平家物語 巻第三
少将都がへりの事
治承三年正月、成経と康頼は鹿瀬の荘を発ち、備前の有木の別所で父成親の筆跡と墓を見つけて供養した。三月、成経は鳥羽の洲浜殿に立ち寄って荒れ果てた父の山荘を偲び、やがて都に帰って母や妻子と再会する。康頼は東山の双林寺に籠居して『宝物集』を書いたという。
- 1正正しょう月月がつ下下げ旬旬じゅんににに、、、丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょう成成なり經經つね、、、平平へい判判はん官官がん康康やす賴賴より入入にゅう道道どう、、、二二ふた人人りののの人人ひと々々びとははは肥肥ひ前前ぜんののの國國くに鹿鹿か瀨瀨せののの莊莊しょうををを立立たつつっててて、、、都都みやこへへへとととははは急急いそがががれれれけれけれけれどもどもども、、、餘餘よ寒寒かんももも未未いまだだだ烈烈はげしうしうしゅう、、、海海かい上上しょうもももいたくいたくいたく荒荒あれれれけれけれければばば、、、浦浦うらづたひづたひづたい島島しまづたひづたひづたいしてしてして、、、二二に月月がつ十十とお日日か頃頃ごろにににぞぞぞ備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまにににははは著著つききき給給たまふふう。。。
- 2それそれそれよりよりより父父ちち大大だい納納な言言ごんののの御御おんわたりわたりわたりあるあるあるなるなるなる、、、有有あり木木きののの別別べつ所所しょとととかやかやかやににに尋尋たずねねね入入いりりりててて見見み給給たまへへえばばば、、、竹竹たけののの柱柱はしら、、、古古ふりりりたるたるたる障障しょう子子じなどなどなどににに書書かききき置置おききき給給たまひひいつるつるつる筆筆ふでのののすさびすさびすさびををを見見み給給たまひひいててて、、、「「「あはれあはれあわれ人人ひとのののかたみかたみかたみにににははは、、、手手しゅ跡跡せきににに過過すぎぎぎたるたるたるものものものぞぞぞなきなきなき。。。書書かききき置置おききき給給たまははわずずずばばば、、、いかでいかでいかでかかかこれこれこれををを見見みるるるべきべきべき。。。」」」とてとてとて、、、康康やす賴賴より入入にゅう道道どうととと二二ふた人人り、、、讀讀よみみみてててははは泣泣なききき、、、泣泣なきききてててははは讀讀よむむむ。。。
- 3「「「安安あん元元げん三三さん年年ねん七七しち月月がつ二十日二十日はつか出出しゅっ家家け、、、同同おなじきじきじき二二に十十じゅう六六ろく日日にち信信のぶ俊俊とし下下げ向向こう。。。」」」ともともとも書書かかかかれれれたりたりたり。。。さてさてさてこそこそこそ源源げん左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう信信のぶ俊俊としががが參參まいりりりたるたるたるをををももも知知しららられれれけれけれけれ。。。傍傍そばなるなるなる壁壁かべにににははは、、、「「「三三さん尊尊ぞん來來らい迎迎ごう便便たよりりりありありあり、、、九九く品品ほん往往おう生生じょう疑疑うたがひひいなしなしなし。。。」」」ともともとも書書かかかかれれれたりたりたり。。。このこのこのかたみかたみかたみををを見見み給給たまひひいてててこそこそこそ、、、さすがさすがさすが欣欣ごん求求ぐ淨淨じょう土土どののの望望のぞみみみもももおはしおはしおわしけりけりけりととと、、、限限かぎりりりなきなきなき歎歎なげきききののの中中なかにににももも、、、聊聊いささかかかたのもしげたのもしげたのもしげにににははは宣宣のたまひひいけりけりけり。。。
- 4そのそのその墓墓はかををを尋尋たずねねねててて見見み給給たまへへえばばば、、、松松まつののの一一ひとむらむらむらあるあるある中中なかににに、、、かひ〴〵しうかひ〴〵しうかいがいしゅう壇壇だんををを築築ついいいたるたるたる事事こともももなくなくなく、、、土土つちののの少少すこししし高高たかききき所所ところににに向向むかひひい、、、少少しょう將將しょう袖袖そでかきかきかきあはせあはせあわせ、、、生生いきききたるたるたる人人ひとにににものものものををを申申もうすすすやうやうようににに、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなくかきかきかきくどいくどいくどいててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、
- 5「「「遠遠とおききき御御おん守守まもりとととならならならせせせおはしましおはしましおわしましたるたるたる事事ことをををばばば、、、島島しまにににてててもももかすかかすかかすかににに傳傳つたへへえ承承うけたまわつつっててて候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、心心こころにににまかせまかせまかせぬぬぬ憂憂うききき身身みなれなれなればばば、、、急急いそぎぎぎ參參まいるるる事事ことももも候候そうらははわずずず。。。成成なり經經つねかのかのかの島島しまへへへ流流ながささされれれててて後後のちのののたよりたよりたよりなさなさなさ、、、一一いち日日にち片片へん時時じののの命命いのちもももありがたうありがたうありがとうこそこそこそ候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、さすがさすがさすが露露つゆののの命命いのちははは消消きえええやらやらやらででで、、、このこのこの二二ふた年年とせををを送送おくつつっててて、、、今今いま召召めししし還還かえさささるゝるゝるるうれしさうれしさうれしさももも、、、さるさるさる事事ことにににてててははは候候そうらへへえどもどもども、、、父父ちち大大だい納納な言言ごん殿殿どののののまさしうまさしうまさしゅう、、、このこのこの世世よににに渡渡わたらららせせせ給給たまははわんんんををを、、、見見み參參まいらせらせらせてててももも候候そうらははわばばばこそこそこそ、、、さすがさすがさすが命命いのちののの長長ながきききかひかひかいももも候候そうらははわめめめ。。。これこれこれまでまでまでははは急急いそがががれれれつれつれつれどもどもども、、、今日今日きょうよりよりより後後のちははは急急いそぐぐぐべしべしべしともともとも覺覺おぼえええずずず。。。」」」とてとてとて、、、かきかきかきくどいくどいくどいてててぞぞぞ泣泣なかかかれれれけるけるける。。。
- 6まことまことまことににに、、、存存ぞん生生じょうののの時時ときならならならばばば大大だい納納な言言ごん入入にゅう道道どう殿殿どのこそこそこそ、、、いかにいかにいかにとととももものたまふのたまふのたまうべきべきべきににに、、、生生しょうををを隔隔へだてててたるたるたるならひならひならいほどほどほど、、、うらめしかりうらめしかりうらめしかりけるけるける事事ことはははなしなしなし。。。苔苔こけののの下下したにににははは誰誰たれかかか答答こたふふうべきべきべき、、、たゞたゞただ嵐嵐あらしにににさわぐさわぐさわぐ松松まつののの響響ひびきばかりばかりばかりなりなりなり。。。
- 7そのそのその夜夜よははは、、、康康やす賴賴より入入にゅう道道どうととと二二ふた人人り、、、墓墓はかのののめぐりめぐりめぐりををを行行ぎょう道道どうししし、、、明明あけけけけれけれければばば新新あたらしうらしうらしゅう壇壇だん築築つききき、、、釘釘くぎ貫貫ぬきせせせさせさせさせ、、、前前まえににに假假かり屋屋やつくりつくりつくり、、、七七なぬ日日か七七なな夜夜よががが間間あいだ念念ねん佛佛ぶつ申申もうししし、、、經經きょう書書かいいいててて、、、結結けち願願がんにににははは大大おおきききなるなるなる卒卒そ堵堵と婆婆ばををを立立たててて、、、「「「過過か去去こ聖聖しょう靈靈りょう、、、出出しゅつ離離り生生しょう死死じ、、、證證しょう大大だい菩菩ぼ提提だい。。。」」」ととと書書かいいいててて、、、年年ねん號號ごう月月がつ日日にちののの下下したにににははは、、、「「「孝孝こう子子し成成なり經經つね。。。」」」ととと書書かかかかれれれたれたれたればばば、、、賤賤しず山山やまがつがつがつののの心心こころなきなきなきももも、、、子子こににに過過すぎぎぎたるたるたる寶寶たからなしなしなしとてとてとて、、、袖袖そでををを濡濡ぬらさらさらさぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 8年年とし去去さりりり年年とし來來きたれれれどもどもども、、、忘忘わすれれれ難難がたきききははは撫撫ぶ育育いくののの昔昔むかしののの恩恩おん、、、夢夢ゆめののの如如ごとくくくまぼろしまぼろしまぼろしののの如如ごとししし。。。盡盡つききき難難がたきききははは戀戀れん慕慕ぼののの今今いまののの涙涙なみだなりなりなり。。。三三さん世世ぜ十十じっ方方ぽうののの佛佛ぶつ陀陀だののの聖聖しょう衆衆じゅももも憐憐あわれみみみ給給たまひひい、、、亡亡ぼう魂魂こん尊尊そん靈靈りょうもももいかにいかにいかにうれしうれしうれしとととおぼしおぼしおぼしけんけんけん。。。
- 9「「「今今いましばらくしばらくしばらく候候そうらひひいててて、、、念念ねん佛佛ぶつののの香香こうをををもももつむつむつむべくべくべく候候そうらへへえどもどもども、、、都都みやこににに待待まつつつ人人ひとどもどもどもののの心心こころもともともとなうなうのう候候そうろうらんらんらん、、、またまたまたこそこそこそ參參まいりりり候候そうらははわめめめ。。。」」」とてとてとて、、、亡亡ぼう者者じゃににに暇暇いとま申申もうしししつゝつゝつつ、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなくそこそこそこをををぞぞぞ立立たたたたれれれけるけるける。。。草草くさののの陰陰かげにににてててももも名名な殘殘ごり惜惜おしうしうしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん。。。
- 10同同おなじきじきじき三三さん月月がつ十十じゅう六六ろく日日にち、、、少少しょう將將しょう鳥鳥と羽羽ばへへへあかうあかうあこうぞぞぞ著著つききき給給たまふふう。。。故故こ大大だい納納な言言ごん殿殿どのののの山山さん莊莊そう、、、洲洲す濱濱はま殿殿どのとてとてとて鳥鳥と羽羽ばにににありありあり。。。それそれそれににに立立たち寄寄よりりり見見み給給たまへへえばばば、、、住住すみみみ荒荒あらしらしらしててて年年とし經經へにににけれけれければばば、、、築築つい地地じはははあれあれあれどもどもどもおほひおほひおおいもももなくなくなく、、、門門もんはははあれあれあれどもどもども扉扉とびらもももなしなしなし。。。庭庭にはににに立立たち入入いりりり見見みたまへたまへたまえばばば、、、人人じん跡跡せき絶絶たえええててて苔苔こけ深深ふかししし。。。池池いけのののほとりほとりほとりををを見見みまはせまはせまわせばばば、、、秋秋あきののの山山やまののの春春はる風風かぜににに、、、白白しら波波なみしきりしきりしきりににに折折おりりりかけかけかけててて、、、紫紫し鴛鴛えん白白はく鷗鷗おう逍逍しょう遙遙ようすすす。。。興興きょうぜぜぜししし人人ひとのののこひしさこひしさこいしさににに、、、唯唯ただ盡盡つきききせせせぬぬぬものものものははは涙涙なみだなりなりなり。。。
- 11家家いえはははあれあれあれどもどもども、、、欄欄らん門門もん破破やぶれれれててて、、、蔀蔀しとみ、、、遣遣やり戸戸どももも絶絶たえええてててなしなしなし。。。「「「こゝこゝここにににははは大大だい納納な言言ごん殿殿どのののの、、、兎兎とこそこそこそおはせおはせおわせしかしかしか、、、このこのこの妻妻つま戸戸どをををばばば、、、かうかうこうこそこそこそ出出いででで入入いりりり給給たまひひいしかしかしか、、、あのあのあの木木きをををばばば、、、みづからみづからみずからこそこそこそ植植うゑゑえ給給たまひひいしかしかしか。。。」」」なんどなんどなんどいういういうててて、、、ことことことのののはははにににつけつけつけてててももも、、、唯唯ただ父父ちちののの事事ことをををのみのみのみ、、、戀戀こいしげしげしげにににこそこそこそのたまひのたまひのたまいけれけれけれ。。。
- 12三三や月月よい中中なかののの六六むい日日かなれなれなればばば、、、花花はなははは未未いまだだだ名名な殘殘ごりありありあり。。。楊楊よう梅梅ばい桃桃とう李李りののの梢梢こずえこそこそこそ、、、折折おり知知しりりり顏顏がおにににいろ〳〵いろ〳〵いろいろなれなれなれ。。。昔昔むかしののの主主ある人人じはははなけれなけれなけれどもどもども、、、昔昔むかしををを忘忘わすれれれぬぬぬ花花はななれなれなれややや。。。少少しょう將將しょう花花はなのののもともともとににに立立たちちち寄寄よりりりててて、、、
- 13桃桃とう李李り不言不言ものいわず春春はる幾幾いくばくか暮暮くれぬる煙煙えん霞霞か無跡無跡あとなし昔昔むかし誰誰たれか栖栖すんじ
- 14ふるふるふるさとさとさとののの花花はなのののものものものいふいふいう世世よなりなりなりせせせばばばいかにいかにいかに昔昔むかしのののことことことををを問問とはははましましまし
- 15このこのこの古古ふるききき詩詩し歌歌いかををを口口くちずさみずさみずさみ給給たまへへえばばば、、、康康やす賴賴より入入にゅう道道どうももも折折おりふしふしふしあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、墨墨すみ染染ぞめののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。暮暮くるゝるゝるる程程ほどとととははは待待またたたれれれけれけれけれどもどもども、、、あまりあまりあまりににに名名な殘殘ごり惜惜おしくしくしくててて、、、夜夜よ更更ふくるくるくるまでまでまでこそこそこそおはしおはしおわしけれけれけれ。。。更更ふけけけゆくゆくゆくまゝまゝままにににははは、、、荒荒あれれれたるたるたる宿宿やどのののならひならひならいとてとてとて、、、古古ふるききき軒軒のきののの板板いた間間まよりよりより、、、洩洩もるるる月月つきかげかげかげぞぞぞ限限かぎりりりもももなきなきなき。。。雞雞けい籠籠ろうののの山山やまあけあけあけなななんんんとととすれすれすれどもどもども、、、家家いえ路路じははは更更さらににに急急いそがががれれれずずず。。。
- 16さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、迎迎むかひひいににに乘乘のり物物ものどもどもども遣遣つかはしはしわしててて待待まつつつらんらんらんももも心心こころなしなしなしとてとてとて、、、少少しょう將將しょう泣泣なくくく泣泣なくくく洲洲す濱濱はま殿殿どのををを出出いでででつゝつゝつつ、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけるけるける。。。人人ひと々々びとののの心心こころののの中中うち、、、さこそさこそさこそははは嬉嬉うれしうしうしゅうももも、、、又又また哀哀あわれれれにににもももありありありけめけめけめ。。。
- 17康康やす賴賴より入入にゅう道道どうががが迎迎むかひひいにににももも、、、乘乘のり物物ものはははありありありけれけれけれどもどもども、、、今今いま更更さら名名な殘殘ごりののの惜惜おしきしきしきにににとてとてとてそれそれそれにににははは乘乘のらららずずず、、、少少しょう將將しょうののの車車くるまののの尻尻しりににに乘乘のつつっててて、、、七七しち條條じょう河河かわ原原らまでまでまでははは行行ゆききき、、、それそれそれよりよりより行行ゆききき別別わかれれれけるけるけるががが、、、なほなほなお行行ゆきききもももやらやらやらざりざりざりけりけりけり。。。
- 18花花はなのののもともともとののの半半はん日日じつののの客客かく、、、月月つきののの前前まえののの一一いち夜夜やののの友友とも、、、旅旅たび人人びとががが一一ひと村村むら雨雨さめののの過過すぎぎぎゆくゆくゆくににに、、、一一いち樹樹じゅのののかげかげかげににに立立たち寄寄よりりりててて、、、別別わかるゝるゝるる名名な殘殘ごりももも惜惜おしきしきしきぞぞぞかしかしかし。。。況況いわんんんやややこれこれこれははは憂憂うかりかりかりししし島島しまののの住住すま居居ひ、、、船船ふねののの中中うち、、、浪浪なみののの上上うえ、、、一一いち業業ごう所所しょ感感かんののの身身みなれなれなればばば、、、先先せん世世ぜののの芳芳ほう緣緣えんももも淺淺あさからからからずずずややや思思おもははわれれれけんけんけん。。。
- 19少少しょう將將しょうののの母母はは上上うえ、、、靈靈りょう山山ぜんにににおはしおはしおわしけるけるけるががが、、、昨日昨日きのうよりよりより宰宰さい相相しょうののの宿宿しゅく所所しょにににおはしおはしおわしててて待待またたたれれれけりけりけり。。。少少しょう將將しょうののの立立たち入入いりりり給給たまふふう姿姿すがたををを、、、たゞたゞただ一一ひと目目め見見みたまひたまひたまいててて、、、「「「命命いのちあれあれあればばば。。。」」」とととばかりばかりばかりにににててて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ伏伏ふししし給給たまふふう。。。
- 20北北きたののの方方かたはははさしもさしもさしも美美うつくしうしうしゅう、、、はなやかはなやかはなやかにににおはせおはせおわせしかしかしかどもどもども、、、盡盡つきききせせせぬぬぬ物物もの思思おもひひいににに痩痩やせせせ黑黑くろみみみててて、、、そのそのその人人ひとともともとも見見みえええ給給たまははわずずず。。。六六ろく條條じょうががが黑黑くろかりかりかりししし髪髪かみももも白白しろくくくなりなりなりたりたりたり。。。少少しょう將將しょうののの流流ながささされれれししし時時とき、、、三三みっ歳歳つででで別別わかれれれたまひたまひたまいししし幼幼おさなききき人人ひとももも、、、今今いまはははおとなしうおとなしうおとなしゅうなつなつなっててて、、、髪髪かみ結結ゆふふうほどほどほどなりなりなり。。。そのそのその傍傍そばににに三三みつつつつばかんばかんばかんなるなるなる幼幼おさなききき人人ひとのののおはしおはしおわしけるけるけるををを、、、少少しょう將將しょう、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、六六ろく條條じょう、、、「「「これこれこれこそこそこそ。。。」」」とととばかりばかりばかり申申もうしししててて、、、涙涙なみだををを流流ながしししけるけるけるにににこそこそこそ、、、さてさてさてはははわがわがわが流流ながささされれれししし時時とき、、、心心こころ苦苦ぐるしげしげしげなるなるなる有有あり樣樣さまどもどもどもををを見見み置置おきききしししががが、、、ことことこと故故ゆえなうなうのう育育そだちちちけるけるけるよよよととと思思おもひひい出出いでででてててももも悲悲かなしかりしかりしかりけりけりけり。。。少少しょう將將しょうはははもともともとののの如如ごとくくく院院いんへへへ參參まいらせらせらせ給給たまひひいててて、、、宰宰さい相相しょうののの中中ちゅう將將じょうまでまでまで上上のぼりりりたまふたまふたまう。。。
- 21康康やす賴賴より入入にゅう道道どうははは東東ひがし山山やま雙雙そう林林りん寺寺じにににわがわがわが山山さん莊莊そうのののありありありけれけれければばば、、、それそれそれににに落落おちちちついついついててて、、、まづまづまずかうかうこうぞぞぞ思思おもひひいつゞけつゞけつづけけるけるける。。。
- 22ふるふるふるさとさとさとののの軒軒のきののの板板いた間間まににに苔苔こけむしむしむしててて思思おもひひいしししほどほどほどははは洩洩もらららぬぬぬ月月つきかなかなかな
- 23やがてやがてやがてそこそこそこににに籠籠ろう居居きょしてしてして、、、うかりうかりうかりししし昔昔むかしををを思思おもひひいやりやりやり、、、寶寶ほう物物ぶつ集集しゅうととといふいふいう物物もの語語がたりををを書書かきききけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
現代語訳
正月下旬に、丹波少将成経と平判官康頼入道の二人は、肥前国の鹿瀬の荘を出発して、都へと急がれたが、余寒もまだ厳しく、海もひどく荒れたので、浦伝い島伝いに進んで、二月十日ごろに備前の児島にお着きになった。
そこから父大納言がおいでになったという有木の別所とかいう所を尋ねて入ってご覧になると、竹の柱や古びた障子などに書き置かれた筆の跡をご覧になって、「ああ、人の形見には筆跡にまさるものはない。書き置いてくださらなかったら、どうしてこれを見ることができただろう」といって、康頼入道と二人で、読んでは泣き、泣いては読む。
「安元三年七月二十日出家、同じく二十六日信俊下向」とも書かれていた。それでこそ源左衛門尉信俊が参ったことも知られたのである。かたわらの壁には「三尊来迎の便りあり、九品往生疑いなし」とも書かれていた。この形見をご覧になって、やはり極楽浄土を願う望みもお持ちであったのだと、限りない嘆きの中にも、少しは頼もしげにおっしゃった。
その墓を尋ねてご覧になると、松がひとむら生えている中に、しっかりと壇を築いたというわけでもなく、土の少し高くなった所に向かって、少将は袖をかき合わせ、生きている人にものを申すように、泣く泣く繰り返し申されたことには、
「遠い所で亡くなられ御守りとなられたことは、島でもかすかに伝え聞いておりましたが、思うにまかせぬつらい身でしたので、急いで参ることもできませんでした。成経があの島へ流されてからの心細さは、一日片時の命も危ういほどでしたが、さすがに露のような命は消えずに、この二年を送って、今召し返される嬉しさも、もっともなことではありますが、父大納言殿が確かにこの世においでになるのをお目にかけてこそ、命の長らえたかいもありましょう。ここまでは急いで参りましたが、今日から後は急ごうとも思いません」といって、繰り返し訴えてお泣きになった。
まことに、ご存命のときであれば、大納言入道殿こそ何とかおっしゃるはずであるが、生死を隔てた定めほど恨めしいことはない。苔の下では誰が答えよう、ただ嵐に騒ぐ松の響きばかりである。
その夜は康頼入道と二人で墓の周りを行道し、夜が明けると新しく壇を築き、釘貫(柵)をめぐらせ、前に仮屋を造って、七日七夜の間念仏を唱え、経を書いて、結願には大きな卒塔婆を立てて、「過去聖霊、出離生死、証大菩提」と書き、年号月日の下には「孝子成経」と書かれたので、身分の低い山人のような情けを知らぬ者も、子にまさる宝はないといって、袖を濡らさない者はなかった。
年が去り年が来ても、忘れがたいのは育ててくれた昔の恩で、それは夢のようにまぼろしのようである。尽きることがないのは慕い続ける今の涙である。三世十方の仏陀や聖衆も憐れまれ、亡き魂もどれほど嬉しくお思いになったことであろう。
「もうしばらくここにいて念仏の功徳を積むべきですが、都で待つ人々が気がかりに思っているでしょうから、またこそ参りましょう」といって、亡き人に別れを告げながら、泣く泣くそこを立たれた。草葉の陰でも名残惜しく思われたことであろう。
同じ三月十六日、少将はまだ明るいうちに鳥羽に着かれた。故大納言殿の山荘で、洲浜殿という邸が鳥羽にある。そこに立ち寄ってご覧になると、住み荒らして年月がたったので、築地はあっても覆いもなく、門はあっても扉もない。庭に入ってご覧になると、人の足跡も絶えて苔が深い。池のほとりを見回すと、秋の山という築山に吹く春風に、白波がしきりに折り重なって、紫の鴛鴦や白い鷗がのどかに泳いでいる。これを楽しんだ人が恋しくて、ただ尽きないものは涙である。
家はあるけれども、欄干のある門は破れ、蔀や遣戸もすっかりなくなっている。「ここに大納言殿はこうしておいでになった、この妻戸をこうして出入りなさった、あの木はご自分でお植えになった」などといって、言葉の端々にも、ただ父のことばかりを恋しげにおっしゃった。
三月の中の六日なので、花はまだ名残をとどめている。楊梅や桃李の梢は、季節を知っているかのように色とりどりである。昔の主人はいないけれども、昔を忘れない花なのであろうか。少将は花のもとに立ち寄って、
桃李もの言はず、春いくたびか暮れぬる。煙霞跡なし、昔誰か栖みし。
ふるさとの花がもしものを言う世であったなら、どんなにか昔のことを尋ねたであろうに。
この古い詩歌を口ずさまれると、康頼入道も折からしみじみと感じて、墨染の袖を濡らした。日が暮れるまでとは待たれたが、あまりに名残惜しくて、夜が更けるまでそこにおいでになった。夜が更けていくにつれて、荒れた家の常として、古い軒の板の隙間から漏れる月の光は限りもない。鶏籠の山が明けようとしても、家路はいっこうに急ぐ気にならない。
そうしてばかりもいられないので、迎えに乗り物などを遣わして待っているだろうに気の毒だといって、少将は泣く泣く洲浜殿を出て、都へ帰り上られた。人々の心の中は、さぞ嬉しくもあり、またあわれでもあったろう。
康頼入道の迎えにも乗り物があったけれども、今さら名残が惜しいといってそれには乗らず、少将の車の後ろに乗って七条河原までは行き、そこから別れて行ったが、それでもなお行きかねていた。
花のもとで半日を過ごした客、月の前で一夜を語り合った友、旅人が通り雨を一本の木の陰に避けて立ち寄り合ったのでさえ、別れる名残は惜しいものである。ましてこれは、つらかった島での住まい、船の中、波の上と、同じ業の報いを受けた身であるから、前世からの縁も浅くはないと思われたのであろう。
少将の母上は霊山においでになったが、昨日から宰相の宿所に来て待っておられた。少将が入って来られる姿をただ一目ご覧になって、「命があればこそ」とだけ言って、衣を引きかぶって伏してしまわれた。
北の方はあれほど美しく華やかでいらっしゃったが、尽きない物思いにやせ衰えて黒ずみ、その人とも見えなかった。乳母の六条の黒かった髪も白くなっていた。少将が流されたとき三歳で別れた幼い子も、今は大きくなって、髪を結うほどになっている。その傍らに三つばかりの幼い子がいたので、少将が「あれは誰か」とおっしゃると、六条が「この子こそ」とだけ申して涙を流したので、さては自分が流されたとき、身重で苦しそうだった様子を見置いてきたが、無事に育ったのだなと思い出すにつけても悲しかった。少将はもとのように院へ出仕なさって、宰相中将まで昇進なさった。
康頼入道は東山の双林寺に自分の山荘があったので、そこに落ち着いて、まずこのように詠み続けた。
ふるさとの家の軒の板の隙間に苔が生えて、思っていたほどには月の光も漏れてこない。
やがてそこに籠居して、つらかった昔を思いやり、『宝物集』という物語を書いたと聞こえた。
意訳
赦された成経が、帰京の途中で亡き父成親の跡をたどる章段である。父の配所の障子に残された筆跡、粗末な墓、荒れ果てた鳥羽の山荘と、成経は父の不在を一つ一つ確かめていく。「生を隔てたるならひほど、うらめしかりける事はなし」という言葉が、帰京の喜びの裏にある深い喪失感を伝えている。
鳥羽の洲浜殿の場面では、変わらずに咲く花と変わり果てた邸を対比し、「桃李もの言はず」の詩句と「ふるさとの花のものいふ世なりせば」の歌を重ねて、主人を失った邸の哀れを描く。結びでは都での再会が語られるが、成経の母は「命あれば」とだけ言って泣き伏し、言葉にならない喜びと悲しみが短い一句に込められている。
語釈・文法注
文法
- 「兎こそおはせしか」
- 「兎」は「と」の万葉仮名。「とこそおはせしか」で、このようにしておいでになった、の意。
- 「三尊來迎便りあり、九品往生疑ひなし」
- 阿弥陀三尊が迎えに来てくださるよすがはある、極楽の九品のいずれかに往生するのは疑いない、の意。
- 「過去聖靈、出離生死、證大菩提」
- 亡き人の霊よ、生死の迷いを離れて、大いなる悟りを得たまえ、の意。卒塔婆に記す回向の文句。
- 「一業所感」
- 同じ業(前世の行い)によって同じ報いを受けること。
- 「三つばかんなる」
- 「三つばかりなる」の撥音便。
- 「命あれば」
- 「命あればこそ、このような再会もできた」の意を、言いさして示す。
和歌
ふるさとの花のものいふ世なりせばいかに昔のことを問はまし
- 詠者
- (古歌)
- 状況
- 成経が父成親の山荘であった洲浜殿の荒れた庭で、散り残る花を見て口ずさんだ古歌。「桃李不言春幾暮」の詩句とともに引かれる。
修辞
- 反実仮想
- 「…せば…まし」で、花がものを言う世であったなら昔のことを尋ねようものを、と実際にはかなわない願いを述べる。
ふるさとの軒の板間に苔むして思ひしほどは洩らぬ月かな
- 詠者
- 平康頼
- 状況
- 都に帰った康頼が、東山の双林寺の山荘に落ち着いて詠んだ歌。
修辞
- 対比
- 荒れた宿は月がよく漏れるという通念を踏まえ、島で思い描いていたほどには荒れておらず、苔が板間をふさいで月も漏れないと、帰郷の感慨を詠む。
解説
成親は治承元年(1177)に備前で殺された(巻第二「大納言の死去の事」)。成経が父の墓を訪ねたのは翌々年の治承三年の春である。洲浜殿は鳥羽の離宮の近くにあった成親の山荘。康頼が著したとされる『宝物集』は、仏教説話集で、鬼界が島での体験を踏まえて成立したといわれる。「桃李不言春幾暮」の詩は『和漢朗詠集』に見える菅原文時の句である。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、376–380頁(コマ217–219)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日