありありあり難難がたかりかりかりししし泰泰やす親親ちかなりなりなり。。。
- 4同同おなじきじきじき十十じゅう四四よっ日日か、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくいかゞいかゞいかがははは思思おもひひいならならなられれれたりたりたりけんけんけん、、、數數す千千せん騎騎ぎののの軍軍ぐん兵兵びょうをををたなびいたなびいたなびいててて、、、都都みやこへへへ還還かえりりり入入いりりり給給たまふふう由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、京京きょう中中じゅう何何なにととと聞聞ききききわきわきわきたるたるたる事事ことはははなけれなけれなけれどもどもども、、、上上じょう下下げ騒騒さわぎぎぎあへあへあえりりり。。。またまたまた何何なに者者ものののの申申もうし出出いだしししたりたりたりけるけるけるやらやらやらんんん、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく朝朝ちょう家家かををを怨怨うらみみみ奉奉たてまつるるるべしべしべしととといふいふいう披披ひ露露ろうをををなすなすなす。。。
- 5關關かん白白ぱく殿殿どのももも内内ない々々ない聞聞きこしめさしめさしめさるゝるゝるる旨旨むねもももやややありありありけむけむけん、、、急急いそぎぎぎ御御ご參參さん内内だいあつあつあっててて、、、「「「今今こん度度ど入入にゅう道道どうののの入入じゅ洛洛らくははは、、、ひとへひとへひとえににに基基もと房房ふさををを亡亡ほろぼすぼすぼすべきべきべき由由よしののの結結けっ構構こうにににててて候候そうらへへえ。。。遂遂ついにににいかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めにににかかかあひあひあい候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。」」」ととと奏奏そうせせせさせさせさせ給給たまへへえばばば、、、主主しゅ上上しょうきこしめしきこしめしきこしめしててて、、、「「「そこそこそこにににいかなるいかなるいかなる目目めにににもももあはあはあわんんんははは、、、ひとへひとへひとえにににわがわがわが逢逢あふふうにににてててこそこそこそあらあらあらんんんずずずらめらめらめ。。。」」」とてとてとて、、、龍龍りょう顏顏がんよりよりより御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせ給給たまふふうぞぞぞかたじけなきかたじけなきかたじけなき。。。
- 6まことまことまことににに天天てん下下かののの御御おん政政まつりごとははは、、、主主しゅ上上しょう攝攝せっ錄錄ろくののの御御おん計計はからひらひらいにににてててこそこそこそあるあるあるににに、、、これこれこれはははいかにいかにいかにしししつるつるつる事事ことどもどもどもぞぞぞややや。。。天天てん照照しょう大大だい神神じん、、、春春かす日日がののの大大だい明明みょう神神じんののの神神しん慮慮りょもももはかりはかりはかり難難がたししし。。。
- 7同同おなじきじきじき十十じゅう五五ご日日にち、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく朝朝ちょう家家かををを恨恨うらみみみ奉奉たてまつるるるべきべきべきことことこと、、、必必ひっ定定じょうととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに驚驚おどろかかかせせせ給給たまひひいててて、、、故故こ少少しょう納納な言言ごん信信しん西西ぜいののの子子し息息そく靜靜じょう憲憲けん法法ほう印印いんををを御御おん使使つかいにににててて、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくのののもともともとへへへ遣遣つかはさはさわさるるる。。。仰仰おおせせせ下下くだささされれれけるけるけるははは、、、「「「近近きん年年ねん朝朝ちょう廷廷てい靜靜しずかかかならならならずずずしてしてして、、、人人ひとののの心心こころもももとゝのほらとゝのほらととのおらずずず。。。世世せ間間けんももも未未いまだだだ落落らく居居きょせせせぬぬぬさまさまさまににになりなりなりゆくゆくゆく事事ことををを、、、總總そう別別べつにににつけつけつけててて歎歎なげききき思思おぼしししめせめせめせどもどもども、、、さてさてさてそこそこそこにににあれあれあればばば、、、萬萬ばん事事じははは賴賴たのみみみ思思おぼしししめさめさめされれれてててこそこそこそあるあるあるににに、、、たとひたとひたとい天天てん下下かををを鎭鎭しずむるむるむるまでまでまでこそこそこそなからなからなからめめめ、、、あまつさへあまつさへあまつさえ嗷嗷ごう々々ごうたるたるたる體體ていにににててて、、、朝朝ちょう家家かををを怨怨うらみみみ奉奉たてまつるるるべしべしべしととと聞聞きこしめすしめすしめすははは何何なに事事ごとぞぞぞ。。。」」」ととと仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。
- 8法法ほう印印いん敕敕ちょく諚諚じょうををを承承うけたまわつつっててて、、、西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていににに行行ゆききき向向むかふふう。。。入入にゅう道道どう對對たい面面めんもももししし給給たまははわずずず、、、朝朝あさよりよりより夕夕ゆうににに及及およぶぶぶまでまでまで待待またたたれれれけれけれけれどもどもども、、、無無ぶ音音いんなりなりなりけれけれければばば、、、さればさればさればこそこそこそととと無無む益益やくににに思思おもひひい、、、源源げん大大だい夫夫ふののの判判はん官官がん季季すえ貞貞さだををを以以もっててて敕敕ちょく諚諚じょうののの趣趣おもむきいひいひいい入入いれれれさせさせさせ、、、暇暇いとま申申もうすすすとてとてとて出出いでででられられられけれけれければばば、、、そのそのその時時とき入入にゅう道道どう、、、「「「法法ほう印印いん呼呼よべべべ。。。」」」とてとてとて出出いでででられられられたりたりたり。。。
- 9呼呼よびびび返返かえしししててて、、、「「「やゝやゝやや法法ほう印印いんののの御御ご坊坊ぼう、、、淨淨じょう海海かいががが申申もうすすす所所ところはははひがひがひがことことことかかか。。。まづまづまず内内だい府府ふががが身身みまかりまかりまかりぬるぬるぬることことこと、、、當當とう家家けののの運運うん命命めいをををはかるはかるはかるににに似似にててて、、、入入にゅう道道どう隨隨ずい分分ぶん悲悲ひ涙涙るいをををおさへおさへおさえてててこそこそこそまかりまかりまかり過過すぎぎぎ候候そうらひひいしかしかしか。。。御御ご邊邊へんののの心心こころにににももも推推すい察察さつししし給給たまへへえ。。。保保ほう元元げん以以い後後ごははは亂亂らん逆逆げきうちうちうち續續つづいいいててて、、、君君きみ安安やすききき心心こころもももましまさましまさましまさざりざりざりしししににに、、、入入にゅう道道どうはははたゞたゞただ大大おお方方かたををを取取とりりり行行おこなふふうばかりばかりばかりでででこそこそこそ候候そうらへへえ。。。内内だい府府ふこそこそこそ手手てををを下下くだししし、、、身身みををを碎碎くだいいいててて、、、度度ど々々どののの逆逆げき鱗鱗りんをををばばば靜靜しずめめめ參參まいらせらせらせ候候そうらひひいしかしかしか。。。そのそのその外外ほか臨臨りん時時じののの御御おん大大だい事事じ、、、朝朝ちょう夕夕せきののの政政せい務務む、、、内内だい府府ふ程程ほどののの功功こう臣臣しんはははありがたうありがたうありがとうこそこそこそ候候そうらへへえ。。。
- 10こゝこゝここををを以以もっててて古古いにしえををを按按あんずるずるずるににに、、、唐唐とうののの太太たい宗宗そうははは魏魏ぎ徵徵ちょうにににおくれおくれおくれててて、、、悲悲かなしみしみしみのののあまりあまりあまりににに、、、『『『昔昔むかしののの殷殷いん宗宗そうははは夢夢ゆめののの中中うちににに良良りょう弼弼ひつををを得得え、、、今今いまののの朕朕ちんははは覺覺さめめめてててののの後後のち賢賢けん臣臣しんををを失失うしなふふう。。。』』』ととといふいふいう碑碑ひののの文文もんををを、、、みづからみづからみずから書書かいいいててて、、、廟廟びょうににに立立たててててててだにだにだにこそこそこそ悲悲かなしみしみしみ給給たまひひいけるけるけるなれなれなれ。。。わがわがわが朝朝ちょうにににももも間間ま近近ぢこううう見見み候候そうらひひいししし事事ことぞぞぞかしかしかし。。。顯顯あき賴賴よりののの民民みん部部ぶ卿卿きょうががが逝逝せい去去きょしししたりたりたりしししをををばばば、、、故故こ院院いんことことことににに御御おんなげきなげきなげきあつあつあっててて、、、八八や幡幡はたののの行行ぎょう幸幸こう延延えん引引いんあつあつあっててて、、、御御ぎょ遊遊ゆうなかりなかりなかりききき。。。すべてすべてすべて臣臣しん下下かののの卒卒そつするするするをををばばば、、、代代だい々々だいののの御御み門門かど、、、みなみなみな御御おんなげきなげきなげきあるあるある事事ことにににてててこそこそこそ候候そうらへへえ。。。
- 11それそれそれににに内内だい府府ふががが中中ちゅう陰陰いんににに八八や幡幡はたののの御御ご幸幸こうあつあつあっててて、、、御御ぎょ遊遊ゆうありありありききき。。。御御おんなげきなげきなげきののの色色いろ、、、一一いち事事じもももこれこれこれををを見見みずずず。。。たとひたとひたとい内内だい府府ふががが忠忠ちゅうをををこそこそこそ思思おぼしししめしめしめし忘忘わすれれれさせさせさせ給給たまふふうともともとも、、、などなどなどかかか入入にゅう道道どうががが悲悲かなしみしみしみをををばばば、、、御御おん憐憐あわれみみみなくなくなくてててははは候候そうろうべきべきべき。。。たとひたとひたとい入入にゅう道道どうががが悲悲かなしみしみしみをををこそこそこそ御御おん憐憐あわれみみみなくなくなくともともとも、、、などなどなどかかか内内だい府府ふががが忠忠ちゅうをををばばばおぼしめしおぼしめしおぼしめし忘忘わすれれれさせさせさせ給給たまふふうべきべきべき。。。父父ふ子子し共共ともににに叡叡えい慮慮りょにににそむきそむきそむき申申もうすすすことことこと、、、今今いまにににおいおいおいててて面面めん目目ぼくををを失失うしなふふう。。。これこれこれ一一ひとつつつ。。。
- 12次次つぎににに越越えち前前ぜんののの國國くにをををばばば、、、子子し々々し孫孫そん々々そんまでまでまで御御ご變變へん改改かいあるあるあるまじきまじきまじき由由よし御御おん約約やく束束そく候候そうらひひいててて、、、下下くだささされれれ給給たまひひいててて候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、内内だい府府ふにににおくれおくれおくれててて後後のち、、、やがてやがてやがて召召めししし返返かえささされれれ候候そうろうははは、、、何何なにののの過過か怠怠たいにににててて候候そうろうやらやらやらんんん。。。これこれこれ一一ひとつつつ。。。
- 13次次つぎににに中中ちゅう納納な言言ごん闕闕けつののの候候そうらひひいししし時時とき、、、二二に位位いののの中中ちゅう將將じょう頻頻しきりりりににに所所しょ望望もう候候そうらひひいしししををを、、、入入にゅう道道どう隨隨ずい分分ぶん取取とりりり申申もうししししかしかしかどもどもども、、、遂遂ついににに御御ご承承しょう引引いんなくなくなくしてしてして、、、關關かん白白ぱくののの息息そくをををなさなさなさるるるるるる事事ことはははいかにいかにいかに。。。たとひたとひたとい入入にゅう道道どういかなるいかなるいかなる非非ひ據據きょ申申もうししし行行おこなふふうともともとも、、、一一いち度度どはははなどなどなどかかか聞聞きこしめししめししめし入入いれれれでででははは候候そうろうべきべきべき。。。位位い階階かいととといひいひいい、、、家家け嫡嫡ちゃくととといひいひいい、、、理理り運運うん左左そ右右うににに及及およばばばざるざるざることことことををを、、、引引ひきききちがへちがへちがえさせさせさせ給給たまふふう御御おん事事ことははは、、、あまりあまりあまりににに本本ほ意意いなきなきなき御御おんとりとりとりはからひはからひはからいとととこそこそこそ存存ぞんじじじ候候そうらへへえ。。。これこれこれ一一ひとつつつ。。。
- 14次次つぎににに新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょう以以い下下げ近近きん習習じゅののの人人ひと々々びと鹿鹿ししののの谷谷たにににに寄寄よりりりあひあひあいててて、、、謀謀む叛叛ほんををを企企くわだてててしししことことことももも、、、全全まったくくく私私わたくしののの計計けい畧畧りやくにににあらあらあらずずず、、、しかしながらしかしながらしかしながら君君きみ御御ご許許きょ容容ようあるあるあるににに依依よつつってててなりなりなり。。。ことことこと新新あたらしきらしきらしき申申もうしししごとごとごとにににててて候候そうらへへえどもどもども、、、このこのこの一一いち門門もんをををばばば七七しち代代だいまでまでまでははは、、、いかでいかでいかでかかか思思おぼし召召めししし捨捨すてててさせさせさせ給給たまふふうべきべきべきににに、、、それそれそれににに入入にゅう道道どう七七しち旬旬じゅんににに及及およびびびててて、、、餘餘よ命命めいいくばくいくばくいくばくならならならぬぬぬ一一いち期期ごののの中中うちだにだにだに、、、やゝやゝややもももすれすれすればばば滅滅ほろぼさぼさぼさるるるべきべきべき由由よしののの御御ご結結けっ構構こう候候そうろう。。。申申もうししし候候そうらははわんんんややや、、、子子し孫孫そん相相あい續續つづいいいててて朝朝ちょう家家かににに召召めししし仕仕つかははわれれれんんん事事こともももありがたうありがたうありがとうこそこそこそ候候そうらへへえ。。。
- 15およそおよそおよそ老老おいいいててて子子こにににおくるるおくるるおくるるははは、、、枯枯こ木木ぼくののの枝枝えだなきなきなきににに異異ことならならならずずず。。。今今いまははは程程ほどなきなきなきうきうきうき世世よににに、、、さささのみのみのみ心心こころををを費費ついやしししてててももも何何なににににかかかはははせせせんんんなれなれなればばば、、、いかでいかでいかでもももありありありなななんんんととと思思おもひひいなつなつなってててこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、かつうかつうかつうははは腹腹ふく立立りゅうししし、、、かつうかつうかつうははは落落らく涙涙るいししし給給たまへへえばばば、、、法法ほう印印いん恐恐おそろしうろしうろしゅうももも、、、またまたまた哀哀あわれれれにににももも覺覺おぼえええててて、、、汗汗あせ水水みずにににこそこそこそならならなられれれけれけれけれ。。。
- 16そのそのその時時ときはははいかなるいかなるいかなる人人ひとももも、、、一一いち言言ごんののの返返へん事事じにににははは及及およびびび難難がたききき事事ことぞぞぞかしかしかし。。。そのそのその上上うえわがわがわが身身みももも近近きん習習じゅののの仁仁じんにににててて、、、鹿鹿ししののの谷谷たにににに寄寄よりりりあひあひあいししし事事ことををを、、、まさしうまさしうまさしゅう見見み聞聞きかかかれれれしかしかしかばばば、、、たゞたゞただ今今いまもももそのそのその人人にん數數じゅとてとてとて召召めしししややや籠籠こめめめられられられんんんずずずらんらんらんととと思思おもははわれれれけれけれければばば、、、龍龍りょうののの鬚鬚ひげををを撫撫なででで、、、虎虎とらののの尾尾をををを踏踏ふむむむ心心ここちちちはははせせせられられられけれけれけれどもどもども、、、法法ほう印印いんもももさるさるさるおそろしきおそろしきおそろしき人人ひとにににててて、、、ちつちつちっとととももも騒騒さわがががずずず申申もうささされれれけるけるけるははは、、、
- 17「「「まことまことまことににに度度ど々々どののの御御ご奉奉ほう公公こう、、、淺淺あさからからからずずず候候そうろう。。。一一いっ旦旦たん御御おん恨恨うらみみみ申申もうさささせせせましますましますまします旨旨むね、、、そのそのそのいはれいはれいわれ候候そうろう。。。但但ただししし官官かん位位いととといひいひいい、、、俸俸ほう祿祿ろくととといひいひいい、、、御御おん身身みにににとつとつとってててははは悉悉ことごとくくく滿滿まん足足ぞくすすす。。。さればさればされば功功こうののの莫莫ばく大大だいなるなるなることことことをををももも、、、君君きみ常常つねににに御御ぎょ感感かんあるあるあるでででこそこそこそ候候そうらへへえ。。。しかるにしかるにしかるに近近きん臣臣しん事事ことをををみだりみだりみだり、、、君君きみ御御ご許許きょ容容ようありありありなどなどなど申申もうすすす事事ことははは、、、謀謀ぼう臣臣しんののの兇兇きょう害害がいにににてててぞぞぞ候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。およそおよそおよそ耳耳みみををを信信しんじじじててて目目めををを疑疑うたがふふうははは、、、俗俗ぞくののの常常つねののの弊弊へいなりなりなり。。。小小しょう人人じんののの誣誣ふ言言げんををを重重おもくくくしてしてして、、、朝朝ちょう恩恩おんののの他他たににに異異ことなるなるなるににに、、、今今いま更更さらまたまたまた君君きみををを傾傾かたぶけけけ參參まいらさらさらさせせせ給給たまははわんんんことことこと、、、冥冥みょう顯顯けんにににつけつけつけてててそのそのそのおそれおそれおそれ少少すくなからからからずずず候候そうろう。。。およそおよそおよそ天天てん心心しんははは蒼蒼そう々々そうとととしてしてして量量はかりりり難難がたししし。。。叡叡えい慮慮りょ定定さだめめめてててそのそのその儀儀ぎでででぞぞぞ候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。下下しもとととしてしてして上上かみにににさからふさからふさからうことことことははは、、、豈豈あに人人じん臣臣しんののの禮禮れいたらたらたらんんんややや。。。よく〳〵よく〳〵よくよく御御ご思思し惟惟ゆい候候そうろうべしべしべし。。。詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、このこのこの趣趣おもむきをををこそこそこそ披披ひ露露ろう仕仕つかまつりりり候候そうらははわめめめ。。。」」」とてとてとて立立たたたたれれれけれけれければばば、、、
- 18そのそのその座座ざににになみなみなみゐゐい給給たまへへえるるる人人ひと々々びと、、、「「「あなあなあなおそろしおそろしおそろし、、、入入にゅう道道どうのののあれあれあれほどほどほど怒怒いかりりり給給たまふふうににに、、、ちつちつちっとととももも騒騒さわがががずずず、、、返返へん事事じうちうちうちしししててて立立たたたたれれれけるけるけるよよよ。。。」」」とてとてとて、、、法法ほう印印いんををを譽譽ほめめめぬぬぬ人人ひとこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれ。。。
現代語訳
同じ年の十一月七日の夜の戌の刻(午後八時)ごろ、大地がひどく揺れて、しばらく続いた。陰陽頭安倍泰親が急いで内裏へ馳せ参って、「このたびの地震は、占いの示すところでは、その慎みは軽くはございません。陰陽道の三経のうち、坤儀経の説を見ますと、年を得ては年を越えず、月を得ては月を越えず、日を得ては日を越えずとあり、ことのほか差し迫ったことでございます」といって涙をはらはらと流したので、取り次ぎの人も顔色を失い、君も驚かれた。
若い公卿・殿上人は、「とんでもない泰親の泣きようだな。今すぐ何事があるものか」といって、一度にどっと笑い合われた。けれどもこの泰親は安倍晴明の五代の子孫で、天文の学は奥義を極め、その占いは手のひらを指すように確かであった。一つも外れることがなかったので、「指すの神子」と呼ばれた。
雷が落ちかかったこともあったが、雷火で狩衣の袖は焼けながら、その身は無事であった。上代にも末代にもめったにいない泰親である。
同じ月の十四日、入道相国は何を思われたのであろうか、数千騎の軍兵を率いて都へ帰って来られると聞こえたので、京中では何とも事情はわからないが、上下の者が騒ぎ合った。また誰が言い出したのであろうか、入道相国が朝廷を恨み申しているといううわさが広まった。
関白殿(基房)も内々にお聞きになることがあったのであろうか、急いで参内されて、「このたびの入道の入洛は、ひとえに基房を滅ぼそうという企てでございます。ついにはどんなつらい目に遭うことでしょうか」と申し上げられると、主上はお聞きになって、「そなたがどのような目に遭うにしても、それはひとえに私が遭うのと同じであろう」といって、お顔から涙をお流しになったのは畏れ多いことである。
まことに天下の政治は、主上と摂政・関白のお計らいによって行われるものであるのに、これはどうしたことであろうか。天照大神や春日大明神のお心もはかりがたい。
同じ月の十五日、入道相国が朝廷を恨み申すことは間違いないと聞こえたので、法皇はたいへん驚かれて、故少納言信西の子息の静憲法印を御使として、入道相国のもとへ遣わされた。仰せになるには、「近年朝廷は穏やかでなく、人の心も整わない。世間もまだ落ち着かない様子になっていくのを、何かにつけて嘆いていたが、そなたがいるからこそ万事を頼みにしていたのに、たとえ天下を鎮めるまではいかなくても、そのうえ騒々しい様子で、朝廷を恨み申そうとしていると聞くのは、どういうことか」と仰せ下された。
法印は勅命を承って、西八条の邸に行き向かった。入道は対面もなさらず、朝から夕方まで待たれたが、何の音沙汰もないので、やはりそうかと無駄なことに思い、源大夫判官季貞に勅命の趣を取り次がせて、暇を告げて出ようとされると、そのとき入道が「法印を呼べ」といって出て来られた。
呼び返して、「さて法印の御坊、浄海の申すことは間違っているか。まず内府(重盛)が亡くなったこと、一門の運命をはかるかのようで、入道はたいそう悲しみの涙をこらえて過ごしてまいりました。そなたの心でも推察してください。保元以後は戦乱が続いて、君も安らかなお心がなかったが、入道はただ大筋を取り仕切っていただけです。内府こそ自ら手を下し、身を砕いて、たびたびの君のお怒りを鎮め申し上げたのです。そのほか臨時の大事、日々の政務においても、内府ほどの功臣はめったにおりません。
これについて昔を考えると、唐の太宗は魏徴に先立たれて、悲しみのあまり『昔の殷の高宗は夢の中で良い補佐の臣を得、今の朕は目覚めた後に賢臣を失った』という碑文を自ら書いて、廟に立ててまで悲しまれたということです。わが国でも間近に見たことがあります。顕頼の民部卿が亡くなったときには、故院(鳥羽院)はことのほかお嘆きになって、八幡への行幸を延期し、管弦の御遊もなかった。すべて臣下が亡くなったときには、代々の帝はみなお嘆きになるものです。
それなのに、内府の中陰(四十九日)の間に八幡へ御幸なさって、御遊があった。お嘆きの様子は少しも見えない。たとえ内府の忠義をお忘れになっても、どうして入道の悲しみをお憐れみにならないのか。たとえ入道の悲しみをお憐れみにならなくても、どうして内府の忠義をお忘れになってよいものか。父子ともに君のお心に背くことになり、今となっては面目を失った。これが一つ。
次に越前国は、子々孫々まで改めないとのお約束で下されていたのに、内府に先立たれた後、すぐに召し返されたのは、何の落ち度があってのことでしょうか。これが一つ。
次に中納言の欠員があったとき、二位中将(基通)がしきりに望んだのを、入道もずいぶんお取り成し申したのに、ついにお聞き入れなく、関白の子息(師家)を任じられたのはどういうことか。たとえ入道がどんな無理を申し上げても、一度はお聞き入れになってもよいではありませんか。位階といい、家の嫡流といい、道理から言って論ずるまでもないことを、引き違えられたのは、あまりに残念なお取り計らいと存じます。これが一つ。
次に新大納言成親卿以下、近習の人々が鹿の谷に寄り集まって謀叛を企てたことも、まったく彼らの私の計略ではなく、すべて君がお許しになっていたからです。事新しい申し分ではありますが、この一門を七代までは、どうしてお見捨てになってよいでしょうか。それなのに入道が七十に及び、余命いくばくもない一生のうちでさえ、ややもすれば滅ぼそうとのお企てがある。まして子孫が続いて朝廷に召し使われることも難しいでしょう。
およそ老いて子に先立たれるのは、枯れ木に枝がないのと同じです。今は残り少ないつらい世に、そんなに心を砕いてもどうにもならないので、どうなってもよいと思うようになったのです」といって、一方では腹を立て、一方では涙を流されたので、法印は恐ろしくもあり、また哀れにも思って、汗びっしょりになられた。
そのときは、どんな人でも一言の返事もしにくいことである。そのうえ自分も近習の一人として、鹿の谷に寄り集まったことを確かに見聞きしておられたので、今にもその一味として召し捕られ閉じ込められるのではないかと思われたので、龍の鬚をなで、虎の尾を踏むような心地がされたが、法印もしたたかな人で、少しも騒がずに申されたことには、
「まことにたびたびのご奉公は浅からぬものでございます。ひとたびお恨み申されるのも、もっともなことでございます。ただし官位といい俸禄といい、御身にとってはすべて満ち足りております。ですから功が莫大であることも、君は常にお感じになっておられるのです。それなのに、近臣が事を乱し、君がお許しになったなどと申すのは、謀臣の悪だくみでございましょう。およそ耳で聞いたことを信じて、目で見たことを疑うのは、世俗の常の弊害です。小人の讒言を重んじて、他に比べてことに厚い朝廷のご恩があるのに、今さら君をお傾け申そうとなさるのは、神仏の目に見えても見えなくても、その恐れは少なくありません。およそ天の心は青々と遠くはかりがたいものです。君のお心もきっとそのようなものでございましょう。下の者として上に逆らうことは、どうして臣下の礼といえましょうか。よくよくお考えになるべきです。要するに、このご趣旨を君に申し上げましょう」といって立たれたので、
その座に並んでおられた人々は、「ああ恐ろしい。入道があれほどお怒りになっているのに、少しも騒がず返事をして立たれたことよ」といって、法印をほめない人はなかった。
意訳
重盛の死後、清盛の怒りが朝廷へ向かう転機を描く章段である。泰親の地震の占いが、後の大事件の前ぶれとして置かれ、清盛は数千騎を率いて上洛する。法皇の使者静憲に対し、清盛は重盛の中陰の間の御遊、越前国の没収、中納言の人事、鹿ケ谷の陰謀と、法皇への不満を「これ一つ」と数えあげて責めたてる。
清盛の言葉には、重盛を失った悲しみと、一門の行く末への不安がにじんでいる。これに対して静憲は、恐れながらも理を尽くして答え、臣下が君に逆らうべきではないと諫める。父信西ゆずりの胆力を示した静憲の姿は、人々の称賛を受けた。しかし清盛の怒りは収まらず、物語は次章段の「大臣流罪」、さらに法皇の幽閉へと進んでいく。
語釈・文法注
文法
- 「年を得ては年を出でず…」
- 凶事が起こる時期を示す占いの言葉。年に当たれば一年以内、月に当たれば一月以内、日に当たればその日のうちに事が起こる、の意。
- 「推條掌を指すが如し」
- 占いの判断が、手のひらを指さすように明らかで確かである。
- 「攝錄」
- 摂政・関白のこと。
- 「嗷々たる體」
- やかましく騒ぎたてる様子。
- 「中陰」
- 人の死後四十九日の間。
- 「龍の鬚を撫で、虎の尾を踏む」
- きわめて危険なことをするたとえ。
- 「冥顯」
- 目に見えない神仏の世界と、目に見えるこの世。
解説
治承三年(1179)十一月、清盛は福原から数千騎を率いて上洛し、関白基房をはじめ反平家の公卿を一斉に解官・配流し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。これを治承三年の政変という。清盛の挙げた不満は史実に即しており、重盛の知行国越前の没収や、基通を差しおいて基房の子師家を中納言に任じた人事は、清盛を強く刺激した。静憲は信西の子で、法皇の近臣であった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、395–400頁(コマ226–229)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日