平家物語 巻第三
御産の巻の事
赦された成経と康頼は肥前の鹿瀬の荘で年を越す。十一月十二日、中宮が産気づき、六波羅の池殿には法皇をはじめ公卿殿上人がこぞって集まった。大赦や諸社寺への祈願、あらゆる修法が尽くされたが、お産はなかなか進まない。法皇みずから千手経を読み、怨霊に退くよう命じると、ようやく皇子が誕生し、一同は喜びに沸いた。
- 1さるさるさる程程ほどににに二二ふた人人りののの人人ひと々々びとははは、、、鬼鬼き界界かいががが島島しまををを出出いでででててて、、、肥肥ひ前前ぜんののの國國くに鹿鹿か瀨瀨せののの莊莊しょうにににぞぞぞ著著つききき給給たまふふう。。。宰宰さい相相しょう京京きょうよりよりより人人ひとををを下下くだしししててて、、、「「「年年としののの内内うちははは波波なみ風風かぜもももはげしうはげしうはげしゅう、、、道道みちののの間間あいだもももおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう候候そうらへへえばばば、、、春春はるににになりなりなりててて上上のぼららられれれ候候そうらへへえ。。。」」」とととありありありしかしかしかばばば、、、少少しょう將將しょう鹿鹿か瀨瀨せののの莊莊しょうにににててて年年としををを暮暮くらすすす。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち月月がつ十十じゅう二二に日日にちののの寅寅とらののの刻刻こくよりよりより、、、中中ちゅう宮宮ぐう御御ご產產さんののの氣氣けましますとてましますとてましますとて、、、京京きょう中中じゅう、、、六六ろく波波は羅羅らひしめきひしめきひしめきあへあへあえりりり。。。御御ご產產さん所所じょははは六六ろく波波は羅羅ら池池いけ殿殿どのにににてててありありありけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうももも御御ご幸幸こうなるなるなる。。。關關かん白白ぱく殿殿どのををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かく、、、凡凡すべててて世世よににに人人ひとととと數數かぞへへへられられられ、、、官官かん、、、加加か階階かいににに望望のぞみみみをををかけかけかけ、、、所所しょ帶帶たい、、、所所しょ職職しょくををを帶帶たいするするする程程ほどののの人人ひとののの、、、一一ひと人人りももも漏漏もるゝるゝるるはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 3先先せん例例れいももも女御女御にょうご、、、后后きさき御御ご產產さんののの時時ときににに臨臨のぞみみみててて、、、大大たい赦赦しやありありありききき。。。大大だい治治じ二二に年年ねん九九く月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、待待たい賢賢けん門門もん院院いん御御ご產產さんののの時時とき、、、大大たい赦赦しや行行おこなははわるゝるゝるる事事ことありありありけりけりけり。。。今今こん度度どもももそのそのその例例れいとてとてとて、、、非非ひ常常じょうののの大大たい赦赦しや行行おこなははわれれれててて、、、重重じゅう科科かののの輩輩ともがら多多おおくくく赦赦ゆるささされれれけるけるける中中なかににに、、、このこのこの俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ず一一ひと人人り赦赦しや免免めんなかりなかりなかりけるけるける事事ことこそこそこそうたてけれうたてけれうたてけれ。。。
- 4御御ご產產さん平平へい安安あん、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうましまさましまさましまさばばば、、、八八や幡幡はた、、、平平ひら野野の、、、大大おお原原はら野野のなんどなんどなんどへへへ行行ぎょう啓啓けいあるあるあるべきべきべきよしよしよし御御ご立立りゅう願願がんありありあり。。。仙仙せん源源げん法法ほう印印いん承承うけたまわつつってててこれこれこれををを敬敬けい白白びゃくすすす。。。神神じん社社じゃははは大大だい神神じん宮宮ぐうををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて二二に十十じゅう餘餘よ箇箇か所所しょ、、、佛佛ぶつ寺寺じははは東東とう大大だい寺寺じ、、、興興こう福福ぶく寺寺じ以以い下下げ十十じゅう六六ろく個個か所所しょへへへ御御み誦誦じゅ經經きょうありありあり。。。御御み誦誦じゅ經經きょうののの御御おん使使つかいにににははは、、、宮宮みやののの侍侍さぶらいののの中中なかににに有有う官官かんののの輩輩ともがら、、、これこれこれをををつとむつとむつとむ。。。平平ひょう紋紋もんののの狩狩かり衣衣ぎぬににに帶帶たい劒劒けんしたるしたるしたる者者ものどもどもどもががが、、、いろ〳〵いろ〳〵いろいろののの御御み誦誦じゅ經經きょう物物もつ、、、御御ぎょ劒劒けん、、、御御ぎょ衣衣いををを持持もちちちつゞいつゞいつづいててて、、、東東ひがしののの對對たいよりよりより南南なん庭庭ていををを渡渡わたつつっててて、、、西西にしののの中中ちゅう門門もんににに出出いづづず。。。めでたかりめでたかりめでたかりししし見見けん物物ぶつなりなりなり。。。
- 5小小こ松松まつののの大大おと臣臣どははは、、、例例れいののの善善ぜん惡惡あくにににつきつきつきててて騒騒さわぎぎぎ給給たまははわぬぬぬ人人ひとにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、遙遙はるかかかにににほどほどほど經經へててて後後のち、、、嫡嫡ちゃく子子し權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり以以い下下げののの公公きん達達だちののの車車くるま共共ども遣遣やりりり續續つづけけけさせさせさせ、、、いろ〳〵いろ〳〵いろいろののの御御おん衣衣ぞ四四し十十じゅう領領りょう、、、銀銀ぎん劒劒けん七七ななつつつ、、、廣廣ひろ蓋蓋ぶたににに置置おかかかせせせ、、、御御おん馬馬うま十十じゅう二二に匹匹ひき引引ひかかかせせせ參參まいらせらせらせらるらるらる。。。
- 6これこれこれははは、、、寛寛かん弘弘こうににに上上じょう東東とう門門もん院院いん御御ご產產さんののの時時とき、、、御御み堂堂どう殿殿どのののの御御おん馬馬うま參參まいらせらせらせられられられししし、、、そのそのその例例れいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。大大おと臣臣どははは中中ちゅう宮宮ぐうののの御御おん兄兄しょうとにににててておはしおはしおわしけるけるける上上うえ、、、取取とりりりわきわきわき父父ふ子子しののの御御おん契契ちぎりりりなれなれなればばば、、、御御おん馬馬うま參參まいらせらせらせ給給たまふふうももも理理ことわりなりなりなり。。。又又また五五ご條條じょうののの大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つなののの卿卿きょうももも、、、御御おん馬馬うま二二に匹匹ひき參參まいらせらせらせらるらるらる。。。「「「志志こころざしののの至至いたりりりかかか、、、德德とくののの餘餘あまりりりかかか。。。」」」とととぞぞぞ人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
- 7猶猶なお伊伊い勢勢せよりよりより始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、安安あ藝藝きののの嚴嚴いつく島島しまににに至至いたるるるまでまでまで、、、七七しち十十じゅう餘餘よ箇箇か所所しょへへへ神神じん馬馬めををを立立たてててらるらるらる。。。内内だい裏裏りにににももも寮寮りょうののの御御おん馬馬うまににに四四し手手でつけつけつけててて、、、數數す十十じっ匹匹ぴき引引ひき立立たてててたりたりたり。。。仁仁にん和和な寺寺じののの御御お室室むろ守守しゅ覺覺かく法法ほっ親親しん王王のうははは孔孔く雀雀じゃく經經きょうののの法法ほう、、、天天てん台台だい座座ざ主主す覺覺かく快快かい法法ほっ親親しん王王のうははは七七しち佛佛ぶつ藥藥やく師師しののの法法ほう、、、寺寺てらののの長長ちょう吏吏り圓圓えん慶慶けい親親しん王王のうははは金金こん剛剛ごう童童どう子子じののの法法ほう、、、そのそのその外外ほか五五ご大大だい虛虛こ空空くう藏藏ぞう、、、六六ろく觀觀かん音音おん、、、一一いち字字じ金金こん輪輪りん、、、五五ご壇壇だんののの法法ほう、、、六六ろく字字じ加加か輪輪りん、、、八八はち字字じ文文もん珠珠じゅ、、、普普ふ賢賢げん延延えん命命めいににに至至いたるるるまでまでまで、、、殘殘のこるるる所所ところなうなうのう修修しゅせせせられられられけりけりけり。。。
- 8護護ご摩摩まののの煙煙けぶり御御ご所所しょ中中じゅうににに滿滿みちちちててて、、、鈴鈴れいののの音音おと雲雲くもをををひゞかしひゞかしひびかし、、、修修しゅ法法ほうののの聲聲こえ身身みののの毛毛けよだつよだつよだっててて、、、いかなるいかなるいかなる御御おんものゝけものゝけもののけなりなりなりともともとも、、、何何なに面面おもてををを向向むかふふうべしべしべしともともとも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。なほなほなお佛佛ぶつ所所しょののの法法ほう印印いんににに仰仰おおせせせててて、、、御御ご身身しん等等とう身身しんののの藥藥やく師師し竝竝ならびににに五五ご大大だい尊尊そんののの像像ぞうををを造造つくりりり始始はじめめめらるらるらる。。。
- 9斯斯かかりかりかりしかしかしかどもどもども中中ちゅう宮宮ぐうははは、、、ひまひまひまなくなくなくしきらしきらしきらせせせ給給たまふふうばかりばかりばかりにににててて、、、御御ご產產さんもももとみとみとみににになりなりなりやらやらやらずずず。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、二二に位位い殿殿どの、、、胸胸むねににに手手てをををおいおいおいててて、、、「「「こはこはこわいかゞいかゞいかがせせせんんん、、、いかにいかにいかにせせせんんん。。。」」」とととぞぞぞあきれあきれあきれたまふたまふたまう。。。人人ひとのののものものもの申申もうしししけれけれけれどもどもども、、、「「「たゞたゞただともかうもともかうもともこうもよきよきよきやうやうようににに、、、〳〵〳〵よきように。。。」」」とととばかりばかりばかりぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。「「「あはれあはれあわれ淨淨じょう海海かい、、、軍軍いくさののの陣陣じんならならならばばば、、、さりともさりともさりともこれこれこれほどほどほどまでまでまでははは臆臆おくせせせじじじものものものををを。。。」」」とととぞぞぞ、、、後後のちにににはははのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
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- 12本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ中中ちゅう宮宮ぐうののの亮亮すけにににててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、御御ぎょ簾簾れんののの中中うちよりよりよりつとつとつと出出いでででててて、、、「「「御御ご產產さん平平へい安安あん、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょう候候そうろうぞぞぞ。。。」」」ととと、、、高高たからからからかににに申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうををを始始はじめめめまゐらせまゐらせまいらせててて、、、關關かん白白ぱく松松まつ殿殿どの、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かく、、、各各おのおのののの所所しょ修修じゅ、、、陰陰おん陽陽ようののの頭頭かみ、、、數數すう輩輩はいののの御御おん驗驗げん者者じゃ、、、すべてすべてすべて堂堂どう上上しょう堂堂どう下下か、、、一一いち同同どうにににあつあつあっととと悅悅よろこびびび合合あははわれれれけるけるける聲聲こえははは、、、門門もん外外がいまでまでまでもももどよみどよみどよみててて、、、しばししばししばしははは靜靜しずまりまりまりもももやらやらやらざりざりざりけりけりけり。。。
- 13入入にゅう道道どう相相しょう國國こくうれしさうれしさうれしさののの餘餘あまりりりににに、、、聲聲こえををを上上あげげげてててぞぞぞ泣泣なかかかれれれけるけるける。。。よろこびよろこびよろこび泣泣なきききとととははは、、、これこれこれをををいふいふいうべきべきべきにににややや。。。小小こ松松まつののの大大おと臣臣どははは急急いそぎぎぎ中中ちゅう宮宮ぐうののの御御おん方方かたへへへ參參まいらせらせらせ給給たまひひいててて、、、金金きん錢錢せん九九く十十じゅう九九く文文もん、、、皇皇おう子子じののの御御おん枕枕まくらにににおいおいおいててて、、、「「「天天てんををを以以もってててははは父父ちちとととししし、、、地地ちををを以以もってててははは母母ははととと定定さだめめめ給給たまふふうべしべしべし。。。御御おん命命いのちははは方方ほう士士じ東東とう方方ぼう朔朔さくががが齡齡よわいををを保保たもちちち、、、御御み心心こころにににははは天天てん照照しょう大大だい神神じん入入いりりりかはらかはらかわらせせせ給給たまへへえ。。。」」」とてとてとて、、、桑桑くわののの弓弓ゆみ、、、蓬蓬よもぎののの矢矢やををを以以もっててて、、、天天てん地地ち四四し方方ほうををを射射いさせさせさせらるらるらる。。。
現代語訳
そうこうするうちに二人の人々は鬼界が島を出て、肥前国の鹿瀬の荘にお着きになった。宰相が京から人を下して、「年内は波風も激しく、道中も心配ですから、春になってから上京なさい」と言ってきたので、少将は鹿瀬の荘で年を越した。
さて同じ年の十一月十二日の寅の刻(午前四時ごろ)から、中宮が産気づかれたということで、京中も六波羅も大騒ぎになった。御産所は六波羅の池殿であったので、法皇も御幸になる。関白殿をはじめとして、太政大臣以下の公卿・殿上人、およそ世間で一人前と数えられ、官職や位階の昇進に望みをかけ、所領や職を持つほどの人で、一人も漏れる者はなかった。
先例でも、女御や后の御産のときには大赦があった。大治二年(1127)九月一日、待賢門院の御産のときにも大赦が行われたことがあった。今度もその例にならって非常の大赦が行われ、重罪の者たちも多く赦された中で、この俊寛僧都一人が赦免されなかったことこそ情けないことであった。
御産が平安で皇子がご誕生になったら、八幡・平野・大原野などへ行啓なさるとのご立願があった。仙源法印がこれを承って願文を読み上げた。神社は伊勢大神宮をはじめとして二十余か所、仏寺は東大寺・興福寺以下十六か所で御誦経があった。御誦経の御使には、中宮職の侍の中で官職を持つ者たちが務めた。平紋の狩衣に太刀を帯びた者たちが、さまざまな御誦経の布施物や御剣・御衣を持って続き、東の対屋から南庭を渡って西の中門に出ていく。見事な見物であった。
小松の大臣(重盛)は、いつものように善いことにも悪いことにも騒がれない人であったので、ずいぶん時がたってから、嫡子の権亮少将維盛以下の公達の車を連ねさせ、さまざまな御衣四十領、銀の太刀七振を広蓋に載せさせ、御馬十二頭を引かせて献上された。
これは寛弘年間に上東門院(藤原彰子)の御産のとき、御堂殿(藤原道長)が御馬を献上された、その例にならったものと聞こえた。大臣は中宮の兄君でいらっしゃるうえ、とりわけ父子の間柄なので、御馬を献上なさるのももっともである。また五条大納言国綱卿も御馬二頭を献上された。「志の深さか、富の余りか」と人々は申した。
さらに伊勢をはじめとして安芸の厳島に至るまで、七十余か所へ神馬を奉納された。内裏でも馬寮の御馬に四手をつけて、数十頭を引き立てた。仁和寺の御室守覚法親王は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、園城寺の長吏円慶法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵・六観音・一字金輪・五壇の法・六字加輪・八字文殊・普賢延命に至るまで、残るところなく修せられた。
護摩の煙は御所中に満ち、鈴の音は雲に響き、修法の声は身の毛がよだつほどで、どのような物の怪であっても、立ち向かうことはできそうに見えなかった。さらに仏師の法印に命じて、中宮と等身の薬師如来と五大尊の像を造り始められた。
それでも中宮は、絶え間なく陣痛に苦しまれるばかりで、お産はすぐには進まない。入道相国と二位殿は胸に手を当てて、「これはどうしよう、どうしよう」と途方に暮れておられる。人が何か申し上げても、「ただどうでもよいように、よいように」とばかりおっしゃった。「ああ、この浄海(清盛)も、戦の陣ならば、これほどまでおじけづきはしないものを」と、後にはおっしゃった。
御験者には房覚・性運の両僧正、俊堯法印、豪禅・実専の両僧都が、おのおの僧伽の句を唱え、本寺本山の三宝、長年持ち続けてきた本尊たちを責め立てて、もみにもんで祈られたので、まことにさぞかしと思われて尊く感じられた中に、ちょうど法皇は新熊野へ御幸なさるはずで、そのための御精進の折であったが、錦の帳の近くにおいでになって、千手経を声高く繰り返しお読みになると、ひときわ様子が変わって、あれほど躍り狂っていたよりましたちに乗り移った物の怪も、しばらく鎮まった。
法皇がおっしゃるには、「たとえどのような物の怪であっても、この老法師がこうしておりましょう以上は、どうして近づき申すことができよう。とりわけ今現れている怨霊は、みなわが朝廷の恩によって一人前になった者ではないか。たとえ恩に報いる心は持たないとしても、どうして障りをなしてよいものか。速やかに退散せよ」といって、「女人が出産に難儀するときに臨んで、邪魔が妨げて耐えがたいときにも、心をこめて大悲呪を唱えれば、鬼神は退散して、安らかに生まれるであろう」とお読みになって、水晶の御数珠をおもみになると、御産が平安であっただけでなく、皇子でいらっしゃった。
本三位中将重衡卿は、そのときはまだ中宮亮でいらっしゃったが、御簾の内からさっと出て、「御産は平安、皇子がご誕生になりました」と高らかに申されたので、法皇をはじめとして、関白松殿(藤原基房)、太政大臣以下の公卿・殿上人、それぞれの修法を担当した者たち、陰陽頭、多くの御験者、すべて堂上も堂下も一同にわっと喜び合われた声は門の外までもどよめいて、しばらくは静まりもしなかった。
入道相国は嬉しさのあまり、声を上げて泣かれた。嬉し泣きとは、これをいうのであろう。小松の大臣は急いで中宮のお部屋へ参られて、金銭九十九文を皇子の御枕元に置いて、「天を父とし、地を母とお定めなさい。御命は方士東方朔の齢を保ち、御心には天照大神がお入りかわりください」といって、桑の弓と蓬の矢で、天地四方を射させられた。
意訳
のちの安徳天皇の誕生の場面である。清盛は孫が皇子であることを願い、ありとあらゆる祈祷を尽くさせる。その盛大さを列挙する文章は、平家の栄華の絶頂を示すと同時に、怨霊の祟りにおびえる人々の不安も映し出している。
戦場では恐れを知らない清盛が、娘の難産を前にうろたえて「たゞともかうもよきやうに」としか言えない姿は人間味にあふれ、のちに「軍の陣ならば、さりともこれほどまでは臆せじものを」と述懐したという結びも印象深い。一方、重盛は騒がず、時を置いて先例どおりに贈り物を整える。対照的な父子の姿が描き分けられている。
語釈・文法注
- 僧伽
- 「僧伽の句」は、祈祷のときに唱える経文の句。僧伽は僧の集団の意だが、ここでは僧伽吒経などの句をいうとされる。
- 大悲呪
- 千手観音の功徳を説く陀羅尼(千手陀羅尼)。千手経に説かれる。
文法
- 「四手」
- 神前に供える紙や布の垂れ。神馬に付けた。
- 「御兄」
- 「おんせうと」と読む。女性から見た男の兄弟。重盛は中宮徳子の兄。
- 「〳〵」
- 「よきやうに、よきやうに」の繰り返しを、くの字点だけで示している。
- 「桑の弓、蓬の矢」
- 男子が生まれたとき、桑の木の弓と蓬の矢で天地四方を射て、将来の雄飛を祝う中国伝来の儀礼。
- 「東方朔」
- 前漢の人。西王母の桃を盗んで食べ、長寿を得たという伝説がある。
解説
治承二年(1178)十一月十二日、中宮徳子は皇子言仁親王を生んだ。この皇子が、のちに三歳で即位する安徳天皇である。清盛はこれによって天皇の外祖父となる道が開けた。御産所の六波羅池殿は、清盛の異母弟頼盛の邸である。上東門院彰子の御産の先例は、『紫式部日記』に詳しく記されている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、366–369頁(コマ212–213)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日