平家物語 巻第三
頼豪の事
白河天皇の代、三井寺の頼豪阿闍梨は中宮賢子の皇子誕生を祈って成就させたが、恩賞に望んだ三井寺の戒壇建立は、延暦寺の反発を恐れて許されなかった。頼豪は恨んで干死にし、その怨霊のために皇子は四歳で亡くなった。のちに延暦寺の良信の祈りで堀河天皇が生まれた。今度の大赦でも俊寛一人が赦されなかったのは情けないことであった。
- 1白白しら河河かわののの院院いん御御ご在在ざい位位いののの時時とき、、、京京きょう極極ごくののの大大おお殿殿とのののの御御おん女女むすめ、、、后后きさきににに立立たちちち給給たまふふう事事ことありありありけりけりけり。。。賢賢けん子子しののの中中ちゅう宮宮ぐうとてとてとて御御ご最最さい愛愛あいありありありしかしかしかばばば、、、主主しゅ上上しょうこのこのこの后后きさきのののおおお腹腹はらににに、、、皇皇おう子子じ誕誕たん生生じょうあらあらあらまほしうまほしうまほしゅうおぼしめしおぼしめしおぼしめしててて、、、そのそのその頃頃ころ三三み井井い寺寺でらににに有有う驗驗げんののの僧僧そうととと聞聞きこゆるゆるゆる、、、賴賴らい豪豪ごう阿阿あ闍闍じゃ梨梨りををを召召めしししててて、、、「「「汝汝なんじ、、、このこのこの后后きさきののの御御おん腹腹はらににに皇皇おう子子じ誕誕たん生生じょう祈祈いのりりり申申もうせせせ。。。願願がん成成じょう就就じゅせせせばばば所所しょ望望もうははは請請こふふうににに依依よるるるべしべしべし。。。」」」ととと仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。
- 2賴賴らい豪豪ごう畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、三三み井井い寺寺でらににに歸歸かえりりり、、、肝肝かん膽膽たんををを碎碎くだいいいててて祈祈いのりりりけれけれければばば、、、中中ちゅう宮宮ぐうやがてやがてやがて御御ご懷懷かい妊妊にんあつあつあっててて、、、承承しょう保保ほう元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ十十じゅう六六ろく日日にち御御ご產產さん平平へい安安あん、、、皇皇おう子子じ誕誕たん生生じょうありありありけりけりけり。。。主主しゅ上上しょう斜斜なのめならならならずずず御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、賴賴らい豪豪ごう阿阿あ闍闍じゃ梨梨りををを内内だい裏裏りへへへ召召めしししててて、、、「「「さてさてさて汝汝なんじががが所所しょ望望もうはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、三三み井井い寺寺でらににに戒戒かい壇壇だん建建こん立立りゅうののの由由よしををを奏奏そう聞聞もんすすす。。。
- 3「「「一一いっ階階かい僧僧そう正正じょうなどなどなどののの事事ことをををももも、、、申申もうさささんんんずずずるるるかかかとととこそこそこそおぼしめしおぼしめしおぼしめしつるつるつるににに、、、これこれこれこそこそこそ存存ぞんじじじののの外外ほかののの所所しょ望望もうなれなれなれ。。。およそおよそおよそ皇皇おう子子じ誕誕たん生生じょうあつあつあっててて、、、祚祚そををを繼繼つがががしめしめしめんんんももも海海かい内内だい無無ぶ事事じをををおぼしめすおぼしめすおぼしめす御御おん故故ゆえなりなりなり。。。今今いま汝汝なんじががが所所しょ望望もうををを達達たつせせせばばば、、、山山さん門門もん憤憤いきどおつつっててて、、、世世せ上上じょうももも靜靜しずかかかなるなるなるべからべからべからずずず。。。兩兩りょう門門もんともともともににに合合かっ戰戰せんせせせばばば、、、天天てん台台だいののの佛佛ぶつ法法ぽう亡亡ほろびびびなななんんんずずず。。。」」」とてとてとて、、、きこしめしきこしめしきこしめしももも入入いれれれざりざりざりけりけりけり。。。賴賴らい豪豪ごう、、、「「「こはこはこわ口口くち惜惜おしきしきしき事事ことにににこそこそこそあんあんあんなれなれなれ。。。」」」とてとてとて、、、急急いそぎぎぎ三三み井井い寺寺でらににに走走はしりりり歸歸かえつつっててて、、、干干ひ死死じにににせせせんんんとととすすす。。。
- 4主主しゅ上上しょう、、、大大おおきききににに驚驚おどろかかかせせせ給給たまひひいててて、、、江江こう帥帥そつ匡匡きょう房房ぼうののの卿卿きょう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ美美み作作まさかののの守守かみととと聞聞きこえええしししををを召召めしししててて、、、「「「汝汝なんじははは賴賴らい豪豪ごうににに師師し檀檀だんののの契契ちぎりりりあるあるあるなれなれなればばば、、、行行ゆきききてててこしらへこしらへこしらえててて見見みよよよ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、急急いそぎぎぎ三三み井井い寺寺でらににに行行ゆききき向向むかひひい、、、賴賴らい豪豪ごう阿阿あ闍闍じゃ梨梨りががが宿宿しゅく房房ぼうににに行行ゆきききててて、、、敕敕ちょく定定じょうののの趣趣おもむき仰仰おおせせせ含含ふくめめめんんんとととすれすれすればばば、、、以以もってててののの外外ほかにににふすぼつふすぼつふすぼったるたるたる持持じ佛佛ぶつ堂堂どうににに立立たて籠籠こもりりり、、、恐恐おそろしげろしげろしげなるなるなる聲聲こえしてしてして、、、「「「天天てん子子しにににはははたはむれたはむれたわむれのののことばことばことばなしなしなし、、、綸綸りん言言げん汗汗あせののの如如ごとしししとととこそこそこそ承承うけたまわつつっててて候候そうらへへえ。。。これこれこれ程程ほどののの所所しょ望望もうかなはかなはかなわざらざらざらんんんにににおいおいおいてててははは、、、わがわがわが祈祈いのりりり出出いだししし奉奉たてまつつつったるたるたる皇皇おう子子じなれなれなればばば、、、取取とりりり奉奉たてまつつつっててて魔魔ま道道どうへへへこそこそこそ行行ゆかかかんんんずずずらめらめらめ。。。」」」とてとてとて、、、遂遂ついににに對對たい面面めんもももせせせざりざりざりけりけりけり。。。
- 5美美み作作まさかののの守守かみ歸歸かえりりり參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よし奏奏そう聞聞もんせせせられられられけれけれければばば、、、主主しゅ上上しょう御御おん歎歎なげききき斜斜なのめならならならずずず。。。賴賴らい豪豪ごう遂遂ついににに干干ひ死死じにににににに死死しににににににけりけりけり。。。さるさるさる程程ほどににに皇皇おう子子じ御御ご惱惱のうつかつかつかせせせ給給たまひひいててて、、、うちうちうち臥臥ふさささせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、さま〴〵さま〴〵さまざまののの御御おん祈祈いのりりりどもどもどもありありありけれけれけれどもどもども、、、叶叶かなふふうべしべしべしともともとも見見みえええさせさせさせたまはたまはたまわずずず。。。
- 6白白はく髪髪はつなるなるなる老老ろう僧僧そうののの、、、錫錫しゃく杖杖じょうををを以以もっててて、、、常常つねははは皇皇おう子子じののの御御おん枕枕まくらにににたゝずむたゝずむたたずむととと、、、人人ひとののの夢夢ゆめにににももも見見みえええ、、、うつゝうつゝうつつにににもももまたまたまた立立たちちちけりけりけり。。。恐恐おそろしろしろしなどなどなどもももおろかおろかおろかなりなりなり。。。
- 7承承しょう曆曆りゃく元元がん年年ねん八八はち月月がつ六六むい日日かののの日日ひ、、、皇皇おう子子じ御御おん年年とし四四し歳歳さいにににててて、、、遂遂ついにににかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ、、、敦敦あつ文文ぶんののの親親しん王王のうこれこれこれなりなりなり。。。主主しゅ上上しょうなのめなのめなのめならならならずずず御御おん歎歎なげきききあつあつあっててて、、、其其そののの頃頃ころ又又また山山さん門門もんににに有有う驗驗げんののの僧僧そうととと聞聞きこえええししし西西さい塔塔とうののの座座ざ主主す良良りょう信信しん大大だい僧僧そう正正じょう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ圓圓えん融融ゆう坊坊ぼうののの僧僧そう都都ずととと聞聞きこえええしししををを内内だい裏裏りへへへ召召めしししててて、、、「「「こはこはこわいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、
- 8「「「いついついつもももかやうかやうかようののの御御ご願願がんははは、、、わがわがわが山山やまののの力力ちからでででこそこそこそ成成じょう就就じゅするするすることことことでででははは候候そうらへへえ。。。さればさればされば九九く條條じょうののの右右う丞丞しょう相相しょう師師もろ輔輔すけ公公こうももも、、、慈慈じ慧慧え大大だい僧僧そう正正じょうににに御御おん契契ちぎりりり申申もうさささせせせ給給たまひひいてててこそこそこそ、、、冷冷れい泉泉ぜい院院いんののの皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうははは候候そうらひひいしかしかしか。。。やすいやすいやすいほどほどほどののの御御おん事事ことににに候候そうろう。。。」」」とてとてとて、、、山山さん門門もんににに歸歸かえつつっててて、、、百百ひゃく日日にち肝肝かん膽膽たんををを摧摧くだきききててて祈祈いのららられれれけれけれければばば、、、中中ちゅう宮宮ぐうやがてやがてやがて百百ひゃく日日にちののの中中うちににに御御ご懷懷かい妊妊にんあつあつあっててて、、、承承しょう曆曆りゃく三三さん年年ねん七七しち月月がつ九九ここの日日かののの日日ひ御御ご產產さん平平へい安安あん、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうありありありけりけりけり。。。堀堀ほり川川かわののの天天てん皇皇のうこれこれこれなりなりなり。。。
- 9怨怨おん靈靈りょうはははかくかくかく昔昔むかしもももおそろしかりおそろしかりおそろしかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。今今こん度度どさしもさしもさしもめでたきめでたきめでたき御御ご產產さんににに、、、非非ひ常常じょうののの大大たい赦赦しや行行おこなははわれれれたりたりたりととといへいへいえどもどもども、、、このこのこの俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ず一一ひと人人り、、、赦赦しや免免めんなかりなかりなかりけるけるけるこそこそこそうたてけれうたてけれうたてけれ。。。
- 10同同おなじきじきじき十十じゅう二二に月月がつ八八よう日日かののの日日ひ、、、皇皇おう子子じ東東とう宮宮ぐうににに立立たたたたせせせ給給たまふふう。。。傅傅ふにににははは小小こ松松まつののの内内ない大大だい臣臣じん、、、大大だい夫夫ぶにににははは池池いけののの中中ちゅう納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょうとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。さるさるさる程程ほどににに今今こ年年としももも暮暮くれれれててて、、、治治じ承承しょうももも三三さん年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。
現代語訳
白河院がご在位のとき、京極の大殿(藤原師実)の御娘が后にお立ちになったことがあった。賢子の中宮といってご寵愛が深かったので、主上はこの后のお腹に皇子が誕生してほしいとお思いになって、そのころ三井寺で霊験あらたかな僧と聞こえていた頼豪阿闍梨を召して、「汝はこの后の御腹に皇子が誕生するよう祈り申せ。願いが成就したら、望みは願いのままにかなえよう」と仰せ下された。
頼豪はかしこまって承り、三井寺に帰って、心を砕いて祈ったので、中宮はまもなくご懐妊になり、承保元年(1074)十二月十六日に御産は平安で、皇子が誕生された。主上はひととおりでなくお喜びになって、頼豪阿闍梨を内裏へ召して、「さて汝の望みは何か」とおっしゃると、三井寺に戒壇を建立したいと奏上した。
「一階級上の僧正などのことでも願い出るかと思っていたのに、これは思いもよらぬ望みである。そもそも皇子が誕生して位を継がせようとするのも、天下の無事を思うからである。今汝の望みをかなえたら、延暦寺が怒って、世の中も穏やかではあるまい。両門が合戦したら、天台の仏法は滅びてしまうだろう」といって、お聞き入れにならなかった。頼豪は「これは無念なことだ」といって、急いで三井寺に走り帰って、食を断って死のうとした。
主上はたいへん驚かれて、江帥匡房卿(大江匡房)、そのときはまだ美作守と呼ばれていたのを召して、「汝は頼豪と師檀の契りがあるのだから、行ってなだめてみよ」とおっしゃったので、かしこまって承り、急いで三井寺に行き向かって、頼豪阿闍梨の宿坊に行き、勅命の趣を言い含めようとすると、頼豪はひどくすすけた持仏堂に立てこもって、恐ろしげな声で、「天子には戯れの言葉はない、綸言は汗のようなもの(一度出たら戻らない)と承っております。これほどの望みがかなわないのなら、私が祈り出し申した皇子であるから、お連れ申して魔道へ行こう」といって、とうとう対面もしなかった。
美作守が帰参してこのことを奏上されると、主上のお嘆きはひととおりではなかった。頼豪はついに食を断って死んでしまった。そのうちに皇子がご病気になって床につかれたので、さまざまなご祈祷が行われたが、治りそうにもお見えにならない。
白髪の老僧が錫杖を持って、いつも皇子の御枕元にたたずんでいると、人の夢にも見え、現実にも立っていた。恐ろしいなどという言葉ではとても言い尽くせない。
承暦元年(1077)八月六日、皇子は御年四歳でついにお亡くなりになった。敦文親王がこの方である。主上はひどくお嘆きになって、そのころまた延暦寺で霊験あらたかな僧と聞こえていた西塔の座主良信大僧正、そのときはまだ円融坊の僧都と呼ばれていたのを内裏へ召して、「これはどうしたものか」とおっしゃると、
「いつもこのような御願は、わが比叡山の力でこそ成就するものでございます。だから九条右大臣師輔公も、慈慧大僧正(良源)にお頼みになってこそ、冷泉院の皇子ご誕生があったのです。たやすいことでございます」といって、比叡山に帰って百日の間心を砕いて祈られたので、中宮はまもなく百日のうちにご懐妊になって、承暦三年(1079)七月九日に御産は平安で、皇子がお生まれになった。堀河天皇がこの方である。
怨霊は昔もこのように恐ろしいものであった。今度あれほどめでたい御産に非常の大赦が行われたというのに、この俊寛僧都一人が赦免されなかったのは情けないことであった。
同じ年の十二月八日、皇子は東宮にお立ちになった。東宮傅には小松の内大臣(重盛)、東宮大夫には池の中納言頼盛卿がなったと聞こえた。そうするうちにこの年も暮れて、治承も三年になった。
意訳
中宮御産の祈りに怨霊が現れたことから、物語は過去の怨霊の例として頼豪の話を語る。三井寺(園城寺)は延暦寺と同じ天台宗だが、独自の戒壇を持つことを長く願い、延暦寺はこれに強く反対していた。頼豪の願いが退けられたのは、この両寺の争いのためである。
頼豪の怨霊は、のちに鼠となって延暦寺の経典を食い荒らしたという「頼豪鼠」の伝説にもなった。章段の最後は再び俊寛に戻り、怨霊の恐ろしさを語ったうえで、それでも俊寛一人が赦されなかったことを嘆いて結んでいる。
語釈・文法注
文法
- 「所望は請ふに依るべし」
- 望みは願いのとおりにかなえよう、の意。
- 「干死に」
- 「ひじに」。食を断って死ぬこと、飢え死に。
- 「師檀の契り」
- 師僧と檀那(信者)の関係。
- 「綸言汗の如し」
- 天子の言葉は、出た汗が体に戻らないように、一度口にしたら取り消せない、の意。
- 「良信」
- 通行本文は「良真」。底本の表記のまま翻刻した。
- 「傅」
- 東宮傅。皇太子の教育・補佐にあたる官。
解説
頼豪(1002〜1084)は園城寺の僧。白河天皇の皇子敦文親王の誕生を祈り、その恩賞として戒壇建立を求めたが許されなかったと伝えられる。敦文親王は承暦元年(1077)に四歳で没し、承暦三年に生まれた善仁親王がのちの堀河天皇である。延暦寺と園城寺の対立は、平安時代を通じて繰り返し武力衝突を起こした。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、373–375頁(コマ215–216)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日