平家物語 巻第三
大塔建立の事
御産の祈りへの恩賞が行われ、中宮は内裏へ帰った。清盛が厳島を信仰するようになったのは、安芸守のころ高野山の大塔を修理したとき、老僧(弘法大師)が現れて厳島の修理を勧め、栄達を予言したからであった。清盛は厳島を修理し、夢で大明神から小長刀を賜ったが、悪行があれば子孫までは栄えないとの託宣も受けた。
- 1御御み修修し法法ほののの結結けち願願がんにににははは勸勸けん賞賞じょうどもどもども行行おこなははわるるる。。。仁仁にん和和な寺寺じののの御御お室室むろははは、、、東東とう寺寺じ修修しゅ造造ぞうせせせらるらるらるべきべきべきなりなりなり。。。後後ご七七しち日日にちののの御御み修修し法法ほ、、、大大だい元元げんののの法法ほう、、、竝竝ならびににに灌灌かん頂頂じょう興興こう行行ぎょうせせせらるらるらるべきべきべきよしよしよし、、、仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。御御おん弟弟で子子し圓圓えん良良りょう法法ほう眼眼げん、、、法法ほう印印いんににになさなさなさるるる。。。座座ざ主主すののの宮宮みやははは二二に品品ほん、、、竝竝ならびににに牛牛ぎっ車車しゃののの宣宣せん旨旨じををを申申もうさささせせせ給給たまふふうををを、、、御御お室室むろ支支ささへへえ申申もうさささせせせ給給たまふふうににによつよつよっててて、、、御御おん弟弟で子子し覺覺かく誓誓せい僧僧そう都都ず、、、法法ほう印印いんににになさなさなさるるる。。。そのそのその外外ほかののの勸勸けん賞賞じょうどもどもども網網もう擧擧きょににに遑遑いとまあらあらあらずずずとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。日日ひ數數かず經經へにににけれけれければばば、、、中中ちゅう宮宮ぐうははは六六ろく波波は羅羅らよりよりより内内だい裏裏りへへへ歸歸かえりりり參參まいらせらせらせ給給たまふふう。。。
- 2入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御御おん女女むすめ、、、后后きさきににに立立たたたたせせせ給給たまふふう上上うえははは、、、あはれあはれあわれとくとくとくしてしてして、、、このこのこの御御おん腹腹はらににに皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうあれあれあれかしかしかし、、、位位くらいにににつけつけつけ奉奉たてまつつつっててて、、、夫夫ふう婦婦ふ共共ともににに外外がい祖祖そ父父ふ、、、外外がい祖祖そ母母もととと仰仰あうがががれれれんんんととと願願ねがははわれれれけるけるけるががが、、、崇崇あがめめめ奉奉たてまつるるる嚴嚴いつく島島しまへへへ申申もうさささんんんとてとてとて、、、月月つき詣詣もうでををを始始はじめめめててて、、、祈祈いのりりり申申もうささされれれけれけれければばばにににややや、、、中中ちゅう宮宮ぐうやがてやがてやがて御御ご懷懷かい妊妊にんありありありててて、、、御御ご產產さん平平へい安安あん、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。
- 3そも〳〵そも〳〵そもそも平平へい家家け、、、安安あ藝藝きののの嚴嚴いつく島島しまををを信信しんじじじ始始はじめめめられられられけるけるける事事ことをををいかにいかにいかにととといふいふいうににに、、、淸淸きよ盛盛もり公公こう未未いまだだだ安安あ藝藝きののの守守かみたりたりたりししし時時とき、、、安安あ藝藝きののの國國くにををを以以もっててて、、、高高こう野野やののの大大だい塔塔とう修修しゅ理理りせせせられられられけるけるけるににに、、、渡渡わた邊邊なべののの遠遠えん藤藤どう六六ろく郎郎ろう賴賴より方方かたををを雜雜ざっ掌掌しょうにににつけつけつけられられられててて、、、六六ろく年年ねんににに修修しゅ理理り終終おわりりりぬぬぬ。。。修修しゅ理理り終終おわりりりててて後後のち、、、淸淸きよ盛盛もり高高こう野野やへへへ上上のぼりりり、、、大大だい塔塔とう拜拜おがみみみ、、、奧奧おくののの院院いんへへへ參參まいららられれれけるけるけるににに、、、いづくいづくいずくよりよりより來來きたるるるともともともなくなくなく、、、老老ろう僧僧そうののの白白はく髪髪はつなるなるなるががが、、、眉眉まゆにににははは霜霜しもををを垂垂たれれれ、、、額額ひたいににに浪浪なみをををたゝみたゝみたたみ、、、鹿鹿かせ杖杖づえののの二二ふた胯胯またなるなるなるにににすがつすがつすがっててて出出いででで來來きた給給たまへへえりりり。。。
- 4このこのこの僧僧そう何何なにとととなうなうのう物物もの語語がたりをををしししけるけるける程程ほどににに、、、「「「それそれそれわがわがわが山山やまははは、、、昔昔むかしよりよりより密密みつ宗宗しゅうをををひかへひかへひかえててて退退たい轉轉てんなしなしなし。。。天天てん下下かにににまたまたまたももも候候そうらははわずずず。。。大大だい塔塔とう既既すでににに修修しゅ理理り終終おわりりり候候そうらひひいたりたりたり。。。それそれそれにににつきつきつき候候そうろうてててははは、、、越越えち前前ぜんののの氣氣け比比ひののの宮宮みやととと安安あ藝藝きののの嚴嚴いつく島島しまははは、、、兩兩りょう界界かいののの垂垂すい跡跡じゃくにににててて候候そうろうががが、、、氣氣け比比ひののの宮宮みやははは榮榮さかえええたれたれたれどもどもども、、、嚴嚴いつく島島しまはははなきなきなきががが如如ごとくくくににに荒荒あれれれはてはてはてててて候候そうろう。。。あはれあはれあわれ同同おなじうじうじゅうははは、、、このこのこのついでついでついでににに奏奏そう聞聞もんしてしてして修修しゅ理理りせせせさせさせさせ給給たまへへえかしかしかし。。。沙沙さ汰汰たにににももも候候そうらははわばばば、、、官官かん加加か階階かいははは肩肩かたをををならぶるならぶるならぶる人人ひと、、、天天てん下下かにににまたまたまたもももあるあるあるまじきまじきまじきぞぞぞ。。。」」」とてとてとて立立たたたたれれれけりけりけり。。。
- 5このこのこの老老ろう僧僧そうのののゐゐい給給たまへへえるるる所所ところににに、、、異異い香香きょう、、、すなはちすなはちすなわち薰薰くんじじじたりたりたり。。。人人ひとをををつけつけつけててて見見みせせせらるゝらるゝらるるににに、、、三三さん町町ちょうばかりばかりばかりははは見見みえええ給給たまひひいててて、、、そのそのその後後のちはははかきかきかき消消けすすすやうやうようににに失失うせせせ給給たまひひいぬぬぬ。。。これこれこれたゞたゞただびとびとびとにににあらあらあらずずず、、、大大だい師師しにににてててまし〳〵まし〳〵ましましけりけりけりととと、、、いよ〳〵いよ〳〵いよいよ尊尊とうとくくく覺覺おぼえええててて、、、娑娑しゃ婆婆ば世世せ界界かいののの思思おもい出出でにににとてとてとて、、、高高こう野野やののの金金こん堂堂どうににに曼曼まん陀陀だ羅羅らををを書書かかかかれれれけるけるけるががが、、、西西にし曼曼まん陀陀だ羅羅らをををばばば常常じょう明明みょう法法ほっ師師しととといふいふいう繪繪え師師しににに書書かかかかせせせらるらるらる。。。東東ひがし曼曼まん陀陀だ羅羅らをををばばば淸淸きよ盛盛もり書書かかかかんんんとてとてとて、、、自自じ筆筆ひつににに書書かかかかれれれけるけるけるががが、、、八八はち葉葉ようののの中中ちゅう尊尊ぞんののの寶寶ほう冠冠かんをををばばば、、、いかゞいかゞいかが思思おもははわれれれけんけんけん、、、わがわがわが頭頭こうべののの血血ちををを出出いだいいいててて書書かかかかれれれけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。そのそのそののちのちのち都都みやこへへへ上上のぼりりり院院いん參參さんしてしてして、、、このこのこの由由よしををを奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、君君きみももも臣臣しんももも御御ぎょ感感かんありありありけりけりけり。。。
- 6なほなほなお任任にんををを延延のべべべられられられててて、、、嚴嚴いつく島島しまをををももも修修しゅ理理りせせせらるらるらる。。。鳥鳥とり居居いををを立立たてててかへかへかえ、、、社社やしろ々々やしろををを造造つくりりりかへかへかえ、、、百百ひゃく八八はち十十じっ間間けんののの廻廻かい廊廊ろうをををぞぞぞ造造つくららられれれけるけるける。。。修修しゅ理理り終終おわつつっててて後後のち、、、淸淸きよ盛盛もり嚴嚴いつく島島しまへへへ參參まいりりり、、、通通つ夜夜やせせせられられられけるけるける夢夢ゆめににに、、、御御ご寶寶ほう殿殿でんののの御御み戸戸とおしおしおし開開ひらききき、、、鬢鬢びんずらゆうゆうゆうたるたるたる天天てん童童どう出出いでででててて、、、「「「われわれわれはははこれこれこれ大大だい明明みょう神神じんのののおおお使使つかいなりなりなり。。。汝汝なんじこのこのこの劒劒つるぎををを以以もっててて、、、朝朝ちょう家家かののの御御おんかためかためかためたるたるたるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、銀銀しろがねののの蛭蛭ひる卷卷まきしたるしたるしたる小小こ長長なぎ刀刀なたををを賜賜たまはるはるわるととといふいふいう夢夢ゆめををを見見みててて、、、覺覺さめめめててて後後のち見見み給給たまへへえばばば、、、うつゝうつゝうつつににに枕枕まくら上上がみにににぞぞぞ立立たつつったりたりたりけるけるける。。。さてさてさて大大だい明明みょう神神じん御御ご託託たく宣宣せんありありありけりけりけり。。。「「「汝汝なんじ知知しれれれりりりややや、、、忘忘わすれれれたりたりたりややや、、、あるあるある聖聖ひじりををを以以もっててていはせいはせいわせししし事事ことはははいかにいかにいかに。。。たゞしたゞしただし惡惡あく行行ぎょうあらあらあらばばば、、、子子し孫孫そんまでまでまではははかなふかなふかなうまじきまじきまじきぞぞぞ。。。」」」とてとてとて、、、大大だい明明みょう神神じん上上あがらららせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。ありありあり難難がたかりかりかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
現代語訳
御修法の結願には、恩賞がいろいろと行われた。仁和寺の御室(守覚法親王)には、東寺を修造させることになった。また後七日の御修法、大元の法、ならびに灌頂を興行させるようにと仰せ下された。御弟子の円良法眼は法印になされた。天台座主の宮(覚快法親王)は二品の位と牛車の宣旨を願い出られたが、御室が異議を申し立てられたので、代わりに御弟子の覚誓僧都が法印になされた。そのほかの恩賞は数えきれないほどであったと聞こえた。日数がたったので、中宮は六波羅から内裏へお帰りになった。
入道相国は、御娘が后にお立ちになったうえは、ああ早くこの御腹に皇子がお生まれになってほしい、位におつけ申して、夫婦ともに外祖父・外祖母と仰がれたいと願っておられたが、崇敬する厳島に祈願しようと月詣でを始めて祈り申されたからであろうか、中宮はまもなくご懐妊になって、御産も平安で、皇子がお生まれになったのはめでたいことであった。
そもそも平家が安芸の厳島を信仰し始められたいきさつはといえば、清盛公がまだ安芸守であったとき、安芸国の収入をもって高野山の大塔を修理されることになり、渡辺党の遠藤六郎頼方を雑掌につけられて、六年で修理が終わった。修理が終わって後、清盛は高野山へ上って大塔を拝み、奥の院へ参られると、どこから来るともなく、白髪の老僧が、眉には霜のように白い毛を垂れ、額には波のようなしわを寄せ、先が二股になった鹿杖にすがって出て来られた。
この僧は何ということもなく話をするうちに、「そもそもわが山は、昔から真言密教を守って衰えることがない。天下にまたとない山です。大塔はすでに修理が終わりました。それにつけても、越前の気比の宮と安芸の厳島は、金剛界・胎蔵界の両界の垂迹でありますが、気比の宮は栄えているのに、厳島はないも同然に荒れはてております。ああ同じことなら、このついでに奏聞して修理させなさい。そうなさったら、官位の昇進で肩を並べる人は、天下にまたとありますまい」といって立ち去られた。
この老僧がいらっしゃった所には、すぐに不思議な香りが立ちこめた。人をつけて見させると、三町ほどは見えておられたが、その後はかき消すようにいなくなってしまわれた。これはただの人ではない、弘法大師でいらっしゃったのだと、いよいよ尊く思って、この世の思い出にと、高野山の金堂に曼陀羅を描かれたが、西の曼陀羅は常明法師という絵師に描かせられた。東の曼陀羅は清盛が描こうといって自筆で描かれたが、八葉の中尊(大日如来)の宝冠は、どう思われたのか、自分の頭の血を出して描かれたということである。その後、都へ上って院の御所に参り、このことを奏聞されたので、君も臣も感心なさった。
さらに任期を延ばされて、厳島も修理された。鳥居を立て替え、社殿を造り替え、百八十間の廻廊を造られた。修理が終わって後、清盛が厳島へ参って通夜をされた夢に、御宝殿の御戸を押し開いて、みずらを結った天童が出て来て、「われは大明神のお使いである。汝はこの剣で朝廷の守りとなれ」といって、銀の蛭巻をした小長刀を賜るという夢を見て、目覚めて後ご覧になると、現実に枕元に立ててあった。そうして大明神のご託宣があった。「汝は知っているか、忘れたか、ある聖に言わせたことはどうだ。ただし悪行があれば、子孫までは栄えることはかなうまいぞ」といって、大明神は天にお上りになった。ありがたいことであった。
意訳
前半は御産の恩賞と、清盛が外戚の地位を願って厳島に祈ったことを述べ、後半は平家と厳島の縁の由来を語る。高野山の大塔修理の折に現れた老僧は弘法大師であり、その勧めで厳島を修理した清盛は、大明神から朝廷の守りとなるしるしの小長刀を授かる。
ところが託宣の最後には「たゞし惡行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」という言葉が添えられている。平家の栄華は神仏の加護によるものであるが、それは悪行によって失われうるものでもある。この一句は、のちの平家の滅亡を見通す伏線となっている。
語釈・文法注
文法
- 「網擧に遑あらず」
- 底本の頭注に「枚擧」とある。「枚挙に遑あらず」で、いちいち数えあげる暇がないほど多い、の意。底本の表記のまま翻刻した。
- 「御室支へ申させ給ふ」
- 御室(守覚法親王)が異議を唱えて妨げられた、の意。
- 「あはれとくして」
- ああ早く…してほしい。「とく」は「疾く」で、早く。
- 「兩界の垂跡」
- 真言密教の金剛界・胎蔵界の両部の仏が、神となって現れたもの。気比の宮と厳島をそれぞれに当てる。
- 「鬢ゆうたる」
- 「鬢づら結うたる」。みずらに髪を結った。童子の髪形。
解説
清盛は久安二年(1146)から保元元年(1156)まで安芸守を務め、この間に高野山の大塔(根本大塔)の再建を担当したとされる。厳島神社はその後、仁安年間(1166〜1169)ごろに清盛によって現在の海上の社殿の形に整えられ、平家一門の篤い信仰を受けた。清盛の血で描いたと伝える「血曼荼羅」は、高野山に現存する。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、371–373頁(コマ214–215)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日