平家物語 巻第三
有王が島下りの事
俊寛が幼いころから召し使っていた童の有王は、主人を尋ねて単身鬼界が島へ渡る。やせ衰えた俊寛とようやく再会し、妻と幼い子の死を伝え、娘の手紙を渡した。俊寛は食を断ち、有王が来て二十三日目に三十七歳で没した。有王は遺骨を高野山に納めて出家し、娘も十二歳で尼になった。
- 1さるさるさる程程ほどににに鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にんどもどもども、、、二二ふた人人りははは召召めししし還還かえささされれれててて都都みやこへへへ上上のぼりりりぬぬぬ。。。今今いま一一ひと人人り殘殘のこささされれれててて、、、うかりうかりうかりししし島島しまののの島島しま守守もりとととなりなりなりにににけるけるけるこそこそこそうたてけれうたてけれうたてけれ。。。僧僧そう都都ずののの幼幼おさのうううよりよりより不不ふ便便びんにににしてしてして召召めししし使使つかははわれれれけるけるける童童わらわありありあり。。。名名なをををばばば有有あり王王おうとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 2鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にんどもどもども、、、今日今日きょう既既すでににに都都みやこへへへ入入いるるるととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、有有あり王王おう鳥鳥と羽羽ばまでまでまで行行ゆききき向向むかつつっててて見見みけれけれけれどもどもども、、、わがわがわが主主しゅうははは見見みえええ給給たまははわずずず。。。「「「いかにいかにいかに。。。」」」ととと問問とへへへばばば、、、「「「それそれそれはははなほなほなお罪罪つみ深深ふかしししとてとてとて、、、一一ひと人人り島島しまににに殘殘のこささされれれぬぬぬ。。。」」」ととと聞聞きいいいててて、、、心心こころ憂憂うしししなどなどなどもももおろかおろかおろかなりなりなり。。。
- 3常常つねははは六六ろく波波は羅羅ら邊邊へんにににたゝずみたゝずみたたずみててて聞聞ききききけれけれけれどもどもども、、、いついついつ赦赦しや免免めんあるあるあるべしべしべしともともとも聞聞きききき出出いださささざりざりざりけれけれければばば、、、僧僧そう都都ずののの御御おん女女むすめののの忍忍しのうううでででおはしおはしおわしけるけるける所所ところへへへははは參參まいりりりててて、、、「「「このこのこの瀨瀨せにににももも洩洩もれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、御御おん上上のぼりりりももも候候そうらははわずずず。。。今今いまはははいかにいかにいかにもももしてしてしてかのかのかの島島しまへへへ渡渡わたつつっててて、、、御御おん行行ゆく方方へをををももも尋尋たずねねね參參まいらせらせらせばやばやばやととと存存ぞんじじじ候候そうろう。。。御御おん文文ふみ賜賜たまはつはつわっててて參參まいりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、姫姫ひめ御御ご前前ぜん斜斜なのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび、、、やがてやがてやがて書書かいいいてててぞぞぞたうでたうでとうでけるけるける。。。
- 4暇暇いとまををを乞乞こふふうともともともよもよもよも許許ゆるさささじじじとてとてとて、、、父父ちちにににももも母母ははにににももも知知しらせらせらせずずず、、、唐唐もろこし船船ぶねののの纜纜ともづなははは、、、四四う月月づき五五さ月月つきににに解解とくくくなれなれなればばば、、、夏夏なつ衣衣ごろもたつたつたつををを遲遲おそくくくややや思思おもひひいけんけんけん、、、三三や月月よいののの末末すえににに都都みやこををを立立たつつっててて、、、多多おおくくくののの波波なみ路路じををを凌凌しのぎぎぎつゝつゝつつ、、、薩薩さつ摩摩ま潟潟がたへへへぞぞぞ下下くだりりりけるけるける。。。薩薩さつ摩摩まよりよりよりかのかのかの島島しまへへへ渡渡わたるるる船船ふな津津つにににててて、、、有有あり王王おうををを人人ひとあやしめあやしめあやしめ、、、著著きたるたるたる物物ものををを剝剝はぎぎぎ取取とりりりなどなどなどしししけれけれけれどもどもども、、、少少すこしししももも後後こう悔悔かいせせせずずず。。。姫姫ひめ御御ご前前ぜんののの御御おん文文ふみばかりばかりばかりぞぞぞ、、、人人ひとににに見見みせせせじじじととと、、、髻髻もと結結ゆいののの中中なかにににははは隱隱かくしししけるけるける。。。
- 5さてさてさて商商あき人人んど船船ぶねににに乘乘のつつっててて件件くだんののの島島しまへへへ渡渡わたつつっててて見見みるるるににに、、、都都みやこにににてててかすかかすかかすかににに傳傳つたへへえ聞聞ききききしししははは事事ことののの數數かずならならならずずず、、、田田たもももなしなしなし、、、畑畑はたけもももなしなしなし、、、里里さともももなしなしなし、、、村村むらもももなしなしなし。。。おのづからおのづからおのずから人人ひとはははあれあれあれどもどもども、、、いふいふいうことばことばことばをををももも聞聞きききき知知しらららずずず。。。有有あり王王おう島島しまののの者者ものににに行行ゆききき向向むかつつっててて、、、「「「ものものもの申申もうさささううう。。。」」」ととといへいへいえばばば、、、「「「何何なに事事ごと。。。」」」ととと答答こたふふう。。。「「「これこれこれににに都都みやこよりよりより流流ながささされれれさせさせさせ給給たまひひいたるたるたる、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ずととと申申もうすすす人人ひとののの行行ゆく末末すえややや知知しりりりたるたるたる。。。」」」ととと問問とふふうににに、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じともともとも執執しゅ行行ぎょうともともとも知知しりりりたらたらたらばばばこそこそこそ返返へん事事じはははせせせめめめ、、、唯唯ただ頭頭かしらををを振振ふつつっててて知知しらららぬぬぬととといふいふいう。。。
- 6そのそのその中中なかにににあるあるある者者ものががが心心こころ得得えててて、、、「「「いさとよいさとよいさとよ、、、左左さ樣樣ようののの人人ひとははは三三さん人人にんこれこれこれにににありありありしししががが、、、二二に人人にんははは召召めししし還還かえささされれれててて都都みやこへへへ上上のぼりりりぬぬぬ。。。今今いま一一いち人人にん殘殘のこささされれれててて、、、あそこゝあそこゝあそここよよよととと迷迷まよひひいありきありきありきしししががが、、、そのそのその後後のちはははゆくへゆくへゆくえももも知知しらららずずず。。。」」」とととぞぞぞいひいひいいけるけるける。。。
- 7山山やまののの方方かたののの覺覺おぼ束束つかなさなさなさににに、、、遙遙はるかかかににに分分わけけけ入入いりりり、、、峯峯みねににに攀攀よぢぢじ谷谷たにににに下下くだれれれどもどもども、、、白白はく雲雲うん跡跡あとををを埋埋うずんんんででで、、、往往ゆき來來きののの道道みちもももさだかさだかさだかならならならずずず。。。晴晴せい嵐嵐らん夢夢ゆめををを破破やぶつつってててははは、、、そのそのその面面おも影影かげももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。山山やまにににてててははは遂遂ついににに尋尋たずねねねもももあはあはあわずずず、、、海海うみのののほとりほとりほとりににについついついててて尋尋たずぬるぬるぬるににに、、、沙沙さ頭頭とうににに印印いんををを刻刻きざむむむ鷗鷗かもめ、、、沖沖おきののの白白しら洲洲すにににすだくすだくすだく濱濱はま千千ち鳥鳥どりののの外外ほかははは、、、跡跡あと問問とふふう者者ものもももなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 8あるあるある朝朝あした磯磯いそののの方方かたよりよりより、、、蜻蜻かげ蛉蛉ろうなんどなんどなんどののの如如ごとくくくににに痩痩やせせせ衰衰おとろへへえたるたるたる者者もの、、、よろぼひよろぼひよろぼい出出いででで來來きたりたりたり。。。元元もとははは法法ほっ師師しにににてててありありありけりけりけりととと覺覺おぼえええててて、、、髪髪かみはははそらそらそらざまざまざまににに生生おひひい上上あがりりり、、、よろづよろづよろずののの藻藻も屑屑くず取取とりりりつけつけつけててて、、、荆荆おど棘棘ろををを戴戴いただいいいたるたるたるががが如如ごとししし。。。繼繼つぎぎぎ目目めあらはれあらはれあらわれててて皮皮かはゆたひゆたひゆたい、、、身身みににに著著きたるたるたるものものものははは、、、絹絹きぬ、、、布布ぬののののわきわきわきももも見見みえええずずず。。。
- 9片片かた手手てにににははは荒海布荒海布あらめををを持持もちちち、、、片片かた手手てにににははは魚魚うおをををもらうもらうもろうててて持持もちちち、、、歩歩あゆむむむやうやうようにににはははしししけれけれけれどもどもども、、、はかはかはかももも行行ゆかかかずずず、、、よろ〳〵よろ〳〵よろよろとととしてしてしてぞぞぞ出出いででできききたるたるたる。。。都都みやこにににててて多多おおくくくののの乞乞こっ丐丐がい人人びとははは見見みしかしかしかどもどもども、、、かゝるかゝるかかる者者ものははは未未いまだだだ見見みずずず。。。「「「諸諸しょ阿阿あ修修しゅ羅羅ら等等とう故故こ在在ざい大大だい海海かい邊邊へん」」」とてとてとて、、、修修しゅ羅羅らののの三三さん惡惡あく四四し趣趣しゅははは深深しん山山ざん、、、大大だい海海かいのののほとりほとりほとりにににありありありととと、、、佛佛ほとけののの說說とききき置置おききき給給たまひひいたれたれたればばば、、、知知しらららずずず、、、われわれわれ餓餓が鬼鬼き道道どうなどなどなどへへへ迷迷まよひひい來來きたるたるたるかかかとととぞぞぞ覺覺おぼえええたるたるたる。。。
- 10はやはやはやかれかれかれもももこれこれこれももも次次し第第だいににに歩歩あゆみみみ近近ちかづくづくづく。。。もしもしもしかやうかやうかようののの者者ものにににてててももも、、、わがわがわが主主しゅうののの御御おんゆくへゆくへゆくえややや知知しつつったるたるたるととと、、、「「「ものものもの申申もうさささううう。。。」」」ととといへいへいえばばば、、、「「「何何なに事事ごと。。。」」」ととと答答こたふふう。。。「「「これこれこれににに都都みやこよりよりより流流ながささされれれ給給たまひひいたりたりたりししし、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ずととと申申もうすすす人人ひとやややましますましますまします。。。」」」ととと問問とふふうににに、、、わらはわらはわらわこそこそこそ見見み忘忘わすれれれたれたれたれどもどもども、、、僧僧そう都都ずはははいかでいかでいかでかかか忘忘わすれれれ給給たまふふうべきべきべきなれなれなればばば、、、
- 11「「「これこれこれこそこそこそそれそれそれよよよ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいもももあへあへあえずずず、、、手手てににに持持もてててるるる物物ものををを投投なげげげ棄棄すてててててて、、、沙沙すなごののの上上うえにににぞぞぞ倒倒たおれれれ伏伏ふすすす。。。さてさてさてこそこそこそわがわがわが主主しゅうののの御御おんゆくへゆくへゆくえとととははは知知しりりりてててけれけれけれ。。。
- 12僧僧そう都都ずやがてやがてやがて消消きえええ入入いりりり給給たまふふうををを、、、有有あり王王おう膝膝ひざののの上上うえにににかきかきかき乘乘のせせせ奉奉たてまつりりり、、、「「「多多おおくくくののの波波なみ路路じををを凌凌しのぎぎぎつゝつゝつつ、、、はるばるはるばるはるばるとととこれこれこれまでまでまで尋尋たずねねねまゐりまゐりまいりたるたるたるかひかひかいもももなくなくなく、、、いかにいかにいかにやがてやがてやがて憂憂うききき目目めをををばばば見見みせせせんんんとととはははせせせさせさせさせ給給たまひひい候候そうろうぞぞぞ。。。」」」ととと、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめとととかきかきかきくどきくどきくどきけれけれければばば、、、僧僧そう都都ず少少すこししし人人ひとごゝちごゝちごこち出出いででで來來き、、、助助たすけけけ起起おこささされれれ、、、
- 13「「「まことまことまことににに汝汝なんじ、、、多多おおくくくののの波波なみ路路じををを凌凌しのぎぎぎつゝつゝつつ、、、はる〴〵はる〴〵はるばるとととこれこれこれまでまでまで參參まいりりりたるたるたるこそこそこそ神神しん妙妙びょうなれなれなれ。。。たゞたゞただあけあけあけてててももも暮暮くれれれてててももも、、、都都みやこののの事事ことをををのみのみのみ思思おもひひいゐゐいたれたれたればばば、、、こひしきこひしきこいしき者者ものどもどもどもののの面面おも影影かげををを、、、夢夢ゆめににに見見みるるる折折おりもももありありあり、、、またまたまたまぼろしまぼろしまぼろしににに立立たつつつ時時ときもももありありあり。。。身身みもももいたういたういとう疲疲つかれれれ弱弱よわつつっててて後後のちははは、、、夢夢ゆめもももうつゝうつゝうつつももも思思おもひひいわかわかわかずずず。。。今今いま汝汝なんじががが來來きたれれれるるるをををももも、、、たゞたゞただ夢夢ゆめとととのみのみのみこそこそこそ覺覺おぼゆれゆれゆれ。。。もしもしもしこのこのこの事事ことののの夢夢ゆめなりなりなりせせせばばば、、、覺覺さめめめてててののの後後のちはははいかがいかがいかがせせせんんん。。。」」」
- 14有有あり王王おう、、、「「「こはこはこわうつゝうつゝうつつにににててて候候そうろうなりなりなり。。。さてさてさてもももこのこのこの御御おん有有あり樣樣さまにににててて、、、今今いままでまでまで御御おん命命いのちののの延延のびびびさせさせさせ給給たまひひいたるたるたるこそこそこそ、、、不不ふ思思し議議ぎにににははは覺覺おぼえええ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 15「「「いさとよいさとよいさとよ、、、これこれこれははは去去こ年年ぞ、、、少少しょう將將しょうややや判判はん官官がん入入にゅう道道どうががが迎迎むかひひいののの時時とき、、、そのそのその瀨瀨せににに身身みをををももも投投なぐぐぐべかりべかりべかりしししををを、、、よしなきよしなきよしなき少少しょう將將しょうののの、、、『『『いまいまいま一一ひと度度たび、、、都都みやこのののおとづれおとづれおとずれをををももも待待まてててかしかしかし。。。』』』などなどなど慰慰なぐさめめめ置置おきききしししををを、、、おろかおろかおろかにににもももしやしやしやととと賴賴たのみみみつゝつゝつつ、、、ながらへながらへながらへんんんとととはははせせせしかしかしかどもどもども、、、このこのこの島島しまにににははは、、、人人ひとののの食食くい物物ものももも絶絶たえええてててなきなきなき所所ところなれなれなればばば、、、身身みににに力力ちからのののありありありししし程程ほどははは、、、山山やまににに登登のぼつつっててて硫硫い黄黄おうととといふいふいうものものものををを取取とりりり、、、九九く國國こくよりよりより通通かよふふう商商あき人人んどにににあひあひあい、、、食食くい物物ものにににかへかへかへなどなどなどせせせしかしかしかどもどもども、、、日日ひにににそひそひそいててて弱弱よわりりり行行ゆけけけばばば、、、今今いまはははさやうさやうさようのののわざわざわざもももせせせずずず。。。
- 16かやうかやうかようににに日日ひののののどかのどかのどかなるなるなる時時ときははは、、、磯磯いそににに出出いでででててて、、、網網あみ人人うど釣釣つり人人うどににに手手てをををすりすりすり、、、膝膝ひざをををかゞめかゞめかがめててて魚魚うおをををもらひもらひもらい、、、汐汐しお干干ひののの時時ときははは貝貝かいをををひろひひろひひろい、、、荒海布荒海布あらめををを取取とりりり、、、磯磯いそののの苔苔こけににに露露つゆののの命命いのちをををかけかけかけてててこそこそこそ、、、憂憂うきききながらながらながら今日今日きょうまでまでまではははながらへながらへながらへたれたれたれ。。。さらさらさらでででははは憂憂うききき世世よををを渡渡わたるるるよすがよすがよすがをををばばば、、、いかにいかにいかにしししつつつらんらんらんかかかととと思思おもふふうらんらんらん。。。」」」
- 17僧僧そう都都ず、、、「「「これこれこれにににててて何何なに事事ごとをををもももいはいはいわばやばやばやとととははは思思おもへへえどもどもども、、、いざいざいざわがわがわが家家やへへへ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、有有あり王王おう、、、あのあのあの御御おん有有あり樣樣さまにににてててももも、、、家家いえををを持持もちちち給給たまへへえるるる不不ふ思思し議議ぎさささよよよととと思思おもひひい、、、僧僧そう都都ずををを肩肩かたににに引引ひきききかけかけかけ參參まいらせらせらせ、、、教教をしへへへににに從從したがつつっててて行行ゆくくく程程ほどににに、、、松松まつののの一一ひとむらむらむらあるあるある中中なかににに、、、よりよりより竹竹たけををを柱柱はしらとととししし、、、蘆蘆あしをををゆひゆひゆい桁桁けた梁梁はりににに渡渡わたししし、、、上上うえにににももも下下したにににももも、、、松松まつののの葉葉はをををひしひしひしととと取取とりりりかけかけかけたれたれたればばば、、、雨雨あめ風風かぜたまるたまるたまるべうべうびょうももも見見みえええずずず。。。
- 18有有あり王王おう、、、「「「あなあなあな淺淺あさましましまし。。。もともともとははは法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの寺寺じ務務む職職しきにににててて、、、八八はち十十じゅう餘餘よ個個か所所しょののの莊莊しょう務務むををを司司つかさどりりり給給たまひひいしかしかしかばばば、、、棟棟むね門門かど、、、平平ひら門門かどののの内内うちににに、、、四四し五五ご百百ひゃく人人にんののの所所しょ從從じゅう、、、眷眷けん屬屬ぞくににに圍圍い繞繞にょうせせせられられられててておはせおはせおわせししし人人ひとののの、、、まのあたりまのあたりまのあたり斯斯かかるかるかる憂憂うききき目目めにににあはせあはせあわせ給給たまふふう事事ことののの不不ふ思思し議議ぎさささよよよ。。。業業ごうにににさま〴〵さま〴〵さまざまありありあり、、、順順じゅん現現げん、、、順順じゅん生生しょう、、、順順じゅん後後ご業業ごうととといへいへいえりりり。。。僧僧そう都都ず一一いち期期ごががが間間あいだ、、、身身みににに用用もちゐるゐるいる所所ところ、、、皆皆みな大大だい伽伽が藍藍らんののの寺寺じ物物もつ、、、佛佛ぶつ物物もつならならならずずずととといふいふいうことことことなしなしなし。。。さればさればさればかのかのかの信信しん施施ぜ無無む慙慙ざんののの罪罪つみににによつよつよっててて、、、今今こん生生じょうにににてててはやはやはや感感かんぜぜぜられられられけりけりけり。。。」」」とととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
- 19僧僧そう都都ず、、、こはこはこわうつゝうつゝうつつにににてててありありありけりけりけりととと思思おもひひい定定さだめめめててて、、、「「「去去こ年年ぞ少少しょう將將しょうややや判判はん官官がん入入にゅう道道どう迎迎むかひひいののの時時ときももも、、、これらこれらこれらががが文文ふみととといふいふいう事事こともももなしなしなし。。。今今いままたまたまた汝汝なんじがががたよりたよりたよりにににもももかくかくかくともともともいはいはいわざりざりざりけりけりけりななな。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、有有あり王王おう涙涙なみだにににむせびむせびむせび、、、うつうつうつ伏伏ぶしししててて、、、しばししばししばしははは御御おん返返へん事事じにににももも及及およばばばずずず。。。
- 20やゝやゝややあつあつあっててて、、、起起おききき上上あがりりり涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「君君きみののの西西にし八八はち條條じょうへへへ出出いでででさせさせさせ給給たまひひいししし後後のち、、、官官かん人人にん參參まいつつっててて資資し財財ざい雜雜ぞう具具ぐををを追追つい捕捕ぶししし、、、御御み内内うちののの者者ものどもどもども搦搦からめめめ取取とりりり、、、御御ご謀謀む叛叛ほんののの次次し第第だいををを尋尋たずねねね問問とひひい、、、みなみなみな失失うしなひひいはてはてはて候候そうらひひいききき。。。北北きたののの方方かたははは幼幼おさなききき人人ひとををを隱隱かくしししかねかねかね參參まいらさらさらさせせせ給給たまひひいててて、、、鞍鞍くら馬馬まののの奧奧おくににに忍忍しのうううででで御御おん渡渡わたりりり候候そうらひひいしししにににももも、、、このこのこの童童わらわばかりばかりばかりこそこそこそ、、、時時とき々々どき參參まいりりりててて御御おん宮宮みや仕仕づかへへえつかまつりつかまつりつかまつり候候そうろうなれなれなれ。。。
- 21いづれいづれいずれももも御御おんなげきなげきなげきのののおろかおろかおろかなるなるなる方方かたははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、中中なかにににももも幼幼おさなききき人人ひとははは、、、あまりあまりあまりににに戀戀こひひいまゐらさまゐらさまいらさせせせ給給たまひひいててて、、、まゐりまゐりまいり候候そうろう度度たび毎毎ごとにににははは、、、『『『いかにいかにいかに有有あり王王おうよよよ、、、われわれわれををを鬼鬼き界界かいががが島島しまとととかやかやかやへへへ具具ぐしししててて參參まいれれれ。。。』』』とととのたまひのたまひのたまいててて、、、むづからむづからむずからせせせ給給たまひひいしししががが、、、過過すぎぎぎ候候そうらひひいししし二二きさ月月らぎににに、、、瘡瘡もがさととと申申もうすすす事事ことににに失失うせせせさせさせさせおはしましおはしましおわしまし候候そうらひひいぬぬぬ。。。北北きたののの方方かたはははそのそのその御御おんなげきなげきなげきととと申申もうししし、、、またまたまたこれこれこれののの御御おん事事ことととと申申もうししし、、、一一ひと方方かたならならならぬぬぬ御御おんものものもの思思おもひひいにににおぼしめしおぼしめしおぼしめし沈沈しずままませせせ給給たまひひいててて、、、うちうちうち伏伏ふさささせせせ給給たまひひいしししががが、、、さんぬるさんぬるさんぬる三三さん月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、遂遂ついにににはかなくはかなくはかなくならならならせせせ給給たまひひいててて候候そうらひひいぬぬぬ。。。今今いまははは姫姫ひめ御御ご前前ぜんばかりばかりばかりこそこそこそ、、、奈奈な良良らののの姨姨おば御御ご前前ぜんののの御御おんもともともとににに忍忍しのうううでででおはしおはしおわしけれけれけれ。。。それそれそれよりよりより御御おん文文ふみ賜賜たまはつはつわっててて參參まいつつっててて候候そうろう。。。」」」とてとてとて、、、取取とりりり出出いでででててて奉奉たてまつるるる。。。
- 22僧僧そう都都ずこれこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまへへえばばば、、、有有あり王王おうががが申申もうすすすにににたがはたがはたがわずずず書書かかかかれれれたりたりたり。。。奧奧おくにににははは、、、「「「などなどなどややや三三さん人人にん流流ながささされれれてててましますましますまします人人ひとののの、、、二二ふた人人りははは召召めししし還還かえささされれれ候候そうろうににに、、、何何なにとてとてとて一一ひと人人り殘殘のこささされれれててて、、、今今いままでまでまで御御おん上上のぼりりりももも候候そうらははわぬぬぬぞぞぞ。。。哀哀あわれれれ高高たかきききももも賤賤いやしきしきしきももも、、、女女おんなののの身身み程程ほど、、、いふいふいうかひかひかいなきなきなき事事ことははは候候そうらははわずずず。。。男男おとこののの身身みにににてててももも候候そうらははわばばば、、、渡渡わたらららせせせ給給たまふふう島島しまへへへももも、、、などなどなどかかか尋尋たずねねね參參まいらららででで候候そうろうべきべきべき。。。このこのこの童童わらわををを御御おん供供ともにににててて、、、急急いそぎぎぎ上上のぼらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。
- 23「「「これこれこれ見見みよよよ有有あり王王おうよよよ、、、このこのこの子子こががが文文ふみののの書書かきききやうやうようのののはかなさはかなさはかなさよよよ。。。おのれおのれおのれををを供供ともにににててて急急いそぎぎぎ上上のぼれれれととと書書かきききたるたるたる事事ことののの恨恨うらめしさめしさめしさよよよ。。。俊俊しゅん寛寛かんががが心心こころににに任任まかせせせたるたるたる憂憂うききき身身みならならならばばば、、、いかでいかでいかでかかかこのこのこの島島しまにににててて三三み年年とせののの春春はる秋秋あきをををばばば送送おくるるるべきべきべき。。。今今こ年年としははは十十じゅう二二にににになるなるなるととと覺覺おぼゆるゆるゆるががが、、、これこれこれ程程ほどにににはかなうはかなうはかのうてててははは、、、いかでいかでいかでかかか人人ひとにににももも見見みえええ、、、宮宮みや仕仕づかへへえをををもももしてしてして、、、身身みをををもももたすくたすくたすくべきべきべき。。。」」」とてとてとて泣泣なかかかれれれけるけるけるにににぞぞぞ、、、人人ひとののの親親おやののの心心こころははは闇闇やみにににあらあらあらねねねどもどもども、、、子子こををを思思おもふふう道道みちににに迷迷まよふふうとととははは、、、今今いまこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれけれけれけれ。。。
- 24「「「このこのこの島島しまへへへ流流ながささされれれててて後後のちははは、、、曆曆こよみもももなけれなけれなければばば、、、月月つき日日ひののの立立たつつつをををももも知知しらららずずず。。。たゞたゞただおのづからおのづからおのずから花花はなののの散散ちりりり、、、葉葉はののの落落おつるつるつるををを見見みてててははは、、、三三み年年とせののの春春はる秋秋あきをををわきまへわきまへわきまえ、、、蟬蟬せみののの聲聲こえ麥麥ばく秋秋しゅうををを送送おくれれればばば夏夏なつととと思思おもひひい、、、雪雪ゆきののの積積つもるるるををを冬冬ふゆととと知知しるるる。。。白白びゃく月月がつ、、、黑黑こく月月がつののの代代かわりりりゆくゆくゆくををを見見みてててははは三三み十十そ日日かをををわきまへわきまへわきまえ、、、指指ゆびををを折折おりりりててて數數かぞふれふれうればばば、、、今今こ年年としははは六六むつつつつににになるなるなるととと覺覺おぼゆるゆるゆる幼幼おさなききき者者ものももも、、、はやはやはや先先さき立立だちちちけるけるける。。。
- 25ござんなれござんなれござんなれ西西にし八八はち條條じょうへへへ出出いでででししし時時とき、、、このこのこの子子こががが行行ゆかかかんんんととと慕慕したひひいしししををを、、、やがてやがてやがて歸歸かえらららんんんずずずるるるぞぞぞととと慰慰なぐさめめめ置置おきききしししががが、、、たゞたゞただ今今いまのののやうやうようににに覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞややや。。。それそれそれををを限限かぎりりりとととだにだにだにももも思思おもははわましましましかかかばばば、、、今今いま暫暫しばらくくくもももなどなどなどかかか見見みざらざらざらんんん。。。親親おやとととなりなりなり子子ことととなりなりなり、、、夫夫ふう婦婦ふののの緣緣えんををを結結むすぶぶぶももも、、、みなみなみなこのこのこの世世よ一一ひとつつつににに限限かぎらららぬぬぬ契契ちぎりりりぞぞぞかしかしかし。。。今今いまははは姫姫ひめががが事事ことばかりばかりばかりこそこそこそ、、、心心こころ苦苦ぐるしけれしけれしけれどもどもども、、、それそれそれははは生生いき身身みなれなれなればばば、、、歎歎なげきききながらながらながらももも過過すごさささんんんずずずらんらんらん。。。さささのみのみのみながらへながらへながらへててて、、、おのれおのれおのれににに憂憂うききき目目めををを見見みせせせんんんももも、、、わがわがわが身身みながらながらながらつれなかるつれなかるつれなかるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、みづからみづからみずから食食しょく事事じををを止止とどめめめ、、、ひとへひとへひとえににに彌彌み陀陀だののの名名みょう號號ごうをををとなへとなへとなえ、、、臨臨りん終終じゅう正正しょう念念ねんをををぞぞぞ祈祈いのららられれれけるけるける。。。
- 26有有あり王王おうわたつわたつわたっててて二二に十十じゅう三三さん日日にちととと申申もうすすすににに、、、僧僧そう都都ず庵庵いおりののの中中うちにににててて、、、遂遂ついににに終終おわりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。年年とし三三さん十十じゅう七七しちとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。有有あり王王おうむなしきむなしきむなしき姿姿すがたににに取取とりりりつきつきつき奉奉たてまつりりり、、、天天てんににに仰仰あうぎぎぎ地地ちににに俯俯ふししし、、、心心こころのののゆくゆくゆくほどほどほど泣泣なきききあきあきあきててて、、、「「「やがてやがてやがて後後ご世世せののの御御おん供供とも仕仕つかまつるるるべうべうびょう候候そうらへへえどもどもども、、、このこのこの世世よにににははは姫姫ひめ御御ご前前ぜんばかりばかりばかりこそこそこそわたらわたらわたらせせせ給給たまひひい候候そうらへへえ。。。後後ご世世せ弔弔とぶらひひい參參まいらすらすらすべきべきべき人人ひとももも候候そうらははわずずず。。。暫暫しばしししながらへながらへながらへててて御御ご菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい參參まいらすらすらすべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、ふしどふしどふしどををを改改あらためめめずずず、、、庵庵いおりをををきりきりきりかけかけかけ、、、松松まつののの枯枯かれれれ枝枝えだ、、、蘆蘆あしののの枯枯かれれれ葉葉はをををひしひしひしととと取取とりりりかけかけかけててて、、、藻藻も鹽鹽しおののの煙煙けぶりとととなしなしなし奉奉たてまつりりり、、、茶茶だ毗毗びことことこと終終をへへへぬれぬれぬればばば、、、白白はく骨骨こつををを拾拾ひろひひい首首くびにににかけかけかけ、、、またまたまた商商あき人人んど船船ぶねのののたよりたよりたよりにににててて、、、九九く國國こくののの地地ちにににぞぞぞ著著つきききにににけるけるける。。。
- 27それそれそれよりよりより僧僧そう都都ずののの御御おん女女むすめののの忍忍しのうううでででおはしおはしおわしけるけるける御御おんもともともとににに參參まいつつっててて、、、ありありありしししやうやうようををを、、、始始はじめめめよりよりよりこまごまこまごまこまごまととと語語かたりりり申申もうすすす。。。「「「なか〳〵なか〳〵なかなか文文ふみををを御御ご覽覽らんじじじてててこそこそこそ、、、いとゞいとゞいとど思思おもひひいはははまさらまさらまさらせせせ給給たまひひいててて候候そうらひひいしかしかしか。。。件件くだんののの島島しまにににははは硯硯すずりももも紙紙かみもももなけれなけれなければばば、、、御御おん返返へん事事じにににももも及及およばばばずずず。。。思思おぼしししめさめさめされれれつるつるつる御御おん事事こと共共どもははは、、、さながらさながらさながら空空むなしうしうしゅうてててやみやみやみ候候そうらひひいぬぬぬ。。。今今いまははは生生しょう々々じょう世世せ々々ぜををを送送おくりりり、、、他他た生生しょう曠曠こう劫劫ごうをををばばば隔隔へだててて給給たまふふうともともとも、、、いかでいかでいかでかかか御御おん聲聲こえをををももも聞聞きききき、、、御御おん姿姿すがたをををももも見見み參參まいらせらせらせ給給たまふふうべきべきべき。。。唯唯ただいかにいかにいかにもももしてしてして御御ご菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい參參まいらさらさらさせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 28姫姫ひめ御御ご前前ぜん聞聞ききききもももあへあへあえ給給たまははわずずず、、、伏伏ふしししまろびまろびまろびててて泣泣なかかかれれれけるけるける。。。やがてやがてやがて十十じゅう二二にののの年年とし尼尼あまににになりなりなり、、、奈奈な良良らののの法法ほっ華華け寺寺じににに行行おこなひひいすましすましすましててて、、、父父ぶ母母もののの後後ご世世せををを弔弔とぶらひひい給給たまふふうぞぞぞ哀哀あわれれれなるなるなる。。。有有あり王王おうははは俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ずののの遺遺ゆい骨骨こつををを首首くびにににかけかけかけ、、、高高こう野野やへへへのぼりのぼりのぼり、、、奧奧おくののの院院いんににに納納おさめめめつゝつゝつつ、、、蓮蓮れん華華げ谷谷だににににててて法法ほっ師師しににになりなりなり、、、諸諸しょ國國こく七七しち道道どう修修しゅ業業ぎょうしてしてして、、、主主しゅうののの後後ご世世せをををぞぞぞ弔弔とぶらひひいけるけるける。。。かやうかやうかようににに人人ひと々々びとのののおもひおもひおもいなげきなげきなげきののの積積つもりりりぬるぬるぬる、、、平平へい家家けののの末末すえこそこそこそおそろしけれおそろしけれおそろしけれ。。。
現代語訳
そうするうちに鬼界が島の流人のうち、二人は召し返されて都へ上った。もう一人が残されて、つらかった島の島守となってしまったのは情けないことであった。僧都が幼いころからかわいがって召し使っていた童がいた。名を有王といった。
鬼界が島の流人たちが今日いよいよ都へ入ると聞こえたので、有王は鳥羽まで出迎えに行って見たが、自分の主人はお見えにならない。「どうしたのか」と尋ねると、「その方はやはり罪が深いということで、一人島に残された」と聞いて、情けないなどという言葉では言い尽くせない。
いつも六波羅のあたりにたたずんで様子を聞いたが、いつ赦免されるとも聞き出せなかったので、僧都の御娘がひそかに住んでおられる所へ参って、「このたびの赦免にも漏れなさって、お帰りもありません。今はどうにかしてあの島へ渡って、ご様子をお尋ね申したいと思います。お手紙をいただいて参りましょう」と申したので、姫御前はたいへん喜んで、すぐに手紙を書いてお渡しになった。
暇乞いをしても許されまいと思って、父にも母にも知らせず、唐船の纜は四月・五月に解くというので、夏の出帆を待つのは遅いと思ったのであろうか、三月の末に都を出て、多くの波路をしのいで薩摩潟へ下った。薩摩からあの島へ渡る船着き場で、人々は有王を怪しんで、着ている物をはぎ取るなどしたが、少しも後悔しない。姫御前のお手紙だけは人に見せまいと、髻の結い目の中に隠していた。
そうして商人の船に乗ってその島へ渡って見ると、都でかすかに伝え聞いたのとはまるで比べものにならない。田もない、畑もない、里もない、村もない。たまたま人はいても、話す言葉も聞き取れない。有王は島の者のところへ行って、「ものを尋ねたい」と言うと、「何事か」と答える。「ここに都から流された法勝寺の執行俊寛僧都という人の行方を知っているか」と尋ねると、法勝寺とも執行とも知っていれば返事もしようが、ただ首を振って知らないという。
その中にいたある者が事情を心得て、「さあね、そのような人は三人ここにいたが、二人は召し返されて都へ上った。もう一人は残されて、あちこちとさまよい歩いていたが、その後は行方も知れない」と言った。
山の方が気がかりなので、はるかに分け入り、峰によじ登り谷に下ったが、白雲が跡を埋めて、行き来する道もはっきりしない。晴れた日の山風に夢を破られても、その面影も見えない。山ではついに尋ね当てられず、海辺に沿って尋ねると、砂浜に足跡を刻む鷗や、沖の白州に群がる浜千鳥のほかは、行方を尋ねる相手もいなかった。
ある朝、磯の方から、かげろうのようにやせ衰えた者がよろよろと出て来た。もとは法師であったと思われて、髪は上へ向かって伸び放題で、いろいろな藻屑が取りついて、いばらを頭に載せたようである。関節が浮き出て皮はたるみ、身に着けているものは、絹か布かの見分けもつかない。
片手には荒布を持ち、片手には魚をもらって持ち、歩こうとはしているが、はかどらず、よろよろとして出て来た。都で多くの乞食は見たけれども、このような者はまだ見たことがない。「諸阿修羅等は故に大海の辺に在り」といって、修羅の三悪四趣は深山や大海のほとりにあると仏が説き置かれたので、もしや自分は餓鬼道などへ迷い込んだのかと思われた。
そのうちに双方がしだいに歩み寄った。もしこのような者でも、自分の主人の行方を知っているかもしれないと、「ものを尋ねたい」と言うと、「何事か」と答える。「ここに都から流されておいでになった法勝寺の執行俊寛僧都という人はおられるか」と尋ねると、童の方は見忘れていたが、僧都はどうして忘れられようか、
「わしこそその人だ」とおっしゃるやいなや、手に持っていた物を投げ捨てて、砂の上に倒れ伏した。それで初めて、これが自分の主人の行方であったと知ったのである。
僧都はそのまま気を失われたので、有王は膝の上にお抱き上げ申して、「多くの波路をしのいで、はるばるここまで尋ねて参ったかいもなく、どうしてすぐにつらい目をお見せになるのですか」と、さめざめと泣きながら訴えると、僧都は少し正気を取り戻し、助け起こされて、
「まことにお前は、多くの波路をしのいで、はるばるここまで参ったのは殊勝なことだ。ただ明けても暮れても都のことばかり思っているので、恋しい者たちの面影を夢に見ることもあり、またまぼろしに立つこともある。体もひどく疲れ弱ってからは、夢も現実も区別がつかない。今お前が来たのも、ただ夢としか思えない。もしこのことが夢であったら、覚めた後はどうしよう」
有王は、「これは現実でございます。それにしても、このようなご様子で今まで命を長らえておいでになったのは、不思議に思われます」と申したので、
「さあ、それだが、去年、少将や判官入道の迎えのとき、その場で身を投げるべきであったのに、つまらぬことに少将が『もう一度、都からの便りを待ちなさい』などと慰めて行ったので、愚かにももしやと頼みにして、生き長らえようとはしたけれども、この島には人の食べ物もまったくない所なので、体に力のあった間は、山に登って硫黄というものを取り、九州から通う商人に会って食べ物に替えなどしたが、日に日に弱っていくので、今はそうした仕事もできない。
このように日ののどかなときは磯に出て、網を引く漁師や釣りをする漁師に手をすり、膝をかがめて魚をもらい、潮が引いたときは貝を拾い、荒布を取り、磯の苔に露のような命をかけてこそ、つらいながらも今日まで生き長らえてきたのだ。そうでもしなかったら、このつらい世を渡るよすがを、どうしていたのかと思うだろう」
僧都は、「ここで何もかも話したいとは思うが、さあ、わが家へ」とおっしゃると、有王は、あのようなご様子でも家を持っておられるとは不思議なことだと思って、僧都を肩にかけ申して、教えられるままに行くと、松がひとむら生えている中に、寄せ集めた竹を柱とし、蘆を結って桁や梁に渡し、上にも下にも松の葉をびっしりとかけてあるので、雨風が防げそうにも見えない。
有王は、「ああ情けない。もとは法勝寺の寺務職として八十余か所の荘園を管理しておられたので、棟門・平門の内に四、五百人の従者や一族に囲まれておられた人が、目の当たりにこのようなつらい目にお遭いになるとは不思議なことだ。業にはさまざまあり、順現業・順生業・順後業というそうだ。僧都が一生の間、身に用いたものは、みな大伽藍の寺の物、仏の物でないものはなかった。だからあの信者の布施を恥じることなく受けた罪によって、この世ですでに報いを受けられたのだ」と思われた。
僧都は、これは現実であったのだと思い定めて、「去年、少将や判官入道の迎えのときも、家の者たちからの手紙というものもなかった。今またお前の便りにも、何とも言ってこなかったのだな」とおっしゃると、有王は涙にむせび、うつ伏して、しばらくはお返事もできない。
しばらくして起き上がり、涙をおさえて申したことには、「殿が西八条へお出かけになった後、役人が参って家財道具を没収し、お屋敷の者たちを捕らえ、ご謀叛の次第を尋問して、みな殺してしまいました。北の方は幼い方をお隠しかねなさって、鞍馬の奥にひそかにお住まいになりましたが、この童だけが、時々参ってお仕えしておりました。
どなたもお嘆きの浅い方はございませんでしたが、中でも幼い方はあまりに恋しがられて、私が参るたびに、『有王よ、わたしを鬼界が島とかいう所へ連れて行け』とおっしゃってむずかっておられましたが、去る二月に疱瘡という病でお亡くなりになりました。北の方はそのお嘆きといい、またこちらのことといい、ひととおりでない物思いに沈まれて、病に伏しておられましたが、去る三月二日についにお亡くなりになりました。今は姫御前だけが、奈良の叔母御前のもとにひそかにおいでになります。そこからお手紙をいただいて参りました」といって、取り出して差し上げた。
僧都がこれを開けてご覧になると、有王が申したとおりに書かれていた。奥には、「どうして三人流されておいでになった人のうち、二人は召し返されましたのに、なぜ一人残されて、今までお帰りにならないのですか。ああ、身分の高い者も低い者も、女の身ほど甲斐のないものはありません。男の身でありましたら、お住まいの島へも、どうしてお尋ねして参らずにおりましょう。この童をお供にして、急いでお帰りください」と書かれていた。
「これを見よ有王、この子の手紙の書きぶりのたわいなさよ。お前を供にして急いで上れと書いてあるのが恨めしい。俊寛が思いのままになる身であったら、どうしてこの島で三年の春秋を送ろうか。今年は十二になると思うが、これほど頼りないようでは、どうして人に嫁ぎ、宮仕えもして、身を立てることができようか」といってお泣きになったのを見ると、人の親の心は闇ではないけれども、子を思う道には迷うというのは、まことにそのとおりだと思い知られた。
「この島へ流されてからは暦もないので、月日のたつのもわからない。ただ自然に花が散り、葉が落ちるのを見て三年の春秋を知り、蝉の声が麦の実る季節を送れば夏と思い、雪が積もるのを見て冬と知る。月の満ち欠けの移り変わりを見て三十日を知り、指を折って数えると、今年は六つになると思われた幼い子も、もう先立ってしまったのだな。
西八条へ出かけたとき、この子がついて行きたいと慕ったのを、すぐ帰ってくるよと慰めて置いてきたが、それがたった今のように思われる。それが最後と思いさえしていたら、もうしばらくでもどうして見ないでいただろう。親となり子となり、夫婦の縁を結ぶのも、みなこの世一つに限らない深い契りなのだ。今は姫のことだけが気がかりだが、あの子は生きている身だから、嘆きながらも過ごしていくだろう。このうえ生き長らえて、お前につらい思いをさせるのも、わが身ながら薄情なことであろう」といって、自ら食事を断ち、ひたすら阿弥陀仏の名号を唱えて、臨終正念をお祈りになった。
有王が島に渡って二十三日目に、僧都は庵の中でついにお亡くなりになった。年は三十七と聞こえた。有王はむなしい亡骸に取りすがり、天を仰ぎ地に伏して、心ゆくまで泣き尽くして、「すぐにも後世のお供をいたすべきですが、この世には姫御前だけがおいでになります。後世を弔い申す人もございません。しばらく生き長らえてご菩提を弔い申しましょう」といって、寝所をそのままにして庵を壊してかけ、松の枯れ枝や蘆の枯れ葉をびっしりとかけて、藻塩を焼く煙のように火葬申し上げ、荼毘を終えると、白骨を拾って首にかけ、また商人の船の便を得て九州の地に着いた。
それから僧都の御娘がひそかにおいでになるところへ参って、ありのままを初めから詳しくお話し申した。「かえってお手紙をご覧になって、いっそう思いがつのられたのでございます。あの島には硯も紙もないので、お返事もできませんでした。お思いになっていたことは、そのまま空しく終わってしまいました。今は生まれ変わり死に変わり、果てしない年月を隔てられても、どうして父君のお声を聞き、お姿を拝見することができましょう。ただどうにかしてご菩提をお弔いなさいませ」と申したので、
姫御前は聞き終わりもなさらず、伏し転んでお泣きになった。やがて十二歳の年に尼になり、奈良の法華寺で仏道修行に励んで、父母の後世を弔われたのは哀れである。有王は俊寛僧都の遺骨を首にかけて高野山へ登り、奥の院に納めて、蓮華谷で法師になり、諸国七道を修行して、主人の後世を弔った。このように人々の思いや嘆きが積もっていく平家の末こそ恐ろしいものである。
意訳
「足ずり」で島に残された俊寛の最期を描く章段である。少年有王は、親にも告げずに単身で南海の孤島へ渡り、やせ衰えて変わり果てた主人を見つける。互いに相手と気づかない再会の場面、有王の口から語られる妻と幼い子の死、そして娘の手紙を読んで「この子が文の書きやうのはかなさよ」と泣く俊寛の姿は、読む者の胸を打つ。
一方で物語は、有王の思いとして、俊寛が寺の財物を私したことの報いだという因果の見方も示している。俊寛は自ら食を断って死を選び、有王は遺骨を高野山に納めて出家する。章段は「かやうに人々のおもひなげきの積りぬる、平家の末こそおそろしけれ」と結ばれ、多くの人の恨みと嘆きが平家の滅亡を招くことを予告している。
語釈・文法注
文法
- 「夏衣たつを遲くや思ひけん」
- 「たつ」に「裁つ」と「(船が)発つ」を掛ける。唐船が出る四、五月を待つのを遅いと思ったのであろうか。
- 「諸阿修羅等故在大海邊」
- 『法華経』などに見える句。阿修羅たちは大海のほとりに住む、の意。
- 「順現、順生、順後業」
- 業の報いを受ける時期による三分類。この世で報いを受ける順現業、次の世で受ける順生業、さらにその後の世で受ける順後業。
- 「信施無慙」
- 信者からの布施を、恥じる心もなく受けること。
- 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」
- 藤原兼輔の歌(『後撰集』)を踏まえた文。
- 「ござんなれ」
- 「ござんなれ」は「…でございますのだな」の意だが、ここは文意が通りにくい。底本のまま翻刻した。
- 「茶毗」
- 通行の字は「荼毘」。底本の表記のまま翻刻した。
- 「修業」
- 通行本文は「修行」。底本の表記のまま翻刻した。
解説
俊寛(1143〜1179)は村上源氏の出身で、法勝寺の執行を務めた。鹿ケ谷の謀議の場所を提供したとして鬼界が島に流され、赦されないまま治承三年(1179)にその地で没したと伝えられる。有王の話は『平家物語』の中でも名高く、謡曲「俊寛」、近松門左衛門の浄瑠璃「平家女護島」、また近代では倉田百三・菊池寛・芥川龍之介の作品の題材ともなった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、380–387頁(コマ219–222)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日