平家物語 巻第三
公卿ぞろへの事
皇子の乳母には時忠の北の方が選ばれ、清盛は法皇へ黄金千両を献上した。この御産には、甑を北へ落とし直したこと、老陰陽師が人波にもまれて冠を落とし笑われたことなど、おかしなことや不吉なことが多かった。御産に駆けつけた関白以下の公卿は三十三人にのぼった。
- 1御御おん乳乳ちにににははは前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたととと定定さだめめめられられられたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、去去さんんんぬるぬるぬる七七しち月月がつににに難難なん產產ざんをををしてしてして失失うせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたぞぞぞ、、、御御おん乳乳ちにににははは參參まいらせらせらせ給給たまふふう。。。後後のちにににははは帥帥そつののの典典す侍侍け殿殿どのとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 2法法ほう皇皇おうやがてやがてやがて還還かん御御ぎょありありあり。。。門門もん前前ぜんににに御御おん車車くるまををを立立たてててられられられたりたりたり。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくうれしさうれしさうれしさのののあまりあまりあまりににに、、、黄黄おう金金ごん一一いっ千千せん兩兩りょう、、、富富ふ士士じののの綿綿わた二二に千千せん兩兩りょう、、、法法ほう皇皇おうへへへ進進しん上上じょうせせせらるらるらる。。。「「「これこれこれまたまたまたしかるしかるしかるべからべからべからずずず。。。」」」とととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 3今今こん度度どののの御御ご產產さん、、、笑笑しょうあまたあまたあまたありありあり。。。まづまづまず法法ほう皇皇おうののの御御おん驗驗げん者者じゃ、、、次次つぎににに、、、后后きさき御御ご產產さんののの時時とき、、、御御ご殿殿てんののの棟棟むねよりよりよりをををころがすころがすころがす事事ことありありありけりけりけり。。。皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうにににははは南南みなみへへへ落落おとししし、、、皇皇かう女女じょ誕誕たん生生じょうにににははは北北きたへへへ落落おとすすす。。。これこれこれははは北北きたへへへ落落おとささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、いかにいかにいかにととと騒騒さわぎぎぎ、、、取取とり上上あげげげ、、、落落おとしししなほさなほさなおされれれたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、猶猶なおあしきあしきあしき事事ことにににぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 4をかしかりをかしかりおかしかりしししははは入入にゅう道道どう相相しょう國國こくのののあきれあきれあきれざまざまざま、、、めでたかりめでたかりめでたかりしししははは小小こ松松まつののの大大おと臣臣どのののふるまひふるまひふるまい、、、本本ほ意意いなかりなかりなかりしししははは前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうののの、、、最最さい愛愛あいののの北北きたののの方方かたにににおくれおくれおくれ給給たまひひいててて、、、大大だい納納な言言ごん、、、大大たい將將しょう兩兩りょう職職しょくををを辭辭じしししててて、、、籠籠ろう居居きょせせせられられられしししことことこと、、、兄兄きょう弟弟だいともともともににに出出しゅっ仕仕しあらあらあらばばば、、、いかにいかにいかにめでたからめでたからめでたからんんん。。。
- 5次次つぎににに七七しち人人にんののの陰陰おん陽陽よう師師じ參參まいつつっててて、、、千千せん度度どののの御御おん祓祓はらえ仕仕つかまつるるる。。。そのそのその中中なかににに掃部掃部かもんののの頭頭かみ時時とき晴晴はるととといふいふいう老老ろう者者じゃありありあり。。。所所しょ從從じゅうなどなどなどもももぼくせうぼくせうぼくしょうなりなりなりけるけるけるががが、、、餘餘あまりりりににに人人ひと多多おおくくく參參まいりりりつどひつどひつどい、、、たかんなたかんなたかんなをををこみこみこみ、、、稻稻とう麻麻ま竹竹ちくののの如如ごとししし。。。「「「役役やく人人にんぞぞぞ、、、あけあけあけられられられ候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、大大おお勢勢ぜいののの中中なかをををおしおしおしわけわけわけ參參まいるるる程程ほどににに、、、いかゞいかゞいかがはははしししたりたりたりけんけんけん、、、右右みぎののの沓沓くつををを踏踏ふみみみ拔拔ぬかかかれれれててて、、、そこそこそこにににてててちつちつちっととと立立たちちちやすらふやすらふやすらうががが、、、あまつさへあまつさへあまつさえ冠冠かぶりをををさへさへさへ衝衝つききき落落おとささされれれててて、、、さばかりさばかりさばかりのののみぎりみぎりみぎりににに束束そく帶帶たい正正ただしきしきしき老老ろう者者じゃががが、、、髻髻もとどりはなしはなしはなしててて練練ねりりり出出いでででたりたりたりけれけれければばば、、、若若わかききき公公く卿卿ぎょう殿殿てん上上じょう人人びとはははこらへこらへこらえずずずしてしてして、、、一一いち度度どにににどつどつどっとととぞぞぞ笑笑わらははわれれれけるけるける。。。
- 6陰陰おん陽陽よう師師じなどなどなどいふいふいうははは、、、反反へんとてとてとて、、、足足あしをををもももあだあだあだににに踏踏ふまままずずずとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。そのそのその外外ほか不不ふ思思し議議ぎどもどもどものののありありありけるけるけるををを、、、そのそのその時時ときははは何何なにとととももも覺覺おぼえええざりざりざりけれけれけれどもどもども、、、後後のちにににははは思思おもひひいあはすあはすあわす事事ことどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。
- 7御御ご產產さんににによつよつよっててて六六ろく波波は羅羅らへへへまゐらせまゐらせまいらせ給給たまふふう人人ひと々々びと、、、關關かん白白ぱく松松まつ殿殿どの、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん妙妙みょう音音おん院院いん、、、左左さ大大だい臣臣じん大大おお炊炊ひののの御御み門門かど、、、右右う大大だい臣臣じん月月つきののの輪輪わ殿殿どの、、、内内ない大大だい臣臣じん小小こ松松まつ殿殿どの、、、左左さ大大だい將將しょう實實さね定定さだ、、、源源げん大大だい納納な言言ごん定定さだ房房ふさ、、、三三さん條條じょうののの大大だい納納な言言ごん實實さね房房ふさ、、、五五ご條條じょうののの大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つな、、、藤藤とう大大だい納納な言言ごん實實さね國國くに、、、按按あ察察ぜ使使ち資資すけ方方かた、、、中中なかののの御御み門門かどののの中中ちゅう納納な言言ごん宗宗むね家家いえ、、、花花か山山さんののの院院いん中中ちゅう納納な言言ごん兼兼かね雅雅まさ、、、源源げん中中ちゅう納納な言言ごん雅雅まさ賴賴より、、、權權ごん中中ちゅう納納な言言ごん實實さね綱綱つな、、、藤藤とう中中ちゅう納納な言言ごん資資すけ長長なが、、、池池いけののの中中ちゅう納納な言言ごん賴賴より盛盛もり、、、左左さ衞衞え門門もんののの督督かみ時時とき忠忠ただ、、、別別べつ當當とう忠忠ただ親親ちか、、、左左さののの宰宰さい相相しょうののの中中ちゅう將將じょう實實さね家家いえ、、、右右うののの宰宰さい相相しょうののの中中ちゅう將將じょう實實さね宗宗むね、、、新新しん宰宰さい相相しょうののの中中ちゅう將將じょう通通みち親親ちか、、、平平へい宰宰さい相相しょう教教のり盛盛もり、、、六六ろく角角かくののの宰宰さい相相しょう家家いえ通通みち、、、堀堀ほり川川かわののの宰宰さい相相しょう賴賴より定定さだ、、、左左さ大大だい辨辨べんののの宰宰さい相相しょう長長なが方方かた、、、右右う大大だい辨辨べんののの三三さん位位み俊俊とし經經つね、、、左左さ兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ重重しげ教教のり、、、右右う兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ光光みつ能能よし、、、皇皇かう太太たい后后ごう宮宮ぐうののの大大だい夫夫ぶ朝朝とも方方かた、、、左左さ京京きょうののの大大だい夫夫ぶ長長なが教教のり、、、太太だ宰宰ざいののの大大だい貳貳に親親ちか宣宣のぶ、、、新新しん三三さん位位み實實さね淸淸きよ、、、以以い上上じょう三三さん十十じゅう三三さん人人にん、、、右右う大大だい辨辨べんののの外外ほかははは直直ちょくなりなりなり。。。
- 8不不ふ參參さんののの人人ひと々々びとにににははは花花か山山さんののの院院いんののの前前さきののの太太だい政政じょう大大だい臣臣じん忠忠ただ雅雅まさ公公こう、、、大大おお宮宮みやののの大大だい納納な言言ごん隆隆たか季季すえののの卿卿きょう以以い下下げ十十じゅう餘餘よ人人にん、、、後後ご日日にちににに布布ほう衣衣い著著ちゃくしししててて、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていへへへ參參まいりりり向向むかははわれれれけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
現代語訳
皇子の御乳母には、前右大将宗盛卿の北の方と決められていたが、去る七月に難産で亡くなられたので、平大納言時忠卿の北の方が御乳母として参られた。後には帥の典侍殿と人々は申した。
法皇はやがて還御なさった。門前に御車を立てておられた。入道相国は嬉しさのあまりに、黄金一千両、富士の綿二千両を法皇へ献上された。「これもまたふさわしくないことだ」と人々は申した。
このたびの御産には、おかしなことが多かった。まず法皇が御験者をなさったこと、次に、后の御産のときには御殿の棟から甑を転がすことがある。皇子のご誕生には南へ落とし、皇女の誕生には北へ落とす。ところがこのときは北へ落とされたので、どうしたことかと騒いで、取り上げて落とし直されたけれども、やはり縁起の悪いことだと人々は申した。
おかしかったのは入道相国のうろたえぶり、立派だったのは小松の大臣のふるまい、残念だったのは前右大将宗盛卿が最愛の北の方に先立たれて、大納言・大将の両職を辞して籠居されたことである。兄弟そろって出仕していたら、どんなにめでたかったことであろう。
次に七人の陰陽師が参って、千度の御祓を行った。その中に掃部頭時晴という老人がいた。従者なども少なかったが、あまりに人が大勢集まって、筍を詰めこんだように、稲や麻や竹や葦が群がり生えたようにぎっしりである。「役目の者だ、道をあけられよ」といって、大勢の中を押し分けて進むうちに、どうしたことか右の沓を踏み脱がされて、そこでちょっと立ち止まったところ、そのうえ冠まで突き落とされて、あれほど晴れがましい場で、束帯をきちんと着けた老人が髻をむき出しにして進み出たので、若い公卿・殿上人はこらえきれずに、一度にどっと笑われた。
陰陽師というものは、反閇といって、足の踏み方ひとつもおろそかにしないものと聞いている。そのほかにも不思議なことがいろいろあったが、そのときは何とも思わなかったけれども、後になって思い当たることが多かった。
御産のために六波羅へ参上なさった人々は、関白松殿(基房)、太政大臣妙音院(師長)、左大臣大炊御門(経宗)、右大臣月輪殿(兼実)、内大臣小松殿(重盛)、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言国綱、藤大納言実国、按察使資方、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池の中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左宰相中将実家、右宰相中将実宗、新宰相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀川宰相頼定、左大弁宰相長方、右大弁三位俊経、左兵衛督重教、右兵衛督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、太宰大弐親宣、新三位実清、以上三十三人で、右大弁のほかは直衣姿であった。
参上しなかった人々には、花山院の前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿以下十余人がいて、後日に布衣を着て、入道相国の西八条の邸へ参上されたということである。
意訳
皇子誕生の華やかさの裏に、のちの平家の運命を暗示する不吉な出来事が並べられる。皇女誕生のしるしである北へ甑が落ちたこと、法皇がみずから験者を務めたこと、反閇の作法を重んじる陰陽師が沓を脱がされ冠を落としたこと。物語は「後には思ひあはす事ども多かりけり」と、これらがのちの安徳天皇の悲運の前ぶれであったことをほのめかしている。
後半は、御産に駆けつけた公卿たちの名を官職とともに列挙する。平家の権勢のもとに、摂関家をはじめとする貴族社会がこぞって集まった様子を示す記録的な部分である。
語釈・文法注
- 笑止
- ここでは、おかしなこと、また気の毒なこと、困ったこと。
- 甑
- 米を蒸す土器。御産のとき、御殿の棟から転がし落とし、皇子なら南へ、皇女なら北へ落とすのが習わしであった。
- 稻麻竹葦
- 稲・麻・竹・葦が群がり生えるように、人や物が多く入り乱れているさま。
- 反倍
- 「反閇」とも書く。陰陽師が邪気をはらうために行う、独特の足の踏み方の呪法。
- 直衣
- 底本のふりがなは「ちよくい」。貴族の平服で、ふつう「なほし」と読む。
文法
- 「ぼくせう」
- 「乏少」と書く。乏しいこと、少ないこと。
- 「たかんなをこみ」
- 筍(たかんな)を詰めこんだように、ぎっしりと込み合うさま。
- 「去んぬる」
- 「去りぬる」の撥音便。去る、過ぎた。
解説
時忠の北の方は藤原領子(帥典侍)で、のちに安徳天皇の乳母として壇の浦まで付き従う。宗盛の北の方は清盛の妻時子の妹清子と伝えられる。『平家物語』は、御産に参じた公卿を列挙して一門の権勢を示すとともに、不吉な出来事を記すことで、安徳天皇と平家の行く末を暗示している。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、369–371頁(コマ213–214)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日